日米開戦2 スティネット「真珠湾の真実」をめぐって(2)

―中西輝政−秦郁彦論争を中心に―



 「マッカラム文書」の「衝撃」
 ルーズベルト陰謀論の決定打か?


 もう一つ、スティネットが示した新資料が、日本を戦争に追い込むための八項目の行動計画、「マッカラム覚書」です。 (全文はこちらに掲載しました)

 スティネットは、これこそがルーズベルトが日本を「戦争」に追い込んだ証拠だ、と主張します。

ロバート・B・スティネット『真珠湾の真実  ルーズベルト欺瞞の日々』より


 マッカラム少佐が一九四〇(昭和十五)年十月に作成した五ページの覚書(以下「戦争挑発行動八項目覚書」と呼ぶ)には、仰天すべき計画、つまり、 当時ヨーロッパを侵略しつつあったドイツ軍に対抗していたイギリス軍に、気のすすまないアメリカを動員加担させる状況を作り出そうという計画が認められていた。

 その八項目の行動計画は実際上、ハワイのアメリカ陸、海、空軍部隊ならびに太平洋地域のイギリスとオランダの植民地前哨部隊を、日本に攻撃させるよう要求したものだった。(P23)



 当時のアメリカ政府や軍部の中で、日本の活動と意図について、マッカラム少佐ほどの知識を持っている人物は、ほとんど見当たらなかった。彼は日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合のよい時に、 日本から仕掛けてくるよう挑発すべきであると感じていた。

 一九四〇年十月作成のマッカラム覚書の中で、日本を対米戦に導くだろうと考えた八項目の行動を次のとおりあげている。

A 太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。
 B 蘭領東インド〔現在のインドネシア]内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。
 C 中国の蒋介石政権に可能な、あらゆる援助の提供。
 D 遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールヘ派遣すること。
 E 潜水戦隊二隊の東洋派遣。
 F 現在、太平洋のハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。
 G 日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張すること。
 H 国が日本に対して押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、日本との全面的な通商禁止。


 (中略)

 ルーズベルト大統領の関与を得て、マッカラムの八項目提案は翌日からさっそく組織的に実施に移された。(P24-25)



 一項目の挑発行為が取り上げられただけではなく、日本を挑発するためにマッカラムの提案のすべてが実施された。(P28)

 


 中西氏はこれを、「本書の圧巻」と評します。


中西輝政『ロバート・B・スティネット『真珠湾の真実』解説』

 本書の圧巻は、「日独伊三国同盟」の結成がなされた翌月の四〇年十月に、ルーズベルトの側近で同時に海軍情報部の極東課長でもあったアーサー・マッカラムが起草し ルーズベルト政権によって採用されたと見られる「対日開戦促進計画」の文書である

(略)

 付録資料として本書で初めて全文掲載されたその一連のマッカラム文書は、日本の政治・外交・戦略体制の根幹から日本人の国民性や心理にまで透徹した眼をもって対日挑発の手法が考え抜かれている。

 その核心は八項目にわたる段階的な「日本追いつめ」のプログラムー覧表である。 それはAからHまで、八つの措置を順次時間を追って実行に移すことにより、アメリカにとり丁度いい時点において、かつ、一番好ましい(日本の一方的な奇襲、という形をとって)状況を作り出して、 対日戦に向かう、とするもので、実際、一九四一年を通じアメリカの対日政策はほぼこのシナリオを追う形で進行していった。

 それはまた同時に英国やオランダと一体となって対日資源圧力や軍事的威圧を少しずつ加えてゆくことを唱えている。

 当時の日本で叫ばれた「ABCD包囲網」という見方をはっきりと裏づけるような内容である。当時の日本人が、たとえばこの「ABCD包囲網」が一体、何を目的にして日本を締め上げてくるのか理解できず、 そしてもし「暴発」したら軍事力や物量ではなく「情報力」の決定的格差によって無惨な敗戦しかあり得ないことを一切予見することなく、アメリカのシナリオ通りに坂道をころげ落ちていったことが明らかとなっている。(P530-P531)






 しかしそもそもの話、これだけのデータでは、これは「ルーズベルト政権の一課長が作成した私的文書」であるに過ぎない、ということにならざるをえません。

 例えばルーズベルトが密かにマッカラムに「研究」を命じていた、という資料でもあれば、それなりに「ルーズベルト陰謀論」の根拠になるかもしれませんが、そのような資料は全く存在しません。

