張作霖爆殺事件(3)

中西輝政氏の所説−


 2006年以降、「張作霖爆殺事件=ソ連犯行説」は、ほとんど話題になることはありませんでした。一見して「突飛」との印象を与え、かつ裏付けがあまりに貧弱であったことも、その背景にはあったかもしれません。

 しかし2008年秋、防衛庁航空幕僚長、田母神敏雄氏が「日本は侵略国家であったのか」と題する論稿を発表し、その中で「ソ連犯行説」に触れたことから、この論議が復活したようです。

 いくつかの論稿を見る限り、過去の拙コンテンツ、「張作霖爆殺事件 河本大佐犯行説、これだけの根拠」、 及び「張作霖爆殺事件(2) 「ソ連犯行説」をめぐって」を上回る材料はほとんどありません。



 そんな中に登場したのが、小堀桂一郎氏と中西輝政氏の対談『歴史の書き換えが始まった!』です。

 中西氏は「河本犯行説」を裏付ける資料群の否定を試みますが、以下見ていくように、到底説得力を持ち得ません。自分でも自信がなくなったのでしょうか、最後の方では、 実は河本は、「洗脳」されて自分の仕業だと思いこんでいたのかもしれない、というちょっとびっくりするようなことを言い出すに至ります。もちろんこの「怪説」には、何の根拠もありません。

 以下、この対談を見ていきましょう。

*ネットには、何の根拠もなく、「実は河本はソ連のエージェントだったのではないか」なる主張をする方も見かけます。 「河本の犯行」を否定しきれなくなった故の苦し紛れの「珍説」としか評価のしようがないのですが、もしそんな重要な事実があるのであれば、 そもそもソ連側の文書に「河本」の名前が全く登場しないのは不自然でしょう。




小堀氏の「前振り」が、いきなり大胆です。


小堀
 (略)まず、やはり私共が、「ああ、そうだったのか」という感慨を覚えましたのが、張作森爆殺事件の真相についてです。 これまでの通説は関東軍が起こした事件とされていましたが、実はソ連コミンテルンが計画し関東軍の仕業に見せかけたものだったという説ですね。

 関東軍の河本大作の自己認識が、果たしてあれは自分の工作の成功だったのだと、本当に思いこんでいたのか、それとも祖国を裏切ってまでソ連の謀略工作を庇うという、そういう気持ちがあって、 「あれは、俺がやったんだ」というふうに言い張ったのか、という事は勿論簡単には解けませんけれども、その辺、現在の中西さんの解釈はいかがでしょうか。(P16)




 小堀氏の頭の中では、いきなり「ソ連犯行説」が事実となってしまったようです。

 峅未燭靴討△譴麓分の工作の成功だったのだと、本当に思いこんでいたのか
△修譴箸眩長颪鯲∪擇辰討泙妊熟△遼杜工作を庇うという、そういう気持ちがあって、
「あれは、俺がやったんだ」というふうに言い張ったのか」

という「二者択一」も、何とも大胆なものですが、ここには

「あるいは実際に河本の犯行であったのか」

という、ごく常識的な選択肢がすっぽりと抜け落ちています。



中西氏は、こう答えます。


中西
 (略)ある歴史問題の特定の解釈についてそれが正しいかどうかを判断するには、その歴史像を作り上げてきた元の過程に遡って、どうしてそういう話が流布するようになつたか、 というところまで遡らなければいけないということです。

 張作霧爆殺事件も、その手法で遡っていきますと、殆ど全部が伝聞資料です。 しかも、相当事後的な、もう何年も後になって誰それから聞いた、例えば関東軍の参謀が言っていたけれども、こんな話だったとか、当時、東京では「関東軍がやった」と内閣や宮中に報告された、 とかいう類いの全て間接的なものですね。(P16)



 「殆ど全部が伝聞資料」「全て間接的なもの」 ― これははっきりと、中西氏の嘘です。

 「河本が自分で犯行を語った」長文ヒアリング資料として、「森記録」「平野記録」のふたつがあります。「河本から直接話を聞いた」という証言も、私が知るだけでも四つあります。

 「張作霖爆殺事件 河本大佐犯行説、これだけの根拠」でも紹介しましたが、 「河本から直接話を聞いた」代表的なものとして、当時の鉄道相小川平吉氏、及び、のちの首相の小磯国昭氏の証言を再掲しましょう。

『小川平吉関係文書』より

 其後昭和五年間居中河本大佐は永田大佐と共に予を平塚に訪ひ、具さに当時の事を語れり。 其談によれば初め村岡司令官の発意に対し反対せしが、後に至り独自全責任を以て決行せりといふ。 而して劉に対しては金円贈与の約をなしたることなしといへり。惟ふに此点は安達氏の取計らひならん乎。昭和六年十月追記。

