『思考錯誤』投稿集 2007年


「『思考錯誤』投稿集 2008年-2009年」の続きです。 

 

<目次>


[5031]毛沢東の「感謝」:開高健版 - 07/12/22(土) 7:14 -

[4958]ちょっと息抜き 新コンテンツ  - 07/12/22(土) 7:14 -

[4984]浦岡偉太郎「身辺記」(昭和14年発行) - 07/11/23(金) 7:59 -

[4988]Re(1):浦岡偉太郎「身辺記」(昭和14年発行) - 07/11/24(土) 11:01 -

[4957]Re(1):処刑目的の証明 - 07/11/17(土) 7:39 -

[4985]秦Vs東中野 幕府山事件論争 - 07/11/23(金) 8:20 -

[4987]Re(2):秦Vs東中野 幕府山事件論争 - 07/11/24(土) 10:59 -

[4848]岡村大将会見記 南京日本人収容所新聞「集報」より - 07/9/15(土) 7:44 -

[4721]Re(1):続・お尋ねしたいことが - 07/7/21(土) 7:43 -

[4735]おまけ:ラーベ編 - 07/7/22(日) 14:01 -

[4678]何応欽軍事報告 - 07/7/7(土) 18:03 -

[4017]夏淑琴さん事件 「年齢」考 - 07/2/15(木) 16:16 -

[3917]Re(1):t-hideさんの質問を転記しました。 - 07/1/20(土) 21:54 -

[3792]平頂山事件の犠牲者数 田辺説の検討 - 07/1/3(水) 9:40 -

[3828]平頂山村の人口 - 07/1/7(日) 16:26 -

[3845]Re(1):平頂山村の人口  - 07/1/8(月) 17:36 -

[3873]とりあえず、コンテンツアップのお知らせ - 07/1/14(日) 8:52 -

〔3910]Re(2):平頂山村の人口  - 07/1/20(土) 18:47 -





 
[5031]毛沢東の「感謝」:開高健版

  - 07/12/22(土) 7:14 -


Apemanさんが大活躍中の「南京の真実」掲示板で、こんな投稿を見かけました。

>開高健の過去と未来の国々という著書に1960年5月から7月まで中国に招待された時の日記が書いてあります。〔略)

>毛沢東との会話は5ページにわたって書いてありますが、その中で毛沢東いわく「私たちは河上肇氏の政治経済学など、日本文を通じてマルクスを学びましたが、日本軍と蒋介石にも教えられたものです。日本軍と蒋介石があんなに徹底的にやってくれなかったらとてもここまでは来れますまい。 日本軍は皇軍といって神聖な軍隊という意味らしいですが、まったく神聖な軍隊でした。感謝申上げますよ。よく教育してくれました。いま日本を教育しているのは反面教員のアメリカ人です・・・」と書いてあります。


一瞬、毛沢東は日本軍に感謝している、という例のやつだと錯覚します。
http://yu77799.g1.xrea.com/nicchuusensou/moutakutou.html

早速、開高健の「過去と未来の国々」を確認してみました。以下、毛沢東の発言です。(P113-P114)

けれど、いずれにしても一〇九年かかって私たちはだんだんと自覚して自分たちを解放してきました。日本人もまただんだんと自覚してゆくことでしょう。

安保条約撤廃にはきっと成功します。時間はかかるかも知れませんが、きっと成功します。いつ、ということはいえませんがきっと成功します。

戦争という方法を使わなくても彼らを追いだすことはできると思います。世界史にその先例はありませんが、あなたがたがその先例をつくればいいのです。

インドはその先例の一つです。みなさんはみなさんにふさわしい方法を見つけだすでしょう。『国民会議』という機構もその一つです。

全国的な持久的な闘争、ストなどを十八回も日本は打っていますが、これも世界にあまり例がないと思います。相互に学習しあおうじゃありませんか。

私たちは河上肇氏の政治経済学など、日本文を通じてマルクスを学びましたが、日本軍と蒋介石にも教えられたものです。日本軍と蒋介石があんなに徹底的にやってくれなかったらとてもここまでは来れますまい。

日本軍は皇軍といって神聖な軍隊という意味らしいですが、まったく神聖な軍隊でした。感謝申上げますよ。よく教育してくれました。いま日本を教育しているのは反面教員のアメリカ人です・・・


要するに、日本軍と蒋介石は「反面教員」として毛沢東たちを「よく教育して」くれた、と言っているわけですね。「まったく神聖な軍隊でした。感謝申上げますよ」というのは、「皮肉」と捉えておくべきところでしょう。

そのうちコピペであちこちに広まるかもしれませんので、今のうちに釘をさしておきます。




[4958]ちょっと息抜き 新コンテンツ

- 07/11/18(日) 5:17 -
 

小ネタの材料がいくつかたまっていましたので、ミニコンテンツとしてアップしました。

1.なぜ「証言」しないのか 「加害証言」を拒む土壌(「実名で証言すると・・・」増補改訂版)
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/shougen.html

「南京事件」の実態を調べる時大きな壁になるのが、「加害証言」を世に出す困難さです。この点は、多くの研究者が共通して語る「常識」なのですが、掲示板等ではこれを理解せず、明らかに事実に反する「タテマエ証言」だけをタテに「日本軍の軍紀は正しかった」と主張する方が存在します。

このコンテンツでは、「加害証言を拒む土壌」をテーマに、各研究者の調査体験、また実名証言を行った方々に対する圧力について見ていきます。


2.石川達三「生きてゐる兵隊」昭和二十三年版序文
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/isikawa.html

>私は南京の戦場に向ふとき、できるだけ将校や軍の首脳部には会ふまいといふ方針をもつて出発した。そして予定通り下士官や兵のなかで寝とまりし、彼等の雑談や放言に耳を傾け、彼等の日常を細かく知つた。将校は外部の人間に対して嘘ばかり言ふ、見せかけの言葉を語り体裁をつくろふ。私は戦場の真実を見ようと考へて兵士の中にはいつた。

「将校は外部の人間に対して嘘ばかり言ふ、見せかけの言葉を語り体裁をつくろふ」の部分は、戦後における軍将校たちの「タテマエ証言」群を想起させ、興味深いものがあります。


3.(こちらはまだつくりかけ、未公開)極東軍事裁判における「偽証罪」 菅原裕氏「東京裁判の正体」よりhttp://yu77799.g1.xrea.com/worldwar2/sugawaragishouzai.html

>すなわち「検事側も弁護側も、いやしくも証人を法廷に連れて来るには、あらかじめ十分に調べて、その最も有利な部分を整理して、証言せしむべきだ。法廷に来てから混雑するようでは、法廷のためにならぬ。もしそれ偽証であるか、どうかがわからぬようで、どうして裁判官がつとまるか。われわれは陪審員ではなく、本職の判事である」というにあった。

>裁判所の心証を害さないように、証言前には証人に会見することさえ遠慮するように習慣づけられたわれわれ日本人弁護人としては、この徹底した当事者主義の実行には、当初奇異な感を催したが、裁判長は最後までこの方針を貫き、四百十九人の法廷証人、七百七十九人の宣誓口供書の取り調べに際し、ただの一度も偽証の疑いを挟んだり、偽証罪を振りかざしたことはなかった。

これは証人をして屈託なしに十分に証言をなさしめる考慮からで、人格尊重の点からいっても、真実発見の意味からいっても肝要なことである。

よく「偽証罪のない東京裁判」という言い方を見かけますが、正確には「ほとんど偽証罪を適用しなかった」という話であり、菅原弁護人もこの方針に納得しているようです。

ただ私も勉強不足で、これがどこまで弁護側の一般的な認識であったかは不明ですので、もう少し調べてみようと考えています。公開コンテンツとするのはそれから、ということで。




[4984]浦岡偉太郎「身辺記」(昭和14年発行)

 - 07/11/23(金) 7:59 - 


浦岡偉太郎という方の「身辺記」という本を入手しました。発行は昭和14年。かなり痛んだ本で、読んでいるうちに中のホッチキスがとれてページがほつれ、バラバラになってしまいました(^^;

「所属部隊」は明記されていませんが、昭和13年3月に華北(北京付近)に駐留、その後華南に移動、6か月後に負傷し、善通寺陸軍病院に入院していたそうです。 (このあたり、読み直して正確に投稿しようと思ったのですが、この本の状態ではこれ以上ページをパラパラめくるのが怖い)


「生きてゐる兵隊」発禁事件後の時期の本ですから、この種の従軍記録は、「自分はいかに立派に戦ったか」「いかに民衆に親切にしたか」という「タテマエ」に終始するのが普通です。

しかしこの本、結構危なっかしい。4月27日、「匪賊」討伐に出た時の記述です。

終わつてから自棄半分の実砲射撃を行ふ。この辺恐らく共産分子でない者は無いと言つて差支へない位だそうである。何処を撃つて、誰に中つても構はないのである。大隊砲、重機、軽機、擲弾筒をぶつ放す。胸のすく思ひがして帰途につく。(P3)