 スティネットの主張の一番の問題は、「マッカラム覚書」をルーズベルトが見て承認した、という客観的な証拠が存在しないことです。

秦郁彦『スティネット『欺瞞の日』の欺瞞』  


 この間の事情はともかく、問題はこのメモが「ルーズベルト政権によって裁可された『対日開戦促進計画』の文書」(中西)と言えるほどの重要性を持つものかどうかだろう。

 (中略)

 マッカラムは八項目を列挙したあと、これらの行動を実施すれば日本は対米戦に突入するだろうと結論している。もちろん、米国は日本に対し絶対優位の立場にあるから、 戦えばたちまち日本を叩きつぶせるという過信があってのことである。

 米海軍部内は、マッカラム流の楽観論が大勢を占めていたわけではなく、艦隊の準備不足、対ドイツ第一主義を考慮した消極論、慎重論がむしろ主流だったと思われる

 タカ派だが少数派のマッカラムにとって、こうした空気を切りかえたいと考えたのがメモを書いた動機かと思われる。では、その目的は達せられたのかと言えば疑問が多い。


 メモは握りつぶされた可能性が高い

 一般論で言えば、海軍情報部の少佐が持つ発言権と影響力は高くない。少佐の上司は情報部長だが、その上に作戦部次長(少将)と作戦部長(CNO、スターク大将)がいる。 情報部長と同格だが、はるかに発言力の強い戦争計画部長(ターナー少将)もいた。

 エドウィン・レートンによれば、この時期の情報部はスタークの信任が厚いターナーにふみつけにされっぱなしで、一九四一年だけで情報部長は三人が交代したという。(P243-P244)

 ともあれ、八項目を実行に移すには、海軍通でもあるルーズベルト大統領の承認が不可欠だが、スタークが提案しようとしても閣僚であるノックス海軍長官を経由しないと大統領へは届かない仕組みになっているのである。

 例外的にマッカラムのメモが中間をスキップして大統領へ届いた可能性も考えられないわけではないが、それには立証する記録が必要となってくる。

 ところが、スティネットは「アンダーソン情報部長あるいは大統領が(メモを)実際に見たかどうかを示す記録は見つからなかった」と逃げながら、 つづいて「ホワイトハウスあて文書送達簿と海軍の関連する情報ファイルは彼らが見たという確実な証拠を提供している」(九ページ)と断言する。

 そこで、後者についている注7と注8(三一一ページ)をチェックしてみたが、「確実な証拠」らしいものはない。どうやら八項目の内容で実施に移されたものもあるから、大統領が見たはずという論理らしいと見受けた。
(P244)

(『検証・真珠湾の謎と真実』所収)      





 さらに、ルーズベルトが本当に「マッカラム覚書」の政策を行ったのか、という問題もあります。

 秦郁彦氏は、「実行されなかったのが三項目、メモが書かれた時点ですでに実行されていたのが二項目、実行されたがマッカラムのメモとは無関係が三項目」と評します。


秦郁彦『スティネット『欺瞞の日』の欺瞞』  


A 太平洋、とくにシンガポールなど太平洋における英軍基地を利用することについて英国と協定を結ぶ。
B 蘭印にある基地の使用と補給物資の調達についてオランダ政府と協定を結ぶ。
C 中国(蒋介石政権)に対し、可能なかぎりの援助を与える。
D 航続能力の高い重巡洋艦の一隊を極東、フィリピンあるいはシンガポールに派遣する。
E 潜水艦二隊を極東に派遣する。
F 現在、ハワイ水域にいる合衆国艦隊の主力をひきつづき駐留させる。

G 日本が蘭印から石油などの供給を要求している経済交渉で譲歩しないようオランダヘ要求する。
H 英国と共同して日本に対し全面禁輸を実施する。
(P242-P243)




 (略)八項目の「実行」状況を検対してみよう。

 結論から言えば、実行されなかったのが三項目、メモが書かれた時点ですでに実行されていたのが二項目、実行されたがマッカラムのメモとは無関係が三項目という内訳だが、各項目ごとに若干の説明を加えておく。(P244-P245)

