731部隊 ネットで見かけたトンデモ議論(1)
「マルタ」は日本人?
−「Qレポート」をめぐって−
 


 繰り返しますが、論壇では731部隊に関する「否定論」は全くと言っていいほど存在しません。(ほとんど唯一の例外であろう中川八郎氏の議論のトンデモぶりについては、こちらで詳細に解説しました)

 しかしネットでは、一部右翼プロガーの「宣伝」により、無茶な「思い付き否定論」がかなり幅を利かせています。twitterなどのSNSを見ても、その影響を受けて、「731部隊の悪行は嘘」と思い込んでいる方を数多く見かけます。

 以下のコンテンツでは、「ネット否定論」のエッセンスをほぼすべて盛り込んでいると思われる、delliciousicecoffee氏のブログの記事をひとつずつ検討していきたいと思います。



 1990年代初め、アメリカのダグウェイ基地で、「731部隊」関係の文書が発見されました。この文書は三部から成り、それぞれ「Qレポート」「Aレポート」「Gレポート」の標題がつけられていました。
※「Qレポート」を含む「ダグウェイ文書」については、人体実験、これだけの根拠(2)  米国側資料◆.劵襦Ε譽檗璽函▲瀬哀ΕДな現で解説してあります。

 deliciousicecoffee氏は、そのうち「Qレポート」に論難を加えます。


松村高夫の「731生体解剖標本」の怪

松村高夫の本に関して

【731生体解剖標本の怪


石川太刀雄丸は、731部隊で生体解剖を行ない、その標本を持ち帰ったと言われている。

しかし、本当は、新京、農安でのペスト流行の際の死亡者の病理解剖標本らしい。

後日その標本を日本に持ち帰り、故郷の金沢で保管していた。

戦後このことを知ったアメリカは石川の標本類を没収し、石川に説明のための英訳レポートを書かせて、それらを本国の基地に輸送した。


その英訳レポートの内、ペストに関するものをQ報告というが、下記はその内容の一部である。

解剖例概要 Brief out-line of all investigated cases(一部)

Name years  sex day of course
(氏名)(年齢)(性別)(発病期間)  (氏名)(年齢)(性別)(発病期間)
KF   8  ♀    8     HC  55  ♂   18
TT   8  ♀    5     TF  27  ♂    3
SK  25  ♂    5     TN  37  ♂    4
MM 23  ♂    5     US  18  ♂    ?
MY  21  ♂    3     YT  58  ♀   12
FT    12  ♀    6     MT   3  ♀    21
TL    10  ♂   3     HK  31  ♂    7
GS  56  ♂    6     FS  44  ♂    2
KK  45  ♀    ?     YO  33  ♂    7

〔出典〕The Report of "Q",p.5.
『戦争と疫病 七三一部隊のもたらしたもの』松村高夫ほか(本の友社)p144



年齢性別は表記されているが名前がイニシャルであるため、生体解剖した患者が誰であるかは判らない。

しかし、松村たち左翼学者によれば、これは新京のペスト患者表と比較することで生体解剖した患者を特定することが可能なのだそうだ。

新京のペスト患者表を入力し、これと比較対照すると、次のようになる。



Q報告「解剖例概要」・「1940年新京市ペスト患者表」対照表

氏名頭文字                 年齢     性別   発病日数(期間)
Q報告   ペスト患者表        Q報 ぺ表 Q報 ペ表 Q報   ぺ表

KF   Kimika Fujita(藤田君香)     8   8   ♀  女  8  9/25〜10/2
SK   Syusin Kan(韓秀臣)       25  25   ♂  男  5  9/28〜10/2
MM  Masaji Matubara(松原正次)  23  23   ♂  男  5  9/30〜10/4
MY   Masamitu Yano(矢野正光)   21  21  ♂   男  3  10/2〜10/4
TL   Tokukin Li(李徳金)       10  10  ♂   男  3  10/6〜10/8
GS   Genzan Sou(宋言山)       56  56  ♂   男  6  10/5〜10/10
HC   Hougyoku Chin(陳宝玉)     55  55  ♂  男  18  9/24〜10/11
FS   Fukulin So(宋福林)       44  44  ♂  男  2  10/21〜10/22
FT   Fumiko Tokumoto(徳本富美子)12  12  ♀  女   6  10/1〜10/7
TF   Tutomu Fukura(福良勉)    27  27  ♂  男   3  10/10〜10/11
YT   Yosi Tuchiya(土屋ヨシ)    58  58  ♀  女  12  10/12〜10/17
MT   Masako Takamatu(高松マサ子)3   3   ♀  女  21  10/2〜10/21

〔出典〕『戦争と疫病 七三一部隊のもたらしたもの』松村高夫ほか(本の友社)p145




この表では不思議なことに、大量の日本人が含まれている

日本人7名に対して、支那人(朝鮮人?)5名である。

どうやらマルタの半分以上は日本人だったらしい

おお、恐ろしや、731部隊は、日本人のいる近くに飛行機で細菌を落としただけでなく、日本人まで生態解剖していたのか?!




