『思考錯誤』投稿集 2008年−2009年


 「思考錯誤」は、私にとって想い出深い掲示板です。

 この掲示板、レベルの高さではネットでも群を抜いていました。ネットでも著名な多くの論客が集まり、質の高い議論を繰り広げる。私の投稿に驚くようなハイレベルのレスがつくこともしばしばで、私も掲示板の議論の中で、実にスリリングな知的体験をさせていただきました。

 しかしこの掲示板のオーナーである「とほほ」さんが、2009年10月、急逝されました。とほほさんはご自分のレンタルサーバーで当掲示板を運営されていましたので、残念なことにこの板は、早晩ネットの世界から消え去る運命にあります。

 貴重な投稿も数多く、本来であれば掲示板過去ログ全体を保存しておきたいところですが、とても私の手に負えません。とりあえず私の過去投稿から、本サイトと重複しない内容のものを選んで、こちらにまとめてみました。
*過去投稿ですので、適宜、誤字修正、冗長あるいは無関係な記述のカット等の編集を行っています。また必要なものについては、「解説」を加えています。なお、掲示板の性格上、ある程度の知識を持った方を対象にしておりますので、人によっては読みにくいものもあるかもしれません。ご了承ください。

 

<目次>

[6485]南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた? - 09/5/25(月) 21:27 -

[6035]野中広務氏の証言から − 08/12/23(火) 6:11 -

[6020]東中野先生、久しぶり! −08/12/10(水) 19:04 -

[5993]面白かったので紹介しておきます - 08/11/6(木) 21:07 -

[5981]Re(1):空幕長解任 - 08/11/3(月) 6:14 -

[5869]佐藤和男氏の議論 - 08/10/19(日) 9:08 -

[5864]グース氏の議論 - 08/10/19(日) 7:34 -

[ 5573]Re(1):ご意見を下さい- 08/7/20(日) 7:17 -

[5566]「便衣兵」と「国際法」 - 08/7/5(土) 11:09 -

[5436]「南京」関連書籍三題 - 08/4/19(土) 7:28 -

[5254]南京事件 初歩の初歩 - 08/1/13(日) 4:02 -

[5262]Re(1):南京事件 初歩の初歩- 08/1/16(水) 19:44 -

[5207]ここがヘンだよ、両角手記 - 08/1/5(土) 17:48 -





[6485]南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?

- 09/5/25(月) 21:27 -

*「ゆう」解説 この時期ネットでは、標題の通り「南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?」なるブログ文が流行しました。「本当に「南京大虐殺」が行われていたならば、中国軍がそれを黙って見ていたわけがない」と言いたいようです。

以下、その「珍論」への批判文です。なおこの「珍論」は、あっというまに流行を終え、半年たった2009年11月現在では、全くみかけなくなりました。

ここ数日、拙サイトへのアクセスが急増しておりました。何かと思ったら、どうやら「南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?」と称する、これだったようですね。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0522&f=national_0522_003.shtml

ああ、この人、「南京事件」についても「日中戦争」についても、あまりよく知らないんだなあ。

普通ならばこれで終ってしまう話なのですが、なぜかレベルの低いウヨさんたちが大量に湧いてきて、「うん、だから南京大虐殺なんか大嘘なんだ」と話が変な方向に行ってしまっているようです。

例えば、日本軍撤退後の沖縄で、「米軍による大虐殺」が行われたとします。この時に、「大虐殺の際、日本軍は何処で何をしていた?」なんて疑問を持つ方は、いないでしょう。

「反攻」を仕掛けるだけの力があったら、あんなにみじめな敗け方はしないよ。それで、お終いです。

上海戦で頑強に抵抗した中国軍は、日本軍の杭州湾上陸を機に、一気に瓦解しました。大きな損害を出しながら首都南京に向けて潰走し、その南京も陥落して、ついにはさらに奥地に逃げる羽目になりました。

南京で「大虐殺」が行われているようだ。我が軍は大損害を受けたけれど、気を取り直して、みんなで助けに行こう。・・・こんなことが可能だと考える方が、どうかしています。

さらに「南京事件」まっ盛りの当時は、南京は日本軍占領下にありましたので、中国側に「南京」についての情報が曖昧な形でしか伝わってこなかった、という事情もあったでしょう。

情報源となったのは、ダーディンなどの外人記者の記事や、辛うじて南京を脱出してきた中国人の情報です。中国側として、独自の調査など、できるはずもありません。「事件」に対する認識が十分でなかったとしても、無理なからぬところがあります。

さらに言えば、中国側は、「日本軍の暴行の噂」には食傷ぎみでした。拙コンテンツ、「南京以前」をご覧ください。
http://yu77799.g1.xrea.com/shuppankeisatu.html

どこまで正確な情報であったかはわかりませんが、これだけ「情報」が溢れていると、「南京」のインパクトも、少なくとも初期の頃には、そう大きなものではなかったのかもしれません。

いずれにしても、例え中国側が「南京」についての「情報」を正確に掴んでいたとしても、「さあ、悪い日本軍を懲らしめて、南京の軍民を助けよう」なんておよそ現実味のない愚かな作戦プランを立てるアホ「将軍」がいるとも思えませんが(^^)


[6035]野中広務氏の証言から


− 08/12/23(火) 6:11 -


野中広務氏は、1年ほど前、『世界』のインタビューに答え、次のように語りました。インタビューアは、クマさんこと熊谷伸一郎さんです。


野中広務インタビュー『政治家と歴史認識 日中戦争・南京事件七〇年に思う』

南京で立ちすくんだ後援会員


 私は南京には、最初は一九七一年、次が一九八一年、次が一九九六年と三回行きました。

 最初に南京を訪れた時のことです。当時、京都府会議員をしていた私は、二〇〇人ほどの後援会員とともに上海・蘇州・南京への旅行を行ないました。まだ中国との国交回復前のことで、まだまだ、かつての戦争の傷跡が残っておりました。鬱蒼とした樹木の中を自転車だけが走っているという光景でした。

 同行した後援会員のなかには、戦争に従軍した体験を持つ方が何人かいらっしゃいました。ちょうど南京市に入り、南京城壁のところにさしかかったとき、そのうちの一人が突然うずくまって、体をガタガタと震わせはじめたのです。しまいには、土の上に倒れて体を震わせて動かないのです。

私はびっくりして、看護婦に強心剤を打たせました。数十分が経過してから、ようやく落ち着きました。

 「どうしたんだ」と聞きました。すると彼は、「私は戦争の時、京都の福知山二〇連隊の一員として南京攻略に参加し、まさにここにいたのです。いま南京に来て、当時を思い起こし、地の底に足を引きずり込まれるような状態になり、体が震えてきたのです」と話し、当時体験を話してくれました。(P240)


女や子どもまで焼き殺した

 その一つは、彼が南京に攻め込んだとき、倒れていた中国側兵士の命を助けた話でしたが、もう一つは痛ましい話でした。

「南京の城内に入った時、土嚢が積まれた家がありました。扉を開けて中を見ると、女性と子どもがいるばかりだったので、私は上官に『ここは女、子どもばかりです』と言って扉を閉めようとしたのですが、上官が『何を言っているのだ、その中に便衣兵がいるのだ、例外なしに殺せ、容赦するな』と言って命令を下し、私たちはみんな目をつぶって、火をつけてこの人たちを殺してしまった。戦争のなかで一番嫌な体験です。 戦争から帰ってきてもずっと心に消えないまま残っていて、私の夢に現れてきます。今日この地に来て、私はまた三〇年程前の話を思い出して、本当に恐ろしくなったのです」と話したのです。

 この体験を話してくれた方は数年前に亡くなりました。(P241)

(『世界』2008年1月号)


さてその1年後、12月13日の講演で、野中氏はこの「事件」について、もう少し詳しく語りました。


後援会員が「殺した」と告白;南京占領71周年で野中氏

 旧日本軍の中国・南京占領から71年になる13日、市民団体が「南京事件71周年集会」を東京都内で開き、野中広務元自民党幹事長が講演で、1971年に後援会の人たちと南京を訪れた際、日本軍兵士だったという1人が「女子供を百数十人も殺した」と告白したエピソードを紹介した。

 「子どもと教科書全国ネット21」など主催で、約300人が参加した。

 野中氏の講演によると、後援会員は南京を占領した部隊の一員。野中氏らと訪れた城壁の近くで突然倒れ「体がガタガタ震え、地の底に引き込まれる気持ちになった。やってはならない(ことをした)中にいた当時を思い起こし、居たたまれなくなった」と説明。

