「南京の実相」を読む (3)
国際連盟と中国 なぜ「提訴」しなかったのか



 以上、戸井田議員の「顧維鈞演説」の曲解ぶりを見てきました。ここではもう一歩進んで、「中国はなぜ国際連盟に「提訴」を行わなかったのか」という問題を検討してみましょう。


 一部では、提訴しなかったことを、「南京虐殺」が存在しなかった証拠だ、と言わんばかりの暴論を目にします。 戸井田議員も、「国際連盟は、一九三七年十月六日の南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のように採択しなかった」と、これこそ「なかった」証拠だ、と示唆してみせます。


 しかしまず大前提の話ですが、「南京における大規模な虐殺」は間違いなく存在しました。 「南京事件 初歩の初歩」で説明した通り、大量の捕虜殺害、民間人殺害の事実は、否定しようもないでしょう。

 従って問題の立て方は、「南京において大規模な虐殺が行われたにもかかわらず、なぜ中国はそのことを国際連盟に提訴しなかったのか」とするのが妥当でしょう。


< 目 次 >

1.世界の「常識」、南京事件

2. 存亡の危機に立つ中国

3.中国の「南京事件」認識

4.「毒ガス」に関する提訴




 世界の「常識」、南京事件


 まず当時において、「南京事件」が世界からどのように受け止められていたのかを確認しておきましょう。



 「南京」で、日本軍による大規模な暴虐が行われたことは、世界が一致して認めるところでした。

 当時南京には5人の記者・カメラマンがいました。 第一報として大きく伝えられたのは、ダーディンスティールの長大な記事。 マクドナルドスミスもレポートを残しています。

 ここでは、あまり知られていない、カメラマン・メンケンの報告を紹介しましょう。

日本、南京入城式典

<ワシントン・ポスト>
1937年12月17日



 アメリカの砲艦オアフから、日本の南京占領についての目撃者の第一報が届いた。 パラマウント・ニュース映画のカメラマン、アーサー・メンケンは、かつての繁栄の都は、残虐な日本軍の陸・空からの攻撃による兵士・市民の死体が散乱する流血の巷と化していた、と無線で報告してきた。

 少しでも軍隊に勤務していたものと見える中国人男子はすべて集められ、処刑された、とメンケンは言った。だが、日本側報道が南京城東の中華民国の父孫文の大陵墓は無傷のままだとするのは、そのとおりだと認めた。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』P516) 


この5人が12月16日までに南京を離れた後、南京は事実上外部との通信不能の状況となり、しばらく情報は途絶えます。 しかし各国外交官の南京復帰(1938年1月6日)をきっかけに、南京に残留して救済活動を行っていた外国人たちから、それ以降、大量の情報が発信されます。

松井辞任へ

<ワシントン・ポスト>
1938年1月12日


 日本軍による占領後に南京で起きたことは、十二月十四日まで市内に残っていた少数の報道人によって部分的に伝えられたにすぎない。 だが、それよりもより大規模の虐殺の報告が、その後二週間にわたってこの見捨てられた首都から漏れ伝わってきた。

 連日、中国人兵士とそれに市民までもが同様に針金で縛られ、三〇−五〇人ずつの一団にされて長江岸の下関に連れて行かれ、機関銃で殺戮された。 日本兵が銃剣に中国人の首を突き刺して、市街を行進するのが、外国人によって目撃された。このほかにも首が切り落とされ、口に煙草の吸い差しが、鼻に薬莢が詰められているのが見受けられた。

 南京の家という家が捜索され、略奪された。外国人およびその財産もこの一般的運命を免れなかった。

 見栄えのよい婦人はすべていずれかに拉致され、帰ってくる者はなかった。ある宣教師は、姑娘を差し出せという日本兵の要求を拒むとき、その外交戦術の限りを尽くさなければならなかった。

 上海−南京間のあちこちの町や村から、娘や若い婦人が日本兵に連れ去られて以後消息がない、という同様の報告が届いた。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』P519-520) 


 『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』では、約170ページにわたり、当時の膨大な新聞記事群を確認することができます。