「何処を撃つて、誰に中つても構はないのである」−戦前のこの時期、ここまで「ホンネ」を書いてしまうのも、ちょっとスゴいかもしれない。

こんな記述もあります。

少時して此の部落の掃蕩をやつたが、チエツコの逃げ場が判らないので不気味であつた。馬鹿みたいな爺さんが一人居て何か判らん事を言ふ。大隊本部の権と言ふ通訳が怒つて突き殺して了つた。(P33)



流しを作るにしても材料などある筈がないので附近の民家へ行つては羽目板をはがして来たり、空家の戸を外して来たりするより他はなかつた。

幹部は民家から何かとつて来てはいかんと言ふが、それを取つて行かなけりや他にはそれに代るものがないし、持つて行かなけりや怒られるので止むを得ず外して持つて行くより仕方がないのである。無理な注文である。

又さう云ふ事の好きな兵隊もゐるもので、支那人をおどかしては悠々と持ち去る。ひどい事をするものだ。(P77)

おいおい、そこまで書いて大丈夫なのかい、とこっちが心配になります。

*「ゆう」解説 この本については、その後、コンテンツ「資料:日中戦争における民間人殺害」でも採りあげました。




[4988]Re(1):浦岡偉太郎「身辺記」(昭和14年発行)

- 07/11/24(土) 11:01 -

前の投稿に補足しておきます。


浦岡偉太郎氏は、戦後は結構有名なスポーツ評論家として活躍された方であったようです。検索すると、「球界八十年の歩み」とか、「大相撲五十年史」とかがヒットしますね。

よく見るとこの本、出版社名・発行日等を記した「奥書」がありません。ひょっとしたら、「個人出版」だったのかもしれません。国会図書館にもないようですので、かなりのレア本かも。

ちなみに前書きはこんな感じです。

******************

帰還の挨拶に代へて

補充兵の僕が聖戦に参加する事になつて、昨年の三月から一年支那で暮してきた。病気で還されて来て面目がない。戦地に残つて働いてゐる戦友や、勇敢に戦つて戦死した親友に対して申訳ない気持である。今度征つたら僕も勇敢に闘つて面目を立て直さうと思つてゐる。

僅か一年、それも戦つたのはたつた半年だつたので全く僕は意気地のない兵隊になつて了つた。でも此の短い期間中にも幾多の貴い経験を得た。今後はこの体験を生かして精々働かうと思つて居る。

色々戦さの話もしたいが、当分皆さんにお会ひする事も出来まいと思ふので、土産噺のつもりで之れを書いて見た。何も兵隊の苦労話を書いて同情して貰はうとも思はないし、ほらを吹いて自分が働いたと思つて貰はうとも思はない。事実御国の為にも東洋永遠の平和の為にも僕がなつたとは思へないのである。枯木も山の賑ひと言ふ事がある。僕は皇軍の一員数に過ぎなかつたのである。

僕は唯之れによつて支那に於ける僕の生活を、僕を知つて居る人達が知つて笑つて呉れればそれでいいと思ふのである。

昭和十四年六月

善通寺陸軍病院にて 浦岡偉太郎

******************




[4957]Re(1):処刑目的の証明

- 07/11/17(土) 7:39 - 

*「ゆう」解説 当時私は、東中野修道氏『再現 南京戦』の批判に取り組んでいました。

そのうち「幕府山事件」部分について、その内容のさわりを「思考錯誤」板に投稿してみたところ、タラリさんに熱心なレスをつけていただき、結果としてコンテンツ作成のための「予備討論」をさせていただくことになりました。

その結果はこちらに結実しました。図らずも「幕府山事件論争の解説」ページのようになってしまいましたが、以下、ここではタラリさんとのやりとりのうち、本コンテンツに吸収しきれなかった部分を中心に掲載しておくことにします。

Clawさんのところでこちらが紹介されたようです。私としては、「大学のゼミ討論」のような気分で気楽に「思いつき」を言える場にしたかったので、ちょっと困ってはいるのですが(^^;

*「ゆう」解説 「Clawさんのところ」というのは、ブログ「CLick for Anti War 最新メモ」のことです。なかなか面白く、私も「お気に入り」に入れて愛読させていただいています。Clawさんにご紹介いただいたのは「幕府山事件」をめぐる議論で、その内容は 拙コンテンツに掲載してあります。(内容が重複しますので「投稿集」には含めていません)

以下も「気楽な思いつき」ですので、どうぞ、そのつもりでお読みいただくようお願いします。


「解放目的かハプニングか」―「人数」問題と並び、幕府山事件論議のハイライトです。

例えば秦郁彦氏がどう言っているのかを確認すると、「南京事件」旧版では、

この「暴動」が「釈放」の「親心」を誤解した捕虜の疑心から起きたのか、実は「処刑」を計画した日本側のトリックを感づかれて起きたものか、は微妙なところである。


と言いつつも、

山田支隊関係者の多くはハプニング説をとるが、もし釈放するのならなぜ昼間につれ出さなかったのか、後手にしばった捕虜が反乱を起せるのか、について納得の行く説明はまだない。

と、どちらかといえば「殺害目的」説に傾いたような書き方でした。(P147-P148)

増補版では、こんな記述が見られます。

これを計画的殺害と見るか、両角連隊長の回想記が強調するように釈放の意図を誤認しての反抗から生じた突発的事故なのか、見解は依然として割れている。概して大虐殺派は前者を、マボロシ派と中間派は後者に傾いているが、「どちらだったのか、私にはよくわからない」が 「どうやら解放意図が一転しての失敗だったようである」と書く阿部や、「皆殺しにしようとする意図も計画も感じられない」とする板倉のように迷う人がいるのも、やむえないのかもしれない。(P316)

秦氏は慎重に断定を避けてはいますが、これを読んだ読者は、「中間派」という言葉に幻惑されて、何となく「ハプニング」説の方が有力であるかのように感じてしまうかもしれません。

「増補版」加筆部分の全体に言えることですが、秦氏は、基本的な「事実認識」は維持しつつも、「可能な事実の幅」の範囲で、何となく「否定論」的方向に自論を修正している印象があります。(このあたりの話も、そのうちやりたいですね)


タラリさんもご指摘の通り、「ハプニング説」をとるとすると、山田支隊の行動には首を捻らざるをえないところがいくつも見えてきます。

特に「船の用意」が問題でしょう。船も満足に用意できていないのにどうやって「対岸に渡そう」としたのでしょうか。

例えば「両角手記」には、「軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ」という表現が見られます。捕虜を対岸に渡して往復するのにどのくらいの時間がかかるかわかりませんが、仮に乗降時間を含めて一組往復30分とすると、4000人を運ぶには13-20時間を要します。実数を8000人とすると、その倍です。

全員の輸送には、夜が明けるどころか、とんでもない時間がかかってしまいそうです。全員の輸送が物理的に可能だったか、ということはさておいても、明るくなって「釈放」現場を他の部隊に発見されたらどうするつもりだったのでしょうか。


何で大量の捕虜を苦労して「殺害現場」に連行したのか。単に「釈放」するだけならば、船で対岸に渡す、なんて非現実的なことは考えずに、四十五連隊の例のように適当なところで「あとは自分でどこにでも行け」と釈放してしまえばよかっただけの話ではないか。また、エリート将官であったはずの山田支隊長や両角連隊長が、「抗命罪」のリスクを負ってまで本当に「釈放」しようとしたのか。疑問は尽きません。


そして私がもう一つ、大きく疑問に思っているのは、「ハプニング」で機関銃掃射を行ったあと、わざわざ「生き残りはいないか」と倒れた捕虜群を銃剣で突き刺して歩いている事実です。

「解放」目的であったのならば、そこまでのことをする必要は全くないと思うのですが・・・。


いずれにしても、例え「ハプニング」説に立つにしても、これは「虐殺」です。控えめに言っても「過剰防衛」ですし、その後で「生き残りの捕虜を銃剣で刺して歩いた」という事実は、明らかな不法殺害です。

どうも山田支隊幹部の証言には「仕方がなかった」というニュアンスが見え隠れしますので、念のため。


なお、

>肯定派は、解放説に対して「『対岸』に渡す(解放する)とすれば、中国軍と一緒になってまた、敵対する恐れがある、山田支隊がその危険を知らないはずがない」という反論をしています。12月16日の魚雷営での処刑は揚子江北岸(左岸)への解放と見られますから、否定派の反論はかなり苦しいと思います(まだこれに対する反論を読んだことはない)。

とありますが、一応板倉氏はこんなことを言っています。(「南京事件 虐殺の責任論」=「日中戦争の諸相」所収)

捕虜を揚子江対岸に釈放することについて、ゲリラ化や原隊復帰 ( 再戦力化 ) の恐れがある危険を犯すはずはない、という主張がある。
 しかし、南京占領当時は、もうこれで戦争は終わり、という希望的観測が一般的で、揚子江対岸での長期駐留の予定はなく、将来の治安への心配より、現実に今困っている捕虜の処理の方が切実な問題であったと思われる。(P194)
説得力ある説明かどうかは、また別の話ではありますが。