この後援会員は「占領した市内の点検を命じられ大きな土塀の家を調べたところ、中は女子供ばかりだった。上官に報告すると、『その中に便衣隊(民間人を装った軍の部隊)がいるんだ。皆やっちまえ』と言われ、目をつぶって、恐らく百数十人を全部殺してしまった」と話したという。

 野中氏は「規模は分からないが、異常で非人間的な事態があったことを、その人を通じ知ることができた」とし「国の将来を思う時、歴史に忠実でなければならない」と訴えた。

 (2008/12/13 17:56 【共同通信】)


実は野中氏はこの講演で、この「後援会員」の実名、部隊名も明らかにしています(「二十連隊」までは『世界』インタビューにもありますが)。

各種資料からその方の実在を確認できましたが、現在のところそこまでを報じたメディアはありませんので、以下では実名を窺わせるデータは一切出しません。部隊名についてもとりあえずは書かず、以下の引用文も引用元を省略します。

以上の配慮をいたしますが、ご存知の方には部隊の特定は容易だと思いますので、管理者の方が、これはちょっとどうか、という判断をされるのであれば、この文は削除しても構いません。


さて、これはいつの出来事であったのか。同じ部隊の方が、部隊の行動をこう語っています。

十三日午後八時迄城壁内で一日暮す。他の中隊は掃蕩を命ぜられ我々は午後十時宿営する。

 明けて十四日街の掃蕩、十五日には・・・南京城外の守備にて下士哨となる。二十四日城内に帰り、軍司令部衛兵や大隊本部の衛兵となり勤務、勤務の中に正月を迎え、殺風景な所で元旦をする。

(略)

こうして一月二十四日、思い出多き南京城をあとに、揚子江南京港より大連に向かって・・・(以下略)


ただし同じ部隊の他の方の記録は若干異なります。
13日朝、・・・その場で城内の掃蕩を命じられました。


以上のデータを総合すると、13日、もしくは14日に城内掃蕩を行ったようです。

その後部隊は、12月24日から1月24日まで城内に駐留していたようです。この時期にも部隊が「掃蕩」を行った記録は存在しますが、目の前の民間人をすぐに殺さなければならないほど切迫した情勢だとも思われません。

「事件」は、13日もしくは14日の出来事であった可能性が高い、と思われます。


問題は、野中氏が伝えるこの方の証言がどこまで正確か、ということです。

南京において、何か異常な体験をした、ということは事実でしょう(南京以外での出来事が記憶の中で「南京」に摩り替わってしまった、という可能性はありますが)。その「異常な体験」というのが、「非戦闘員の殺害」であることも間違いないでしょう。

しかしこの後援会員さんは、三十年も前のことを回想して語っているわけです。野中氏はそれからさらに四十年も経ってからこの話をしたわけです。「骨」はともかく「肉」の部分は随分と変わってしまっている可能性がある、と思います。

例えば、野中氏も「規模はわからないが」と述べる通り、本当に「百数十名」の規模だったのか。また、本当に「女子供ばかり」だったのか。「女子供」も混じっている、という状況ではなかったのか。殺害方法はどうだったのか。このような細部については、保留しておく方が無難でしょう。

『南京戦史』では、第二十連隊の掃蕩は、「ほとんど銃火を交えることなく」、あるいは「戦果はほとんどなかった」ことになっています。「弾丸一発も使わずに城内の掃蕩を終わったのであります」と語っている方もいます。第三大隊の森英生中隊長など、「私共の部隊に限って絶対その様な覚え(「南京大虐殺」の実行)はない」と語っています。

ただしこれを額面通り受け止めることができるかどうかは、微妙なところです。我々は、石川達三が、「第二十連隊」が属する「第十六師団」に取材して「生きてゐる兵隊」を書いたことを知っています。

また、第二十連隊の兵士には、こんな日記も残されています。

林(旧姓・吉田)正明日記

明けて十四日、街の掃討する。敗残兵を殺す。又避難所へと逃げて行くニーイコを捕える。又道路上には支那兵服を脱ぎ、避民所へ逃げ入っているのが明らかである。でも避民所以外の所を掃討した。これを捕へて殺す。最高法院前にて逃げ行く敗残兵を捕へる事何十名、敵弾は西方より来る中を。
(『南京戦史資料集』P519)

どうも、『南京戦史』が記す「戦果はほとんどなかった」とは、イメージが違ってきます。

もし本当に「百数十名」の規模であったのであれば、どこかにデータが残っているかもしれない。そう考えて中国側資料を当ってみたのですが、類似の事件は発見できませんでした。


私の想像ですが、これは「夏淑琴さん事件」に類似した出来事だったのかもしれません。

日本軍の「掃蕩」過程では、かなり乱暴なことが行われていた、と見られます。鈴木二郎記者なども、いきなり部屋に侵入してきた日本兵に、問答無用で殺されかけた体験を語っています(拙コンテンツ「資料:日中戦争における民間人殺害」)。

「規模」などの正確な細部はともかく、「掃蕩」過程で起きた悲劇のひとつ、と捉えることも、あるいは可能かもしれません。


なお、『福知山第二十連隊第三大隊史』などを読むと、その3か月後、北支に転戦した同部隊は、掃蕩の課程で、「民間人殺害」を行っていたようです。

拙サイト「郷土部隊戦史に見る南京事件」に収録済みですが、N・K氏(原文実名)の記述を紹介します。

「福知山歩兵第二十聯隊第三中隊史」より

三月十六日作戦終了、新郷地区警備に任する。細井第二小隊のみ潞王墳警備に着く。潞王墳は二百米平方土塀に包まれた寒村小さい田舎駅があった。着任早々鉄道開通式があり満洲鉄道の酒保品の販売車が来た。附近村落より村長や村役等、四、五名が日本軍歓迎の俄造り手製の日の丸小旗を振りながら鶏玉子など持参して、心にもない護身用の歓迎の意志表示に来た。

 三月○○日二時頃、歩哨の敵襲々々の声、パンパン、ドカンドカン手りゅう弾のさく烈音に夢破られ飛び起きた。(P306)

(以下、戦闘の詳細な様子が2ページにわたって記述されていますが、省略します)

 その時、新郷方面よりトラックの来る音が闇夜に聞えて来た。中隊の応援隊の到着であることが判断出来た。トラックは駅舎二百米地点に停車して、重機関銃をトラックより降している。

 静まり返った潞王墳の状況を偵察している様子が判断出来たので、自分はあまりの静寂は全滅と判断の不気味さであったのだろうと、走り寄り大声を張りあげ「敵は退却しました」「敵はどの方向に退却したか」「ハイこの道路を通って」指さして「あの前の村の方向であります」「よし判った」 重機が据え終るや照準を合して静まり返った中をドドドドドド重い射撃音が潞王墳一帯に響いていた。

 翌朝附近一帯の村落を掃射した。二十才以上三十五才位の男子を連行した。山麓において処刑の際「我們不是富兵老百姓」(ウオメンプスタンピンラオパイシン) 「私達は兵隊ではない百姓だ」と「言っております」 「分隊長本当の兵隊なら今頃この村なんかには居りませんよ、とっくに逃げております。そう思いませんか」「殺せの命令だから仕様がない」 初年兵の言葉など通る雰囲気ではなかった。

 我が小隊に多くの犠牲者が出たので、この善良な百姓達は敵視され犠牲になったのに、この若い百姓にも年老いた両親や妻子があっただろうに、戦争は正常なる精神の者を狂人にしてしまう。翌日の日暮に射殺された遺体をその家族が戸板を持って引取りに来た。年老いた父や母、妻に子供も悲しさを越えた恨に焼えた目で我々を睨んでいた。自分は思わず手を合して目をそらした。とても正視出来る情景ではなかった。(P309)


東史郎氏(この方は実名を出してもいいでしょう)も、同じ掃蕩作戦での「民間人殺害」の様子を詳細に語っています。

このような事例を見ると、「第二十連隊が南京掃蕩作戦の中で民間人を殺害した」ことは、十分にありうる出来事である、と考えられます。


*「ゆう」解説 上にも書いた通り、実は野中氏は、講演の中で証言者の実名を述べています。ちょっと驚くような人物で、当人の他の発言と比較すると上記証言はかなり大きな意味を持つのですが、野中氏が活字ベースでその「実名」を公表していない以上、ここで触れるわけにはいきません。 そのため上記投稿は、何とも歯切れの悪いものになっています。なお上記投稿については、マイミク限定のmixi日記の中で、証言者の「実名」を公表の上、詳細に検討を加えています。


 
[6020]東中野先生、久しぶり!

