汪兆銘工作はコミンテルンの陰謀か?

三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』(2)


 (1)では、 「松本重治や高宗武ら「汪兆銘工作」グループが、実は「和平」そのものを破壊しようという意図を持っていた、などという主張には根拠がない」ことを、見てきました。

 従って「陰謀論」は、これだけで成立しなくなります。ここではさらに、松本藏次や三田村の「松本重治らは実はコミンテルンのスパイ尾崎の意を受けて動いていた」という主張を検証していくことにしましょう。


そもそもの話、汪兆銘工作が高宗武や松本重治の意図通り「成功」していれば、日中間の戦争は終結することになり、ソ連や中国共産党などにとっては困ったことになったはずです。

 彼らの構想は、「広東・広西・雲南・四川という四省を中国国民党政府から分離独立させ、その新政府と日本との間で一気に講和を実現してしまおう」というものでした。

 もしこれが実現したら、蒋介石政府は、狭くなった領土のさらに半分をもぎとられた形となり、それ以上の抗戦継続が困難になった可能性が高い、と考えられます。

 しかしこの構想は、結局のところ、汪兆銘の人望のなさにより蒋介石政府からの離脱者が予想外に少なかったこと、そして近衛首相の「撤兵」密約を反故にするという裏切りにより、土壇場で失敗することになります。

 やむえず汪は、今度は日本の占領地内に新政府を樹立しようとするわけですが、その頃にはすでに松本重治は運動から離れており、また高宗武は日本の傀儡化しようとする汪に反対してグループから離脱しました。

 そのような史実の展開を見れば、そもそも松本重治や高宗武が「和平」の妨害に動いていたということなどありえないことが瞭然なのですが、陰謀論者はそのような都合の悪い事実には目をつむってしまいます。



**三田村は、「コミンテルン第六回大会決議」を「コミンテルンが戦争を煽ろうとした根拠」としているようです。しかし実際に「決議」文を見ると、三田村の読み方には疑問を挟まざるを得ません。 詳しくは、サブコンテンツ「コミンテルンは「戦争」を指示したか? コミンテルン第六回大会決議をめぐって」をご覧ください。



< 目 次 >


汪兆銘工作はコミンテルンの陰謀か? 
三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』(1)

 1 松本重治は「和平工作潰し」を狙ったのか?

2 高宗武は日本で何を語ったのか?

3 高宗武は蒋介石に何を報告したのか?



汪兆銘工作はコミンテルンの陰謀か? 
三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』(2) (本稿)




 尾崎秀実は汪兆銘工作を主導したのか?

 「陰謀論」の主張の核心は、高宗武や松本重治の活動は、実はコミンテルンのスパイであった尾崎秀美に影響されたものだった、ということにあります。最初に、尾崎秀実と「汪兆銘工作」との関わりを見ておきましょう。


 まず、既に『「日中和平工作を妨害せよ」 太田尚樹『赤い諜報員』の「コミンテルン陰謀説」』で説明した通り、そもそも尾崎秀実の任務は「情報収集」であり、「工作活動」ではなかった、と伝えられます。

 尾崎自身、「情報収集」以外の活動を行うことについては、「モスクワから固く禁じられていた」と語っています。
*日本がソ連へ攻撃の矢を向けるのを阻止するため、「南進論」へ誘導しようとしたのが、ほとんど唯一の例外でした。

 「汪兆銘工作」についても、事情は同じでした。

『検事訊問調書』

第二十四回訊問調書
治安維持法違反
被疑者 尾崎秀実


六問 汪兆銘工作に関する諜報活動に付き述べよ。

 昭和十三年春頃より、当時同盟上海支局長であった松本重治と、南京政府亜州司長高宗武との間に、日支間の平和回復に関する努力が払はれて来ました。

 当初高宗武の肚は蒋介石を引出す意図であった様に察せられましたが、其処へ周仏海等が合流したことに依り、汪兆銘派の運動に変形し、奥地に居る汪兆銘との間に密接な連絡を生じつつ行はれて来ました。

 而して此の運動には上海に於ける日本特務機関も関連を持ち、影佐少将も参加するに至ったのであります。

 昭和十三年春には高宗武が秘に渡日し下相談が進められ、松本重治等の斡旋に依り近衛内閣も直接工作に携り、松本重治の友人である犬養健、西園寺公一等も直接交渉の当事者として之に参加するに至りました。

 私は此の工作には直接参加しなかったのですが、犬養西園寺等と友人関係にあったことや、近衛内閣の嘱託であったことから、此の間の情況を屡々耳にし、 又同人等より此の工作に付て意見を求められて居りました。(P255)

(『現代史資料(Ⅱ) ゾルゲ事件(二)』)