 また、このような状況は、南京の外交官から本国へも伝えられました。 アメリカ大使館・エスピー副領事の報告が、よく知られています。




 これらの膨大な情報群により、「南京における日本軍の暴虐」は、世界中によく知られるところとなりました。例えば、当時の駐日大使、グルーの日記を見ましょう。

ジョセフ・C・グルー 『滞日十年』

一九三八年二月十日

 パネイ号事件の反射熱がさめはじめるや否や、南京に侵入した日本軍の言語に絶した残忍と、彼らの放恣な米国諸権利の侵害が伝わつて来た。 後者は米国の家庭の略奪と米国国旗の冒涜を含み、国旗は諸所で引下ろされ、焼かれ、あるいは他の方法で破棄された。中国軍は大体無差別に殺され、多数の中国婦人が陵辱された。

 もちろん日本人は何に対しても返答を持つている。米国国旗の神聖を涜したことについては、中国人が自分の財産を保護するために米国旗を使用していたという。 だがそれは日本語で書かれ、米国の総領事が署名した証明書が真実の米国財産に貼付してあつたのに。何故注意を払わなかつたかの説明にはならぬ。

 中国婦人陵辱について彼らは、何百人という中国の職業的女性が公開の娼家から逃げ出したので、日本兵は単に彼女らが日常の職業を続けるように連れ戻しただけだし、 何にしても米国が入手した報告は宣教師の口から出たもので、宣教師たちは苦情を申立てる事件を目撃しておらず、自家の中国人雇人のいうことをそのまま受売しているだけの話だという。

 私に、日本兵が本当に望んだのは、中国人の家族や商人が南京に帰つて来て、平和に日々の仕事に従事することだつたと話して聞かせた人がある。 しかしこの人も、私が大量死刑や殺人や女子陵辱にもかかわらず、もし中国人、殊に娘を持つ人々が、よろこんで帰つて来るとしたら、少々変ではないかといつたことに対しては、多少返事に窮していた。 いや、事実、彼は中国人の態度が理解出来るとさえいつた。

(上 P321)


*念のためですが、グルーは、米国の対日制裁に反対した、どちらかといえば親日的な人物でした。 同盟上海支局長・松本重治氏も、「グルー駐日大使はもともと、中国のみのために日本を敵にまわすことに反対し、 その態度をもち続けている知日派であった」(『近衛時代(上)P129)と評しています。



当時アメリカ国内に滞在していた日本人も、アメリカで「南京虐殺」が大きく取り上げられたことを語っています。


石垣綾子氏からの聞き取り 


 「自分にはイギリスの新聞記者だと思うが(アメリカ人かもしれないとも言い、今はどちらか分からないと言った)、写真を見せて、南京事件の話をしてくれました。 アメリカではすぐに南京虐殺写真のパンフレットが広く出回り、ライフ誌などにも残虐写真が掲載され、後にはニュース映画でも南京事件が報道されました。

 南京虐殺で日本軍が生きている人を穴埋めにしている写真が出回ったのは、ショックだったので今でも覚えています。 中国婦人への凌辱の話も広く知られ、年寄であろうが子供であろうがひっぱり出して強姦してしまうという話でした。

 南京で暴虐を働いた兵士だちと、自分は同じ血を分けあい、同じ祖先であることが辛く、自分の手にも汚れた血が流れているとさえ思ったものです。

 パナイ号事件はアメリカの支配層に痛手でしたが、一般の人は南京アトロシティーズにびっくりしました。南京虐殺は日本軍と日本人の評判を落としました。 アメリカ国民は、日本軍は野蛮だから南京虐殺をし、そしてパナイ号を撃沈したのだ、と認識したのです。

 私がマツイ・ハルの名前で自伝『憩いなき波−私の二つの世界』(佐藤共子訳、未来杜、一九九〇年出版)を書いたきっかけは、南京大虐殺にありました。 というのは、市民団体、婦人団体、教会、学校などに招かれて講演に行くと"日本人はなぜ野蛮で残虐なのか"ときまって質問されたからです。 そうではない日本人も沢山いることをアメリカ国民に知らせたかったからです。」

(笠原十九司氏による聞き取り 中央大学出版部『日中戦争 日本・中国・アメリカ』P404)