A 実行していない。
B 実行していない。
C すでに一九三九年からルーズベルトが実行している。
D 実行していない。スティネットは一九四一年三月と夏に巡洋艦隊を日本の南洋群島付近に行動させたことを例示しているが、メモのいうフィリピン、シンガポールではない。
E 実行されたのは一年後、日本の南進が切迫したのが理由。
F 合衆国艦隊(太平洋艦隊)主力は演習時を除き、米西岸を常駐地としていたが、日本の膨張を抑止する目的から、大統領命令で一九四〇年五月から真珠湾へ常駐することになった。 メモの五ヵ月前のことだ。常駐に反対意見を送ったリチャードソン艦隊長官は四一年二月、更迭され、キンメルと交代した。
G 日蘭経済交渉は四〇年夏に始まったが、オランダの強硬姿勢で頓挫していた。最終的に決裂するのは翌年四月である。
H 翌年七月、日本の南部仏印進駐への報復としてアメリカは日本資産の凍結と石油の全面禁輸を実施した。マッカラムとは無関係であろう。
(P245)

(『検証・真珠湾の謎と真実』所収)      

※「八項目の実行状況」については、 桜花学園大教授ハリー・レイ氏の論稿『『真珠湾の真実』は真実にあらず』の中でも分析されています。 ハリー・レイ氏は、「八項目の提案の大部分はまったく実行されず、実行に移された場合も、覚書が書かれる六ヵ月前もしくは六ヵ月後であり、 なかにはルーズベルトがまったく正反対の行動をとったケースさえあった」と判定しています。




秦氏の結論です。

秦郁彦『スティネット『欺瞞の日』の欺瞞』  


 改めて見直すと、A〜Hはタカ派の海軍軍人ばかりか、国際政治専攻の大学生でも書きだせるレベルのもので、マッカラムでなければと思わせるオリジナリティは見当らない。

 それにスターク作戦部長は、対日海軍戦備の立ちおくれに頭を痛めていて、日本を決定的窮地に追いこむ全面禁輸にも反対したくらいだから、 官僚タイプのアンダーソン情報部長はマッカラムのメモを手元で握りつぶした公算が高い。

 スティネットが同じボックスをいくらかきまわしても、アンダーソンやスタークの書きこみが見つからなかったのはそのせいだろう。

 ましてや「ルーズベルトの指紋」など見つかるはずがない。それにマッカラム提案が上司に次々に採用されるか、論争したとしたら、他ならぬ本人が回顧録のなかで得々と語っているはずである。

 妹尾氏が私淑するウェデマイヤー将軍の場合も、彼が陸軍省の少佐として一九四一年秋に起草した人的動員計画のいわゆるウェデマイヤー報告書について回想録で詳しく触れているし、 米陸軍公式戦史にも大統領が承認し署名するまでの経過が詳しく記録されている。

 いずれも少佐という階級だが、マッカラム・メモの方は誰にも顧みられないままという対照的な運命をたどったと言えそうだ。(P246)

(『検証・真珠湾の謎と真実』所収)      


 マッカラム提案が上司に次々に採用されるか、論争したとしたら、他ならぬ本人が回顧録のなかで得々と語っているはず―もっともな話であり、 秦氏の主張を「結論」として差し支えないものと思われます。




 さてスティネット自身は、こんな「反論」にどのように反応しているのか。「ルーズベルト秘録」取材班のインタビューを見ましょう。

『ルーズベルト秘録(下)』より


 −だが、海軍省の日本専門家とはいえマッカラムは情報将校の一人にすぎない。彼の提案に大統領やアンダーソンが飛びついたことを示す証拠が存在するのか

 スティネット 確かにルーズベルトやアンダーソンとマッカラム提案を直接結びつける文書や証拠は見つかっていない。 だが、ルーズベルトがその後、提案通りの政策を採用したことからみて支持していたのは明らかだろう。(P249)



 −マッカラム提案についてさらに聞きたい。『真珠湾の真実』の中では、マッカラムの上官の一人でルーズベルトに影響を与えた重要人物というノックス大佐が提案を承認したという文書を挙げているが。

 スティネット そう、あれは重要だ。ノックスは非常に重要な役割を果たした。

 −だが、文書をよく読むと、「米国は英国を支援しなければならず、その弊害となるようなことは慎むべきだ」といった、むしろマッカラム提案を否定するような内容と読める。

 スティネット 確かにそう読み取れる。私は実はノックスをあまり重視していない。発言がころころと変わるタイプの男だからだ。 重要なのはルーズベルト自身がマッカラム提案採用を決断したことに尽きる。(P250-P251)