*「ゆう」注 この部分をそっくり引用して、これを「コミンテルン陰謀説」の根拠としているサイトを見かけました。 どう読んでも、「友人を情報源として利用した」というだけの内容なのですが。「私は此の工作には直接参加しなかったのですが」という部分が目に入らなかったのでしょうか。



 「汪兆銘工作」を進めていた人々の中には、西園寺公一、犬養健など、尾崎と親しい人物も混じっていました。尾崎はこれらの人脈を「情報源」として活用し、ここから得た種々の情報をゾルゲに提供していました。

 尾崎やゾルゲにとって、「日中の和平の可能性」は重要な関心事のひとつではありました。しかしそれだけの話であり、尾崎らが「運動」に積極的に関与し、方向付けをしようとした気配は、全くありません。




 それどころか、初期の頃には、尾崎は「汪兆銘工作」には批判的であった、と伝えられます。

西園寺公一に対する検事尋問調書

第三回訊問調書

七問 何故左様な文書を尾崎に見せたのか。

 尾崎は内閣嘱託時代風見書記官長に支那問題に付き意見を具申し、又汪兆銘工作と関聯ある昭和十三年十二月二十二日の近衛声明の立案にも直接関係した程で、汪兆銘工作には直接関係はありませぬが、内部的間接的には関係があつたと云へます。(P491-P492)

 既に申述べた通り私は尾崎が支那問題に通じて居るので昭和十三年中頃から此の工作につき同人の意見をも徴したりして居りました。

 尾崎は最初は此の工作に消極的であり汪はロボット化し従て之により支那を動かすことは不可能であるから無駄な事あるとして反対の態度を採つて居りましたが、交渉が次第に進むにつれて犬養の説得もあつたりして認識を新たにし従来の態度を変へて建設的な意見を述べるやうになつて来て居りました。(P492)

(『現代史資料(Ⅲ) ゾルゲ事件(三)』)


 さらに言えば、「コミンテルン陰謀説」に影響された方が、実際に「日中和平交渉史」や「汪兆銘工作」をテーマにした数々の書籍なり論稿なりを読むと、どこにも尾崎の名前が出てこないことに驚いてしまうのではないでしょうか。

前項で述べた通り、三田村氏の本が出て60年経った現在でも、アカデミズムの世界では「陰謀説」は全く問題にされていない形です。

*辛うじて尾崎の名が出てくるのは、1938年7月高宗武の来日時、高と会うために西園寺公一、犬養健、松本重治、西義顕、伊藤芳男らが集まった時、西園寺が尾崎をその場に連れてきていた(らしい)、という場面です。ただし松本や犬養は尾崎がその場にいたことを記憶しておらず、仮に出席していたとしてもそれほど目立つ発言はなかったものと思われます。


 「尾崎」と「汪兆銘」の双方の名が出てくるアカデミズムの論稿としては、例えば田中悦子氏の『尾崎秀美の汪兆銘工作観』(『日本歴史』1999年7月)がありますが、題名通り、「尾崎が汪兆銘工作をどう見ていたか」というだけの内容です。



 周囲は尾崎の正体を知っていたのか?

 そして「汪兆銘工作」に携わったメンバーも、尾崎がコミンテルンのために活動していたことなど、全く知らなかったと見られます。

 西園寺公一が、尾崎逮捕の日の「朝飯会」の光景をリアルに描いていますので、紹介しましょう。

『西園寺公一回顧録 「過ぎ去りし、昭和」』より

 第三次近衛内閣が総辞職する前日の昭和十六年十月十五日、僕たちは風見章さん(内閣書記官長)に昼食に招待されていた。会場は、麻布の「大和田」で、メンバーは気心の知れた朝飯会の連中だった。

 こういう場合、幹事はいつも尾崎だった。しかし、この日に限って尾崎が現われない。待ちきれなくなって、風見さん、僕、平貞蔵、牛場、佐々弘雄(東京朝日新聞論説主幹)などが食べ始めたところに、この日限りの首相秘書官の岸道三が慌てて飛びこんできた。第一声は、

 「おい大変なことだ。尾崎が捕まった。何でもスパイ事件らしいぞ」

 その場にいた者は皆、呆然としてしまった。全員が、尾崎とは昨日今日の付き合いではない。高校、大学の同級生もいるし、元の勤め先の同僚もいる。このなかでは僕が一番付き合いが短いくらいだ。

 「何かの間違いだよ」
 「嘘の情報ではないのか」


 僕たちは口々に、この不吉な情報を忖度してみた。しかし、岸がもたらしたのは、尾崎が逮捕されたこと、理由はスパイ事件らしいことくらいしかない。

 既にこの日、近衛内閣総辞職は決まっており、後継首班が陸軍の東条であることも、全員が知っていた。

 ここに至る間にさまざまな言論弾圧が行なわれており、国内は準戦時体制になっている。言論人の尾崎が、理由にもならない理由をこじつけられて逮捕されることは、十分にありえた。(P220-P221)