(P627)



小磯国昭『葛山鴻瓜』より

 此の事件のあった直後、筆者が年来懇意にして来た関東軍高級参謀の河本大作大佐が上京することを承知し、事件の真相等をも聴取することが出来ると思ったので、其の着京を出迎へる為、東京駅に行って見た。

  プラットホームで列車の到着を待ってゐると、そこへ参謀本部の荒木貞夫中将と小畑敏四郎大佐が来合はせたので挨拶すると、矢張、河本大佐を出迎へに来たといふのであった。 其の中、河本大佐が予定の通り下車したが、駅では立話も出来ないので一緒に麹町平河町実亭に行き会食後、一切の事情を聴かせて貰った。

 此の作霖氏爆死事件を巡つて田中首相と白川陸相との間に責任者処分権限問題が論争の種となり、田中首相は処分問題に関し天皇陛下に内奏した所と結果とに喰ひ違ひを生じた責任を執り、内閣総辞職を決行するに至ったのだと聞いてゐる。

 関東軍司令官村岡長太郎中将と河本大作大佐とは此の事件に関連して共に現役を退くことになった。
(P491)



 「本人から直接聞いた」という話は、普通「伝聞」とは表現されないでしょう。これだけでも、「ほとんどが伝聞資料です」という中西氏の所説は崩壊します。

 しかしその後、中西氏は、わざわざ「岡田啓介証言」「森島守人証言」「田中隆吉証言」「佐々木到一証言」といった「伝聞資料」を2ページにわたって大仰に取り上げ、「資料はこれしかない」という印象操作を試みようとします。 もちろん、上のふたつの証言には、触れようともしません。


その「伝聞資料」の否定ぶりも、何とも強引です。


中西
 (略) それから森島守人という外交官の証言も伝聞の伝聞で、しかも戦後、社会主義者になった人ですので、これまた割り引く必要があります。 (P17-P18)



 どうも中西氏には、「社会主義者であれば嘘をついてもおかしくない」という、根拠のない偏見があるようです。

 それはともかく、「伝聞の伝聞」という表現も、無茶なものです。森島氏の証言を、再掲しましょう。

森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』より

 私は爆破の真相を中国側のみから承知したわけではない。満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけたのは、常時奉天方面に出動中だった朝鮮軍工兵隊の一部だったこと、右爆薬に通じてあった電流のスウィッチを押したのが、 後年北満移民の父として在留邦人間に親しまれた故東宮大佐(当時奉天独立守備隊附の東宮大尉)だったこと、陰謀の黒幕が関東軍の高級参謀河本大作大佐だったことは、東宮自身が私に内話したところである。(P22-P23)

 「伝聞の伝聞」どころか、犯行グループの一人から直接話を聞いているわけです。


参考までに、この本の巻末から、著者の略歴を抜き出してみましょう。

森島守人

1896年−1975年

1919年東京大学法学部卒業

1928-35年奉天総領事代理、ハルピン総領事代理として満州事変を処理

1936・37年東亜局長を経て北京・上海大使館参事官として日華事変の処理に当る

1939-46年アメリカ大使館参事官、ニューヨーク総領事として太平洋戦争開始前後の日米折衝に関与、戦争勃発から終戦までポルトガル公使を務めた後、退官

1955年以降衆議院議員、社会党国際事務局長・外交部長・政策審議会外務部長を務めた



 中西氏の偏見はともかく、森島氏は、外務省では東亜局長、ニューヨーク総領事を務め、戦後は社会党の国会議員にまでなった、それなりの社会的地位を得た人物であったことがわかります。森島氏が、こんなつまらないところでウソをつく理由も見当たりません。 他の資料との整合性にも問題ありません。

 証言の信頼性は、証言者の資質、証言の状況、証言内容等を総合的に勘案して決定されるべきものでしょう。森島氏の証言を「割り引く」理由など、何ひとつ見当たらないことがわかります。




 続いて中西氏は、「河本大作自身の証言」に話を写します。

 既に述べたように、「河本自身の証言」として有名なのは、「満州事変」の研究家、森克己氏による聴取記録(「森記録」)、及び河本義弟の平野零児氏による「平野記録」です。

 このうちよりアカデミックな「森記録」を、中西氏はまるまる無視してみせます。そして、ターゲットを「平野記録」に絞ります。


中西
 さて、極めつけが河本大作自身の証言と言われているものですけれども、河本大作は、終戦後は、中国山西省で国民党軍の閻錫山の顧問になつて、国共内戦の場で反中共の立場に立って協力していたんですね。 ところが国府が敗れ共産軍に引き渡されてしまったわけですね。そして、太原戦犯管理所という所に入れられまして、中共の戦犯管理の中で、三年間過ごし、そこで亡くなっています。手記も何も書いていません。