- 08/12/10(水) 19:04 -

*「ゆう」解説 東中野修道氏は、南京事件の被害者である夏淑琴さんに対して、「ニセ証人」なる中傷を行ないました。それに対して夏淑琴さん側は東中野氏を名誉毀損で訴え、地裁、高裁と勝訴しました。下にも書いた通り、裁判の過程では、東中野氏の論稿の「いい加減さ」が徹底的に暴露される結果となりました。

この投稿時にふと気がついたのですが、それまで「否定派」のスターとして大活躍していた東中野氏、なぜかほとんど表舞台に見かけなくなっていたのです。そしてその1年間でほとんど唯一の論稿が、夏淑琴さんへの中傷を重ねるものでした。

以下の投稿は、その東中野氏の論稿に対する批判文です。

なお皮肉なことに、この論稿は夏さんへの名誉毀損を重ねる結果となり、原告側によって、「損害賠償額を上積みする材料」として裁判所に証拠提出されたようです。


そういえば、ここしばらく「東中野修道」先生の名前を見かけないなあ・・・。

ふと思いついて国会図書館のNDL-OPACシステムで検索したみたところ、2006年以降の氏の雑誌論文は、こんな感じでした。


1.南京大虐殺「生き証人」の疑惑 / 東中野 修道
Will. (46) [2008.10]

2.渡部昇一×東中野修道 「大虐殺」捏造を生んだもの (「南京大虐殺」の真実) / 渡部 昇一 ; 東中野 修道
Will. (-) (増刊) [2007.12]

3.映画『南京』から見えるもの (「南京大虐殺」の真実) / 東中野 修道 ; 冨澤 繁信 ; 水島 総
Will. (-) (増刊) [2007.12]

4.「南京大虐殺」という虚構宣伝の全容と教科書のウソ / 東中野 修道
正論. (通号 412) [2006.7]

5.人物交差点 「南京大虐殺」は戦争プロパガンダだった--東中野修道 / 東中野 修道
明日への選択. (通号 245) [2006.6]

6.南京事件 党秘密文書を発掘!「南京大虐殺」は国民党宣伝部のプロパガンダだった (SIMULATION REPORT 「日米離間」から「資源・歴史問題」までこの権謀術数に嵌まるなかれ 中国「恫喝外交」に呑まれるな) / 東中野 修道
Sapio. 18(12) (通号 391) [2006.5.24]



昨年の「南京事件70周年」でWillに登場して以降は、雑誌論文の発表は、たった1回だけ。それも、あの「Will」です。

それにしても、タイトルが「南京大虐殺「生き証人」の疑惑」とは。明らかに夏淑琴さん裁判を意識しています。裁判の過程でここまでコテンパンにされた氏が、一体どんな「弁明」を試みているのか。面白そうなので、早速取り寄せて読んでみました。

(余談ですが、私の住む地域の図書館には、なぜか「Will」が於ていない。仕方なく、国会図書館のネットサービスで注文しました)

読んでの感想は、まあ、相変わらず「東中野氏」しているなあ(笑)、というもの。大局を見ず、データの細かい部分をひねくりまわして、ほらここに「矛盾」がある、とやる、例の手法です。

なお、第一審判決で「学問研究の成果というには値しない」とまで酷評された、例の「bayonet」の誤訳は完全スルー。どうやらこの論点で争うことは諦めたようです。



まず氏は、「マギー師の記録の矛盾」として、「マギーフィルム」に「一家全員」が虐殺された、との字幕が入っていることを追及します。

フィルムを撮ったのも、虐殺の聞き書きをとったのもマギー師であったとするかぎり、「字幕説明AとB」に「二人の少女が生き残った」という説明は不可欠であったはずだ。

すなわちマギー師が付したかマギー師の記録に基づいて付けられた「字幕説明A」「字幕説明B」はマギー師が書いた「フィルム解説文」と一致せず、矛盾しているのである。


・・・あのお、先生。まさにその当事者であるマギー自身が、あっちこっちで「二人が生き残った」ことを語っているわけですよね。

だったら普通は、何らかの理由で字幕に誤った説明がつけられたんだろうな、と考えるところでしょうが。相変わらず東中野氏、ひねくれています。


今さらですが、参考までに、当時の記録である、「日本軍の暴行記録」です。

第二一九件 ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。〔マギー〕


ここからしばらく、氏は頭の痛くなるような「マギーフィルムの文章解釈」を重ねた挙句、おかしな「矛盾と疑問」を作り出します。何と、撮影者はマギーではなかったかもしれない、というのです。

その根拠は、「マギーフィルムの解説文」に「写真撮影者を案内したのは」とある。本当に自分が撮影したのであれば、「写真撮影者の私」と書くはずだ、ということだそうで。ちょっと読んだら何の冗談だ、と思うところですが、東中野氏は大真面目。おいおい(^^;


さすがに自分でもちょっとどうかと思ったのか、「とりあえずマギー師が実際に撮影し聞き書きしたと想定した上で論を進めていきたい」と路線修正。しばらく重箱の隅のようなどうでもいい議論を続けたあとで、いよいよ「夏氏の証言の矛盾」に話を進めます。


まず1点目は、夏さんの「年齢」です。「1929年生れ」だったり「1930年生れ」だったり、「年齢」が揺れ動く。

こに列挙した八冊のなかの証言、そのなかの英文と中文の証言をそれぞれ一回と計算すると、夏氏は全十回の証言のうち九回も一九三〇年生まれの「数え年八歳=満七歳」と証言していた。

そうである以上、「数え年九歳=満八歳」と記載されたパスポートは夏氏には手交されないであろう。

ちなみに二〇〇〇年の「民事訴状」では「一九二九年生まれ」と言っていることも付言しておく。



だから何だい、と言いたくなる「疑問」です。原告側準備書面において、とっくにこの点は説明されています。


原告夏淑琴は,新暦で1929年5月5日に生まれた。

 もっとも当時の中国では,旧暦でしかも数え年が当然であったから,生誕した時点で1歳となり,その後は旧正月を迎える度に1歳ずつ年を重ねていくというのが年齢の計算方法であった。そのため実際に生まれた日というのは重視されておらず,原告は自己の正確な生誕日を知らない。

 1929年5月5日という日付は,戦後になって新暦が採用された後に,親族の記憶を頼りに「生まれたのはこの時期だったのではないか」との推測に基づいて,便宜的に定めたものである(これは,中国のこの世代の老人にはよくあることである)。特に原告は,家族が全て殺されてしまっているため,なおさら正確な日付がわからず,1930年生まれだった可能性もある。


この「書面」を見ながら、同じ主張にしがみついているとは。こらこら先生、何も知らない読者を、騙してはいけません。


続いて「夏氏の証言の矛盾2.」。夏さんの叔母、王芝如さんの証言を取り上げます。

二十何日かして家に帰って見たら、家には死体が七つ転がっていたのです。父と母と夫の姉の主人とが殺害されていて、一番上の姪(二十歳)と二番 目の姪(十八歳)と夫の姉とが活きながら踏みつけ死されていて、七歳の姪が幾太刀か刺されて意識を無くしていて、三才の姪が恐さに気が変になっていて、一番小さい姪が日本軍に突っつき殺されていたのです。その時の惨状は言葉ではとても形容できません。


東中野氏の論評。

これによれば、叔母夫婦は最初に親戚の死体を発見して一つ一つ確認し、生き残っていた「七歳の姪・・・三歳の姪」をも発見したあと、死体を片付けた人であった。どうであろうか、何度読んでも、第一発見者は「叔母」の王如芝氏夫妻であったとしか思えない。

しかしマギーによれば、「第一発見者」は近所の老女性であった。従って、これは矛盾である。


しかし「マギーフィルム」の方では「近所の老女性」とありますし、王さんが語ったのは「帰って見たら死体があった」まで。

この二つのデータを組み合わせれば、「帰って見たら」との前には、例えば「誰かから知らせを受けて」のようなことが省略されているのだろうな、と見れば自然な発想です。

おそらく王さんにとってはあまりに当然のことで、いちいち説明する必要を感じなかったのでしょう。また中国人のインタビューアーも、そんな細かいところに拘泥しなかったのでしょう。