 そうした話の後、風見さんの「これからは軍部は何をしでかすか、わからないよ。そして、近衛の側近に対する風当たりも激しくなるだろう。皆気をつけたほうがいいよ」という言葉で、この日の、尾崎を欠いた昼食会は早々と終わった。(P221)

 尾崎と親しくしていた「朝飯会」のメンバーにとっても、尾崎の逮捕は寝耳に水でした。


 その後、犬養健(衆議院議員)が、この西園寺公一とともに、尾崎に情報を流した廉で逮捕されました。

 しかし検察も、彼らの情報提供は、「尾崎の巧妙な偽装に眩惑せられたため不用意の間に」行われたものである、と判断しています。

『司法省発表』

1942年6月16日

【司法省十六日午後五時発表

 なほ本事件の捜査進捗に伴う、東京刑事地方裁判所検事局に於ては秘密事項を漏洩したる廉をもって

西園寺公一(四七)
衆議院議員  犬養健(四七)

をそれぞれ検挙しその取調を進めいたるが、西園寺は昭和十一年夏米国において開催せられたる太平洋問題調査会の会議にたまたま同行したる等の事情より尾崎と相識り親交を重ねるうち同人の支那問題に関する造詣に眩惑せられたると、其言動等より同人を憂国有為の士なりと誤信するに至りたること等のため同人に利用せられ外国に漏情せらるるの漏を知らずして二、三の秘密事項を同人に漏泄し(P541-P542)

 犬養また尾崎を支那問題の権威者として高く評価し常にその意見を徴しつつありたるため、同人の乗するところなり、外国に漏泄せらるるの情を知らすして同様秘密事項を漏洩したる嫌疑いづれも十分となりたるを以て、本日国防保安法違反、軍機保護法違反等の罪名の下に東京刑事地方裁判所に予審請求の手続を執りたり(P542)



司法内務両当局談

(略)

 また、西園寺公一、犬養健の如き相当知名の人士が尾崎の極めて巧妙な擬装に眩惑せられたため不用意の間に秘密事項を漏洩したことは、尾崎の真の意図を全然探知していなかったためとはいへその結果から見てまことに残念に思ふ次第である(P542)

(『現代史資料(Ⅰ) ゾルゲ事件(一)』)


 尾崎と同じ「朝飯会」(近衛内閣のブレーンの会)のメンバー、松本重治、牛場信彦にしても、事情は同様でした。

『予審訊問調書』

証人尋問調書
証人 松本重治


六〇問 日支基本条約の交渉に付ては如何。

 尾崎は汪兆銘工作にも、日支基本条約の交渉に付ても、全然関係がありませぬ。

六一問 尾崎が左翼思想を抱いて外国の為諜報活動をして居た事は気付かなかつたか。

 全然気付きませぬでした。(P606)

(『現代史資料(Ⅲ) ゾルゲ事件(三)』)


『東京刑事地方裁判所検事局訊問調書』

証人尋問調書
証人 牛場友彦


三七問 尾崎は夙に共産主義思想を抱懐し、外国の為諸般の諜報活動をして居たと云ふことであるが、証人はそれに気附かなかつたか。

 それは全然気附きませんで、不明でありました点は誠に申訳なかつたと思つて居ります。(P592)

(『現代史資料(Ⅲ) ゾルゲ事件(三)』)



 そして尾崎自身、手記の中で、親しい人々に迷惑をかけてしまったことを悔やんでいます。

『尾崎秀実の手記』(一)

 第二に、私の事件に直接関連して全く思想的立場を異にする善意の人々に次々と大なる迷惑をかけ始めたことであります。これは国防保安法関係の範囲なのであります。

 これ等の関係の人々は多く立派な社会的地位を持つ人々であり、何より人間として私の苦しかつた点はこれらの人々が全く全幅の信頼を私に傾けてゐたからこそ重大な国家の機密をも打明けて相談し意見をも交換してくれたのであつたことでした。

 つまり彼らと同じ立場から国家の危機をともに憂へるものとして私に信頼してゐた人々でありました。

 私もこの点は日頃から心に疾ましい点でありましたし、万一の場合なるべく迷惑をかけないやうにと考へ、余程注意したのでありました。

 仕事の性質上情報の出所はゾルゲなど特に問題にし追求するところでありましたが、私はなるべく個人の名前を示さず多く私の責任に於て問題他綜合把握して告げるやうにし、また比較的広い範囲のグループとして出所を告げるやうな方法をとったのであります。

 しかしながら一網打尽的検挙と動かすべからざる証拠とによつてかくの如き消極的考慮は全く無駄であること明らかとなりました。かくて私の親しくした善意の第三者に実に云ふべからずる迷惑を続々及ぼすことになったのであります。この心苦しさはまことに言語に絶するものでありました。(P12)

(『現代史資料(Ⅱ) ゾルゲ事件(二)』


 このように、戦前の過酷な取り調べの中ですら、「情報源」として利用された友人たちが、実は尾崎の正体を知っていた、という事実は、全く浮かんできませんでした。

 今日に至るも、これを覆す材料は出てきません。



 松本重治、西園寺、犬養は
 尾崎秀実の協力者だったのか?