 じゃあ『文藝春秋』昭和二十九年十二月号に載った 「私が張作霧を爆殺した」という、あの河本告白記というのは誰が書いたかというと、これは河本の義弟で作家の平野零児が書いている。

 彼は戦前は治安維持法で何度か警察に捕まっている人なんです。その人が河本の一人称を使って書いたわけです。その内容も当時、ほとんど誰も確認せずにそのまま活字になっているわけですね。(P19-P20)



 改めて、「平野記録」の成立過程確認しておきましょう。 

 実際には、このインタビューは平野零児の独自企画ではなく、河本秘書の平田九郎氏が平野氏に命じて行わせたものでした。中西氏は意図的にか誤解を招く言い方をしていますが、 インタビューは「中共の戦犯管理」で行われたものではなく、戦前に実施されたものです

 そのことは、当の平田九郎氏が、「張作霖爆殺事件」の研究者、井星英氏に対して語っています。

井星英『張作霖爆殺事件の真相(一)』より

 平田氏(「ゆう」注 河本大作の満洲炭鉱株式会社理事長時代の秘書、平田九郎氏。昭和55年12月8日談)によれば、 将来河本大作伝作成の資料とするため、平野氏を満炭嘱託とし、時々河本氏より聴取したことを記録させた。しかし河本氏は、平野氏がさういふ目的で聴取してゐる、とは知らなかつたし、また知らされなかつた、といふ。 この記録は、平野氏がタイプ印刷として戦後も保持してゐた。それを平田氏は筆写して、河本氏三女清子氏に渡した。その複写が防衛研修所戦史部に収めてある。

(『芸林』昭和57年6月号 P6)


 インタビューを命じた平田九郎氏は、「記録」を筆写し、河本大作の遺族に引渡しています。 そしてその複写が、防衛研修所戦史部に収められたようです。少なくとも、平田氏自身はこの記録を信頼できるものと考えていたことは、間違いないでしょう。
*なお、中西氏は平野氏について「戦前は治安維持法で何度か警察に捕まっている人」と書いていますが、平野氏の自伝的回想『人間改造』には、そのような記述は見当たりません。 この著、及び『中共虜囚記』によれば、平野氏が共産主義の影響を受けたのは、中国共産党に戦犯として抑留されていた時のことであるようです。中西氏の発言の根拠は、私には確認できませんでした。

**また中西氏は、佐々木到一の証言につき、「当時中国国民党に派遣され軍事顧問をしていた佐々木到一の証言もありますが、これも間接的なものです」(P19)と述べています。

実際に佐々木到一の記述に当ると、
「この事件の真相を活字に組むことは永久に不可能であるが、一世を聳動した彼の皇姑屯の張作霖爆死事件なるものは、予の献策に基づいて河本大佐が画策し、 在北京歩兵隊副官下永憲次大尉が列車編成の詳細を密電し、在奉独立守備隊中隊長東宮鉄男大尉が電気点火器のキイをたたいたのである」(『ある軍人の自伝』増補版P192-P193)となっています。

実は自分が事件の黒幕だ、という大胆な話であり、これが事実かどうかは今日に至るもはっきりしませんが、少なくとも
中西氏の「間接的」という表現は適切なものではないでしょう。




こんなことを延々と語った挙句、中西氏はとんでもないことを言い出します。


中西
 ですから、張作霧爆殺が関東軍の仕業だったというのは、当時の流言蜚語、それから東京裁判での田中隆吉証言、そしてこの文藝春秋告白記と称するものに基づいているといえます。




 「森克己記録」はどこに行ったのでしょうか? 小川平吉、小磯国昭という有力者の証言は? さらに、協力者であった川越大尉、尾崎少佐、角田大尉の手記は? 峯憲兵司令官が引き出した桐原工兵中尉の自白は?  天皇にまで伝わった、河本の、「若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つた」という発言は?