[4985]秦Vs東中野 幕府山事件論争

- 07/11/23(金) 8:20 -

『諸君!』2001年2月号に、「問題は「捕虜処断」をどう見るか」という座談会が掲載されています。

参加者は、秦郁彦氏、東中野修道氏、松本健一氏。ご存知の方はご存知でしょうが、非常に面白い内容ですので、そのうち「幕府山事件」の部分を抜粋紹介します。


ご覧の通り、秦Vs東中野の議論は、ほとんど「プロ対アマ」の印象があります。議論としては誰の目にも秦郁彦氏圧倒的優勢、東中野氏の大苦戦でしょう。


座談会『問題は「捕虜処断」をどう見るか』より (『諸君!』2001年2月号掲載)


幕府山で虐殺はあったのか


 そもそも、第十六師団では「戦闘詳報」が一部の連隊のものしか残っていないから、正式の命令があったかどうかは水掛け論になってしまう。南京にいた憲兵の証言も今まで見つかっていませんし、日本側のデータは十分とは言えません。埋葬記録にしても、かなり杜撰なところがあって信頼できない。

 だからといって日本軍は推定無罪であるという理屈にはなりません、今から刑を執行するのなら、挙証責任の関係で大いに議論すべきところでしょうがねえ。(P140)

東中野 でも歴史学で過去の出来事を考えるならば、過去の問題はすべて記録に基づいて発言すべきではないですか。

 だとしたら、例えば、上海派遣軍兼中支那方面軍情報参謀の長勇中佐が、幕府山で捕らえた一万数千人の中国人捕虜〕の扱いに苦慮していた第十三師団の山田支隊に対して、「始末せよ」と指示した事実をどう考えますか。

東中野 まず事実経過を考えると、一九三七年十二月十四日の段階で、捕虜を数えてみたら一万四千七百七十七名だったという。中には女兵士や老兵や市民も混じっていたから、そういうのを半分弱ぐらい逃がしてやった。残りの八千人ほどを収容していたら、十五日に放火があって、かなりの者が逃走し、残りは四千人ほどとなった。従って、日本軍の支配下に残った捕虜は四千人程度であったという認識でよろしいでしょうか。

 ちょっと留保したいですね。実数に関しては何とも言えません。

東中野 概数はそんなところだと思いますが、山田旅団長は、十五日に本間少尉を司令部に派遣したところ、「始末せよ」との命令を受けて困惑したわけです。確かに、山田日記には「皆殺セトノコトナリ各隊食糧ナク困却ス」と書いてある。

 しかし、この本意は、"皆殺しせよとはいうものの、自分としてはしたくないから何とか戦場から追放する処置にしたい、しかし、捕虜のための食糧もなくて困窮している"というニュアンスだった。その証拠に、山田はそういう処刑をしたくなくて、わざと十七日夜に揚子江南岸に捕虜を集合させて、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り解放せよとの指令を出していたわけです。

 そこで、指令通り実行し、まず数百人の捕虜を乗せて揚子江の中流まで行ったところ、向こう岸にいた中国兵が日本軍の渡航攻撃と勘違いして発砲してきたために、残っていた捕虜が、仲間は川中で銃殺されていると誤解して騒ぎだし混乱の極みとなり、日本軍もやむを得ずに制止のために射撃したりしたというのが真相だったわけです。これは投降兵の処刑を命じられた両角連隊長の手記からも明らかです。この件については、拙著『「南京虐殺」の徹底検証』( 展転社 ) でも詳述していますが、幕府山での捕虜の扱いを日本軍の組織的な捕虜殺害命令だという虐殺派がいますが、とんでもない誤解というべきでしょう。

秦 ただ、本当に釈放するつもりだったら昼間やればよかった。ぐあいの悪いことは大体夜やるものですからね。

東中野 まいったなあ(笑)。
(P141)

 わざわざ問い合わせをしてしまったために、軍司令部から殺せという指示が出たわけですが、そんなことをしなくても逃がしてやりたかったら、不注意で逃げられてしまったということにすればよかった。本当の事実経過に関しては、何しろ第十三師団の人達がみんな口をつぐんで言わないから困る。釈放しようとしたのかもしれないけど、結果として多数の捕虜を殺してしまったんですね。 軍司令部は自分たちの命令通りに処理されたと思っていましたからね。長勇にしてもそう信じていた。ですから、そのあたりの枝葉末節をあれこれ議論しても詮ないことだと感じます。(P141-P142)

 舟で逃がそうとしたということに関しても、舟の準備をした形跡はないし、広い揚子江の向こうから闇夜に鉄砲で中国兵が撃ってきたために捕虜が反乱したという説明も変な話ですよ。殺されそうになっていたから彼らが反乱したと推定するのが無難でしょう。

東中野 しかし、両角連隊長その他のその他のそういう手記が残っているのに、それを信じないのですか。

 真実の部分もあるかもしれませんが、当事者の手記である以上、眉に唾しながら検分する必要はあります。自己弁護の要素も入ってくるでしょう。舟にしても、当時、あるのは数人乗り程度の漁船が数隻ですよ。そんなもので、どうやって四千人という捕虜を運べるんですか。日本海軍の船を頼んだ形跡もありません。 私は、単に揚子江岸に連行して、そこで殺す計画だったと見るべきだと思います。死体も揚子江に流せばすむ。少なくとも、「殺せ」という命令があり、惨憺たる結果が生じたことを考えると、捕虜虐殺の責任は日本軍にあるというしかない。

東中野 しかし、長勇中佐の命令があったなんて本当ですか。情報参謀が何でそんな命令を出せるんですか?

 権限は確かにない。しかし、当時の日本軍は下剋上の風潮が高まっていました。石原莞爾だって、何の権限もない作戦参謀が満州事変を起こしたんですからね。それに比べれば、その種の越権行為はしょっちゅう起きていたと見てもいい。

東中野 そういう類推の一般化も危険ではないですか。

 いや、ぞれは『南京事件』にも書きましたが、裏付け証言が多々あるんです。そういう無茶苦茶な軍人がいて、松井大将も抑えることができなかった。しかし、そうした蛮行の最終的な責任はやはり彼にあったわけです。

松本 松井大将が、良識的で人情家であったのは間違いないでしょうが、現地の一指揮官が突出して独断専行で、現地調達という名の掠奪や捕虜殺害をやっていった事実は否定のしようがない。だから中島なり長勇がそういう非常識な命令であっても、出してしまうと、それが実行されていくという現実はあった。(P142)



以下、「ゆう」の感想です。

1.東中野氏、「中には女兵士や老兵や市民も混じっていたから、そういうのを半分弱ぐらい逃がしてやった」なんて思い切りトンデモを言っていますね。「女兵士や老兵」を釈放した、というのは初耳です。座談会の気安さで、口が滑りましたか。

2.ネットでときどき、秦氏との議論で東中野氏が「まいったなあ」と言った、という話が出てきますが、どうも元ネタはこの部分であるようです。

3.途中からの秦氏の発言が圧巻です。秦氏ははっきりと、「私は、単に揚子江岸に連行して、そこで殺す計画だったと見るべきだと思います」と述べています。少なくともこの時点では、秦氏は「計画説」に傾いているわけですね。

4.「少なくとも、「殺せ」という命令があり、惨憺たる結果が生じたことを考えると、捕虜虐殺の責任は日本軍にあるというしかない」という発言も注目すべきところでしょう。

5.東中野氏の、「しかし、両角連隊長その他のその他のそういう手記が残っているのに、それを信じないのですか」には思わず笑ってしまいますね。2ちゃんあたりのネット否定派と言い回しがそっくりです。
 


[4987]Re(2):秦Vs東中野 幕府山事件論争

 - 07/11/24(土) 10:59 -

*「ゆう」解説 以下、私のレスに一部事実誤認がありましたので(タラリさんにご指摘いただきました)、読者の方の混乱を避けるために、その部分をカットしています。


 本当だ(^^; よく読むと、秦氏、結構いい加減なことを言っていますね。

1.長中佐が処刑を命令した事実は資料からは確認されない。

実は私は、「処刑命令を出したのは長中佐」であると思い込んでいました(^^; もう一度、資料に当たり直すと・・・

鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』より

しかし、話の順序をよくきいてみると「始末せよ」といった当の参謀が、長大佐であったことは間違いない。長大佐。三月事件の理論的指導者といわれ、右翼革命成立の暁には、警視総監に擬せられていたという。その押しの強さと狂信的な姿勢とは定評があったが、頭は切れる人物だった。

長大佐のクラス・メートの一人であった日高氏の話によると、かつて満州の炭坑にいて人手が足りないと知ると、 自分で奥地に出かけていって、徴発した男の家を自の前で焼き払ったそうだ。それで里心を失くさせ、働かせようという意図だったのだろう。

 彼は山田旅団長に、捕虜を釈放した時の後難について、いろいろ実例を交えて送ってきたそうだ。無論、山田氏は「口が割けても」という強い態度で、長主任参謀の名前は口にしなかった。だから、これは、戦史を読んでいての僕の推論である。(P193)



板倉由明氏『南京事件 虐殺の責任論』より

一九八三年に筆者が聴取した、当時第十三師団作戦参謀・吉原矩中佐の証言によれば、鎮江で渡河準備中の師団司令部では、「崇明島」に送り込んで自活させるよう命じたという。崇明島は揚子江河口の島だが、草鞋洲の記憶違いとすれば、正に「島流し」 ( 栗原スケッチの題 ) である。(P194-P195)