 さてこのような「定説」を、三田村はいかに覆そうとするのか。

 三田村の記述は一見もっともらしいのですが、よく読むと、具体的な根拠はほとんどなく、誤った情報をベースにした「想像」程度の根拠しか持ち合わせていないことがわかります。以下、見ていきましょう。


 三田村は、「高宗武が日中双方に誤った情報を与えて和平を妨害した」(前項)という内容の記述に続けて、次のように書きます。

三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』より

 高宗武が何故こんなことをやつたのか、彼自身の真意は不明であるが、後で述べるごとく、松本重治氏が同道して上京し、板垣、近衛に会はしてゐること、又この松本重治氏と尾崎秀実とは年来最も親しい間柄であったこと(この点は彼の手記にも出てゐる)、更に同じブレーンのメンバーとして尾崎の思想的影響下にあった西園寺公一、犬養健及汪兆銘新政府のたて役者として登場する統制派幕僚の一人、影佐禎昭らとの連絡関係を掘り下げて分析してみるならば、この高宗武の背後に容易ならぬ遠謀深慮が潜んでいたことを窺ひ知ることが出来る。(P156-P157)

 高宗武のこの奇怪なる行動を知った漢口政府は直ちに彼の逮捕命令を発したが、ここから高宗武、松本重治、尾崎秀実、犬養健、西園寺公一、影佐禎昭一派の汪兆銘引出し工作に転じて行くのである。(P157)


 読んでいると、尾崎秀実を中心とする、松本重治・西園寺公一・犬養健という超豪華メンバーの「共産主義スパイ団」が存在したかのように錯覚させられそうです。それぞれ、見ていきましょう。




 まずは「最も親しい間柄」であったという松本重治です。

 松本重治は、同盟通信社の上海支局長、編集局長を務めた大ジャーナリストです。ジャーナリズム界にとどまらず、戦前の近衛内閣、戦後の吉田内閣、池田内閣の時に、駐米大使や国連大使への就任を求められた、というエピソードも存在します。吉田茂とも親交があり、吉田内閣当時、佐藤栄作や池田勇人の大臣就任を推挙するなど、強い影響力を持っていたようです。


『昭和史への一証言』より

 第三次吉田内閣の大蔵大臣に池田勇人が抜擢されるのですが、池田を吉田に推薦したのが私と友人の伊集院虎一なのですよ。大蔵大臣に財界からとろうという話があったのですが、私らは池田が一番いいと思って、そのことを吉田に手紙を書いたのです。(P211)



 吉田はすでに第二次吉田内閣で佐藤栄作を抜擢して内閣官房長官にしています。佐藤はまだ議席をもっていなかったのですが、そのときも、佐藤が官房長官か運輸大臣にいいと私は吉田に推薦しました。(P212)


 思想的には、保守派の中でも「リベラル派」に属しますが、「左翼主義的傾向」とは一線を画していました。例えば、松本は戦後すぐに『民報』という新聞を立ち上げますが、その編集方針について、こう語っています。


『昭和史への一証言』より

 当時、『朝日』には聴涛克巳君、『読売』には鈴木東民君がいて、日本の新聞全体に左翼主義的傾向、共産党に同調する傾向がみられ、労働者のストライキなどがあると、それを持ち上げる記事が多かったのです。

 けれども、『民報』では、ストライキを取り上げる場合、労働組合側の主張と使用者側の主張の両方を並べてのせ、記事の公平を保つように努めました。(P183)

 当然のことながら、戦前戦後を通して、松本が「共産主義」に接近した、という事実を見ることはできません。



 さて、松本と尾崎とはどの程度のつきあいだったのか。松本は、予審尋問の中で、このように語っています。

『予審訊問調書』

証人尋問調書
証人 松本重治


四問 尾崎秀実とは如何。

 同人は私が第一高等学校在学当時二年とて寄宿舎の部屋も隣りでありましたから、其の時から学生として知つて居りました。之も其の後交際はありませぬでしたが、支那事変勃発前後頃以来同人が支那問題に興味を持つて居り朝日新聞に勤めて居りまして、私も新聞に関係している事情から西園寺公一や牛場友彦と一緒に尾崎とも会ふ様になつたのであります。(P600)