 中西氏は、これらの有力資料を、一切無視してみせます。氏が必死に否定しようとする「文藝春秋告白記」にしても、上の通り成立過程は明らかになっており、他の資料との整合性もあり、十分に「使える」資料であると考えられます。



 かろうじて、氏が「小川平吉関係文書」に触れた発言を見ることはできます。しかしそれは、何とも的外れなものです。


中西 以上、張当時、鉄道大臣だった小川平吉関係文書というのがありますが、それもやはりそういう雰囲気で、「関東軍がやった」という大前提で解釈を下しており、他の可能性を確かめようとしませんでしたね。




 「小川平吉関係文書」には、小川が河本本人から「犯行」を聞いた、という記述が登場します。中西氏は、なぜこの事実になぜ触れないのか。 また、どうして「解釈」などという奇妙な言葉が出てくるのか、理解しがたいところです。中西氏は、実際にはこの資料を読んでいないか、あるいは「都合の悪い資料」には目をつむろうとしているとしか思えません。


 ひょっとすると中西氏が言及しているのは、「小川平吉手記」のうち、「大陸浪人・工藤鉄太郎が、犯行への協力を告白し、援助を求めてきた手紙」のことかもしれません。 しかし実際問題として、この手紙自体も十分なリアリティを感じさせるものであり、例えば伊藤隆氏など、発言の中で次のように触れています。

『諸君!』座談会『張作霖爆殺の犯人はソ連諜報員か』より


伊藤 私はやはり日本の軍部がやったと考えています。

 というのは田中義一内閣の鉄道大臣だった小川平吉氏の手記によると、現地から詳細な報告とともに事後処理に関する相談を受けていることがわかるからです。 「国民党便衣隊員の仕業に見せかけるために用意していた中国人の一人に逃げられてしまった。この用意をした中国人を逃がすための費用が必要だ」という生々しいやり取りが出てくるんですよ。

 私はエイティンゴンが自分の手柄にするために、報告書でもデッチ上げて書いたんじゃないかという印象を受けましたね。

(『諸君!』2006年6月号 P32)



 小川はこの手紙を田中首相と白川陸相に見せ、援助要請に応えてとりあえず五千円の送金を行っています。小川はこの訴えを、事実であると判断した、ということでしょう。
*この件については、関東庁による、グループに対する詳細な聴取記録(「張作霖爆殺事件調査特別委員会議事録」)が残っています。 それによれば、グループは、中国人3名を「日本の密偵になれ」と騙して雇い入れ、そのまま河本大佐に引き渡した。河本大佐は彼らを殺害し、死体を爆破現場付近に残して「南方(国民党)便衣隊」に偽装した 、ということです。


以上ここまでのところ、中西氏は日本側の有力資料にはほとんど触れずに、「河本犯行説」のまともな根拠が「東京裁判での田中隆吉証言、そしてこの文藝春秋告白記」しかないかのような印象操作を行ってきているわけです。




さて、一方の「ソ連犯行説」はどうか。日本側資料を覆すだけの材料があるのかどうか、氏の発言を追ってみましょう。


中西
 (略)しかし、最近、真相に迫ると思われる文書が出てきた。それが『GRU帝国』というソビエトの情報工作機関の物語を書いた実録、歴史書ですね。これは『マオ』が引用して、多くの人が知るようになりましたが、ソ連が支配する東支鉄道の利権を脅かす張作霧を暗殺し、より操り易い息子の張学良を使って関東軍との間に対立を起させるように、とのモスクワの指示に従って、ソ連のGRUという軍の情報部が当時、ハルビンに作っていた謀略組織と上海の組織との協力で、日本軍の仕業と見せかけるシナリオを書き、二つの工作を併行させてやっていたということを明らかにしているわけですね。

 二つの工作というのは、一つは関東軍がやった、と皆に思わせる洗脳工作です。張作霖を爆殺することによって「満州を押さえられるんだ」という考え方を関東軍に吹き込む工作も併行してやっていた可能性もある。(P21-P22)



 「関東軍がやった、と皆に思わせる洗脳工作」。そんなことが果して可能なのか、という素朴な疑問が生まれます。具体的にソ連は、誰に対してどのような「洗脳工作」を行ったと言いたいのか。中西氏は、その点には何も触れていません。

 しかし少なくとも、河本本人、及び多数の協力者が「自分たちの犯行である」と語っていることは事実です。これだけ多数の人物を「洗脳」して、その全員に対して「自分がやった」と思わせることなど、常識で考えてもできるはずがありません。



 さて、具体的にソ連工作員は、自分の犯行をどのように語っているのでしょうか。中西氏の発言を、続けます。


中西
 もう一つはソ連工作員による実際の爆破工作です。それを指揮したのはナウム・エイティンゴンという切れ者のソ連工作員。この人は後にトロッキーをメキシコまで追いかけて行って暗殺した下手人ですけれども、 そのエイティンゴンの指令を受けた部下が実は張作霖と同じ列車に乗っていた。

 京奉線と満鉄線の交差点の皇姑屯という所で爆破は起こっていますが、線路に爆弾を仕掛けておいて高速で走る列車のある特定の客車だけを爆破するというのは非常に難しいわけです。