 −日本に対する経済制裁は、満州事変直後に米国が発動した一九三二年のスティムソン・ドクトリンがその始まりというのが一般的な見方だろう。同様に米国の中国支援についても、三七年の日華事変以降、 急速に強まり、南京陥落直前に米砲艦を日本機が爆撃した「パネー号事件」が決定づけた。それを示す公文書や当時の関係者の証言は多い。その意味で、 マッカラム提案はそれまでの政策の延長線上にあるわけで、ルーズベルトのその後の政策を決めたというのは過大評価ではないか

 ステイネット問題はルーズベルトがマッカラム案にある内容をすべて実行したということではないだろうか

 −マッカラム提案がなされる三日前の十月四日、英国のチャーチル首相がルーズベルト大統領に対し、シンガポール基地の米軍使用を提案している。マッカラムより先にチャーチルが行っている事実は、 マッカラム提案が特別なものではなかったことを示していないか。それほど重要な提案についてルーズベルトとその側近が全く言及していないのも不思議だ。

 スティネット 米国は英国の太平洋基地であるラバウルを基地として使用することに応じたのであってシンガポールを提供するというチャーチル案は実現しなかった。 重要なのはマッカラム案の内容だけが実行されたことだ。また、マッカラム案の重要性はその秘密性にある。一切言及されないことがその証だ。(P253-P254)



 スティネットは、「ルーズベルトやアンダーソンとマッカラム提案を直接結びつける文書や証拠は見つかっていない」ことを認めてしまいした。

 ではどうして、このマッカラムの覚書がルーズベルトの行動典拠になった、と主張できるのか。

 結局のところ、スティネットの「論拠」は、「ルーズベルトがマッカラム案を実行したのだからルーズベルトの支持は明らかだ」という一点のみであるようです。 スティネットは、何を聞かれてもこの言葉を繰り返すのみです。

 しかし実際に「ルーズベルトが実行した」と言えるかどうかは、既に見てきた通りです。説得力不足は明らかでしょう。



「ルーズベルト秘録」取材班の判定です。

『ルーズベルト秘録(下)』より


 《スティネット氏は、マッカラム提案をルーズベルト大統領が目にするか、知っていたことを示す直接証拠を見つけることができなかったと認めている。だが、提案の内容がその後、実行されたという結果を根拠に、 ルーズベルトがマッカラム提案を採用したと主張する。

 これまでの歴史家の一般的な見解によると、当時の米政権は英国支援の見地から、とりあえずは時間稼ぎをすべきだという対日融和派と、経済政策によって日本を締め付け、 場合によっては武力衝突も辞さないという強硬派の間で揺れていた。マッカラム提案はその対日強硬策の一つだった。(P254-P255)

 マッカラム提案の内容は、当時の米政権の対日専門家にとっては特別なものではなく、ある程度共通した認識だったといっていい。 経済制裁強化や英国、オランダとの軍事協力も含め、その後の政策が提案に沿って実現したかに見えるのは、その意味で不思議ではない》(P255)



 そもそもマッカラム提案が実行されたかどうかも疑わしいところなのですが、実際の話、マッカラム提案にさほどのオリジナルティはなく、対日専門家の「ある程度共通した認識」であったに過ぎない。

 そうであれば、「マッカラム提案」と「ルーズベルトの政策」の(部分的)一致をもって、これこそがルーズベルトが「マッカラム提案」を承認した証拠である、と主張することは困難になります

 中西氏の「思い入れ」は、完全に否定されてしまった形です。



 さて、この中西−秦論争は、8年後、2009年の田母神「論文」問題をきっかけに再燃しました。 2001年論争の、いわば「遺恨試合」と言ってもいいでしょう。

 今回の論争では、中西氏は、「無線封止」問題、あるいは「ヒトカップ」電文にはもう一言も触れていません。 これだけの「反撃」にあって、さすがにこの論点は諦めた、ということでしょうか。

 唯一、「マッカラム覚書」への「思い入れ」だけが残ります。

中西輝政『田母神論文の歴史的意義』


新史料「マッカラム覚書」

 ルーズベルトの対日政策を見るとき、特別に重要な部署であった海軍情報部の対日責任者、マッカラム少佐が一九四〇年十月に書いたこの覚書は、簡単に言えば、 「三国同盟を結んだ日本はアメリカが政策転換(欧州参戦)を行う上で非常に都合のよい位置に自らを投げ入れた。