(『現代史資料(Ⅲ) ゾルゲ事件(三)』)

 同じ「朝飯会」のメンバーでしたし、中国通のジャーナリスト同士でもありましたので、当然一定の交際はあったものと思われます。

 しかし、松本の回顧録、『上海時代』『近衛時代』、あるいはインタビュー『昭和史への一証言』に、「尾崎秀実」の名を見ることはほとんどできません。三田村が書くように、「年来最も親しい間柄」であったかどうかには、疑問が残ります。

 なお三田村は「この点は彼の手記にも出てゐる」と書きますが、巻末に収められている「尾崎秀実手記抜粋」には、そのような記述は存在しません。

 念のため『現代史資料(2) ゾルゲ事件(二)』に収録されている「尾崎手記」の全文を確認してみましたが、やはり「年来最も親しい」云々の記述は発見できませんでした。

 いずれにしても、松本重治があたかも「ゾルゲ機関」の一員であるかのように書く三田村の文章は、読者を惑わせるトリッキーなものである、といえるでしょう。




 続けて三田村は、「尾崎の思想的影響下にあった西園寺公一、犬養健」と、まるで二人が当時共産主義思想の持ち主であったかのように錯覚させる書き方をしています。


 西園寺について言えば、戦後中国にわたり、その時に共産党に入党した事実はあります。しかし本人の回顧を見る限り、戦後まもない時期までは、それほど共産主義の影響を受けてはいなかったようです。

 1947年、西園寺は参議院選挙に無所属で立候補し、当選しています。「無所属」の理由については、こう語っています。

西園寺公一回顧録 「過ぎ去りし、昭和」』より

 無所属で立候補した理由は、革新的な考え方ではあったけど、党員になっても良いという政党がなかったからだ。(P265)



 そして、およそ「共産主義者」らしからぬ考えを持っていたようです。

西園寺公一回顧録 「過ぎ去りし、昭和」』より

 僕は天皇制をすぐに廃止しろとか、戦争犯罪人として裁判にかけろという意見には反対だった。そうした意見は現実的ではないよ。天皇制を廃止するといっても、日本の民衆にはそれだけの準備ができていないもの。混乱がおきて、収拾がつかなくなるだけだろう。(P266)


 つまりこの時期には、共産党との関わりはなかった、と見るのが自然でしょう。世間も西園寺を「共産主義者」とは見ていませんでした。鳩山一郎、吉田茂からは、文部大臣への就任まで要請された、とのことです。

『西園寺公一回顧録 「過ぎ去りし、昭和」』より

 幣原喜重郎内閣の後に、鳩山一郎内閣ができそうになったことがある。結局鳩山が公職追放になり、吉田茂が組閣するのだが、この二人から文部大臣の誘いがあったんだ。

 何で僕が文部大臣なんだと吉田に聞いたら、じいさんが大臣になったのは文部大臣が最初だったからだってさ。両方ともお断わりしたよ。(P263)



 共産党入党の事情について、西園寺はこう語っています。

『西園寺公一回顧録 「過ぎ去りし、昭和」』より

 文革のさなかの六七年二月、突然、僕を日本共産党から除名するという発表が、共産党の機関紙『赤旗』に発表された。これには、当人の僕が一番驚いた。

 確かに僕は、中国へ行ってから共産党に入った。政党の党員になったのはこれが初めてだが、それまでも誘いはいろいろとあったのだ。もっとも、党に入れといってきたのは、ほとんどが右翼だけどね。西園寺という名前を利用しようとしたのじゃないかな。

 共産党に入ろうと思ったのは、むつかしい理由があったわけではないんだ。一九五〇年代の共産党は、日中国交回復と平和運動に熱心だった。だから、入党してもいいと思ったのだ。いつ頃、誰の誘いでそうなったのかは、もう忘れてしまったな。

 党員になったからといって会議に出席するわけではないし、党費を納めたこともない。日本の情勢について、本部から情報もこないし、こちらからも連絡しない。(P358)

 要するに、党員になったからといって特別なことをしていたわけじゃあないんだ。(P359)


 ほとんど「幽霊党員」であったようです。


 なお、尾崎から「共産主義」を勧められたことは全くなかった、ということです。

西園寺公一『尾崎秀實と私』より

 彼との交友の全期間を通じて、僕が彼を進歩的な自由主義者として以外に考えなかつたのも、彼が僕に共産主義的な議論をしたり、指導をしようとしたりしたことが無かつたからであろう。

(『人間』1951年7月号 P63)