「殺害命令は長中佐が独断で出したと言われますが」と筆者が水を向けたのに対し、吉原が横を向いて「長はやりかねぬ男です」と言った暗い顔が今も印象に残っている。

(『日中戦争の諸相』P193-P194)

確かに、みんな「推定」のレベルで、決定的なものはありませんね。小野賢二氏などは、こんな批判を加えています。(「十三のウソ」)

この視点は上海派遣軍司令官だった皇族の朝香宮鳩彦王中将の責任問題を意識してのものだろうが、参謀一人の独断命令や、山田支隊単独の判断で捕虜約二万人の大量虐殺など実行できるわけがなく、軍命令によって計画的・組織的に行なわれたのである。事実、軍命令であったことは陣中日記にも記述されている。また、当然のことだが、虐殺された人々にとって、軍命令であるか否かの区別は無意味でしかない。(P145)


ついでに、「豪胆の人 長勇伝」からです。ほとんど「見てきたようなウソ」の世界ではありますが、面白いので紹介しておきます。

阿部牧郎氏『豪胆の人 長勇伝』より

 あくる日の朝(「ゆう」注 17日入城式の翌日だが、明らかに日付がおかしい)、第十三師団の山田支隊長副官から方面軍司令部の長へ電話が入った。

「一万五千の捕虜の処置に困惑しています。師団に問合せると、方面軍に訊けというだけです。明確な指示をいただきたい」

 きいて長は怒りにかられた。

 きのうも第六師団と第百十四師団から同じ問合せがあった。使者を飛ばして直接訊いてくる連隊もいくつかある。答えられるわけがない。殺す以外にどんな手段があるというのだ。捕虜の人道的なあつかいをきめたジュネーブ協定など、貧乏国どうしの戦争の現実のまえではカラ念仏にもならないのだ。

 とっさに長は肚をくくった。だれかが責めを負わねばならない。逃げまわっても解決にはならないのだ。おれが責任をとってやる。おれが悪者になる。長勇が非情の決断をすることで方面軍司令部も第一線部隊も救われるのだから、もって瞑すベしである。

 呉淞の岸壁の向うにあった日本兵の死体の山を長は思いうかべた。土に杭を突き刺し、戦死者の鉄かぶとを杭にかぶせただけの、日本兵の即席の墓を、上海付近でいったい何百見たことだろう。蘇州河の近くにも、呉淞に負けないほど多数の日本兵の死体の山を見てきた。これが戦争なのだ。上に立つ者は、地獄に堕ちる覚悟のうえで、戦場にふさわしい悪鬼の決断をしなければならない。(P234)

「やってしまえ。かたづけるのだ」
はっきりと長は告げた。

 近くにいた松井軍司令官の副官角良晴少佐がおどろいて駈け寄り、長を制止した。

 軍司令官室へ角は駈けこんだ。まもなく長は呼ばれてその部屋へ入った。

「いかんぞ。捕虜を殺してはならぬ。人道にもとるまねは禁止する」
顔を赤くして松井大将は命令した。

「わかりました。でも捕虜はどうしますか。明確な指示をくれと第一線部隊はいっています」
松井を腕みつけて長は訊いた。

何秒か松井は沈黙した。やがて苦しそうに顔をあげ、解放しろ、武装解除して故郷へ帰してやるのだ、と答えた。

「解放すれば捕虜は中国軍に復帰します。彼らによってわが将兵が何百、いや何千と殺されることになる。それでも良いのですか」
「わかっておる。それでも解放だ。仕方がない。受入れの能力がないのだから」

わかりました。答えて長は退去した。

事務所へ帰って受話器をとり、さっきの指示は一時取消しだと電話の相手に告げた。

三十分後、長の席の近くに人がいなくなった。彼は山田支隊へ電話をいれ、捕虜を射殺せよとあらためて命じた。報告は不要、とつけ加えた。松井に知らせずに処分するのが、松井にとっても最良の方法なのだ。

相手は困惑していた。ほかに手段がないか考えてみます。そう答えて電話を切った。

その日、午後二時から南京城内飛行場で全軍の慰霊祭がおこなわれた。(P235)


>秦氏の見解のおかしな点の第一は捕虜八千人説です。いったいどの資料でそんなことが言えるのか。

ただ少なくとも言えるのは、「山田支隊幹部の認識」は「一万五千名程度」で概ね一致していることです。「民間人の釈放」がウソだとすれば、これはそのまま、「山田支隊幹部が認識していた捕虜の実数」ということになります。

まあ、「両角連隊長は、「公式発表」1万5千人と「実数」8千人との「差」を説明するために「民間人釈放」というストーリーをでっちあげた」という考えも、純理論的にはありえない話ではないのですが・・・。ひょっとすると秦氏は、そう考えているのかもしれません。

山田栴二日記

◇十二月十四日 晴

<南京戦史資料集II>

 他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にて仕末に困る

 幕府山は先遣隊に依り午前八時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり

 捕虜の仕末に困り、恰も発見せ上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり、上元門外の三軒屋に泊す(P331)



八巻竹雄氏『南京攻略戦』より

(第十二中隊長)

 途中沿道各所より敗残兵が群がり、武器を捨てて投降して来る。中隊だけでも千数百名の捕虜を得た。隊の後方を続行させた。我が軍も余り早い進撃で補給がなかった。したがって敵の捕虜に対しては、三日も四日も食糧がなく、餓死寸前の状態だった。食事時になると我れ勝に残飯を奪い合っている。

 その中にいた人品骨柄いやしからず、柔し皮の外套を着た将校らしい者がいた。残飯を兵隊の前で与へ様とすると、鄭重に辞退された。考えてみると支那人は面子を重んずる国民と聞く、多数の兵の前では、残飯は貰へないのだと思い、人前を避けて家屋の後ろで与えた処、結構喰べ終った。

彼は我々が持つている倍もの大きさの名刺を差し出した。見た処、中央軍軍官教導総隊参謀少佐劉某と印刷してあった。彼れは既に覚悟をしていたものか、それとも単に恩義を感じたものか、 着て居た立派な外套を脱いで、私に呉れようとしたが、自分は官給品ではあるが、着ているのでいらないと断った。

連隊だけでも投降した捕虜は、一万数千名位いあったろう。

(「歩兵第六十五連隊第十二中隊史」P42〜P43)

第五中隊長・角田栄一中尉

「深夜、百二十人で出発した。笹斗山鎮から観音門鎮付近で中国軍兵士が次々と無抵抗で投降、約三千人を捕虜にした。しかしこれだけの捕虜を連れて幕府山砲台の占領は無理と判断し、武器を彼ら自身の手でクリークに投げ込ませ、無力化して彼らを放置した。

あとで来た連隊主力は、これら戦意皆無の中国兵を捕虜としたようだ。 翌朝までに幕府山に入り、占領を果たし、万歳を山頂付近で叫ぶと、山のすそ野を進んだ連隊主力からも万歳が返ってきた。 あのとき幕府山一帯にいた敗残兵は約二万人だったと記憶する」(「南京の氷雨」P66-P67)




[4848]岡村大将会見記 南京日本人収容所新聞「集報」より

 - 07/9/15(土) 7:44 -


1945年終戦直後、南京には1万6千人余りの日本人居留民が残っていました。


蒋介石の「仇を仇でかえすな」という方針により命は助かりましたが、「ときには街を歩いていて、いきなり殴られたり、石を投げつけられることもあった」(「集報」解説より)ということです。

そこで南京の居留民たちは、身の安全を図るために、「ゆう江門外」の「揚子江岸、南京駅に近く、北に獅子山をのぞむ」ところで集団で生活することにしました。


「集報」は、その日本人収容所内で発行されていた新聞です。手書きガリ版刷りの日刊紙で、世界の情勢から収容所内のさまざまな出来事までを掲載し、在留邦人の貴重な情報源になりました。

余談ですが、翻訳するための「中央日報」などを下関まで買いにいく際には、「買って帰る途中で、背後から石を投げつけられて、首筋から血を流しながら帰ってきた」などという事件もあったようです(解説より)。


この「週報」は、不二出版より「『集報』-南京日本人収容所新聞」との第で復刻されています。ガリ版の手書き、字も細かくて、読むのにちょっとした労力がいるのですが、この中に面白い記事を発見しました。1945年12月7日、中国記者の岡村大将会見記の翻訳です。

中国の仁義に感謝 日本の前途には悲観
岡村大将 中国記者の質問に答ふ


(リード)前駐華日本軍総司令官岡村寧次大将は五日終戦以来初めて中国側記者と単独会見し七十五分間に亘って投降以来の心境その他について記者の質問に答へたが、訪問の中央社記者は六日の『岡村会見記』を次の如く伝へてゐる

(本文)九月九日の投降調印以来、岡村の名は常に新聞紙上に散見したが、彼の地位は派遣軍総司令官より降て中国陸軍総部指揮下の投降事務連絡官となつた、

岡村は外交大楼(?)より還つた旧日本大使館内で記者と面会したのだが、この地この家こそ当年川越大使が我に対しいはゆる三原則を提出せるところ、初冬の白日樹葉徒に落ちて一つ二つ、軟かい冬の陽光に包まれる庭の寂寞はまた敗将岡村の心境を偲ばせるものがあつた