しかしひねくれ者の東中野氏は、むりやりここに「矛盾」を発見してしまいます。同じ文を「何度」も「読」まないで、他の資料もちょっと読んでみればいい話なんですが。この点、2年以上も前に、私が書いていますね。


落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より

 十日ぐらいしてから紅卍字会の人々が死体探しに来たんですが、そのとき私と妹を見てまだ生きていることに気づいたんです。それで助けられて孤児院に入れられました。もちろん私は歩けなかったので背負ってもらいました。
 その後何日かして母方のおじが私たちふたりを探し出してくれて引きとってくれたんです。
(同書 P116)


星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より

 あの惨事から一〇日ほどたっただろうか、数人の老人が敷地内に入ってきて、生きている人がいるかどうか調べたり、何か探し物をしているようだった(夏さんは、彼らは何か食べ物を探しにきたのではないか、と推測する)。夏さんと妹は人の気配に気づいて「避難所」に隠れたが、その老人たちが中国語で話していたので、大丈夫だと思いそこから飛び出した。 すると、近くにいた老婆が「あっ! まだ生きている人がいる!」と驚いて言い、近くに住む「老人堂」(老人ホーム)に二人を連れていってくれた。

 年が明けて三八年になり、難民区から中国人が少しずつ外に出るようになってから、そこに避難していた叔父(もともと同居していた母の弟)が、心配になって夏さん一家のようすを見にきた。

 それで叔父は、夏さん一家の惨劇の現場を目撃したのである。しかし、そこには夏さんとその下の妹の姿がないので、近所の人に尋ねて、二人が「老人堂」で保護されていることを知った。それで、叔父が「老人堂」に迎えにきたのである。

(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P153〜P154)


はい、夏さんが発見されたのは事件発生から「十日ぐらい」してから。叔母さんがやってきたのは「その後何日かして」、あるいは事件から「二十何日か」あと。

それだけの話です。ここには、何の矛盾もありません。


しかし東中野氏は、「開き直り」ともとれる弁明を続けます。夏さんが王さんの証言に続けて「王芝如はわたしの叔母で、今言ったのはみんな事実です」と語っているのをいいことに、こんなことを書いています。


ところが原告弁護団は私に対して、「原告の叔母である王芝如を勝手に『第一発見者』だとしたうえで、マギーのフィルムの写真に写っていたのも王芝如だと勝手に決めつけているに過ぎない」と非難している。しかし私は勝手にそうしたのではなく、右のように、夏氏の証言に従ったまでであった。


夏さんは「叔母さんに発見されました」なんて一言も言っていないのですが・・・。東中野先生、「しかし私は勝手にそうしたのではなく、勘違いをしただけであった」と書けば正直なところでしょう。全くの素人の私ですら、ちょっと資料を眺めただけですぐに気がついた程度のことなのですから。


つづいて東中野氏は、夏さんの証言の「変転」ぶりを取り上げます。夏さんの証言では、『南京への道』では第一発見者は「近所のおばあさん」だった。それが『南京大虐殺と原爆』では「死体を収容に来た人たち」に変わっている。

これは本人がよく覚えていない部分で、あとで周りの大人から教えてもらったんだろうな、と私など素直に思ってしまうのですが、東中野氏はこんなトリビアに大騒ぎしてみせます。


夏氏は「第一発見者=近所の老女性」だと「一貫」して述べてきたと言うのであれば、右の本に述べた証言を否定し、「一九八五年ごろ最初に証言したことは間違っていました。事実ではありませんでした」と訂正する必要がある。そしてなぜ間違って証言したのか、読者に納得のいく説明をする義務がある。



先生、あなた、自分の著作でいくつ「間違い」をやらかしましたか? そして、その「間違い」をぜーんぶ、「なぜ間違ったのか、読者に納得のいく説明」なんかしていますか? ・・・と思わず突っ込みたくなりますが、それはさておきましょう。


そしてまた次のように推測されても致し方ないであろう。・・・つまり夏氏の証言はマギー師の記録に合わせるように変化してきたと思われてくるのであり、そうである以上、八歳の少女であると言う夏氏の証言は永久かつ完全にその信憑性を疑われることになろう。



つまり東中野氏は、夏さんの証言による「第一発見者」が「叔母さん」から、いつのまにかマギーフィルムと一致する「近所のおばあさん」になってしまったことを問題にしているわけです。

あんたが勘違いしただけだろ、というだけの話です。しかし東中野氏は、自分の勘違いをベースに「夏氏の証言は永久かつ完全にその信憑性を疑われることになろう」まで、話をオーバーにしてしまっているわけですね。そりゃ、無茶というものだろ。


東中野氏は、続いてこんなことを書きます。


最後に一言しておきたい。夏氏はあれほど詳しく今も昔も目撃証言を話しているにもかかわらず、一度も「当時、外国人に会って事件のことを語った」と証言していない。
(略)
夏氏はいつ誰から、自分がマギー師に会って事件のことを語ったと知らされたのだろうか。知らされた時点からでも遅くはなかった。証言する時は、常にマギー師のことに触れていて当然であった。

しかし今に至るまで夏氏がマギー師のことや「私はあの八歳の少女である」と公言したことは一度もないのである。


「常にマギー師のことに触れていて当然であった」というのは、いかにも東中野節。別に「当然」じゃないだろ、何十年前の子供時代の出来事のデティールなんかいちいち覚えていなくても不思議じゃないし、「マギー師」のことを知ってからもいちいち「常に」触れなければならない、なんてこともない。

・・・と、普通ならば思うところです。


それはともかく、東中野氏は笠原氏の本を読まなかったのでしょうか。2年ほど前に出た本ですので、「今に至るまで」というのは明確に東中野氏の事実誤認です。


叔父が私の家の惨事を外国人に報告したので、外国人が私の家を見に来て、その外国人は私の写真を撮っていきました。(机の上にあった分厚い写真集を見せて)これらの写真はその時にその外国人が撮ったものです。その外国人 ( のちにマギー牧師であることを知った)は、私を連れて行こうと考えましたが、叔父が同意しなかったのです。

 私たちの家族で生き残ったのは、私と妹だけで、そのとき妹はすでに孤児院に連れていかれていました。叔父が同意しなかったのは、叔父には三人の子供がおり、私に家事、育児を手伝わせようと考えていたからでした。

 私はその時の外国人(マギー牧師 ) に感謝しています。彼は、私の当時の状況を撮影し、さらにその写真を送ってくれました。私は当時まだ小さかったので、何も分からなかったのですが、これらの写真記録によって、私の証言の事実を裏付けてくれるからです。もし、それらの外国人が私たちを撮影してくれていなかったら、私たちは当時の状況を詳しく知ることができなかったでしょう。

(笠原十九司氏『体験者27人が語る南京事件』より)


*今さらですが、拙サイトを紹介しておきます。

夏淑琴さんは「ニセ証人」か?−東中野修道氏『SAPIO』論稿をめぐって−
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/kashukukinsapio.html

続・夏淑琴さんは「ニセ証人」か?−東中野修道氏『「南京虐殺」の徹底検証』を検証する−
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/tetteikenshou.html

「南京虐殺を語る 夏淑琴さん事件の証言集」
http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/kashukukinshougen.html

私のサイトとK−Kさんのサイトを合わせれば、夏さんの証言のさまざまなヴァージョンは、ほぼカバーできます。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/





[5993]面白かったので紹介しておきます

- 08/11/6(木) 21:07 -

「JANJAN」の記事です。

田母神論文問題 日本は侵略国家ではなかったのか
http://www.news.janjan.jp/government/0811/0811030762/1.php

>私は「引きずりこまれた」とか「罠にはまった」とかいって被害者面をするのは、当時の軍部や政府の指導者が、「頭は弱いけれども血が上りやすく、単細胞で主体性のないおバカさんである」と言っているのと同じだと思う。

>戦時中の政府発行の週刊誌をみていると「引きずりこまれた」どころか、積極果敢に「ニューヨークやロンドンまでも占領だ」と国民を叱咤激励しているではないか。

>いわゆる「大東亜戦争」はコミンテルンの手のひらで日・米・蒋介石が踊っていたと言いたいようだが、それはむしろ帝国日本を貶め、コミンテルンを誉めそやしているように見える。そんなお釈迦様のような万能な力をコミンテルンがもっていたなら世界革命が寸時に起きていたはずだ。