森恭三『私の朝日新聞社史』より

 私が新聞の「知らせる義務」について真剣に考えるようになったのは、特派員として海外に出てからです。

 日本軍による南京虐殺事件(一九三七年十二月)はアメリカの新聞に大々的に報道され、ニューヨーク特派員として、私は当然、これを詳細に打電しました。 ところが、東京から郵送されてきた新聞を見ると、一行もそれがでていない。

 そればかりでなく、東京のデスクからは、例えば「台湾の基地を発進した海軍航空隊は中国本土にたいする渡洋爆撃に成功した。これは画期的な壮挙である。 これにたいするアメリカの反響を至急打電せよ」といった種類の指令を送ってくるのです。私は、出先きと本社とのズレを痛感せざるをえませんでした。(P24)




 森恭三が書く通り日本国内の「検閲」は厳しいものでしたが、それでも、「南京虐殺」の情報に接した日本人は大勢存在しました。

 例えば当時、日中和平工作または汪兆銘工作に携わった、西義顕、犬養健、神尾茂、田尻愛義らの日記などの中に、それぞれ、「南京事件」に衝撃を受けた事実を発見することができます。 (コンテンツ「「ピース・フィーラー」たちが聞いた南京事件」参照)




 顧維鈞が演説の中で「よく知られている通り」と枕言葉をつけたとおり、 日本が南京で大規模な暴虐事件を起した、というのは、この時期、国際的には「常識」でした。

 中国でも、「中国は知らなかったか?」で紹介した蒋介石の日記や宋美齢の手紙に見られるように、 「南京暴虐事件」の存在は、しっかりと認識されていました。
*本コンテンツの趣旨とは直接関係ないので詳述はしませんが、当時流布していた「情報」の中には、後日の目で見直すと不正確なものも混入していたことは事実です。 しかし「日本軍による大規模な暴虐」が行われたこと自体は、否定しようもありません。


 以上、少なくとも、中国が提訴を行わなかった理由は、「世界が「南京虐殺」を信じておらず、提訴しても国際連盟に拒絶されると考えたから」ではありえません。




 存亡の危機に立つ中国


次に、当時の中国が置かれていた状況を確認しておきましょう。

黄仁宇 「蒋介石−マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記」より

蒋介石の対応


(略)


 淞滬[呉淞・上海]戦役から南京の大虐殺までの間に、蒋介石が受けた辱めと挫折は生きる意欲を失うほどに耐えがたいものであった。開戦から六ヵ月を経ずして、敵は上海・南京・杭州・北平・天津・包頭・太原・済南・青島を占領し、津浦線一帯の占領を間近にしていた。

 これに対し国軍は、南京から漢口に至るまで一貫して兵力が不足し、部署も決まらず、ホワイトによれば、 「もし日本人がただちに内陸地域に進軍したならば、遭遇するであろう最も困難な障害は、山々や丘陵以外にはなかった」。

(略)

 初期の作戦は、蒋介石が望んだように順調には行かなかった。国際的な反応も寒々としたものであった。 国際連盟への提訴も効果がなく、九ヵ国条約の調印会議には八ヵ国しか参加せず、日本は出席を拒否しさえすれば一切の責任を負うことなく会議を流れさせることができた。

 日本の飛行機がイギリスの大使を誤って傷つけたが、問題となるまでには至らなかった。アメリカの軍艦を日本の飛行機が沈めたときも、問題となるまでには至らなかった。 ソ連からの援助も空軍の義勇軍と少量の武器に限られており、中国は物品をもってこれに対する支払いを行わねばならなかった。中ソ双方は、互いに疑ぐり合っていた。

 蒋介石は一九三八年一月三十日にルーズヴェルトに書簡を送り、歴史においてアメリカが正義を守った事績を列挙し、中国が感激してこれを受け入れたことを述ベアメリカからの物質的援助を期待した。 この書簡は、駐米大使であった王正廷から直接に手渡された。