 また、あの壊れた列車の残骸の写真を専門家が分析すると、屋根の上の方が爆破されている。線路に爆弾が仕掛けてあれば、下の車輪部分も全壊しているはずだと。

 そこで上を通る満鉄線の橋梁下に爆薬が仕掛けられた、と後で言われるのですが、エイティンゴンは、橋梁や線路の爆破ぐらいでは致命傷は与えられないから、自分たちが爆破に直接関係したと言って、客車の写真を撮って、それを自分の功績、証拠として、その壊れた客車の写真を自分の回顧録にわざわざ載せて、 そして自分がやったんだとはっきり言っているんですね。(P22-P23)


中西氏の発言を見る限り、「ソ連犯行説」の内容は、たったこれだけであるようです。



今さらではありますが、この説に対する、秦郁彦氏の評価を聞きましょう。

秦郁彦氏 『張作霖爆殺事件の再考察』より

 ところで『昭和天皇独白録』が「この事件の首謀者は河本大作大佐」と断定して、河本の処罰をめぐる内紛から田中内閣崩壊に至る事情を説明しているのを筆頭に、「河本犯行説」を前提に論及した文献は細部で異動はあるにせよ数十件をかぞえる。

 ましてや河本以外の日本人や外国人を主犯に見立てた文献は、半世紀以上にわたり一件も出現していない。

 定説というより確定した史実と考えていた私にとって、ソ連犯行説は西郷隆盛が西南戦争で死なず生き延びたたぐいの妄想に見えるが、疑ぐり深い修正主義史家たちを否応なしに論破できる文献はあるだろうかと自問してみた。

(日本大学法友会『政経研究』2007年5月号 P104)

*以下、多数の文献紹介が続きますが、ここでは省略します。


 プロホロフが引用しているヴィナロフ撮影の写真なるものは未見なので評価しにくいが、爆破現場にかけつけたカメラマンによって撮影され新聞や雑誌に掲載したものは数多いので、そのコピーという可能性もある。

 プロホロフの所説は、GRUやGPUなど謀略機関の第一次史料による裏付けを欠いているのが致命的弱点である。
それに綏芬河で爆弾が見つかり未遂に終った事件を一九二六年九月としているが、 この事件を当時の新聞は二五年九月と報じているように、日付の考証だけをとってもあやふやで信用できない。

 おそらくプロホロフは、当時から宣伝的意図もあってソ連当局の関係者によって書かれた各種の印刷物などを参考に断片的な手記などを加味して小説風にまとめたものかと推測する。

(略)

 一九二九年には東支鉄道の管理権をめぐる紛争で、赤軍が出兵して張学良軍と戦ったくらいだから、張親子の命を狙うテロリストがいたとしてもふしぎはないし、作霖殺しの功名話を語る工作員がいた可能性は否定しきれない。

(同 P150-P151)



 「写真」程度のことは、どうにでもなります。少なくとも「ソ連犯行説」は、各種の裏付け資料に固められた「河本犯行説」を覆すほどの材料を持ち合わせていない、ということは間違いなく言えるでしょう。

*余談ですが、「写真」といえば、1985年、元陸軍特務機関員S氏が保管していたという、61枚の組写真が公表されました。 S氏はこの写真を上司であった河野又四郎氏から譲り受けた、ということです。写真の裏には「神田」の文字があり、筆跡を調べた結果、これは事件の犯人グループの一人であった神田泰之助中尉の自筆であることがわかりました。

 この一連の組写真は、
事件前の現場から始まります。そして、爆破直後の黒煙が舞い上がるシーン、その後の惨状の写真などが続き、最後は張作霖の葬儀の写真で終わります。

 「事件」が起きることを事前に知らなければ、絶対に撮影できない写真です。 これは関東軍犯行の有力な「物証」として山形放送のスクープとなり、裏付け取材を経て、日本テレビ系にて放映されました。(以上、「未公開写真に見る満州事変」によります)

 中西氏は事件「後」の「壊れた客車」の写真程度のことで騒いでいるようですが、同様の写真はあちこちに出回っており、この程度のことでは、証拠にも何にもなりません。 中西氏が「写真」を「証拠」としたいのであれば、少なくともこの組写真と同じレベルの「材料」は必要でしょう。





中西氏は、発言を続けます。


中西
 それからこれは昨年の四月に明らかになったことですが、『蒋介石日記』というのが今、順次、アメリカのスタンフォード大学で公開されていますけれども、その日記の昭和二年 (一九二七)、つまり爆殺の一年前の項に、 「張学良(張作霖の息子)が国民党員になった」という一節があるのです。蒋介石はその日記にはそれ以上何も書かなくて、非常に謎めいた記述なんですが間違いなくそう書いてあるんですね。(P23)