 日本を追いつめていって日本から先に攻撃に出ざるを得ないような事態を作り出せば、 ルーズベルト大統領の最大の悩み(アメリカ世論が欧州参戦に反対という問題)が解決できるだろう。そのためには次のような政策がある。第一に・・・」というような主旨で八項目を挙げている。(P74-P75)

 その八項目のほとんどはその後の一年で、ほぽ実施されているが、一番典型的なのは「在米日本資産凍結」と、オランダやイギリスと一緒になって行った「対日石油禁輸」である。 明らかに、これを行うと「日本は必ず暴発する」という考えで書かれている。

 これは一つの史料にすぎないが、ルーズベルト自身が「私は今から日本を追いつめます」とか「日本を罠に嵌めます」とか書いたものがあるはずもなく、 そのことから考えるとこれはホワイトハウスに直結した人たち(マッカラムとルーズベルトは特に個人的に深い関係があった)が作った非常に有力な史料だと言える。(P75)

(『Will』2009年1月号)


 しかし既に見てきた通り、スティネット=中西氏の主張は、保守派論壇からさえも受け入れられないものでした。

 次の文章は、ほとんど中西氏の「悲鳴」に聞こえます。

中西輝政『田母神論文の歴史的意義』


 「マッカラム覚書」はルーズベルト自身の眼にとまり承認された可能性がかなり高いものだと言えるが、それすらも無視する人々は、 いったい何か出てきたら田母神論文の批判派が言う「通説」を改めるのであろうか。(P76)

(『Will』2009年1月号)


 「ルーズベルト自身の眼にとまり承認された可能性がかなり高い」という主張に根拠がないことは、既に見てきた通りです。

 どうしてこれで納得しないんだ、と言われても、「論争」の経緯を見てきた読者は戸惑うしかないでしょう。



 結局のところ、スティネット本については、次の半藤一利氏の評価が最も当を得たものかもしれません。

半藤一利他『太平洋戦争 日本海軍 戦場の教訓』より

半藤 あの本は阿呆らしくて阿呆らしくて、とても、コメントする気になれません。(P42)






 秦郁彦による中西批判


 最後は、余談です。

 既に紹介してきた通り、中西輝政、及び西木正明は、当時『文藝春秋』誌上で、スティネット本をめぐる対談を行いました。以下に見るように、最大級の言葉で本書を褒めそやす内容です。

中西輝政・西木正明『衝撃の書、ルーズベルトは知っていた!』

中西

 ルーズベルトの意図が日本からの開戦にある以上、日本を警戒させる動きをとらせてはならないからだ。それどころか、真珠湾奇襲を示す情報が入ってくると、先回りして否定することさえやってのけた。

 その一例を示そう。一九四一年一月、ジョセフ・グルー駐日大使は一通の機密電報を打った。 日本がアメリカに開戦する場合、真珠湾を奇襲する計画があると聞いた、というものだった。山本五十六が真珠湾攻撃を決めた直後のことである。(P157)

(『文藝春秋』2001年7月号)


中西輝政・西木正明『衝撃の書、ルーズベルトは知っていた!』

 ハワイの無線傍受基地で無線傍受通信(解析)主任だったホーマー・キスナーの証言も興味深い。

 彼の日報によると、十一月十八日、東京の海軍軍令部からの電信のなかに「ヒトカップ(単冠湾)という一語が発見されている。これは暗号化されていない平文で打電されていた。 翌十九日には、日本の第一航空艦隊の旗艦「赤城」が単冠湾の通信帯域に位置することが判明し、二十日には、潜水艦が横須賀から大湊を通り、単冠湾の通信帯域に移動している、という報告を傍受している。

 これは、日本の海軍暗号が一部解読されていたことをも示している。(P156)

(『文藝春秋』2001年7月号)


中西輝政・西木正明『衝撃の書、ルーズベルトは知っていた!』

西木 マッカラムは当時、少佐ですね。そんな下っ端の書いたものを大統領が読んだという証拠がない、という人もいます。たしかに、この文書には、ルーズベルトが読んだというサインはありません。しかし、どう考えても陰謀の当事者が動かぬ証拠にサインなどするはずないでしょう