[5981]Re(1):空幕長解任

- 08/11/3(月) 6:14 -

*「ゆう」解説 当時、自衛隊の航空幕僚長を務めていた田母神俊雄氏が、「日本は侵略国家であったのか」なるとんでもない「論文もどき」を発表しました。歴史学者からはあまりの低レベルぶりに呆れ果てるコメントが相次ぎましたが、ネットの世界では、ネトウヨさんたちが大挙として田母神氏への熱心な支持を表明するに至りました。

この投稿は、私が田母神論文に初めて触れた時の「第一印象」です。途中の「ソ連駐留」の例えが(ちょっと荒っぽいものですが)、自分では気にいっています。


余談ですが、この論文もどきのおかげで、拙コンテンツ「盧溝橋事件 中国共産党陰謀説」、あるいは「張作霖爆殺事件」というマイナーな拙コンテンツに、思いがけずも多くのアクセスをいただくことになりました(笑)


しかしこの「論文」もどき、冒頭からしてぶっ飛んでいますね。

>アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。

えっと、アメリカって、日本の同盟国だよね? そりゃ、同盟国が条約に基づいて駐留していたら「侵略」ではないだろうけど、当時の中国にとって、日本は「敵対国」だったはず。敵対国が押し付け条約をベースに軍隊を駐留させるのと、全然訳が違うだろうが。

・・・と、誰しも突っ込みたくなるところです。


比べるならば、例えば旧ソ連の軍隊が東京のすぐ近くに「駐留」している、という事態を考えるべきでしょう。

ソ連は、東北−北海道地区に、「人民政府」なるものを樹立した(=満州国)。さらにソ連は「関東分離工作」(=華北分離工作)なるものを推し進め、茨城−千葉地区に傀儡政府を打ち立ててしまった(=冀東防共自治政府)。

そんな状況で、「条約」に基づいて、立川あたりに「1,700名」のソ連兵が駐留している。普通の日本人にとっては、反ソ感情に火をつける、不愉快な存在でしかありません。

そして、ある日突然、日本の抗議を押し切って、ソ連はそれを「5,600名」に増員した。さて、日本側はこれを、どう受け止めるでしょうか。



>1901 年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。

って、氏は、満洲にあった強大な「関東軍」の存在を、すっかり忘れています。

「北京の日本軍」は、日本側の内部事情はともかく、中国側から見れば、いわばその「尖兵」です。それがいきなり3倍に増やされたら、日本軍は一体何を考えているのだろう、と不安になるのが当然でしょう。

   
[5869]佐藤和男氏の議論

- 08/10/19(日) 9:08 -

*「ゆう」解説 佐藤和男氏は、国際法を専門とする学者です。タカ派の論客としても知られています。

その佐藤氏、「南京事件」の「安全区掃蕩」を正当化する「南京事件と国際法」なる論稿を発表しています。氏の国際法分野における業績については私は詳しくありませんが、少なくともこの論稿の結論部に関する限り、私のような素人の目にも「ひどい手抜き」に映ります。

以下、簡単ではありますが、佐藤氏への批判文です。

佐藤和男氏の論文は、こういう感じですよね。(全文は、私の「非公開・裏資料集」に掲載してあります。アドレスが必要な方、メールをいただければお教えします)

私は一読して、佐藤氏は「南京」の実情には詳しくないな、という印象を持ちました。


その一は、「安全区」に遁入・潜伏して、便衣(民間人の平服)に変装した支那兵の摘出・処断である(その具体的な人数等に関しては、『南京戦史』 三四二〜三四三頁の第五表に詳しい)。

(中略)

 南京城内外での激戦の結果、安全区内に遁入・潜伏する支那敗残兵の数は少なくなかった。

 一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する敵兵は、投降したとは認められないので、攻撃できるのである。

安全区に逃げ込んだ支那兵は、投降して捕虜になることもできたのに、それをしなかったのであり、残敵掃討が諸国の軍隊にとってむしろ普通の行動であることを考えると、敗残兵と確認される限り、便衣の潜伏支那兵への攻撃は合法と考えられるが、安全区の存在とその特性を考慮に入れるならば、出入を禁止されている区域である安全区に逃げ込むことは、 軍律審判の対象たるに値する戦争犯罪行為(対敵有害行為)を構成すると認められ、安全区内での摘発は現行犯の逮捕に等しく、彼らに正当な捕虜の資格がないことは既に歴然としている。

 兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得ない。多人数が軍律審判の実施を不可能とし(軍事的必要)― 軍事史研究家の原剛氏は、多数の便衣兵の集団を審判することは「現実として能力的に不可能であった」と認めている―、また市街地における一般住民の 眼前での処刑も避ける必要があり、他所での執行が求められる。

したがって、問題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる。


>安全区に逃げ込んだ支那兵は、投降して捕虜になることもできたのに

まず、この大前提からしておかしい。私が「南京事件 初歩の初歩」で書いた通り、

>さらに、投降しなかった中国兵は戦闘の意思があると見られても仕方がない、との論もありますが、これもまた当時の南京の事情を理解しない暴論です。

実際問題として、降伏した中国兵たちは、結局のところ最終的にはかなり高い確率で殺されてしまっています。投降兵を平気で殺してしまう側が、「投降しない」ことを非難するのもおかしな話でしょう。

http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/shoho.html

ということになるでしょう。


さらに、

>兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得ない。

というのもかなり無茶。「厳正に」なんか行われていません。実際には、多数の「民間人誤認」が存在していましたよね。


>多人数が軍律審判の実施を不可能とし(軍事的必要)

「不可能」だったら、いきなりまとめて殺す、なんて乱暴なことをせずに、そのまま捕虜しておけばよかった話。そうすれば、のちにあそこまで国際的非難を受けることもなかったでしょう。


おそらく佐藤氏の論のキーワードは、「軍事的必要」です。まさにこの「軍事的必要」を証明することが、佐藤説にとって肝要となるはずなのですが、次の段落に唖然とさせられます。

 その二は、戦闘中に集団で捕えられた敵兵の処断である。同じように戦闘中に捕えられながらも釈放された支那兵が多数いたことを見れば(前出『南京戦史』第五表を参照)、日本軍の側に捕えた敵兵を組織的に絶滅させる計画的な意図が無かったことは明白である。具体的な 熾烈な戦闘状況を調べてみると(本稿では詳述する余地がない)、日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。

『オッペンハイム 国際法論』第二巻が、多数の敵兵を捕えたために自軍の安全が危殆に瀕する場合には、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよいと断言した一九二一年は、第一次世界大戦の後、一九二九年捕虜条約の前であって、その当時の戦時国際法の状況は、一九三七年の日支間に適用されるペき戦時 国際法の状況から決して甚だしく遠いものではないことを想起すべきであろう。

何とまあ、「本稿では詳述する余地がない」で終わってしまいました。これでは何の「証明」にもなりません。

 


[5864]グース氏の議論

 - 08/10/19(日) 7:34 -

故ja2047さんが、グース氏の議論を、「ストライクゾーンぎりぎり」と評したことがあります。

確かに、ウソは言っていない。しかしどうも、資料の読み方がひねくれていて、「真ん中」を狙わずに「可能な限り否定側に有利な読み方」をしようとする。

ただし、ほんのちょっと書き方を変えただけで「ボール」の世界になってしまいますので、第三者が彼の議論をなぞろうとするのはかなり困難です。おそらくこれが、ja2047さんの「ストライクゾーンぎりぎり」の意味であっただろうと思います。


その意味で、「理屈のこね方」で何でも言えてしまう「国際法」の世界は、彼の得意分野であろうと思います。しかしそれが説得力があるかというと・・・私は「国際法」には必ずしも詳しくないのですが、どうも「素直な議論」とは言いがたいように感じています。



[5573]Re(1):ご意見を下さい

 - 08/7/20(日) 7:17 -

*「ゆう」解説 この投稿は、途中にもあるように、

>いわゆる南京攻略直後と、それから暫く後の時期に南京市内に滞在し、大虐殺があったとされる時期に実際に市内の様子を見ているのです。その証言の内容は、市内を歩き回っても死体など一つも見かけなかったというものです。但し、塹壕の中の戦死した数百人の中国兵の死体は見ているそうです。

という投稿に対する返答です。

そのうち「なかったという証言」なるコンテンツ立上げを構想しているのですが、あっちこっちに目移りして、なかなか取り組むことができません(^^;

まずよく誤解されるのですが、「南京事件」というのは、例えば数万人なり数十万人なりを一箇所に集めて、まとめて機関銃なり銃剣なりで殺した、という事件ではありません。

「なかった」と証言する方は、そのような誤ったイメージを持ち、そのイメージに対して、おかしい、そんなはずはない、と思っているのかもしれません。


例えば前田雄二証言など、その典型例。「南京大虐殺はなかった」というタイトルなのですが、おいおい、あなたの見たものを世間では「南京大虐殺」と言うんだよ、と突っ込みたくなる事例のオンパレードです。
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/maeda.html


実際の「南京事件」の概要は、こんな感じでした。拙コンテンツ、「南京事件 初歩の初歩」です。
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/shoho.html

ご覧の通り、「南京に行けば必ず「虐殺場面」を見ることができる、というものではありません。例えば「幕府山事件」「安全区掃蕩」「捕虜集団殺害」を、お父様が目撃するチャンスがあったのでしょうか?