 当時、張作霖は、蒋介石と北伐を巡ってお互いに生死を懸けた争いをしているわけですね。そこへその息子の張学良が敵方の蒋介石の指導する国民党に秘密入党していたという。これは重大な事実なんですね。 昨年の四月十九日付の産経新聞も報じましたが、今、この事実を歴史家が全く考えあぐねておりまして、誰に聞いても、「いや何なんだろう。記述は間違いなさそうだ」と。(P23-P24)

 張学良は父親の張作霖爆殺事件の一年前から蒋介石側と通じていた。その蒋介石はモスクワと連絡があった。表向き上海クーデター、つまりその前年の四月に起こつた四・一二共産党弾圧クーデターで蒋介石とソ連との関係が切れたと歴史では言われているんですけれども、 蒋介石の息子の蒋経国がずっとモスクワに留学しているわけですから、それだけでもルートは確実にあったわけです。

 ですから張学良、蒋介石、そしてコミンテルンという三つのパイプは明らかにあったといえる。(P23-P24)



 「張学良が国民党員になった」という一文から、「張学良、蒋介石、コミンテルン」三者の爆殺事件への「共謀」を匂わせる、 というところまで話を飛躍させてしまう中西氏の「想像力」にはおそれ入りますが、ここでは、この事件の後、張学良はどのような行動を起したか、ということのみに触れておきましょう。

「1億人の昭和史 日本の戦史2 満州事変」より

 父・張作霖が爆殺されて以来 国民党への接近を続けてきた張学良は 昭和3年12月 中ソ共同管理の東支鉄道を強制接収  このため翌年8月には武力衝突 10月中旬満州里を占領するなど戦闘はソ連軍優勢のうちに同年12月終了(P11)


 中西氏によれば、ソ連は、「ソ連が支配する東支鉄道の利権を脅かす張作霧を暗殺し」ようとしていたはずです。 仮にソ連が張学良と共謀しようとしたのでしたら、その目論見は大失敗であった、ということになるでしょう。

 また張学良は、1990年、NHKの取材に答えて、次のように語っています。

NHK取材班『張学良の昭和史最後の証言』より

 事件が関東軍の仕業だということは、誰でも知っていました。それは公然の秘密でした。当時南満州鉄道には日本の軍人の他に、一体誰が近づくことができたでしょうか。

 ですから私は日本の軍人は嫌いなのです。この事件を仕組むために、日本は事前に南満州鉄道を一時止めたのです。他に誰が汽車を止められるでしょうか。

 勿論日本に対してたいへん不愉快で、不満でした。家仇国難すべて私の身に降りかかってきました。

 中国にはこのような古い諺があります。「父の仇は、天の仇より憎し」と。

(P75-P76)



 中西氏の突飛な「空想」には、何の裏付けも発見できません。




 さて、中西氏の結論です。


中西
 としたら張作霖爆殺の背景と動機、要素としては、両方全部揃うわけですね。そして実行者の具体的な告白としてエイティンゴンの証言がある。 そうすると客観的に見て、河本大作がやったと言う側の資料よりもこちらの資料の方が明らかに強いわけです。

 したがって河本はじめ関東軍が単独でやったという解釈は、少なくとも白紙から再検討しなければならない。あとほんの少し事実が出て来たら完全にはっきりすると思います。 百歩譲って申し上げても、現段階では関東軍の仕業と決めつけるわけにはゆかずに「諸説ある」、というべきでしょう。(P24-P25)



 ここの中西氏の発言、何とも強引です。

 日本側資料では、多数のデータによって、誰が計画し、誰が火薬を調達し、誰がその火薬を現場に埋め、誰が列車の運行を見張り、誰が爆破スイッチを押したのか、という事件の細部まで明らかになっています。

 そのような細部を何ひとつ語らず、ただほとんど「自分がやった」という程度のレベルのエイティンゴン証言と、多数の関係者の証言群に裏付けされた「河本犯行説」のどちらが有力であるかは、議論するまでもないでしょう。
*「ソ連犯行説」では説明がつかない事実として、例えば「国民革命軍のしるしある手紙を所持していた中国人二名の死体の存在」があります。

 この死体は日本側にとって、「日本側の犯行ではなく、蒋介石国民革命軍の仕業である」と主張する材料となりました。ただし今日では、事件を「国民革命軍」の仕業に見せかけようとした河本らの「偽装工作」であることが明らかになっています。