『自分は俘虜の身であり、一切は中国陸軍総部の命に拘はる、だから記者会見としては君との場合が初めてだ』

彼はまづかういった、次いで三ヶ月来の投降条項実施についての蒋委員長および何司令の偉大な精神に深い感激を表明し

『中国は古来仁義の邦だ、三ヶ月以来の蒋委員長および何総司令の厳格の中に寛大を失はない態度にはまことに感謝の言葉を知らない』

といった。そして記者との間に次のやうな一問一答が取交された

[問]中日戦争期間、日本軍が大陸戦場で使用した兵力は幾何か

[答]百三十万、その中共産軍に用ねたもの二十万乃至三十万

[問]日本軍の死傷は

[答]中央軍作戦に対しては毎回普通数千人の死傷を出した 共産軍作戦では毎年の死傷二千乃至三千を出してゐる

記者は更に日軍日僑の器材物品盗買および華北日軍及び酒井中将の共産軍参加に関し質し、更に后者について十二月三日東京朝日が社論『痛心』を載せた旨伝へると、岡村は初めこれを承認したが同時に巷間伝はるところ区々で恐らく誇大に報道されたものであらう、例外としての少数以外大体問題はないと信じてゐると述べた、

その例証として山東睦県の某少尉は一度びは共産軍に誘はれて投じたものの後非を悟って割腹自殺したことがあると語り

『共産軍に投じたものは数十人にすぎず酒井中将の如きは一退役軍人であって現在の日本軍とは何の関係もない』


さて、次です。

記者はかつての南京大屠殺事件を引合に出して彼の軍人としての感想を叩くと彼は煙草を啣へてゐたが俄かに顔色を変へ、苦笑のうちに

『当然それは悪い、我々は良心の立前からそのことをいはれるのを好まない、君再びそのことをいつてくれるな』と憮然とした、


記者らは相対して暫時沈然としたが、この時前の草原を見下すと二、三の兵士がのんびりと日光浴してゐる風景が見られた

岡村大将の反応も興味深いものですが、終戦後わずか3か月後の南京日本人収容所新聞に「南京大屠殺」の語が見られること、会見記を紹介した記者も特に反応を示していないことが注目されます。

このあとも「大陸の繁栄へ 中国と日本が協力」の中見出しで記事は続くのですが、目が疲れました(^^; 引用は、ここまでにしておきます。


[4721]Re(1):続・お尋ねしたいことが

- 07/7/21(土) 7:43 -
*「ゆう」解説 jijiさんという方が、他所での議論について、「思考錯誤」メンバーのアドバイスを求めてきました。以下、私の「アドバイス」です。
引用元をちょっと覗いてみましたが、う〜ん、すごい内容ですね。

中国が東京裁判で「2万人」説を主張していたり、ラーベが「無線」で安全区被害の報告を受けていたり、「通州虐殺により反中感情が高まった一部の兵士」が「暴走」して2万人を殺しちゃったり(とんでもない軍隊だ)、「実際の虐殺風景を、多数いた外国人記者が一人も見てい」なかったり。

冗談で書いているとしか思えない、ほとんど「お笑い」の世界です。

こういうのは、どんどんこちらに引用してからかってあげたい気もします。さすがに全文を扱う元気はありませんが、ちょっとだけ遊んでみますか。

「人口について」

 南京の人口は20万人でした。これは食料を元に計算されたので信頼できる数字です。サイトの方では「南京安全区が20万人だっただけで、外には多数人がいた」となっています。???

安全区というのは、文字通り「一般人」の安全を守るための場所です。その外にいた「兵士」をなぜ虐殺に含むのかが不明です。日本兵は安全区の治安を守り、その結果、人工は25万人に増えた。それだけの話です。安全区にいた市民を殺した証拠をお願いします。


1.「南京の人口20万人」は、もう聞き飽きました。そもそも国際委員会が食料を供給したのは、安全区の難民の一部に対してでしたので、「(消費された)食料をもとに計算」などできるわけがありません。で、陥落時点で安全区外に「多数人がいた」と考えて、何がおかしいのでしょうか? 例えば夏さん一家などは、「外」にいましたよね。

2.兵士も不法に殺害されたものであれば「虐殺」に含む。こんなの、常識。

3.「安全区の治安がよくなった」から人口が増えた、と言いたいようですが、それは反対。「周辺の治安が滅茶苦茶だったので、外国人の管理下でまだまともだった安全区にみんな逃げ込んできた」と見るべきでしょう。

4.市民の被害者数については、スマイス報告が参考になります。市部だけで、「兵士の暴行」による死者2400人、行方不明(大半が拉致されての殺害と推定される)を含めて6600人、という結果が出ています。 「安全区だけ」の統計はありませんが、「行方不明」の多くは「敗残兵狩りの巻き添え」と考えられますので、こちらは「安全区にいた市民」が殺されたもの、と考えていいでしょう。

5.なお、「農村調査」まで含めると、「兵士の暴行」による死者数は30000人のオーダーに達します。サンプル調査なので粗っぽい数字ではありますが、ケタ違いをおこすほど精度が低い、ということもないでしょう。


「死体について」

死体はどこにやったのか?川に流したなどと本気で思っているのですか?ドイツのユダヤ人虐殺では、焼却のため毎日のように黒い煙が工場から出ていました。南京ではそのような話はないです。死体を多数の人が目撃している、とのことですが戦争ですから死体はでます。 当たり前のことです。その死体が一般市民のものかどうかの証明が全くされていません。ちなみに、一万5千人分の死体が出てきましたがそれは全て兵士のものです。


1.逆に質問。「一万五千人分の死体」(どこからの数字か知りませんが)が出てきた、ということですが、この「死体はどこにやった」のですか? 川に流したのか、焼却したのか。そして、「一万五千人」ならば処理可能だが、「三十万人」であれば処理は不可能だ、と考える根拠は何ですか?

2.別に「死体の数」は「一般市民の殺害」を証明する必要条件ではありません。例えば「広島原爆」では、「二十万人の死体」など発見されていないと思います。先に述べた通り、「スマイス報告」で一般市民の大量犠牲は明らかですので、「死体の数」を「証明」に使う必要はありません。「どのように死体が処理されたか」は、また別の問題になります。

・・・最初は全文やってみようかと思ったのですが、何だか書いていてアホらしくなってきました。あとの部分、どなたか、やられませんか?


 


[4735]おまけ:ラーベ編

 - 07/7/22(日) 14:01 - 


読み返したら「ラーベ」関係でご苦労されているようですので、こちらについても、私なりの「答案」を書いておきましょう。

「ラーベについて」

ドイツは国策として中国に武器を売っていました。その結果武器を得た中国は、各国に向けて無差別テロを繰り返し、アメリカでも鎮圧しきれずに、日中戦争へと発展したのです。そして中国側の指揮を執っていたのがドイツ人です。これによりドイツは莫大な資金を手に入れました。 ドイツが中国を日本にし向けるということは、国策です。その証拠にラーベ自身は殺害を「一件も目撃していません」。無線で、日本兵に殺されたという報告を何の検証もせずに箇条書きにしていっただけです。 その結果が40人程度でした。その後本国へ帰国した後作成し直した物がラーベ日記です。


1.ドイツが中国に武器を売っていたのは事実としても、少なくとも30年代では、別にラーベは関係ないですよね。何で「ドイツの武器輸出」の話が「ラーベ」に繋がってしまうのか、さっぱりわかりません。

今さらですが、私のサイトです。「ラーベは武器商人か?」http://yu77799.g1.xrea.com/rabe3.html

2.「無差別テロ」というのは、具体的にどのような事件ですか? もう少し詳しい説明がないとよくわかりませんが、「アメリカでも鎮圧しきれずに、日中戦争へと発展した」というのでは、「日中戦争原因論」としてはあまりにお粗末です。

3.「武器輸出によってドイツが莫大な資金(利益?)を手にいれた」のかどうか、私にはよくわかりません。具体的なソースをどうぞ。

4.そもそもドイツの「国策」とラーベの「南京事件への対応」は、関係ありません。ラーベはあくまでヒューマニズムの動機から難民救済に動いたのです。「ラーベ日記」を読めば、すぐにわかることなのですが。

5.この方、ラーベ日記を読んだことがあるのでしょうか? ラーベ日記には、ラーベが難民救済のために必死に動き回る様子が、これでもか、とまでに描かれています。

その中で「殺人事件」の調査に出向いた時もありますし、まさに乱暴狼藉に及ぼうとする日本軍兵士を取り押さえたこともあります。そして難民のために活動する中で、さまざまな「虐殺」の情報も聞き及んでいます。これを「殺害を一件も目撃しません」とまとめてしまうことは、ちょっと乱暴に過ぎます。 だいたい日本軍兵士は外国人の前では一応遠慮していたようですので、目の前で「不法殺害」を目撃するチャンスは、そうそうあるものでもないでしょう。

6.ラーベは、「無線で」報告を受けたのですか? ご冗談を。

7.「日本兵に殺された報告」というのは「国際安全委員会文書」にある「日本軍の暴行記録」のことであると思われますが、スマイス自身、「極東軍事裁判」でこのような証言を行っています。