 しかしこのとき、アメリカでは孤立主義の呼び声が高まっていた。それゆえこの書簡に対しては、「注意して考慮中である」という空虚な回答を得ただけであった。

 ドイツとイタリアの両国は、上海・南京戦役の期間中に日本と防共協定を締結しており、相次いで満洲国を承認した。 トラウトマン調停が失敗に終わった後、ヒトラーは中国への軍需物資の禁輸を準備し、駐華大使を召還した。そして蒋介石に対し、ドイツ人顧問の契約解除を要求した。

 当時の中国が置かれていた状況を悲観視する者には、汪精衛以外にもトラウトマン大使やスティルウェル大佐がいた。馮王祥とファルケンハウゼンは楽観派であった。 彼らの楽観も、中国は単独で六ヵ月間は戦えると信じているだけであった。

 (P183-P184)
 


 軍事的にはあと「六ヶ月」しか戦えない、と言われるまでの劣勢に立ち、国際世論も思うように反応してくれない。まさに中国国民党政府は、国家存亡の危機にあったわけです。

 中国にとっての望みは、国際世論を味方につけ、中国に対する物資援助、日本に対する経済制裁を引き出すことでした。その訴えは、1937年ブリュッセル会議、1938年2月国際連盟第百回理事会、同年5月第百一回理事会、同年9月第百二回理事会に至るまで、一貫して粘り強く行われることになります。



 そんな中にあって、「南京事件」、あるいは「空爆問題」「毒ガス問題」といった個別問題は、中国にとっては副次的なものに過ぎなかった、 という事情を理解しておく必要があるでしょう。

 この点については、笠原氏が、適切な解説を行っています。

笠原十九司『リアルタイムで世界から非難を浴びていた南京事件』より


 そうした中国にとっては不利な国際情勢の中で、中国代表の顧維釣は、中国が日本に全面占領され、国民政府が消滅させられる可能性のある危機的状況において、 列強からの中国援助と対日経済制裁をいかに引き出すかという、国運をかけた大きな問題に忙殺されていたのである。顧維釣にとっては南京事件よりも中国滅亡の危機を阻止することの方が最重要関心事であった。

 さらに日本の中国侵略行為そのものが連盟総会とブリュッセル会議ですでに非難決議されている事実を忘れるべきではない。

 このような歴史背景の大状況も考えずに、「南京事件が連盟に提訴されなかったから南京大虐殺はなかった」と平気で断定する両氏 (「ゆう」注 東中野修道氏、田中正明氏)は、歴史学的思考のできない人たちである。

(『南京大虐殺否定論 十三のウソ』所収 P47-P48) 


 中国は別に、「南京暴虐」問題なり、「空爆」問題なりを、最大の優先課題として考えていたわけではありませんでした。個別問題について中国が提訴するかどうかは、その時々の事情による、ということになるでしょう。





 中国の「南京事件」認識


 以上見てきたとおり、中国にとって「個別問題」は、別に喫緊の課題ではありませんでした。

 しかし一方、中国が空爆や毒ガスについては国際連盟に提訴したのは事実です。では、なぜ南京問題は提訴されなかったのか。

 これはおそらく、中国が「南京暴虐」について「独自情報」をほとんど持っていなかったこと、そして、この時期中国は、数多い日本軍の暴虐事件のうち「南京事件」のみを問題にする、という発想が薄かったこと、この2点が原因であると推察されます。



 順番に、見ていきましょう。

 顧維鈞演説が行われた1938年2月初旬には、中国における「南京」認識は、こんな感じでした。

『大公報』1938年1月31日社説 より

 南京・上海、上海・杭州間の交通はすべて遮断され、ニュースもすべて途絶えた。上海の租界に住む人でも今では南京にいけない。今となっては各地より難を逃れてきた生き残りの人たちと、外国人の口コミに頼るしかない。したがって現在わずかにわかる事実は、万分の一、千分の一にも達していない。

(『南京事件資料集 2中国関係資料編』P34)
  

 顧維鈞演説の「南京」非難も、ほとんど「外国紙の情報」をベースにしていました。 独自情報をほとんど持たない以上、この時点では提訴のしようがなかった、と判断すべきところでしょう。