ペスト流行の際の死亡者の病理解剖が、松村高夫の細工にかかると、たちまち731部隊による日本人の生体解剖に変わってしまう。


 「Qレポート」で解剖の対象となった中には、「大量の日本人」(とは言っても、文中にある通り、たったの7人なのですが)が含まれている。つまり、この松村氏の言に従えば、人体実験の対象となった「マルタ」の中に多くの日本人がいたことになってしまう。

 どうやら彼は、そう言いたいようです。

 しかしこれは、解説するのも馬鹿馬鹿しい勘違いです。



 実際には「Qレポート」には、「病理解剖」の対象となったのは「新京市」と「農安県」で流行したペストで死亡した人々である、と明記されています。「Qレポート」に関する限り、 「マルタ」は、何の関係もありません


『Qレポート』より

 1943年(松村高夫氏注 1940年の誤り)9月25日から11月7日まで、私は二つの地域(松村氏注 満洲の新京市と農安縣)において流行するペストを調査した

(略)

 高橋博士などが疫学的および細菌学的研究を行った。それらの日本語で印刷された報告書は、1948年7月すでにアメリカ陸軍に提供された。私と他の人々は、9月29日と11月5日の間に2つの地域において死亡したすべてのケースの病理解剖学的研究を行った。(P23-P24)

(松村高夫『「新京・農安ペスト流行」(1940年)と731部隊』(上)より=慶応義塾経済学会『三田学会雑誌』2003年1月号所収)


 当時新京市には多数の日本人も住んでいました。彼らもペストに斃れ、「病理解剖」の対象になった、というだけの話です。

 つまりdeliciousicecoffee氏は、「Qレポート」を「人体実験」の記録である、と勘違いしたあげく、被験者に日本人が含まれていることをもって「731部隊は、日本人まで生体解剖していたのか?!」と無茶苦茶な論難を加えているわけです。
※参考までに、当時の新京特別市の人口表を掲げておきましょう。当時新京には、約一〇万人という多数の日本人が居住していました。

越沢明『満洲国の首都計画』(ちくま学芸文庫)

 表36 新京特別市の人口(単位:千人)

  総人口  中国人  日本人  朝鮮人 
 1939年末 415  306  96  12 
 1940年3月 438  324  101  13 

(P226)





 さすがにブログ主も、書いているうちに「勘違い」に気が付いたようです。

 気付いたのであれば、この文章をまるごと削除しておけばいいと思うのですが、deliciousicecoffee氏は何と、最後にとってつけたように次の一行を加えて、「勘違い」の責任を「松村高夫」に転嫁してしまいました。(おそらくこの一行は、後日、こっそり書き加えたものでしょう)


 ペスト流行の際の死亡者の病理解剖が、松村高夫の細工にかかると、たちまち731部隊による 日本人の生体解剖に変わってしまう。


 松村氏が「細工」をしたことになってしまいました。deliciousicecoffee氏が勝手に誤解しただけの話なのですが・・・(^^;



 さらに言えば、この本の該当部分、「新京ペスト謀略 1940年」部分を執筆したのは、松村高夫氏ではなく、中国側研究者の解学詞氏です。どうもdeliciousicecoffee氏は、論文をまともに読むどころか、筆者名にすら目を通していないようです。


 解学詞氏の論稿は、1940年新京ペストの流行過程、さらに石井部隊との関わりについて論じたもので、普通に読めば「勘違い」のしようがありません。念のため、該当部分を掲載します。


解学詞『新京ペスト謀略 − 一九四〇年』


 「Q」報告は全一七九頁、わずかな分量のまえがきと二、三の統計表を除けば、残りはすべて一人ひとりの解剖報告であり、その総数は五七名である(うち農安三九名、新京一八名)。(P118)

 個人個人の解剖報告の内容はじつに詳細で、心臓、大動脈、扁桃腺、咽喉、気管、会厭(軟骨)、肝臓、胃、小腸、大腸、腎臓、肺臓、膵臓、甲状腺、脳下垂体、淋巴結、睾丸あるいは卵巣、皮膚などの器官あるいは部位について病変の記載がある。

 さらに、「Q」報告は病型について総括的分類を行なっており、その結果は、四〇年の新京と農安のペストは各種の病型が併存する複合的ペストの流行であった、という通説を完全に証明するものである。