「私は事件の顛末を書き上げ大使館に届けられる前にそれが果して正確か否かを検討するのに出来るだけの努力を払ひました。出来る限り如何なる時でも私はその事件を検分した委員会の代表者に会ふ事にして居ました。 私は自分で考へて適確に報告されて居ると思う事件丈けを日本大使館に報告して居りました。」

 少なくとも、何でも無批判に掲載したわけではなかったようです。

8.「その結果が40人程度でした」・・・面倒なので、こちらをどうぞ。
「日本軍の暴行記録 49人か?」http://yu77799.g1.xrea.com/49nin.html

9.「その後本国へ帰国した後作成し直した物がラーベ日記です」・・・何だか読んでいると、「日本軍の暴行記録」を書き直して「ラーベ日記」に仕立て上げたように読めますが、もちろんそんなことはありません。「作成しなおした」といっても、ベースになる自分の「日記」があり、それを自分で書き直したわけですから、何の問題もないでしょう。


・・・とまあ、この程度の代物です。真面目に相手をしてやる必要もないでしょう。




[4678]何応欽軍事報告

 - 07/7/7(土) 18:03 - 


しばらくこちらに登場しておりませんでしたので、名刺がわりにちょっとだけ。

「何応欽軍事報告」といえば、「南京大虐殺についてなんにも書いていない資料」として有名ですが(笑)、実際にこの資料を目にした方はそう多くないかもしれません。今回は、「軍事報告」の内容を紹介します。

(この「軍事報告」をご存知ない方は、弊コンテンツ「中国は知らなかったか?」をどうぞ。http://yu77799.g1.xrea.com/chuugoku.html


この資料は、台北の文星書店発行「中国現代資料叢書」の中に、「何上将抗戦期間軍事報告」として収められています。1949年発行のものの復刻版。国会図書館で確認できますし、運が良ければ「日本の古本屋」あたりでも入手可能かもしれません。

問題となる箇所は、この本のうち、「第二 対臨時全国代表大会軍事報告」です。

まずは、目次から。

一、緒言
二、報告提要
三、国防設施及抗戦経過
四、陸軍海軍戦前及戦時行政
五、陸海空軍戦前及戦時教育
六、結論


見るからに、純然たる「軍事」報告です。「南京」に関係しそうなのは、辛うじて、「三 国防設施及抗戦経過」ですね。こちらの細かい目次を紹介します。(パソコンで出ない字は、■で表示しました。細目は適宜略してあります)

子、開戦前国防之準備

(一)長江要塞之整備
(二)国防工事之構築
(三)後方勤務の■備

丑、戦争之起因

寅、陸軍之作戦
 (詳細は後述します)

卯、海軍之作戦

 (一)江防配備
 (二)抗戦経過
   甲、江陰方面
   乙、■■■■方面

辰、空軍之作戦

 (一)空軍国防之■備
 (二)抗戦前敵我空軍兵力比較
 (三)作戦経過

巳、今後作戦之検討

 (一)敵我最高戦略之検討
 (二)敵軍兵力之検討
 (三)抗戦必勝之信念

このうち、「南京」に関係するのは、「寅、陸軍之作戦」ということになります。こちらの細かい目次を詳述しておきましょう。


(一)自開戦起南京失陥止作戦経過

 甲、中央動員及各省出兵

 乙、北戦場方面
  1.平津之失陥 2.保定方面諸戦門 3.石家荘之失陥 4.安陽大名失陥及対峙
  5.南口戦門及張家口失陥 6.平型関戦門 7.忻口娘関会戦及帰綏之失陥
  8.太原之失陥 9.姚官屯戦門及泊頭鎮襲撃 10.徳州戦門及大城失陥 

 丙、東戦場方面
  1.上海之攻撃 2.陣地戦 3.退却及南京之失陥

(二)南京失陥後三月初旬止抗戦情形

 (以下略)


やっと「南京」の文字に辿りつきました。要するにこの部分、淡々と「どこどこで戦闘があり、どこどこが陥落した」という記述を連ねただけの箇所です

さて、本文にいきます。「南京之失陥」の記述は、こんな感じ。何ともあっさりしたものです。


4.南京之失陥
十一月廿六日放棄錫澄線後、即令教導連隊、第三十六師、第八十八師守備南京、施令第七十四軍、第六十六軍、第八十三軍、第十軍陸続加入。

惟各部隊久経戦門、疲備不堪、自蘇州河撤退至南京、沿途転戦、未得整頓之余暇、第十軍亦新兵太多、戦門力不強、自十二月五日在湯山淳化鎮附近激戦後、八日湯山被陥、撤至複廊陣地、敵跟縦圧迫迫、難経各部隊浴血苦戦、終至傷亡過大、十二日雨花台不守、遂下令放棄南京、敵於十三日占領我南京城。

これで、お終い。続く節は「南京失陥後至三月初旬止作戦経過」で、「津浦北段戦況」の話になってしまっています。「南京が陥落してから後、南京で何が起こったか(あるいは起こらなかったか)」なんてことは、一文字も書いていないのです。

以上、この報告は、純粋に「軍事」に絞ってのものです。「南京」で「虐殺」があろうがなかろうが、そんなものに触れるような性格の文書ではありません。


田中正明氏の文章を、もう一度、載せておきましょう。
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/tanakashoukaiseki.html

目を真っ赤にし、涙ぐんで「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」手が震え、涙で目を潤ませて、こう言われるのです。
 南京には大虐殺などありはしない。ここにいる何応欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録しているはずです。私も当時大虐殺などという報告を耳にしたことはない。・・・・松井閣下は冤罪で処刑されたのです・・・・」といいながら涙しつつ私の手を2度3度握り締めるのです。


どこに「南京には大虐殺などありはしない」という記述があるのか。ぜひとも田中氏にお伺いしたいところではあります。





[4017]夏淑琴さん事件 「年齢」考
1
- 07/2/15(木) 16:16 - 

*「ゆう」解説 当時、夏淑琴さんの東中野修道氏に対する名誉毀損裁判が進行中でした。K−Kさんが、「思考錯誤」板に相手側の準備書面を呈示して、メンバーの見解を求めてきました。以下、私の「回答」です。
さて、時間ができたらこちらにも取り組もうと思っていたのですが、ja2047さんメモリアルサイト、「問答有用」での(どうでもいい)議論もどき、「平頂山事件」への取り組み(未完成ですが、なかなか面白くなりそうです)、と「宿題」が続き、こちらはすっかり遅れてしまいました。


さて、今回の「準備書面」では、東中野氏側は、「年齢問題」にえらく力を入れてきています。

これについては、私が「夏淑琴さんは「ニセ証人」か? 東中野修道氏『SAPIO』論稿をめぐって」で書いた通り、

>東中野氏の「論理」が成立するためには、最低でも、

1.マギーの書き残した「年齢」が確実なものであり、

2.夏淑琴さんの回想する「当時の年齢」もまた確実なものである、


という「大前提」が必要です。どちらか片方だけでも怪しげなものであるのならば、「年齢の相違」を材料に夏さんを「ニセ証人」と決め付けることはできなくなります。
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/kashukukinsapio.html#3

ということに尽きます。資料によって「年齢」が異なるのであれば、そんな曖昧なデータでもって「決め付け」を行なうことはできません。


以下、今回の準備書面にそって、詳しく見ていきましょう。今ちょっと資料のない場所におりますので、何か勘違いがありましたら、ご指摘いただければ幸いです。


東中野氏側は、「「8歳の少女は原告と別人である」根拠として、3つの点をあげていますが、その「第1」です。

 上記の摘示事実が真実である理由はすでに被告準備書面(第2及び第3)において述べたところであるが、まとめると次のとおりである。

 第1に、本件書籍の246〜247ページに述べた第9の疑問点の記述のとおり、フィルム解説文中の「7ー8歳の妹」は刺殺されたと考えられる。そのように解釈するのが相当である。フィルム解説文中の生存した「8歳の少女」は、シア夫婦の子である刺殺された「7−8歳の妹」とは別人であると解される。したがって「8歳の少女」の姓はシア(夏)ではなかった。

これは、問題外といえるでしょう。原告側は「初歩的な英文和訳の誤り」を指摘し、東中野氏側はいや、やはりこれで正しい、と強弁しているようですが、それ以前、単純な「算数」の問題です。

マギーは、あちこちで、「在宅は13人、うち殺されたのは11人」という「数字」をはっきりとあげています。東中野氏の言う通り、もし「7-8歳の妹」と「8歳の少女」が別人であるのであれば、マギーは「14人、うち殺されたのは12人」と書くはずです。


念のため、並べておきましょう。

「其の家に十三人の人が住んで居つたのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。」(極東軍事裁判 マギー証言)

「日本兵たちが最初に入城したときに、町の東南のある家にやってきて、みんなで13人その家にいた。8歳と3歳か4歳かの二人の小さな女の子のほかは、全部その家で日本兵に殺された。」(マギー日記 1月30日=「この事実を・・・2.」P328)

「それに一度、わたしがある家に行きましたら、そこでは11人殺されていて」(マギー マッキムへの書簡=「この事実を・・・2.」P342)