 まとめると、西園寺は、「汪兆銘工作」に携わっていた時期にはまだ「共産主義」とは無縁だった、と解釈するのが自然でしょう。



 犬養健については、著書『揚子江は今も流れている』の扉にある、「著者紹介」を引用すれば十分でしょう。

犬養健『揚子江は今も流れている』より『著者紹介』

 明治二十九年(一八九六)、東京に生まれる。犬養毅(木堂)の三男。学習院高等科を経て東大文学部に学ぶ。(略)昭和五年より政友会総裁の父親を助けて政界に進む。逓信参与官、日華和平条約折衝委員、外務政務次官、法務大臣などの要職を歴任して、昭和三十六年八月没。
 


 犬養は、戦前は立憲政友会に属する衆議院議員で、戦後は自民党代議士でした。外務政務次官、法務大臣まで務めています。略歴を見ても、「共産主義」とはおよそ無縁でありそうなことがわかります。

 全くの余談ですが、犬養は法務大臣当時、悪名高い「指揮権発動」を行い、時の自由党幹事長佐藤栄作の逮捕を妨げたことで知られています。



 以上、松本、西園寺、犬養らか「共産党スパイ団」を構成していたかのように書く三田村の記述は、ほとんど妄想に近いものである、と言えるでしょう。




 なお三田村は、高宗武のこの奇怪なる行動を知った漢口政府は直ちに彼の逮捕命令を発したと書いています。

 しかし、蒋介石が、高宗武が自分の命令なしに日本を訪問したことを怒った、という事実はありますが、「奇怪なる行動」に対して「逮捕命令を発した」という事実は確認できません

 偽情報か、あるいは話をもっともらしくするためのウソ、と捉えておくべきところでしょう。



 尾崎と西園寺の旅行の目的は
 松本重治との「密談」だったのか?


 さて、三田村の文を読み進めると、ほとんど唯一、具体的な根拠らしきものがでてきます。松本藏次の回想です。

三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』より

 バイアス湾上陸の行はれた頃、松本(藏次)氏は茅野老との連絡の為、上海より船で香港に行つた。この船は独逸から受けとつた何とかいふ船だつたと松本氏は言つているが、この船に偶然乗り合せたのが尾崎秀実と西園寺公一であつた。(P157-P158)

 松本氏は尾崎とも面識があり、尾崎が船中で西園寺相手に西さん、西さんと何事かしきりと話し合つていたといつている。この頃松本重治氏も香港に行つており、ハノイに飛んで行つた高宗武との連絡に当つていた。

 松本藏次氏は、香港滞在一週間位で上海に引き返して来たが、帰りの船中でも、尾崎、西園寺と一緒であつたといつてゐる。

 暫くして汪兆銘が重慶を脱出し、ハノイにきたことが報ぜられた。そして、東京の近衛との間に連絡がつけられ、十二月二十二日あとで述べる、かの所謂近衛声明となつたのである。(P158) 


 尾崎と西園寺は「親友」といってもいい間柄でしたので、一緒に旅行をしていても何の不思議もありません。しかし松本藏次は、「時期」については大きな記憶違いをしていると思われます。

 「バイアス湾上陸」は1938年10月でしたが、実際に尾崎と西園寺が一緒に中国旅行をしたのは、その10か月もあと、1939年夏のことでした。これは別に秘密でも何でもなく、西園寺自ら、検事の取調べにて語っています。

西園寺公一に対する検事尋問調書

第二回訊問調書

四問 住居の移動並に海外旅行等に付き述べよ。



(略)

 海外旅行としては先に述べた英国留学及太平洋問題調査会出席の為め昭和十一年七月より二箇月に亘り米国に旅行した以外には支那方面に四回、欧州に一回旅行して居ります。

 即ち昭和十二年八月同盟通信社長岩永裕吉氏の勧めにより上海方面に一週間程旅行し其の間宋子文、高宗武、徐真六等と会ひ日支衝突事件に関する支那側要人の考方を打診して帰り、次に昭和十四年夏には参謀本部第八課長臼井茂樹大佐の命に依り南京政府に参加する可能性ある人物の空気を見る為め上海南京に赴き更に香港漢ロ等を視察して約三週間後帰国しましたが、此の時の南京香港上海の旅行には尾崎秀実と行動を共にしました。

 同年十二月にも同様臼井大佐の命に依り犬養と南京政府の問題に付き連絡する為上海に赴き一週同位滞在し所用を果して帰り、更に昭和十五年三月には南京還都後に於ける南京政府強化策の資料を得る目的で南京上海に旅行し約十日間に亘り調査を為し、尚同盟通信社編輯局長松本重治と共にに香港及マニラをも観察して帰りました。(P484)

(『現代史資料(3) ゾルゲ事件(三)』)