南京攻略「直後」というのがいつだかわかりませんが、陥落当日と翌日あたりであればともかく、数日後には、民間人が目の前で「集団殺害」を目撃することはほとんどなかったでしょう。

この時期以降の殺害は、「下関」なり「漢口門外」なり、南京城外、それもかなりピンポイントで行なわれています。これらの虐殺についての軍人以外の目撃談を、私は知りません。


運がよければ(というとちょっと語弊がありますが)、目の前で捕虜なり民間人なりが虐殺される現場を見ることができたかもしれません。

例えば佐々木元勝郵便局長など、1件の捕虜(敗残兵)殺害、1件の民間人殺害を目撃しています。逆に言えば、軍人ではない普通の民間人にとって、この程度しか「直接目撃」のチャンスはなかった、ということであると考えられます。
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/yasenyuubinki.html


ただし佐々木元勝は、「虐殺現場の直接目撃」以外に、「馬群の捕虜殺害」「下関の捕虜殺害」の情報を得、また、「下関の集団死体」、その他各所で死体を目撃しています。この時期に南京に入った方でしたら、「直接目撃」はできないまでも、この程度の情報は入手できたのでしょう。

多くの証言は、佐々木証言のような常識的な範囲にとどまるものです。しかし中には、「全く何も聞かなかった。死体も全然(ほどんど)見なかった」と証言する方もいます。

これらの方が本当のことを語っているのか、それとも記憶が薄れているのか、あるいは「誇張」した証言をしているのか、私にはわかりません。

最初であれば、現地でろくなコミュニケーションの機会を持たなかったということでしょうし、最後であれば、「南京虐殺」を否定してみせたい気持ちが強すぎた、ということであると思います。


さて、お父様の話に戻りましょう。

>いわゆる南京攻略直後と、それから暫く後の時期に南京市内に滞在し、大虐殺があったとされる時期に実際に市内の様子を見ているのです。その証言の内容は、市内を歩き回っても死体など一つも見かけなかったというものです。但し、塹壕の中の戦死した数百人の中国兵の死体は見ているそうです。

「死体など一つも見かけなかった」というのは、誇張であろうと思います(ひょっとしたら、「ほとんど」見かけなかったとおっしゃっていませんでしたか?)。

「直後」でしたら、各城門の死体はまだ十分に片付けを終わっていなかったでしょうし、少なくとも「ゆう江門」なり、あるいは多くの目撃談がある「下関周辺」まで赴けば、大量の死体を目撃することはできたはずです。

少なくとも、各種埋葬団体がそれから何ヶ月もかけて何万という死体を埋葬しているわけで、この時期に「死体が全然なかった」なんてことはありえません。

城内の狭い範囲を動き回っているだけでしたら、「ほとんど」死体を目撃しなかった、ということもありえないことではないと思いますが・・・。


参考までに、こんな事例があります。

軍法務官を務めた小川関治郎という方がいます。
http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/ogawasekijirou.html

この方、東京裁判では、死体などほとんど見なかった、と証言しました。

>自分は十二月十四日正午頃、南京に入り、午後、第十軍の警備地区(南京の南部)の一部を巡視した。其の時、中国兵の戦屍体を六、七人見た丈で、他に屍体は見なかつた。

ところが「陣中日記」12月14日の項には、大量の死体目撃談が残されているのです。

>門に入れば両側には支那兵の死体累々たるを見る

別に「大量の戦死体を見た」と証言しておけばいいだけの話だったのですが、「否定」したい、という気持ちが強すぎたようです。





[5566]「便衣兵」と「国際法」


- 08/7/5(土) 11:09 - 

今さらの資料ではありますが、みすず書房「続現代史資料6 軍事警察」と小川関治郎「ある軍法務官の日記」を読んでみました。

読みにくいカタカナ混り文ですのでこれまで何となく敬遠していたのですが(^^;、書き写しながら精読してみると、これ、結構面白い。私が書き写してみた部分は、下記の通りです。
http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/ogawasekijirou.html
http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/gunjikeisatu.html


(私が不案内な)「国際法」論議では常識なのかもしれませんが、北支において、「軍律違反」は現地に於て処断することなく「軍律会議」に送付すること、という通牒が出ていますね。

「現地部隊が勝手に判断して殺してはならない」という根拠はこれか、と再認識しました。ネットでは見たことがありませんので、参考までに。

方参二密第二八号

軍律実施上注意の件通牒

昭和十二年十月六日 北支那方面軍参謀長 岡部直三郎

今般方面軍司令官に於て軍律軍罰令竝軍律会議審判制規則を制定施行することに定められしに付之が実施上左記の諸件を貴隷(指揮)下各部隊に徹底せしめ置かれ度く依命通牒す

左記

一、軍律及軍罰令制定せられしを以て爾今支那国人(敵対行為をなす者及捕虜を除く)に対する事件は一切現地に於て処断することなく軍律会議に送付し該会議に於て審判処理せしむる事とす

二、支那国人以外の外国人に対する対□(ママ)事件に干しては外交問題となりたる場合我方の立場を有利ならしめる事肝要なるに鑑み出来得る限り確実なる物的証拠を蒐集確保し置くこと 緊急にして必要に応じ相手国に其の実証を提示し得る様準備し置くを要す(「軍事警察」P213-P214)


また、これも今さらではありますが、「便衣隊」を「戦律罪」と認識している資料もありました。中支那方面軍の軍律制定時、「参謀部第二課」が、「便衣隊」については「厳罰に処す」べきである、という「意見」を提出しています。

中方軍令第一号

中支那方面軍軍律左記の通定む
昭和十二年十二月一日
中支那方面軍司令官 松井石根

中支那方面軍軍律

第一条 本軍律は帝国軍作戦地域内に在る帝国臣民以外の人民に之を適用す<但し中華民国軍隊又は之に準ず軍部隊に属する者に対しては陸戦の法規及慣例に干する条約の規定を準用す>

第二条 左に掲ぐる行為を為したる者は軍罰に処す
 一 帝国軍に対する叛逆行為
 二 間諜行為
 三 前二号の外帝国軍の安寧を害し又は其の軍事行動を妨害する行為

第三条 前条の行為の教唆若くは幇助又は予備、陰謀、若は未遂も亦之を罰す 但し情状に因り罰を減軽又は免除することを得

第四条 前二項の行為を為し未だ発覚せざる前自首したる者は其の罰を減軽又は免除す(P194)


軍律制定に関する意見

参謀部第一課

意見なし


参謀部第二課

左に該当する者は厳罰に処す

一、日本軍の位置、兵種、兵力、行動等を他に漏らしたるもの

二、流言蜚語を放ち治安を妨害せるもの

三、日本軍の布告文「ポスター」等の貼付を拒否妨害、毀損したるもの

四、便衣隊、密偵、兵器等を隠匿せるもの

五、混乱の機に乗じ掠奪暴行を敢てし罪を日本軍に帰せしめたるもの

六、治安維持を拒否し又は之に当れる支那人の行動を妨害せるもの

七、兵器を所持するもの(「軍事警察」P194-P195)



そして、小川日記の方に「便衣隊に対する裁判事例」が3件掲載されていることは、K−Kさんが指摘している通り。
http://wiki.livedoor.jp/kknanking/d/%ca%d8%b0%e1%c【URL短縮表記:C-BOARD】


ついでに、「小川日記」「軍事警察」を離れますが、海軍大臣官房 『戦時国際法規綱要』にも立「戦時国際法」と同様、戦時重罪には「審問」が必要、との記述があります。

海軍大臣官房 『戦時国際法規綱要』
(ハ)処罰

(1)戦時重罪は、死刑又は夫れ以下の刑を以て処断するを例とす。

之が審問は、各国の定むる機関に於て為すものなるも、全然審問を行ふことなくして処罰することは、慣例上禁ぜらるる所なり。

(2)上官の命に従ひて、戦時重罪を犯したる者を処罰し得べきや否やの問題あり、多数の意見は命を承けて為したる行為は之を処罰することを得と為す。(P53)