「第二一九件 ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。〔マギー〕」(「南京大残虐事件資料集 第2巻英文資料編」P116)


こんな初歩的な矛盾を、東中野氏はどのように解決しているのか。久々に「南京虐殺の徹底検証」を本棚から取り出してみて、思わず爆笑です。

第九に、家族の人数が違う。『南京安全地帯の記録』の事例二一九(マギーの説明)では総数は二家族で十三人であった。しかし、「日支紛争」のなかのマギーの記録では、十四人であった。(P246)


*「ゆう」注 「日支紛争のなかのマギーの記録」というのは、おなじみ「マギーフィルムの解説文」のことです。元の文はこちら。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#13


念のためですが、この「十四人」というのは、マギーが記した数字ではありませんこの「解説文」にはマギーは「人数」を記しておらず、これは、東中野氏が、「ひとり、ふたり」と勝手に数えた結果の数字です

つまり東中野氏は、「7、8歳の妹」と「8歳の少女」が別人であるというトンデモ解釈を前提として、自分で勝手に一人水増しした数字が他の記録と違う、と文句を言っているわけです。

「別人だと解釈すると総人数が14人になってしまうから、これは同一人物であると見るのが自然」という当り前の発想を、なぜ持てないんでしょうね。

*なお、フォースターの「フォースター夫人への手紙」には「14人」の文字が見えますが、マギー自身がここまではっきりと「13人」と語っている以上は、単なる勘違い、と捉えておくべきところでしょう。


さて、次。

第2に、原告が昭和5年(西暦1930年)ではなく昭和4年(西暦1929年)の5月5日生まれであるとすれば、新路口事件当時(昭和12年12月)は中国式の年齢(数え年)で9歳であった。当時の中国では数え年で年齢を言うのが一般的であって、満年齢の8歳を用いることはなかった。 その原告が仮にマギー師と面談した少女であったとすると、面談時(フォースター師の手紙の記載によると昭和13年1月26日)すでに数え年で9歳であった(当時中国の旧暦では昭和13年1月31日が旧正月でありその日からは10歳であるが、その5日前はまだ9歳と称していたと考えられる。)

原告が、自分の歳を「7−8歳」(数え年)と説明することは、あり得ない。フィルム解説文中に記録された人物10名の年齢はいずれも数え年による表示のはずである(数え年を満年齢表示に換算するのは不可能に近い。 マギー師は聞き取ったままの数え年の年齢を書いたと考えられる。)。

フィルム解説文中の「7−8歳の妹」(数え年)が原告である可能性は全くない。「数え年9歳の原告」=「数え年7−8歳の妹」=「数え年8歳の少女」という等式は成り立たない。

原告代理人は、「原告は自己の正確な誕生日(5月5日)を知らない。」 というが、仮にそうであっても、それは数え年による年齢表示において正確な誕生日はあまり意味がないというだけのことである。原告が自分の年齢を言えなかったということはあるまい。


私はこの部分、思わず目を疑いました。東中野氏、以前の論稿と、完全に主張を変えてきているのです。

念のため、「Sapio」論稿からです。

しかし最近になって存在が明らかとなった史料、たとえばマギーの4月2日付マッキム氏宛の手紙は、「中国式計算」で「9歳の少女」と「5歳の子供」が生き残ったと記録していた。マギーは数え年という「中国式計算」があることを知っていたのである。従って「8歳の少女」が数え年9歳(満8歳)であったことは否定できない。

http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/kashukukinsapio.html#3



ここで東中野氏は、はっきりと「数え年9歳」と主張しています。しかしそうであれば、上の東中野氏側主張に従えば「原告」は当時「数え年9歳」なのだから、何の問題もない。

そこで今回、東中野氏側は、わざわざ自分から持ち出した「否定根拠」である「マッキム氏の手紙」を無視する、というアクロバットをやってのけました。この手紙はなかったことにして、「マギーフィルムの解説文」では「7、8歳の妹」であったり「8歳の少女」であったりするのだから、「数え年9歳」の被告と同一人物ではありえない、というわけです。

結局、「マギーにとっても年齢は曖昧であった」と解釈しておくのが、一番自然でしょう。マギーが知りたかったことは「夏淑琴さんの年齢」ではなく、「事件の概要」だったのですから、「年齢」部分は適当に流したとしても、無理なからぬところです。


以下、「第2」についての「おまけ」です。

マギーが残した各種資料にある「被害者の年齢」を、表にしてみました。原文は、K-Kさんの資料集、または私のサイトをご覧ください。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#01
http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/kashukukinshougen.html


  マギー牧師の解説書  東京裁判証言  マギー日記  マッキム宛書簡 
 夏家 祖父  76 76  76   
     祖母 74  74  74   
     父    
     母  ?
     長女 16  16  16  16 
     次女 14  14  14  14 
     夏淑琴  7-8または8  8-9  8
     妹  4     3-4  5(数え年)
     赤ん坊  1 1歳にもみたない 
 馬家 父  ?      
       ?      
     子1  4      
    子2   2      


 「東京裁判証言」では、誰が誰のことであるのかよくわからない部分がありましたので、そこは省略しました。


まずこれらの年齢が「数え」なのか「満」なのか、という問題です。

マッキム宛書簡の「1歳にもみたない」 (less than a year old)という表現に注目してください。おそらくは、「1歳未満の乳児」であったのだろう、と推測されます。しかしこの赤ん坊の年齢、他ではすべて「1歳」になっています。「0歳」という表現が見当たらない以上、これは「数え年」と考えるのが自然です。


さて興味深いことに、生き残った夏淑琴さんと妹以外は、すべての資料で年齢が一致しています。年齢が資料によってまちまちなのは、この二人だけなのです。

どうしてこういうことが起きるのか。以下は、私の全くの想像となります。

まず、夏さんの本当の年齢です。原告側準備書面によれば、こういうことであったようです。

1929年5月5日という日付は,戦後になって新暦が採用された後に,親族の記憶を頼りに「生まれたのはこの時期だったのではないか」との推測に基づいて,便宜的に定めたものである(これは,中国のこの世代の老人にはよくあることである)。 特に原告は,家族が全て殺されてしまっているため,なおさら正確な日付がわからず,1930年生まれだった可能性もある。」

夏さんが本当に自分の「年齢」を正しく認識していたのかどうかは不明ですが、上の「推測」が正しいものとするならば、とりあえずは事件当時は「数え年9歳」ということになります。


「マギー牧師の解説書」にある各人の年齢は、マギーが「叔母」からまとめて説明を受けたものではないでしょうか。その中で、夏淑琴さんは「8歳」または「7、8歳」と紹介されました。しかし、この叔母さんの「年齢認識」がかなりアバウトなものであったことは、私のサイトでも指摘した通りです。

そんな中で、夏さんは、自分の年齢を「9歳」と語ったのかもしれません。あるいは叔母さんが、「7歳」と言ったり「8歳」と言ったり「9歳」と言ったり、ふらふらしていたのかもしれません。

しかしマギーは、このあたりをあまり気にしなかったのか、「7-8歳」なり「8歳」なりでまとめてしまった。同一人物の年齢を「8歳」と書いたり「7−8歳」と書いたりするあたりにも、マギーが「年齢」にあまりこだわっていないことを伺わせます。

ただ後になって、「9歳」という数字を何となく思い出し、マギー自身も夏さんが何歳だったかはっきりとはわからなくなり、「8−9歳」になってみたり「9歳」になってみたりした。

まあ、以上は何の根拠もないただの「想像」ですが、要するにマギーは「年齢」はアバウトな数字で十分だと考えていた、ということだと思います。


さて、最後の「第3」です。

第3に、マギー師が「8歳の少女」との面談後まず最初に書いた日記(昭和13年1月30日付)では、次のように記録されていた。「家主ハ−の8歳になる娘は重傷を負いましたが、両親の死体に隠れて助かりました。さらに4歳になる妹も隠れていて助かり、二人はその後14日間も11人の遺体と、中国人がゴーバ(■巴)と呼ぶ鍋の底の焦げ付いた飯だけで生き延びていました。」 (滝谷二郎『目撃者の南京事件−−−発見されたマギー師の日記』85〜86ページ。家主の名前については原文の英文タイプの文字がHa(ハー)なのかMa(マー)なのか判読がむつかしいが、現在では Ha(ハー)と読むのが正しいと解釈されているので、上記引用においてはハーと訂正して引用している)。すなわち、2人の姉妹が生き残ったとされ、その姉の方は家主哈の8歳になる娘であったとされている。


要するに東中野氏側は、「マギー日記」にも「マー(ハー)の八歳になる娘」という表現があるので、これは「夏」家の娘である夏淑琴さんのことではない、と言いたいようです。

しかしどうも、これは滝谷氏の「引用」の方に問題がありそうです。滝谷二郎氏の紹介する「マギー日記」を見ましょう。


一月三〇日。

 今夕、アーネストと私は午後四時半にハンソンさんの家で中国の新年会(春節・旧正月)を祝いました。中国人が招いてくれたものです。中国人というのは一日二食で、朝九時と夕方四時の二回食事をします。今日は、乾燥した米のほか野菜が丼六杯も盛りつけられました。あちこちで祈祷の夕べが催され、集会が催されました。