 事件の「生き残りの人たち」からの話にしても、この時点ではほとんど出てきていませんでした。

 例えば、「南京事件資料集2 中国関係資料編」の国民党系新聞「大公報」を見ても、2月初旬までの報道はすべて「外国筋」をソースとしており、「南京を脱出した中国人」からの情報はほとんどありません。 また同書には、中国人の体験者の手記が12本収められていますが、「1938年2月顧維鈞演説」の時点で発表済みだったものはありません。


 「国際連盟第百回理事会」において、中国が「独自情報」に基づく提訴を行うことはほとんど不可能であった。そのように判断していいと思います。




 また中国にとって、「南京事件」は、別に「初めて聞いた日本軍の蛮行」というわけではありませんでした。「南京」は多くの外国人が残留していたことから世界の耳目を集めましたが、それ以前、中国の新聞には、数限りない「日本軍の蛮行」が報道されていました。


 「「南京」以前−「出版警察報」より」に掲載した多数の記事から、サンプルとして最初の3つを再掲します。

申報 第二三〇七三号 上海発行 八月一日発行
九月一日禁止
 「天津避難民惨殺に遭ふ」と題する記事は、皇軍が支那良民を妄りに惨殺せる如く曲説し、其の威信を失態せしむるに因り禁止。
 又河北の鉄道沿線にも多数の避難民が居たが、日本は之等の地方へ来ると至る処に火を放ち避難民に対しては一斉射撃を加ひ、 其の家族は東西に四散するの余儀なかつた。そして彼らの中には、妻子が銃殺されたので進んで行つて之を救はふとして又々日本軍の毒手に斃れたものがあつた。
(「出版警察報 第109号」P146)

天光報 第一七二二号 香港発行 八月一日発行
九月二日禁止
 「日本池宗墨をして偽職を継がしむ以々」と題する記事 同前理由
 日本軍の住民銃殺に至つては更に惨酷非人道を極めて居る。北平中立方面の報告に拠れば、其が北平近郊に於て発見せる屍体七は、 全部手を反縛せられ、其の中の二名は頭を切り取られて居た。之は明らかに日本人の虐殺せる所で其の他の残酷行為は更に枚挙に堪えず即ち老若婦女子と雖も免れざる所である。
(「出版警察報 第109号」P146〜P147)

大公報 第一二二四八号 上海発行 八月一日発行
九月九日禁止
 「天津全く灰燼に化さんとする勢にあり」と題する記事は皇軍が天津に於て放火姦淫虐殺を行ひ居るが如く曲説し皇軍の威信失墜に渉るに因り禁止。
 (天津三十一日午后二時発専電)三十一日午后に至るも天津は無政府無警察状態を続けて居る。 三十一日朝日本軍は東馬路太胡同建築物を爆撃日本軍及浪人多数は河北に赴き自由行動を採り放火姦淫殺人を行つてゐる。
(「出版警察報 第109号」P147〜P148)


 今日では事実確認は困難ですが、ともかくも、これに類する報道が、「南京事件」以前に、山のようになされていました。




 さて、「中国は知らなかったか?」で紹介した、蒋介石の『日本国民に告ぐ』をもう一度読み直してみましょう。

『日本国民に告ぐ』より

 (1938年7月7日 蒋介石)


 また日本軍が占領したどの地区においても掠奪、暴行火附けを行つた余勢で、 わが方の遠くに避難出来なかつた無辜の人民および負傷兵士に対しても大規模な屠殺が行はれた。

 また数千人を広場に縛してこれに機銃掃射を加へ、あるひは数十人を一室に集めて油を注ぎ火炙りに処し、甚しきに至つては殺人の多少を以て競争し、互ひに冗談の種としてゐる。

 また四方の土匪と結託し、ごろつきを集め、欺瞞宣伝を散布し、傀儡組織を製造するなどおよそわが社会秩序とわが固有文化を破壊するためにはあらゆる手段も選ばなかつたのである。

(蒋介石『暴を以て暴に報ゆる勿れ』P14)
 