 回顧録にも、同様の記述が見られます。

『西園寺公一回顧録 過ぎ去りし、昭和』より

尾崎秀美と二人で中国を旅した

 僕は昭和十四年夏には中国に行き、上海、南京、香港、漢口などを三週間にわたって視察、同じ年の十二月には一週間、上海に出向いた。(P164-P165)

 いずれも、中国では汪兆銘政権にどの程度の支持があるのか、どんな人物が参加するのかを見極めるための旅行だった。現地の空気は、なかなか厳しかったな。

 夏の旅行は、尾崎秀実と一緒だった。彼とは随分親しくしていたが、二人で旅行したのはこれが最初で最後じゃなかったかな。軽井沢へ避暑に行ったり、茨城のほうに旅行したことがあったが、いつも誰かがいた。(P165)
 


 「参謀本部第八課長臼井茂樹大佐」の指示による旅行で、目的は、「中国では汪兆銘政権にどの程度の支持があるのか、どんな人物が参加するのかを見極めるため」のものだ、ということです。

 西園寺は、尾崎との親交を、検察に対しても、また戦後の回想でも、率直に語っています。松本蔵次の回想に全体として不正確な部分が多いことを思えば、ここでは、西園寺の回想の方が正しい、と判断すべきところでしょう。



 さらに三田村は、この頃松本重治氏も香港に行つており、ハノイに飛んで行つた高宗武との連絡に当つていたと書きますが、これははっきりと誤りです。 実際にはこの時期、松本重治は腸チブスで入院中、ほとんど危篤に近い状態にありました。

松本重治『上海時代』(下)より


 九月八日、上海に帰り、「同盟」の仕事がたまっていたので、二、三日でそれを片附けてから、報告のため東京へ行こうと考えていたが、どうも身体の調子がよくない。

 微熱があるようで、アパートにひとりでいては養生もできないので、十一日だったか、北四川路の福沢病院に入った。「同盟」の仕事は、田村(源治)君以下の同僚に一切を託して、心配はないと思った。

 松井内科部長が診察してくれたが、よく判らない。胸部疾患じゃないかともいっていたので、一高の同級生の小児科の小原直躬君の夫妻が滋養分を摂ったほうがよいといって、夜食に、すしなどを作って、もってきてくれた。が、どうもすっきりしない。

 四、五日経つと、四十度ぐらいの高熱が出てきた。腸チブスと診断された。真正チブスとパラ・チブスの二種の菌が発見され、高度の熱が続き、心臓も怪しくなってくるし、頭が重くて、はっきりしない。気懸りになっていたのは、梅思平との合意点を東京に伝えることであった。それらは、メモ・ブックに書いてあるので、それだけは枕の下に置いていた。

 入院数日後のある日、東京から駈けつけてくれた西君と伊藤君とが私のベッドの傍に立っていた。メモ・ブックを手渡すとともに、梅君や高君との話の要点を、病床で報告した。報告し終ると、私は、重荷がおりたようで、それ以来、約二週間昏々と睡ってしまった。危篤に近い状態が二度ほどあった。

 東京で岩永さんが心配して、長兄の長与又郎博士と宮川伝研所長とが相談し、若い医者を伝研から上海に急派するとともに、毎日の熱と脈拍とを東京へ電報で知らせ、同博士が処置をこの若いお医者に電信で指示する、という有様だった。(P314-P315)

 とにかく、やっと十二月初めに退院できて、ハミルトンハウスのアパートで療養を続けた。花子は、病院でも附きっきりで、看病に奮闘してくれた。老母も心配で東京からやってきたし、戦争で手不足なので、看護婦も東京から二人来てくれた。その一人は赤十字出身の鈴木みおさんで、その後も、大病するたびに世話になった。(P315)

 


 尾崎や西園寺と「秘密会議」をするどころではなかったでしょう。



 最後に、保守派の論客、中村粲氏の批判を見ておきましょう。名指しは避けていますが、「汪政権樹立工作は・・・コミンテルンの工作であったと主張する論者」というのは、明らかに三田村のことです。

中村粲『防共史観確立のための「謀略論」考察』より

汪精衛工作は謀略に非ず

 支那にも無論、右のコミンテルン・中共戦術の危険を見抜いてゐた具眼の士は少からず居り、汪精衛はその尤(ゆう)たる存在であった。

 ロイの密電(前述)で国共合作(第一次)の欺瞞を知った汪は第二次国共合作の裏にも共産党の陰謀のあることを充分に推察出来た。

 支那事変がこの儘解決の当てもなく推移せんか、共産党に漁夫の利を得せしめる結果に終ることを汪は危惧する一方、彼は蒋が表に容共抗日を唱へながらも、裏に反共和平を望んでゐる点をもその慧眼で洞察してゐた。そこに汪を中心とする対日和平工作の生れる余地があったと考へられる。