外務省に強い影響力を持っていた(内海愛子氏による)という立作太郎と、海軍大臣官房が、全く同じ認識を持っていたわけです。


「本当に国際的に「裁判」が慣習になっていたのか」という、ややこしい議論にはとりあえず立ち入りませんが、最小限、「日本は「便衣隊」を含む「戦時重罪」については、その処罰のためには裁判が必要である、という国際法解釈を行なっていた」ということは言えると思います。


あと、細かく読むと、「民間人26名殺害事件」とか、「婦女暴行殺害事件」とかの「いかにも」という感じの事件、あるいは、上砂勝七(「憲兵三十一年」の筆者)が「近頃強姦事件不起訴に付せらるるもの多く 憲兵が折角検挙せしものに斯く致さるることとなると努力の甲斐なし」とボヤいていたり、随所に興味を引かれる記述が出てきます。

*上砂勝七「憲兵三十一年」についてはこちら。
http://yu77799.g1.xrea.com/nicchuusensou/kenpei.html


そのうち何かのテーマに絡めて、私のサイトで扱うのも面白いかもしれません。




[5436]「南京」関連書籍三題


- 08/4/19(土) 7:28 -

 最近入手した「南京」関連の書籍を、3点ほど紹介します。

○「南京大虐殺 記憶の暗殺」 内山薫著

副題は、「東史郎はなぜ裁判に負けたか」。2007年12月の発行です。

おそらく「南京」関連の書籍出版をフォローしている方も、この本についてはほとんどご存知ないものと思います。出版社は北京の「世界知識出版社」。中国の出版社が日本語書籍を出す、という珍しい例です。

私は「東史郎裁判」についてはほとんど知識を持たないのですが、裁判の経緯、争点がわかり、大変興味深く読みました。仕掛け人は板倉由明氏。東氏への攻撃、しいては「南京大虐殺」史実派に傷をつけようという、意図的な裁判だったようですね。

この本は、Amazonでも取り扱っていないようです。私は中国書籍専門店から入手しましたが、そんなルートしかないかもしれません。


○「知られて居ない南京戦史」 斉藤忠次郎著

著者は、中島師団下の輜重十六連隊所属。何となく聞き覚えのある名前で、ひょっとすると「証言による『南京戦史』」を見ると、名前が出てくるかもしれません。

さて、本書の「はじめに」は、こんな感じです。


南京城郊外江東門にある侵華日軍大屠殺遇難記念館の壁に表示された三十万の数字は第二次世界大戦で広島で二十万即死の原子爆弾被害に対置する為に中国人が申出ままに検証もせずに受付けたものである。

それに尾鰭をつけたものが、洞富雄の「決定版南京大虐殺」である。洞は著述に当っては日本軍の編成表も南京城の地図も参考にせず、二十年間の垢を上載して書いた、虚構の著述で日本軍を侮辱している。(P3)


そして本の各所で、洞氏の記述を攻撃しています。


しかし内容は、これから連想されるような「タテマエ戦記」ではありません。「南京戦史」には結構真面目な証言者も登場しますが、この斉藤氏もその一人と言えるでしょう。

目につく記述を、紹介していきます。
(ゆう注 無錫にて)街道脇には、煉瓦で囲った棺桶があった。行く先々、煉瓦をはずし棺のふたをとって点検したようだった。中国兵の死体があれば、ズボンを下ろして点検してあった。女の死体の局所には棒をさし込んでいた。(P33)


徴発も、うまい奴と、下手な奴と差があるらしい。戦場には、普通の法は存在しない。有るのは、軍律だけ。一度作戦に出て、携帯口糧を使い果たし、補給を受けられなかったら、後は現地調達となる。上級指揮官も、厳しい軍律を適用できない。兵隊は、目につく物を自分の物のように取り扱う。(P36)


(ゆう注 下麒麟門にて)分隊長は、「今から宿営地の周囲の敗残兵を掃蕩する。敗残兵の隠れそうな、我方に必要のない小屋等は、焼くように」と各兵に一個宛マッチが渡された。

私の分隊は○○(ゆう注 原文実名)上等兵が長で出発した。十字路を太平門の方向にしばらく行くと、部落の背後を少し離れたところの東方の下を見れば、畑の番小屋が二つ並んで有った。近づいて、きびがらのような外囲いに火をつけた。火は簡単について、燃え上がった。中から無帽でカキ色のラシア服を着た敗残兵が飛び出した。(中略)

命中弾は右足大腿部を外から中に貫通して倒れた。近寄って兵で取巻く。敵の服をさぐって三角巾を出し、その男に傷をしばらす。「連隊本部に連れて行こうか」との話も出たが、何かと面倒なと判断した○○上等兵の命令で、射殺した。


あくる日、○○(原文実名)衛生軍曹を長とする掃蕩隊に加わった。この時は別方向で、京滬街道の左側を行った。周囲一〇〇メートル位の台地とまではいかない高見の所に民家があった。点検すると、老婆が出て来て、我等の登って来た方向に逃げた。「それっ、射てっ」と言うので撃った。倒れて、もがきがなくなる迄、撃った。○○軍曹が一番弾丸を使った。(P43)

ちらばってた兵が、全部で六人の中国人を捕まえて来た。皆市民服だが、その中で屈強な大人の体格はしているが、まだあどけない少年がいた。この六人を、すり鉢池のふちに連れて来た。少年だけは助けようとの論もあったが、結局全部池のふちから射って、すり鉢池に落した。(P44)


何とまあ、徴発、放火、捕虜殺害、民間人殺害、何でもありです。


「弁護」ぶりが興味深いので、合わせて紹介しておきます。
南京事件 四大要因

虐殺 指示範囲の事をした者には責任がない。
掠奪 公的給与の無かった時に、腹の中に入れてしまった者は掠奪ではない。
放火 指示範囲の事をした者には責任はない。
強姦 犯した者の個人責任である。


私は掠奪も強姦もしていない。(P53)


ここまで正直な「告白」をした方を攻撃するのは私の本意ではありませんので、あえて「批評」は書きません。

*「ゆう」解説 後日入手したのですが、斉藤忠二郎氏には、他に、「南京反論」「南京事件分析」といった著書があります。


○「天津から南京へ」 昭和13年6月、奉天市、ジヤパン・ツーリスト・ビユーロー

いや、何でこんなパンフレットを入手したかというと、東中野修道氏「再現 南京戦」に、こんな記述があったからです。

ついでながら記しておくと、次のような資料もあった。それは奉天のジャパン・ツーリスト・ビューローの発行した旅行案内の小冊子で、表紙には「天津から南京へ」という書名が書かれ、南京の名所旧跡が写真入りで紹介されていた。

その印刷は昭和十三年五月三十日で、発行は六月五日となっている。少なくとも印刷に三ヵ月を要すると仮定すると、この旅行が企画されたのは遅くとも昭和十三年二月であったことになる。南京大虐殺が事実であったとすれば、南京陥落から二ヵ月しか経っていない段階で、はたして南京旅行が企画されたであろうか。(P357)


戦争の真っ最中に、いくら占領地とはいえ、戦争中の敵国内へのツアー旅行を「企画」したあ? 当時は除州会戦の時期だったはず。泥んこになって生死の境で戦争を戦う兵隊さんたちが聞いたら、間違いなく怒り出します。庶民には「海外旅行」など不可能な時代だったでしょうに、そんな能天気な旅行会社、本当にあったのでしょうか。

というわけで、このパンフを入手してみました。

パンフの最初は、こういう感じです。
天津から南京へ

津浦線は北支の中心地京津地方と中支の中心地南京地方を連絡する重要幹線にして、河北、山東、江蘇、安徽四省を縦貫してゐる。これ等の諸省は支那にとつても古くから政治、経済の中心地をなした地方であり、又吾国にとつても早くから交渉のあつた地方である。

今回の支那事変は、一般の人達にもこの沿線地方を馴染み深いものにした。この方面の戦場は洪水のため泥濘地多く、水深は胸を没する程であつた。八月二十二日前進を開始して以来、十一月中旬遂に黄河の流れに日章旗を映ぜしめ、昭和十三年正月を迎へるとともに皇軍は堂々と済南に入城するに至つた。

(略)