 スティネットは冗談で、「この文書を鑑識に回せば、ルーズベルトの指紋が検出されるだろう」と言っていました。それほど、この新発見に自信を持っているわけです。

中西 そうした批判は、暗号や軍事技術を専門にしてきた研究家の一郎や、表向きの公式文書だけで外交史や軍事史を研究してきた歴史家に典型的なものです。 彼らは、極端にいうと、「私は太平洋艦隊を囮にして日本を罠にかける作戦を採用するが、そのことは絶対秘密にしておけ」というルーズベルトの直筆のサインが出てくるまでは信じないのでしょうね。

 そもそも高度の諜報文書には政治家はサインをしない、というのはヨーロッパ外交史でも古くから常識のことです。まして二十世紀のアメリカではむしろ当たり前のことでしょう。

(『文藝春秋』2001年7月号)


中西輝政・西木正明『衝撃の書、ルーズベルトは知っていた!』

中西 「赤城」の長谷川喜一艦長も、無線封止は守られていなかった、と日記に書き残していると研究者の間ではひそかにいわれています

 私は旧日本海軍の人間像やカルチャーについては高く評価しています。開明的、合理的で、士気も高く、山本五十六のような国際的視野を持った人物も沢山生んだ。 近代日本の跨るべき組織のひとつだったと思いますが、こと通信の保全に関してはきわめてルーズなんですね。(P162)

(『文藝春秋』2001年7月号)


中西輝政・西木正明『衝撃の書、ルーズベルトは知っていた!』


中西 百歩譲ってもし暗号が完全に解読されていなかったとしても、無電によって機動部隊の動きが知られ、日本側の諜報活動も筒抜け、さらにハル・ノートのあと、 ワシントンの日本大使館に入る最後通牒を示す電報内容などもわかっていた。全ては真珠湾奇襲の切迫を指し示しています。

 おまけに真珠湾から六十年経っても、米英の真珠湾関連文書は極秘に付せられているものが沢山ある。ここまで考えればタブーに縛られている人以外には結論は明らかでしょう。

 先にも触れましたが、一から十まで記された物的証拠がでてこなければ、何があっても信じない、というのは、もっとも歴史研究から遠い、堕落した態度です。(P162-P163)

(『文藝春秋』2001年7月号)


中西輝政・西木正明『衝撃の書、ルーズベルトは知っていた!』

中西 アメリカの暗号や諜報関連の研究者の多くは、現在でも、情報当局との公的、私的な関係が非常に強い。情報機関との密接な関係の上で、資料などを見せてもらい、論文を執筆するのです。 だから非常に質の高い仕事が出来るともいえる。そのいい例が、『暗号戦争』などの著作で名高いデイヴィッド・カーン氏です。

西木 彼はスティネットの本の熱心な批判者でもありますね。日本海軍の暗号が破られ始めたのは真珠湾の翌年、一九四二年の晩春からだ、と主張しています。

中西 彼は米国の情報当局のスポークスマンの役割を果たしている歴史家です。 このあたりの機微は、学者というと中立だと思っている日本人には想像もつかないでしょうが、彼らはアメリカの国益に反する歴史史料や情報が出てきたら徹底的に否定して潰す側に回ります。 そして、それは今日でもアメリカという世界大国の国益にとっては必要な仕事なのです。

 その意味では、スティネットの仕事はこれまでになく質が高いだけに、カーンのような暗号研究の専門家からヒステリックな反論が出ることは予想した通りでした。(P163-P164)

(『文藝春秋』2001年7月号)


中西輝政・西木正明『衝撃の書、ルーズベルトは知っていた!』

西木 私の経験になりますが、かつて『巣の朝』という小説で、日本軍のスパイだった人物がピレネー山中で現地のパルチザンに殺された事件を書いた時のことです。 すると、戦争中イタリア特派員だったという人から反論があった。当時のイタリアのことで自分が知らないことはない、そんな事件は知らないから、この小説は事実無根だ、と言うんですね。 私はそのパルチザン当人にも直接会っているのに。

 そのとき、 思いがけない新事実を見つけ、定説なるものを覆すことが出来るのは、何でも知っている、という専門家ではなく、実はわれわれのような無謀なアマチュアではないか、と考えたことがあります。

中西 たしかに歴史学の歩みを振り返ってみれば、シュリーマン以来大きな発見をした人は、みんなアマチュアですね。この分野ではとくに、ポストを持っている職業的な研究家はけっして中立ではありません。 スティネットのような新発見があると、 長年、専門家として投資してきたものをすべて失ってしまう危険がありますから、職業的なキャリアのある研究者ほど、善悪当否を考えずに専ら自己利益から反論にとりかかる人が必ず出てくる(笑)。(P164)