 ユン・チアン『マオ』の記述によれば、ソ連は事件を「日本軍の仕業に見せかけた」ということになっています。
「ソ連犯行説」が事実であるならば、この死体は一体何だったのか。 当然ながら、中西氏はこの「死体」の件には一言も触れようとしません。


 そして中西氏は、こんな驚くような発言を繰り返します。


中西
 昭和十年代に河本が満州、或いは支那本土で民間の仕事をしていたときに、彼がいつも自慢げにそう言っていたという伝聞は、戦後日本で出た色々な関係者の「証言」として出てくることは出てくるんですね。 ですけれども、それがどういう状況で、どういう話として言ったのかは確定できませんので、一応今のところは「両説ある」と言わざるを得ない。(P25-P26)



 既に触れた通り、実際には、「確定でき」ないどころか、小磯国昭は、荒木貞夫中将と小畑敏四郎大佐の同席の中、河本から直接話を聞いています。小川平吉は、永田大佐と共に平塚の自宅を訪れた河本から、こちらもまた直接話を聞いています。

 「それがどういう状況で、どういう話として言ったのかは確定できません」・・・中西氏の表現は、トンデモを通り越して、ほとんど詐欺的なものになっています。




中西氏は、なぜか突然、ここから「コミンテルンの洗脳工作」の話を始めます。


中西
 そもそも当時の、コミンテルンやロシアの諜報工作の伝統から言うと、誰か皆が信じやすい人がやったという、一つのパーセプションを作り出すために、 「本当にあいつがやった」と思わせる洗脳技術、特殊工作が非常に重視されておりました。

一例を挙げますと、一九三三年、ドイツ国会放火事件というのがあります。あれは、ナチスが自ら放火したのに共産党の仕業として、それを口実に共産党などを弾圧した事件とされています。当時ナチス党の指導者さえその様に思ったんですね。

 ところが近年の研究によると、どうもドイツ駐在のコミンテルン組織がそのノウハウ、その具体的な戟術に至るまで、ナチスの陣営に知らせていた。つまりナチスとコミンテルンは地下パイプがありましたので、あれはどっちがやったのかははっきりとしない。 場合によると、一種の暗黙の「合作」だった、という有力な説がある(スティーブン・コツチ『ダブル・ライヴズ』)。

 今はとりあえず、現場で捕まった精神薄弱の一人の青年の仕業だという解釈しか未だにありませんが、 たった一人であんな大きな議事堂を一瞬にして炎に包むなんてことはとうてい出来ません。(P26-P27)



 さて中西氏、一体何を言いたいのでしょうか。続く文章に、思わず引っくり返ります。


中西
 これと似たようなことが、張作森爆殺でもGRU独特の手法として取られたのではないか。

 彼等は一九一九年、コミンテルン発足直後からこの戦術をずっと重視し、洗練させてきておりますので。ですから、そういう洗脳工作によって河本大作は本当に「自分でやった」と信じていたのかも知れません。

 いずれにせよ、今後、旧ソ連の極秘文書などの新資料、あるいは当時満州で関東軍やソ連の動きをずっと監視していたイギリス情報部の史料公開などに注目しておくことが大切でしょうね。(P27)



 河本は、事件直後に小磯国昭らに犯行を「告白」したはずです。

 中西氏は、いったいいつどのように、GRUが河本への洗脳を行った、と言いたいのでしょうか。

 「洗脳」するためには、最低限、GRUは一定期間、河本を拉致監禁しておく必要があるでしょう。 ソ連情報部が日本の将校を「監禁」したらそれこそ大事件ですし、もちろん「河本が拉致監禁された」などという記録は存在しません。

 ここまで現実離れした想像を突き付けられても、読者としては戸惑うばかりでしょう。



 なお、最後の「イギリス情報部」については、秦郁彦氏が次のように反論していることを付け加えておきます。

秦郁彦氏 『陰謀史観のトリックを暴く』より

 だが中西氏は今でも、河本犯人説は確定していないと論じ、爆殺から四ヵ月後の一九二八年十月に「ソ連が主役だ」としたイギリス情報部諜報部の報告書を紹介している。

 この時期には、犯人は日本軍、国民党中国、ソ連の三説が乱れとび確定していない段階で、田中首相が天皇へ犯人の日本軍人は厳罰に処罰するつもりと奏上したのは、十二月末であった。

 間違えたのもむりはないが、名だたる英国情報機関がいつ頃関東軍(「ゆう」注 「ソ連」の間違い?)と割り出したのか、知りたいところだ。

(『月刊 Will』 2009年2月号 P192)


