東中野氏の徹底検証3 | ベイツ文書と新聞記事 |
さて、続けて東中野氏は、南京事件の第一報であったダーディンやスティールのニュースソースが、実は「ベイツレポート」であった、と論じます。
この見方は、次作「南京事件『証拠写真』を検証する」にも引き継がれています。
東中野氏は、この「ベイツメモ」がダーディンらの唯一の「ニュースソース」である、と錯覚させるような書き方をしています。 東中野氏はどうやら、ベイツは「中華民国顧問」だった。ダーディン、スティールは、「中華民国顧問」たるベイツが作成したメモをもとに、記事を執筆した。従って、「記事」は実像を正しく伝えたものではなかった、というストーリーを読者に印象づけたいようです。 しかし既に触れた通り、 「ベイツ=中華民国顧問」説は、根拠の薄いものです。また、ダーディン、スティールが「ベイツレポート」のみを頼りに記事を書いたかのような書き方も、彼ら記者の熱心な取材活動を無視した暴論であると言わざるをえません。 だいたい、ダーディンらの長大な「記事」とコンパクトな「ベイツメモ」とでは「情報量」のケタが違います。ダーディンらが「メモ」のみを「ソース」にあれだけの分量の記事を書くことなど、そもそも不可能でしょう。 *「ベイツレポート」「ダーディンの記事」「スティールの記事」は、それぞれ以下のURLに掲載しました。「ダーディン」「スティール」の記事は12月13日以降のみの紹介にとどめましたが、それでもご覧の通り、読み通すのも大変な長文になっています。 実際問題として、東中野氏が「明らかに酷似している」とした部分は、何のことはない、 当時南京にいた外国人たちの共通の認識であるに過ぎませんでした。 以下、見ていきましょう。
これで、「類似している」という5か所のうち、3か所になります。 しかしよく読むと、わざわざ3か所に分けるほどの内容ではありません。要するに、「日本軍が入城してきたとき、中国人の間に、これで混乱は終わるというかすかな期待が広がった。しかしその「期待」は、日本軍兵士の大規模な暴行によって裏切られてしまった」という単純な内容で す。東中野氏は、ここで明らかな「酷似箇所の水増し」をやっています。 しかもこの内容は、「南京で何があったか」という「事実」の問題ではなく、せいぜい、いわば前書き的な「感想」の部分です。ごく一般論的な「感想」の類似をことさらに取り上げて「ニュースソースはベイツだった」とまで言い切ってしまうのは、「印象操作」との謗りを免れない手法でしょう。 種を明かせば、そもそもこの「感想」は、外国人たちの共通認識であったようです。
当然このような「認識」は、「ベイツメモ」を待つまでもなく、ダーディンやスティールも共有するところだったでしょう。それだけの話です。 さて次は、「恐怖で逃げようとした民間人の殺害」です。 これまた東中野氏は、ベイツとダーディンの比較については、「逃げようとする民間人が殺され、その死体が目撃された」という、一つの文章で済む内容を、わざわざ2つに分けています。
それぞれ、元の文を確認しておきましょう。
日本軍占領当時、日本軍が逃げようとする一般民衆を射殺していたというのは、これまた、外国人たちが一般的に認識していた事実です。
以上をまとめると、ダーディン・スティールらが「ベイツ・レポート」を受け取ったことは事実としても、彼らの記事は基本的には自分たちの広範な取材に基づいたものであり、また、東中野氏の言う「酷似」箇所は外国人たちが概ね共通の認識としていた事項に過ぎない、ということが言えると思います。 余談になりますが、アメリカ総領事の報告では、逆に、スティールらの「新聞記事」が、「ベイツレポート」の信憑性を裏付ける資料として言及されています。「アメリカ総領事」は、スティールらから「話」を聞き、その「話」と「ベイツメモ」の内容の一致を持って、「ベイツメモ」を「全般的に事実である」と判断していたようです。 間違っても、スティールらが「ベイツメモ」を「ニュースソース」にして「話」をした、とは認識していません。
さらに余談になりますが、東中野氏は、スティールらの記事の信憑性を少しでも貶めようとする意図か、このような記述を行っています。
しかし、ゆう江門の「無数の敵屍体の埋れる上」を車で乗り越えた話は、日本側の記録にも残っています。
ゆう江門の「ぎっしり詰まっ」た死体については、前田氏も記述しています。同じく、16日の記述です。
『南京戦史』にも、同様の証言が取り上げられています。
東中野氏は、これらの証言も、「常識で考えてありえない」と決め付けるつもりでしょうか。 *2007.8.3追記 その後東中野氏は、新著『再現 南京戦』で、この「常識で考えてありえないこと」という見方を撤回しました。 「高さ六フィート(一・八メートル)と言えば、人間の背丈ほどの高さに達する。そこに死体の山があったことは日本軍将兵の記録にも出てくる が、両記者(「ゆう」注、ダーディン、スティール)は日本軍が?江門を占領するさい中国兵を殺戮したため死体の山ができたと書いていた」(P75)。 なおダーディン、スティール両記者の記述は、別に「プロパガンダ」を行ったわけではなく、報道時点での情報不足による、単なる誤認と見るのが自然でしょう。 (2005.8.15)
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