 どこまで「南京」の出来事を指すのか特定はできませんが、「どの地区」においても「掠奪、暴行火附け」が行われた、との認識を示しています。

 また1938年2月「第百回理事会」の「顧維鈞演説」でも、「日本兵が南京と抗州でおこなった残虐行為」と、「南京」と「抗州」が併記されています。


 あるいは、その後1938年5月には、中国は国際連盟に対し、このような「通告」を行っています。

赤松祐之『昭和十三年の国際情勢』より


 五月五日附通告は、客年十月二十七日附通報以後に発生せる日本軍の非戦闘員に対する無差別爆撃、殺傷其の他暴行に付通報するものなりとて、 客年十月二十八日より本年四月二十九日に至る四十数件を羅列して、之を総会、理事会及諮問委員会に送付方を求めたものである。

 右通告に列挙せられたる事件の大部分は、爆撃に関するもので、 所謂南京及び抗州に於ける暴行及び掠奪、山西及び山東に於ける虐殺並に十月末羅店に於ける毒瓦斯の使用等を挙げ、 爆撃に関しては、パネー号及びレディーバード号事件並に漢陽に於ける連盟防疫隔離病院の攻撃(四月二十九日)の外に、第三国人関係のものとして、 蘇州に於ける宣教師の死亡(十二月十二日)、鄭州に於ける米国メソジスト派附属病院の破壊(二月十五日)、伊太利宣教師の死亡(三月八日)及び臨沂に於ける独逸教会に命中等の事例を列挙し  支那人関係としては南昌の医科大学及病院の破壊並に長沙の湖南大学、清華大学の破壊の外婦女子等の死亡せる多くの事例を挙げて居る。

(P126)


 今度は、「山西及び山東に於ける虐殺」まで登場してきました。


 こうして中国の訴えぶりを並べてみると、どうも、「南京」だけを特別視する発想は薄かったように思われます。

 「南京」は、日本軍が引き起こした数々の暴行事件の一つ。仮に非難を行うのであれば、「南京」だけではなく、「日本軍の非戦闘員虐殺一般」を問題にすべきである。

 おそらく、それが当時の中国の発想だったのでしょう。





 ちなみに中国共産党については、そのような傾向が、よりはっきりしていました。例えば当時の中国共産党系「延安時事問題研究会」の出版物では、「南京」はこんな扱いです。

延安時事問題研究会『日本帝国主義在中中国淪陥区』 目次


第一章 東北における日本軍の暴行

第二章 華北における日本軍の暴行
      (一) 回想するに堪えない北平・天津
      (二) 鉄蹄下の『蒙古国』
      (三) 群魔乱舞の済南

第三章 華中における日本侵略者の暴行
      (一) 南京にて
      (二) 武漢にて
      (三) 長江下流にて
      (四) 浙江省西部にて
      (五) 徐州にて
      (六) 杭州にて
      (七) 蘇州にて
      (八) 揚州にて

第四章 広州における暴行

(井上久士『南京事件と中国共産党』=『南京事件を考える』所収 P178-P179)



 中国共産党にとって、「南京」は、文字通り、「全国各地で行われた多数の暴行事件のひとつ」であるに過ぎなかったようです。むしろ中国共産党の関心は、「日本の中国侵略が必然的に、そして至るところで中国人への敵視と非人道的行為をともないながら進められている」 (井上、前掲書、P176)ことを示すことにありました。


 井上久士氏は、こんな「解説」を行っています。

井上久士『南京事件と中国共産党』より

 ところで、南京が陥落したといっても、抗日戦争が終結したわけではなかった。日本軍による再度の虐殺や新たな暴行をできるだけ未然に阻止しつつ、抗戦体制の動揺を防ぎ、長期持久戦を貫くことこそ、 当時の国民政府にとっても中国共産党にとっても共通の実践的課題であった。

 ただ南京における「大虐殺」を非難しつづけるだけでは十分でなかったのであり、事件の全容解明は抗戦勝利後にまわさざるをえなかったのである。

(『南京事件を考える』所収 P174)



 以上簡単にみてきたように、「南京大虐殺」について、中国共産党は知っていたし、彼らの刊行物で報道し、言及していたのである。これは資料に裏付けられた厳然たる事実である。

 高木氏のように『抗戦中的中国軍事』だけを見て「どこにも大虐殺はでていないのである」などと述べられるのは、大変早計と言うほかない。 たしかに高木氏が、「もし万一〔大虐殺が〕あったとしたら、中国共産党は黙っていなかったであろう」と害かれている通り、中国共産党は当時から黙っていなかったのである。