(『文藝春秋』2001年7月号)


中西輝政・西木正明『衝撃の書、ルーズベルトは知っていた!』

西木 冒頭でもふれましたが、真珠湾から六十年も経っているにもかかわらず、関連史料の非常に多くの部分が、いまも非公開のままです。 この未公開史料の存在自体、ルーズベルトの陰謀をうかがわせる最大の状況証拠であるともいえるのではないか。うしろめたいところがないのであれば、資料を公開できるわけですから。

中西 真珠湾関係の史料が公開されないのは、まだアメリカにとって真珠湾が「現在」の一郎であって、「歴史」になりきっていないからだと思います。

 ひとつには現在のアメリカの諜報システムの利害に直結してくるからでしょう。アメリカでは、政府が秘密を握り過ぎているという批判が、冷戦後、強くなってきました 。ルーズベルトが太平洋艦隊を見殺しにした事実への関係者の反発と、現在の国家情報システムヘの反発が重なり合う危険性があるわけです。(P166-P167)

(『文藝春秋』2001年7月号)



 掲載されたのが権威ある総合誌『文藝春秋』であるということもあり、この問題に詳しくない方でしたら、そんなものかなあ、とつい読み流してしまいそうです。

 実はこの対談に対して、秦氏は、『検証・真珠湾の謎と真実』のあとがきで、痛烈な批判を加えています。以下、紹介します。


秦郁彦『「検証・真珠湾の謎と真実」あとがき』より

 折しも「ルーズベルトは知っていたはず」と唱える修正主義者たちの最新版であるスティネットの著作が、『真珠湾の真実』(文藝春秋)のタイトルで六月末に刊行された。

 その前宣伝の意味もあってか、月刊『文藝春秋』の七月号は「真珠湾の決着より、歴史が変わる」と銘打った特集を組んだ。(P279-P280)

 そのうちの一本は「衝撃の書、ルーズベルトは知っていた!」と題した中西輝政、西木正明の両氏による対談である。 拝見すると、両氏のスティネットヘの打ちこみようは並々ならぬものがあり、宗数的信仰にも近いと感じた

 偶然にも、本書の基調とは正反対も同然のトーンであるが、ここでは立ちいった議論はしない。すべて本書で四人の論者が展開した所説が答えていると思うからである。

 しかしながら、夏以降もヒートした論争はつづくと予想されるので、中西/西木両氏が述べているいくつかの発言(○で示す)を拾って、補足的な私のコメント(▽で示す)を提示しておきたい。 (「ゆう」注 ここでは、中西・西木側の発言を青地の枠に入れ、秦のコメントを地の文としました)本文と重複する部分もある点はお許し願いたい。


 一九四一年一月、グルー駐日大使が日本に真珠湾奇襲計画があると聞いたという主旨の電報を国務省へ打った。「山本五十六が真珠湾攻撃を決めた直後のこと」だ。



 四一年一月二十七日発のグルー電の出所は、駐日ペルー公使が「ばかばかしい噂だが」との前置きでグルーの部下館員に語ったものである。 山本は真珠湾攻撃の着想を一月七日付の嶋田海相あて私信のなかで記しているが、夏頃までは部下参謀が研究を進めていた程度にすぎない。偶然の一致と考えてよい

  大本営(軍令部)は終始反対し、山本に説得されて認可し作戦計画にふくめたのは十月十九日であった。「山本が決定」という表現は正確でない。(P280-P281)


 昨年の十月、アメリカの下院決議でキンメル、ショートの名誉が五十九年ぶりに回復された。



 本書の第一章で須藤眞志氏が詳しく紹介しているように、名誉回復とは二人の階級を死後昇進させろというもので、米議会は決議をしたが、クリントン大統領は署名せず、名誉回復は実現しなかった。


 日本海軍は「ヒトカップ湾」を暗号化されていない平文で打電したので、機動部隊の動きを察知された。



 第三章で左近允尚敏氏が論証しているように、平文ではなく暗号化して打電している。しかもこの電報を米暗号チームが解読したのは、戦後の一九四六年四月である


 在ハワイ日本総領事館に派遣されたスパイ吉川猛夫(予備海軍少尉)の行動は、米海軍情報部によって最初から監視下にあった。 軍艦の停泊位置などを東京へ報告していたのも米側に筒抜けで、アメリカの手の内にあった。上司の喜多総領事は元外務省情報部長。