この線に沿って南北からの攻略は日ならずして完成し、この地方一帯が、吾国と新興支那との提携により、東洋和平の礎を築くのもさほど遠いことではないだろう。


これに「津浦鉄道」の概略の紹介が続き、天津から南京に至る名所旧跡が一部写真入りで紹介されます。しかしどこにも、「南京旅行を企画」するなどという記述は見当たりません。

当たり前ですよね。このパンフの対象は別に「南京」だけではなく、「天津から南京まで」の広大な地域です。そして、上の引用文の太字部分の通り、まだ「この線に沿って」の「南北からの攻略」はまだ「完成」していないのです。こんな時期に、「天津から南京まで」のツアーなど、組めるはずがない。

要するに、また平和になって「天津から南京まで」の名所旧跡を訪問できるといいな、という趣旨で編纂されたパンフである、と見ていいでしょう。


・・・というわけで、「東中野氏のトンデモ」ネタが、また一つ増える結果となりました。




[5254]南京事件 初歩の初歩


- 08/1/13(日) 4:02 -


南京事件」に関して、「何があったのか」を総括的に解説したサイトがない−従来から、あちこちで言われてきたことです。


そんなものは新書一冊読めばいい、と私も思ってきたのですが、昨年何回か「激論」を経験する中で、「総括的なまとめサイト」の必要を痛感しました。

相手の方に対して「南京事件の実在」について説明しようとすると、その都度、スマイス報告やら66連隊事件やらを一生懸命に説明しなければならなくなる。同じことが3回続くと、さすがに、えい面倒だ、こちらを見てくれ、というサイトを作りたくなります。


というわけで、「南京事件 初歩の初歩」というコンテンツを作ってみました。
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/shoho.html


いざ書き出してみると、ある程度は「予想される反論」に対する再反論も網羅したくなったために、全然「初歩の初歩」ではなくなってしまいました(^^;

「枝葉」の部分はそのうち順次別コンテンツ化していき、こちらには「幹」のみ残すつもりでおりますので、ご了解ください。

 


[5262]Re(1):南京事件 初歩の初歩

- 08/1/16(水) 19:44 -

*「ゆう」解説 上記[5254]の投稿を行ったところ、主として「スマイス報告」の部分にレスがつきました。

スマイス報告に使われた調査票には、死亡原因として「事故」「戦争」という項目があり、調査報告書では「「事故」というのは軍事行動の結果を記録する略語として、「戦争」というのは軍事行動以外の日本兵の暴行をさす略語としてつかわれた」という解説が附されています。

ネットには、『調査の段階では「事故」「戦争」という区分だった死亡原因が、集計の段階では「軍事行動」と「日本兵の暴行」という原因に見事に摩り替わってしまったのである』なる論が存在します。よくもまあ、そこまでひねくれた見方を、と私などは呆れてしまったのですが、それに対しては
トロープさんが適切な解説を加えていました。

>一応、『南京大残虐事件資料集』の訳文と並べてみます。
*「事故」というのは軍事行動の結果を記録する略語として、「戦争」というのは軍事行動以外の日本兵の暴行をさす略語としてつかわれた。
*"Accident" was used as a code word to record effect of military operations; "warfare" as a code word for violence by Japanese soldiers apart from military operations.
>この"code word"という言葉から考えると、単に長いから一単語に略したという意味ではないと思います。堂々と記載できないから暗号、符丁、隠語として「事故」「戦争」を使ったという解釈をするべきでしょう。

以下の投稿は、このトロープさんに対する返答です。


お蔭様で、本コンテンツへのアクセスが、14日一日だけで500近くありました。思い切り地味な私のサイトとしては、なかなかの記録です。

なおそのうち約1/3が、青狐さんのところからですね。恐るべし、クッキーと紅茶。ご紹介に、感謝します。


自分で言うのも何ですが、これは「なかったと思いたい派」に対してはなかなかインパクトがあるのではないか、と思っています。

論壇の議論をきちんと踏まえておりますので、第三者的立場からも比較的納得を得やすいものだと思いますし。


「なかったことにしたい派」にとっても、大変です。「南京における大規模な虐殺」を否定するためには、私の挙げた例示の1から5まで、一つでも撃ち漏らしてはならないのですから(笑)。

さもなくば、いい加減な「孫引き」でちょこちょこと「部分否定」をしてみて、これでもって全体を否定したような自己満足にふけるか、ですね。


さて、「スマイス報告」です。

話題の「侵華日軍南京大屠殺資料」(古本屋の店先で見かけて、たった500円で入手しました(笑))に掲載されているのは、スマイス報告全文です。

題名は、「南京戦禍写真」となっています。おそらくは、例の「国民党宣伝部が版権を買い取った」という奴でしょう。


言うまでもなく、これは英語版からの翻訳でしょう。「調査票」の部分だけ原調査票から直接にとった、ということもないでしょうから、ここも英語版からの翻訳だと思われます。

してみると、英語の表現が、一番オリジナルに近いもの、と考えられます。ja2047さんのおっしゃっていた通り、これは"cord word"であり、「符牒」として使われていた、と考えていいでしょう。


調査員が「符牒」を知らなかったとは思えませんので、これによって調査が歪められたということはまず考えられない。
これが私の結論です。

*「ゆう」解説(追加)  この問題については、「南京事件 FAQ」の「スマイス報告の「死因」にすり替えはない」で詳しく解説されています。



[5207]ここがヘンだよ、両角手記


- 08/1/5(土) 17:48 - 

*「ゆう」解説 両角業作大佐の手記は、「幕府山事件」における「自衛発砲説」の根拠資料として使われています。(幕府山事件についてはこちらをご覧ください)

この手記の内容についてはあちこちで論じられているところではありますが、以下は私のちょっとした「発見」です。


まずは(皆さんよくご存知とは思いますが)、「17日の虐殺」部分を引用します。

夕刻、幕府山の露営地にもどった。

 もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。

 日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。

 ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。

 そのいきさつは次の通りである。

 軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。

 二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。

 あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた。

 解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。


私がまず疑問に感じていたのは、「二千人ほどのものが一時に猛り立ち」の表現でした。

「両角手記」では、この直前に、捕虜の数は「四千名」と明記されています。どうしてここに突然「二千人」なんて表現が出てくるのだろう?


もう一つの疑問は、「虐殺開始時刻」です。「夕刻」に田山大隊長が「俘虜の集結を終わった」と報告してきた。しかしなぜか、渡河開始は「十二時ころ」の少し前です。

「集結」が終わったらすぐに「渡河輸送」を始めればいいのに、この6時間もの間、「捕虜解放」の使命を帯びていたはずの部隊は、一体何をやっていたのか?


この二つの疑問を同時に解消するストーリーがあります。

「夕刻」に輸送を開始した。そして「12時ころ」には半数ぐらい輸送済みであった。

そう考えれば、今日では「暗くなりかけた頃」ということが明らかになっている「殺害開始時刻」を両角が「12時ころ」にずらしたことも、突然「二千人」という不思議な数字が出てくることも、同時に説明がつくのです。


おそらく両角は、そう言いたかったのでしょう。しかし後世の方々は、残念ながら両角手記の「行間のストーりー」を汲み取ってはくれませんでした。

「郷土部隊戦記」では「夜十二時頃、十数隻の小舟にのって一回目に渡河した二、三百人」(P112)との表現になっています。もちろん、東中野氏はそんなことに気がつかず、頓珍漢な両角手記論を繰り広げています。


念のためですが、もちろん今日では、これは両角の大嘘であることが明らかになっています。「自衛発砲説」に口裏合わせをしたはずの幹部連からして、この調子です。


<第一大隊長・田山芳雄少佐>

 舟は四隻― いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。
(略)
 銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです」
(阿部輝朗氏『南京の氷雨』 P103)


<連隊砲中隊・平林貞治中尉>

 とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。
(鈴木明氏『南京大虐殺のまぼろし』 P199)


<第一機関銃中隊・箭内享三郎准尉>

 上流や下流を捜し歩いて六隻か七隻の舟を集めたものの、ほかには見当たらず、舟はこれだけだったという。

(阿部輝朗氏『南京の氷雨』P99)

 集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が・・・。突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです。
(同上 P101)


折角の両角ストーリーに同調してくれる幹部は、いませんでした。


ただいま、東中野「再現 南京戦」批判シリーズの続き、「幕府山事件(2) 17日の惨劇 解放が目的だったのか」「幕府山事件(3) 東中野氏の「解放目的」説」にとりかかっており、この作業の中で気がついた「トリビア」です。






(2009.11.14)


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