 そもそもイギリス情報部は、どんなソースからそんな情報を得たのか。「ソ連」諜報員のウソに騙された、というのが、一番自然な解釈でしょう。



2010.10.23追記

 日本経済新聞社『「東京裁判」を読む』(半藤一利、保坂正康、井上亮)で、「張作霖爆殺事件=コミンテルン陰謀説」が取り上げられています。どちらかといえば「保守系」の歴史研究者の見方がわかり、興味深いものがあります。

「「東京裁判」を読む」より


半藤 張作霖爆殺に関しては、最近、コミンテルンの陰謀だという説が出てきましたね。中国の作家、ユン・チアンが書いた『マオ』という本に出てくるので、これを頭から信じた人がいる。証拠はなにもあげていませんけれども、 それをとにかく信じてコミンテルンの陰謀だと大声で唱える人がやたらに増えました。でも、これは間違いなく日本の陰謀です。

井上 河本大作自身が「自分がやった」と言ってますね。
 
半藤 私も聞いているんです。それから三月事件、十月事件に参画した長勇が謀略だと言ってます。

保阪 国粋主義者で鉄道大臣だった小川平吉が満州浪人を金で集めて情報を取っていましたが、このときすでに陰謀の事実はすぐ入ってきている。これは小川平吉文書に書かれています。(P121)

(略)

半藤 張作霖爆殺の謀略については、基本的には河本大作の手記がありますが、蒋介石の北伐軍に従軍した佐々木到一中佐の手記にも出てくる。

 松村謙三の『三代回顧録』という本があるんです。松村は爆殺直後に偶然、現地にいたそうです。「林久治郎奉天総領事から、思いがけない話を聞かされた。現場には二人の中国人の死体があった。関東軍は、この二人が犯人であると主張しているが、 二人ともアヘン中毒者で、とてもこれほどの綿密で大胆な仕事ができるはずがない。しかも日本軍の監視下から爆薬を詰めたところまで電線がそのまま残っていた。これでは、いくらごまかそうとしても駄目だ」ということを書いています。

 証拠はいくつもあるんです。小川平吉文書のようなすごい文書が残っていますから、いまさらコミンテルンの陰謀だといって東京裁判をひっくり返そうとしても、この件は無理じゃないでしょうか。(P122)




2010.12.18追記

 「イギリス情報部」云々については、秦郁彦氏が『張作霖爆殺からハル・ノートまで』(『日本法学』2010年9月)でより明快な反論を行っていますので、紹介します。

秦郁彦氏 『張作霖爆殺からハル・ノートまで』 より

 どうやらソ連工作員説は事件から七十年後にプロホロフが持ちだすまでは、ソ連でも無視されていたようだが、有力な助っ人が現われた。

  ほかならぬ中西輝政で、それを裏づける材料としてイギリスのMI12C(陸軍情報部極東課)による「ソ連が主役(protagonist)」だったという一九二八年十月の報告書(文書番号はWO106/5750)を持ち出したのである。

 出典は示されていなかったが、筆者は二、三の関係文献を当ってアントニー・ベスト教授の『一九一四−一九四一年の英諜報とアジアにおける日本の挑戦』(二〇〇二)らしいと見当がついた。

 私は名だたる英情報機関のことだから、いずれ誤った情報判断を修正したはずと想像していたが、予想どおりだった。しかもベストはMI12C報告を引用したあと、ひきつづき同じページで次のように記述していたのである。


 事件からしばらく事態は不明瞭だったが十月十二日にMI12Cは、確証はないとはいえ主役はソ連の可能性がもっとも高いと結論した。

 しかし一九二九年に入り東京の英大使館は別の推定に達した。すなわち暗殺は関東軍の一部によって遂行されたということであるが、(日本の)外務省はあまりにも衝撃的であり 、日英関係への影響を懸念して他の部局には知らせないと決定したと、ある高官は述べた

(出所は1929年3月23日付のティリー駐日大使発チエンバレン外相あて113番電、F0371/13889など)。



 すでに東京の英大使館は事件の第一報となる六月十五日付の報告で、「日本陸軍は南軍の仕業と発表しているが、大連駐在領事によると、中国人や外国人の多くは日本人が爆殺したと推測しているよし」と伝えていた。 必ずしもソ連主犯説に固まっていたわけではないことがわかる。

 日本政府と軍中央が河本の自白などで確証を得たのは二八年末で、その後も部外秘が保たれていたため、英大使が二九年四月に確報をつかんだのはおそすぎるとは言えないだろう。

 日本国民の大多数は東京裁判まで事件の真相を知らされず、「知る人ぞ知る」ですんだわけだが、同じ条件は満州事変から一九四五年の敗戦の日までつづいていくことになる。(P720-P721)

(『日本法学』 第七十六巻第二号(二〇一〇年九月))


(2009.1.24)


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