 吉川は真珠湾を見下す丘の上の日本料理屋から港の状況を眺めていたのが主で、 マークされていたとはいえ外交官身分の領事館員を逮捕しうるような行動はしていなかったとスティネットの原書(八七〜八九ページ)に書いてある。 在泊艦船の詳しい状況を喜多総領事の名で東京へ打電したのは奇襲の直前で、解読されたのは奇襲後のこと。なお喜多は情報部長のポストにはついていない。(P281-P282)


 (マッカラム文書に大統領が目を通したかどうかについて)高度の諜報文書には政治家はサインをしないというのは欧米の常識


 大統領の承認と閲読(見ただけ)は別もの、後者にルーズベルトがサインした文書の例は多い。 近刊の『ルーズベルト秘録』(産経新聞ニュースサービス)には、米陸軍航空隊の対日爆撃プランに大統領がサインした写真がある(承認ではない)。 マッカラム文書は「諜報文書」ではないが、見たサインも承認したサインもない。詳しくは秦の第四章を参照のこと。


 「赤城」の長谷川喜一艦長も(ハワイヘの航海中に)、無電封止は守られていなかった、と日記に書き残していると研究者の間ではひそかにいわれている。


 「ひそかに」とは思わせぶりな表現だが、長谷川大佐(のち戦死)の日記は防衛研究所図書館が所蔵している。私が見た限りではそんな記述はない

 十一月三十日の項に「一七〇〇作戦緊急通信にて通信部隊発信、ハワイ北方八○○カイリに敵潜水艦一隻、他の一隻と通信しつつあり、わが連合(通信隊)、 方位測定中との情報あり」との記事があるのを誤判断したのではないか。

 これは東京の連合通信隊が打電したものを一方的に受電したものである。 無電封止が完全に守られていたことについては、秦の第四章を参照されたい。(P282)


 「一から十まで記された物的証拠がでてこなければ、何かあっても信じない、というのは、もっとも歴史研究から遠い、堕落した態度です。昨年起きた旧石器捏造事件を思い出してください」



 プロの歴史家であるはずの中西氏の言とは信じがたい。歴史小説ならこの程度の認識でもすむだろうが、歴史学を証拠なしの思いこみだけで議論しあっても不毛だろう。 ルーズベルト陰謀論者は、一つだけでも決定的証拠を見つければ十分なのに、「状況証拠」ばかりしか出てこないのでいらだっているのか。


 スティネット批判者のデービッド・カーン氏は米国情報当局のスポークスマンで中立とはいえない。



 私はカーンの『暗号戦争』の訳者であり、長年の友人のカーンを、証拠もなしにいかにも嘘つきであるかのようにきめつけているのは不快


 「歴史学の歩みを振り返ってみれば、シュリーマン以来大きな発見をした人は、みんなアマチュアです……職業的な研究家はけっして中立ではありません」



 この書き方は、歴史研究者全体に対する侮辱的発言ではないか。それでは国立大学で歴史学を教えている中西教授の位置づけはどうなるのだろうか。 「逆は真ならず」の定理を応用するまでもなく、無能な歴史家がいるからといってアマチュアがすべて有能ということにはならない。それにシュリーマンはアマチュアの考古学者ではあるまいか(P283)。


 六十年も経過したのに、真珠湾関連史料の非常に多くの部分が、いまも非公開のまま。



 私の米ナショナル・アーカイブスと海軍戦史部通いは一九六三年から始まって四十年近く、スタッフにも親しい人が多い。秘資料が次々に解除されていったプロセスもほぼ承知している。 スティネットが初めて見たと称するファイルにも目を通している。アメリカの公開はきわめて公平で、スティネット(元海軍水兵)だけに史料を見せすぎたということはありえない。

 私も一〇〇パーセント公開されているとは断言しないが、それに近いという感触を得ている。 スティネットたちは、自説をぴったり裏づけてくれる資料が見つからないのを、いまも非公開のせいと思いこんでいるのではないだろうか。(P284)



 「相手の発言を細かく引用し、それぞれにレスをつける」という、まるでネット掲示板の議論を見ているようなスタイルですが(笑)、誰が見ても、秦氏が中西氏・西木氏を完璧にやりこめた形でしょう。


(2012.7.8)
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