 しかし、黙っていなかったとしても、当時の中国共産党は、「南京大虐殺」が中国各地の日本軍による数多くの残虐事件のなかでもきわだって突出したできごとであるとの認識は稀薄であった。

 とくに延安の中国共産党中央は、中国各地の、とりわけに華北の八路軍地区における日本軍の残虐行為にかなりの注意を払っている反面、南京事件のもつ被害規模の大きさ、 「全人類に対する宣戦」という認識や当時の国際的反響に関する認識に欠けるところがあったのも事実である。

 そのため、それ以後の日中戦争期間、「南京大虐殺」について直接言及されることは多くなかった。中国共産党が日中戦争における日本の重大な戦争犯罪として「南京大虐殺」を位置付け、 数十万人殺害説を明確に打ち出すのは戦後のことである。

(同 P180)
 



 まずは適切な解説である、と言えるでしょう。


 中国は事件当時、世界に訴えるだけの材料を持ち合わせなかった。また「南京事件」のみを特別視することもなかったし、中国にとって「最優先課題」でもなかった。 そして結果として、「提訴」のタイミングを逃がしてしまった。そんなところが、実態であったと思われます。

 中国が世界に「南京における日本軍の残虐行為」を訴えることができたのは、中国側独自の調査が可能となる、「戦後」を待たなければなりませんでした。




 「毒ガス」に関する提訴


 こちらは、余談になります。

 田中正明氏は、こんなことを書きます。

田中正明氏『南京事件の総括』より

 この年の5月9日から第101回国際連盟理事会が開かれるが、支那はこの理事会で、日本軍の空爆と、山東戦線における毒ガス使用を非難する提案を行い、 これが満場一致可決されている。

 すなわち、日本軍の南京空爆の非難や、山東における毒ガス使用の非難決議はあっても、“南京虐殺”の非難提訴はなかったのである。議題にさえのぼっていないのである。


 どうも田中氏は、「101回国際連盟理事会」の記録を入手できなかったか、あるいは適当なことを書いているようです。

 まず単純な事実誤認ですが、「101回国際連盟理事会」では、「空爆」に関する決議は行われていません。また、「毒ガス使用」についても、中国側の意図する「日本非難」ではなく、一般的な「使用禁止の確認」の決議しかなされていません。 そして、「山東戦線における毒ガス使用」は、決議文に折り込まれていません。


 この時点では、中国にとって「毒ガス問題」が喫緊の課題として浮上していました。また、中国の「南京に関する情報不足」「南京のみを問題とするという発想の薄さ」という状況は、基本的には変わっていません。
*「100回理事会」の2月時点に比較すると、「南京脱出者からの情報」は増えていたかもしれません。 政府部内に「南京問題調査班」でもつくって本格的な調査を行えば、あるいは「提訴」に足る情報も集まったのかもしれません。 しかし先に述べた通り、中国の関心は、一義的には「抗日戦争勝利のために、国際社会の支援を求める」ことにあり、個別問題についてのそこまでの本格調査は、ついぞ行われることはありませんでした。

また実際問題として、 「1938年5月」では、「南京」問題を提訴しようにも、タイミングを逸してしまった感は免れないでしょう。

 以下、「毒ガス」問題がどのように提訴され、その結果どのような決議が行われたのか、見ていきましょう。




 理事会に先立ち、中国は、連盟に対して三回にわたり「通告」を提出しました。

赤松祐之『昭和十三年の国際情勢』より


 五月五日附通告は、客年十月二十七日附通報以後に発生せる日本軍の非戦闘員に対する無差別爆撃、殺傷其の他暴行に付通報するものなりとて、 客年十月二十八日より本年四月二十九日に至る四十数件を羅列して、之を総会、理事会及諮問委員会に送付方を求めたものである。