 報告の執筆者は「まえがき」において「高橋医師と他の人々は共同で、疫学と細菌学の研究を行なった。それらの日本語で印刷された報告は、一九四八年七月、すでに米軍に提出されている。私は他の人々とともに、九月二九日から一〇月五日の間にあの二つの地域で死亡したすべての患者の病理解剖を行なった」と述べている。

 ここで注目すべきは、「Q」報告が収録する新京の解剖被験者リストを、前掲の表6「新京市ペスト患者表」と対照してみると(表は)、前者のうち八名のアルファベットの頭文字・年齢・性別・発病期間が、後者のそれと完全に一致していることである。さらに発病期間だけ若干異なる四名を含めれば、前者一八名中の一二名はほぼ特定できると考えてよい。(P119)

(『戦争と疫病』所収)

 「二つの地域で死亡したすべての患者の病理解剖を行なった」 ― ここまではっきり書いてあるのに、なぜブログ主がこれを「マルタの生体解剖」と受け取ったのか、不思議です

 なお解学詞は、この病理解剖が、実際には死亡前の「生体解剖」であった可能性にも言及しています。それにしてもその対象はあくまで「中国人のペスト患者」であり、間違っても「マルタ」の解剖ではありません。


※ついでですが、このブログ主が「731部隊」についてほとんど知識を持たないことは、最初の「石川太刀雄丸は、731部隊で生体解剖を行ない、その標本を持ち帰ったと言われている。しかし、本当は、新京、農安でのペスト流行の際の死亡者の病理解剖標本らしい」というフレーズだけでもわかります。

ヒル・レポート」によれば、
石川が保有していた「人体標本」は約500。石川の新京・農安での「ペスト患者」解剖数は57に過ぎません。他の部分については、731部隊の「マルタ」に対する人体実験により得られた標本も多数ある、と見るところでしょう。ヒル自身も、標本は基本的には「人体実験」に由来する、という認識でいました。ヒルレポートに付属する多数の尋問調書がそれを裏付けます。ブログ主は、「ヒル・レポート」にすら目を通していないようです。

 またブログ主は、勝手に「生体解剖」の標本である、と決めつけていますが、生きた状態で解剖したのか、それとも死後解剖かは、「ヒル・レポート」及び「Qレポート」のどこにも明記はありません。一部「生体解剖」の結果が含まれていた可能性は否定できませんが、大半は「死後解剖」と見るのが普通でしょう。




 なお余談ですが、この「新京・農安ペスト流行」については、従来から「自然発生説」と「731部隊による謀略説」の間の論争がありました。

 しかし今日では、「金子順一論文」の発見により、この流行を引き起こしたのは731部隊によるペスト菌撒布であった、という説が有力になっています。


渡辺延志『731部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告 石井機関の枢要金子軍医の論文集発見』


 「従来の作戦等によるPXの効果は第一表の通りである

 そう明示し掲げられた第一表「既往作戦効果概見表」には、六つの「攻撃」で便用したPX(「ゆう」注 ペスト菌に感染したノミ)の量とその「効果」が示されている(,楼貅ヾ鏡、△脇鷦[行)。

四〇年六月四日、農安(吉林省) PX五グラム “人∀察纂型
・同年六月四日〜七日、農安大賓(吉林省) 一〇グラム ^貽鷽有二四二四人
・同年一〇月四日、ク県(浙江省) 八繊´‘鶲豢綽有0貉邑沺賛
・同年一〇月二七日、寧波(浙江省) 二繊´^譟算与有一四五〇人
・四一年一一月四日、常徳(湖南省) 一・六繊´〇旭譟賛有二五〇〇人
・四二年八月一九日〜二一日、広信・広豊・玉山(江西省) 一三一グラム 〇容鷽有九二一〇人


 六回の細菌攻撃による「効果」は、一次感染が六九五人、二次流行が二万五二五一人、総計では二万五九四六人だったことになる。農安と大賓は鉄道でつながっており、広信・広豊・玉山もそうだが、移動しながらいくつかの場所にまいたとの意味と考えられる。

※「ゆう」注 金子順一「PXの効果略算法」は、「ペストノミの撒布量とペスト患者数」の相関関係を調べた論文です。「陸軍軍医学校防疫研究報告」に掲載されたもので、2011年、国会図書館の中で発見されました。その全文は、こちらで確認することができます。「患者数」の正確さはともかく、731部隊の中核メンバーの一人が、「細菌散布」の事実をあからさまに論文に書いていることが注目されます。

(『世界』2012年5月号所収)

 「金子順一論文」に従えば、病理解剖されたペスト患者たちは、実は731部隊の謀略によってペストに感染したものである、ということになります。


(2016.8.20記 2017.7.9 全面改訂)


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