 日本側と最初に接触、汪精衛工作を協議した高宗武はじめ支那側和平派の人々も、反共和平への汪の意思を十二分に体して和平工作に参加したに違ひない。

 汪精衛工作は日支双方の気運相呼応するかの如く生れたもので、仏法に謂ふ卒啄(そったく)同時の絶妙なタイミングを想起せしむるものがある。本工作は日華の戦争を拡大長期化して支那の赤化を目論むコミンテルンの謀略を封殺する為の反共政治工作であったことは疑ひの余地がない。(P155)

 併しながらこれに関しては冒頭に述べた如く、汪政権樹立工作は、それによって日本と重慶政権との対立を修復不可能にするためのコミンテルンの工作であったと主張する論者が居る。

 初期汪工作の中心であった高宗武の背後にはコミンテルンの深慮遠謀が潜んでをり、汪政権樹立工作の陰の仕掛人はゾルゲの協力者でもあった尾崎秀実である
と説くのである。(P155-P156)

 汪の重慶脱出と和平反共宣言発出に深い関はりのある第三次近衛声明(一九三八年十二月二十二日)は構想文案とも尾崎の筆になったとも主張する。

 だが"コミンテルン謀略"説もここまでくると誇大妄想である。その理由は次の通りだ。

①もし高宗武が汪政権樹立で日華対立を決定的ならしめよとのコミンテルンの密命の下に汪工作を提起したのであれば、途中で運動から離脱して交渉内容を暴露するやうな突飛な行動には出なかったであらう。何故ならそれは"コミンテルンの企図した″汪政権樹立工作全体を崩壊せしめる結果になったかも知れないからである。

②第三次近衛声明を尾崎が起草したとの主張は全く根拠がない。当時の内閣書記官長・風見章は、「中山優が起草し、近衛自ら筆を取って仕上げた」と記してゐるし、伝記『近衛文麿』の編著者・矢部貞治も、声明の最初の文案は中山優が書き、近衛は影佐(禎昭)や犬養(健)の下見も許さず、「相談も下見も不要だと言い、内容も文章も近衛の考えで決めたのである」と書いてゐる。

汪政権工作の中心人物が尾崎であるとの説も根拠薄弱である。警視庁特高の訊問に対しても尾崎は右工作に直接関与したとは述べて居らず、松本重治、犬養健、西園寺公一等から情報を得てゾルゲに報告したとのみ述べてゐる。またその犬養、松本も夫々検事訊問調書、裁判所証人訊問調書の中で尾崎と汪工作との関係を否定してゐるのである。

④汪政権成立が日華対立を決定的ならしめるといふ観点も左程説得力はない。例へば汪政権樹立(昭一五・三・三〇)の後に行はれた重慶側との和平を探る銭永銘工作を考へてみればいい。不調には終ったものの、斯様な和平工作が重慶との間に行はれたといふこと自体、汪政権の存在にも拘らず重慶の蒋政権との和平の可能性が残されてゐたことを示してはゐないか。同様なことは昭和二十年の膠斌工作についても云へるだらう。


 成程、汪政権承認以後、重慶との和平が更に困難を加へたことは事実ではあるが、それはコミンテルンの謀略に嵌ったことになるのであらうか。

 筆者は汪工作はあくまでコミンテルンの戦術に対して東亜の反共和平を確立せんとの日華双方の真摯な意思の結実であり、ただ双方に誤算や思惑の不一致があったが故に所期の成果を挙げ得なかったに過ぎないと考へる。(P156)

 汪精衛が重慶脱出後に西南将領の懐柔に失敗したのは手痛い誤算であった。もしそれが成功してゐたら事態はどう展関してゐただらうか。或いは、これは全く歴史の「イフ」に属することだが、日本の支那派遣軍の一部精鋭部隊が汪の隷下部隊になってゐたらどうか。汪は傀儡といふ不名誉な指弾を受けずに済んだのではあるまいか。

 斯様に事志と違ふ様々な状況が汪政権の悲劇を生んだのである。(P156-P157)

 だが汪兆銘工作自体は決してコミンテルンの議決によって計画推進されたものではなく、日華有志の自発的な和平意思によって画策遂行された真剣な和平工作であった。

 汪工作に盡瘁した人々が全てコミンテルンの大きな掌の上で踊らされてゐたに過ぎないとする見方は、コミンテルンの買ひ被りか疑心暗鬼に類するものと筆者は考へる。斯様な誇大妄想は、筆者が本稿で時期を分けて論及したコミンテルンの謀略とは自づから一線を画すべきものと云はねばならない。(P157)

(『別冊正論』Extra08(2007.11発行)所収)

(2010.4.29)