 右通告に列挙せられたる事件の大部分は、爆撃に関するもので、所謂南京及び抗州に於ける暴行及び掠奪、山西及び山東に於ける虐殺並に十月末羅店に於ける毒瓦斯の使用等を挙げ、 爆撃に関しては、パネー号及びレディーバード号事件並に漢陽に於ける連盟防疫隔離病院の攻撃(四月二十九日)の外に、第三国人関係のものとして、蘇州に於ける宣教師の死亡(十二月十二日)、 鄭州に於ける米国メソジスト派附属病院の破壊(二月十五日)、伊太利宣教師の死亡(三月八日)及び臨沂に於ける独逸教会に命中等の事例を列挙し  支那人関係としては南昌の医科大学及病院の破壊並に長沙の湖南大学、清華大学の破壊の外婦女子等の死亡せる多くの事例を挙げて居る。


 五月九日附通告は、日本軍が山東戦線に於て毒瓦斯を使用したと云ふもので要旨左の如くである。

 山東に於ける日本軍は、最近屡々毒瓦斯を使用せるが、支那政府の得たる情報に依れば、日本軍は大規模なる毒瓦斯使用の準備を着々進め居り、 四月十九日神戸出帆青島に向へるモトマ中将指揮の独立機械化部隊中の二個大隊は化学戦の為め特別に編成せられ居り 菊池少将部隊にも化学戦隊を包含し居るのみならず、 同種の部隊は続々派遣せられつつあり。

 毒瓦斯使用が現行国際条約のみならず、人道的考慮に反することは勿論であるから、本件通告を直ちに連盟総会、理事会及諮問委員会に送付し其の注意を喚起せられ度い。


 五月十三日附通告は、十二日附広東市長来電として、十二日、日本空軍が広東の住居地域を爆撃し、婦女子を含む非戦闘員を殺害せることを通報し、此の種爆撃を国際条約及び総会決議に違反せるものとして誹謗したるものである。

(P126-P127)


 この間、5月10日理事会では、顧維鈞は



 支那の望む所は物質的援助と有効なる協力を得て、速かに侵略を終止させることである。 ・・・日本軍は益々侵略の猛威を逞ふしつつある。日本の侵略を阻止し、連盟の原則的勝利を齎らすため、理事会に於て規約を適用し、総会及理事会の決議を具体的に実施することを要望する。

(同上、P128)


と演説し、前理事会に引続いて、連盟の「行動」を要求しています。




 さて、上の通告文では、従来の「空爆問題」「南京などの暴行」に加えて、「毒ガス」問題が加わったことが目を引きます。

 中国から見ると、「毒ガス」は、大きな軍事的脅威だったのでしょう。 その後の武漢攻略戦では、日本軍は「375回」の毒ガス使用を行い、中国軍に大きな打撃を与えています。


 中国は、大規模な化学部隊が中国の戦場に向かっている、という情報を得ていたようです。この情報の真偽は不明ですが、中国にとっては、緊急に対応しなければならない課題であったことは間違いありません。



 そこで中国は、日本軍の毒ガス使用を防止すべく、上の通り「注意を喚起」することを求めました。しかしこの情報は、中国側独自のもので、他の諸国は事実確認のしようがありません。 日本はこれに対して、「明白なる虚偽宣伝」とのコメントを出しています。

 結果として5月14日の理事会決議内容は、このようなものになりました。

1938年5月14日 国際連盟第101回理事会決議

第一部 連盟国が総会理事会決議勧告を実効的ならしめるため最善を尽し、且右決議に基く支那の要請には真剣な同情的考慮を払ふように要請する。 支那が日本の侵略行為に対し独立、領土保全に努力しつつあること並びに支那国民の困窮に対し同情の意を表する。

第二部 毒瓦斯の使用は国際法により禁止されて居り、その使用は世界文明の反対を受くべきものである。 各国政府にして事件に関し情報を入手したる場合は連盟に対し通報すべき旨要請する。

(同上、P128-P129)



 中国にとって、「日本軍の毒ガス使用」の情報は、大きな軍事的脅威でした。そこで、事前に阻止すべく、国際連盟への提訴を行いました。

 しかし「日本軍の毒ガス使用、および今後の使用可能性」は、中国だけの「独自情報」であり、諸国にとっては確認のしようもありません。 結局国際連盟は、「毒ガスの使用は国際法により禁止されて」いる、という、一般的な決議を行うにとどまりました。


(2009.7.19)


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