 この一週間の聞にまたひどい事件を耳にしました。私が近所の人と直接被害者から聞いたことですから、その真偽は疑う余地もありません。

 一二月一三日。南京市内の南東にある新街口五番地にある家に、日本兵三〇人が押しかけました。マーという名の回教徒の家主が扉を開けたとたんに日本兵はマーを射殺し、ひざまづいて日本兵に"どうか他の者を殺さないで下さい"と懇願する同居人のシアも射殺し、さらに"どうして夫を殺した"と怒るマーの妻も射殺しました。

 シアの妻は一歳の子供を机の下に隠し、自分も隠れたのですが日本兵に見つけられ数人に強姦され、銃剣で刺され局部に瓶を突っ込まれ、赤ん坊とともに銃剣で刺し殺されました。日本兵はさらに隣室にいた七六歳と七四歳になるシアの両親、一六歳と一四歳の娘を襲い、娘たちが強姦されそうになったので祖母がかばおうとすると祖母を射殺し、それを助けようとした祖父も殺しました。

 二人の娘は日本兵に強姦され、刺し殺され局部に棒が突っ込まれていました。家主マーの八歳になる娘は重症を負いましたが、母親の死体に隠れて助かりました、さらに、四歳になる妹も隠れていて助かり、二人はその後一四日間も一一人の遺体と、中国人がゴーパ(鍋巴)と呼ぶ鍋の底の焦げついた飯だけで生き延びていました。

(滝谷二郎 『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』 P85〜P86)


「マギー日記」の原文(英文)は、『Eyewitnesses to massacre』に収められています。しかしその文は、滝谷氏が引用する上の文とは、なぜか全く異なっているのです。

英文→中文→日文という二重翻訳で、かつかなりの「俗訳」ではありますが、加藤実氏の訳によるものを紹介します。

l 月 30 日、日曜日

 午後4 時30分に、フォースターとぽくとぽくらの人たちとで、ハンセンの家に集まって食事したのが、中国の農暦の正月を祝ってのことで、みんながぽくたちを、みんなといっしょに食べるのに招いてくれたんだ。みんないつもは一日二食で、朝 9 時と午後4時とにー食ずつだ。きょうは"乾いた"ご飯のほかに、どんぶり六つの"ツァイ"[Tsai = おかず] もあって、みんなにしてみたら、それだけでもたいへんなご馳走なんで、いつもはほんとに貧弱なものしか食べてないからだ。

 その席でフォースターが奨励をし、ぽくも隣りの部屋で、J.L..陳 [Ch'en] の信徒たちにお奨めをした。午後の2時にも、ぽく小さな礼拝に参加したが、それはJ.L..陳が、シュルツ・パンティンの家にぽくたちと住まっている難民たちのためにやったもので、尼さん数人と若い見習い和尚さんも出席していた。

 4時にフォースターが、自分の人たちのための晩祷もやった。水曜日に難民のための伝道集会をすると、彼が発表していて、金陵女子文理学院や金陵大学や、ぽくたちの住まいに金陵女子神学院でも似たような集会があり、華中メソヂスト教会の瀋 [Shen] 牧師が金陵女子神学院で、の礼拝をするんだ。

 ぽくたちの働き人がこの企てで大きな役割を担っていて、ぼくらの人たちやぽくたちの家屋に住まっている難民たちのためだけでなく、金陵女子文理学院や金陵大学での集会のためにも ( 動いている。

この一週間に、ぼくもっとも恐るべきものを見、もっとも恥さらしな話を聞いたんだが、その真実性に疑いをさしはさむ余地のないのは、ぼくが直接に隣人からと、その場にいた8歳の小さい女の子から聞いて、よく解っているからなんだ。

 日本兵たちが最初に入城したときに、町の東南のある家にやってきて、みんなで13人その家にいた。8歳と3歳か4歳かの二人の小さな女の子のほかは、全部その家で日本兵に殺された。

 その8歳になる子の話すのを、そのおじさんの話や隣の年取った婦女の話と付き合せて、ぼくが確かめたんだが、8歳の子は背中と脇とに三ヶ所刺されたが、死ななかった。

 死んだ人の中には、76歳のおじいさんと74歳のおばあさんに、母親に三人の娘が含まれていて、娘三人の年齢は16歳に14歳に1歳だ。娘さん二人はそれぞれ三回ほど強姦され、それから日本兵が、もっとも残忍でとても口にはできないようなやり方で二人を殺し、1歳の小さな子もいっぺんに刺し殺された。

 似たようなケースを南京でぼくは、みんなで四件聞いている。ドイツ大使館の書記官が、ある婦女がゴルフのクラブを体内に挿し込まれたと話して、「日本的ナ手法デス」と言っている。

 ぼくその母親が、1歳の子供といっしょに死んでいる写真を撮った。あの小さい女の子が言うんだが、大家さんの子供たちの一人で1歳の(上に述べた母親といっしょにいた子供ではないが)が、頭を日本兵の刀で二つに割られ、この8歳の子は、傷つけられてから、 母親の死体の転がっている別の部屋まで這っていき、そこで小さな妹と14日間いっしょに過ごし、ふやけたお米と、中国人が”コーパ”[Go-ba 鍋巴]と呼んでいるお釜の底に残ったおこげとを食べ、井戸の水を飲んでいた。

 そこでは、ほかの人たちはみんな安全区に逃げてしまっていたんだ。14日後にこの子のお隣の年取ったおばさんが戻ってきたときに、二人は救い出されたのだ。日本兵が絶え間なくやってきたが、そうするとこの二人の子は、古い敷布の下に隠れたのだった。

(『この事実を・・・2.』P327-P328)


ほぼ同一なのは最初の段落のみ。そこから「この一週間に」の前までの部分は、滝谷氏は完全に省略しています(「省略した」との断り書きもありません)。

そして、「事件」に関しては、「書き出し」だけはほぼ同一です。

(滝谷氏版)この一週間の聞にまたひどい事件を耳にしました。私が近所の人と直接被害者から聞いたことですから、その真偽は疑う余地もありません。

(加藤氏訳)この一週間に、ぼくもっとも恐るべきものを見、もっとも恥さらしな話を聞いたんだが、その真実性に疑いをさしはさむ余地のないのは、ぼくが直接に隣人からと、その場にいた8歳の小さい女の子から聞いて、よく解っているからなんだ。



ただし一緒なのはここまで。滝谷氏の方は、デティールがやたらと詳しくなっています。よく見ると、「マギーフィルムの解説書」とほぼ同一の文章です。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/kasyukukin.htm#02

「マギー日記」にふたつの異なる版が存在するのであれば話は別ですが(まずありそうにありませんが)、どうやら滝谷氏は、話をよりインパクトの強いものにするために、日記の「事件」に関する部分を「解説書」の方の記述に差し替えた、という可能性がありそうです。

とすれば、「マー(ハー)の8歳になる娘」というのは滝谷氏の(誤った)解釈を付け加えたものであり、原文には存在しない記述であった、ということになります。


(余談ですが、滝谷氏の文章を素直に読むと、「4歳の妹」まで「ハー家の一員」ということになってしまいますね)

実際のところ、滝谷氏がベースにした「原文」を見ないと何ともいえませんが、今私の手元にある情報だけからの判断では、このような解釈が最も無理がないものであると思います。
*「ゆう」解説 私が気がついた程度のことは当然ながら原告側も気がついていた様子で、原告側は、東中野氏側に対して、滝谷氏が引用した「マギー日記」原文の呈示を求める、という戦術を採用しました。そんなものが存在するはずもなく、東中野氏側はこの点には沈黙せざるをえませんでした。



[3917]Re(1):t-hideさんの質問を転記しました。

- 07/1/20(土) 21:54 -

*「ゆう」解説 deliciousicecoffeeという人物が、t-hideさんのブログのコメント欄で、「「ゆう」との議論は「南京市民虐殺はなかった」ということで決着済」という、とんでもないウソを言い出しました。(詳細はこちらをどうぞ)

私としては、そちらのコメント欄でのやりとりは、「deliciousicecoffee氏のウソに抗議する」という一点に絞りたかったのですが、空気を読めないブログ主、t-hideさんは、しきりに私に対して「私の南京大虐殺についての見解」を求めてきます。

面倒になりましたので、私は、このコメント欄では「deliciousicecoffee氏の論点ずらし」に使われるのでコメントしない、どうしても私の見解を求めたければ「思考錯誤」板にどうぞ、と返しました。当然、そこまでの度胸はないだろう、と見越した「ハッタリ」です。

しかし思い切り「空気を読めない」t-hideさんは、私の言葉を真に受けて、何と、本当に「思考錯誤」板に書き込んできました(^^; 

私は焦りました。こんなアホな書き込みをしたら、t-hideさん、「思考錯誤」板の猛者連によってコテンパンになるぞ。せめて私が「やわらかく」収めなくては。あわてた私は、その時泥酔状態ではありましたが(^^;、大急ぎで以下のレスを返しました。



おやおや、いらっしゃい。正直な話、私にとっては「書き飽きた」テーマなのですが・・・・。

まず最初に確認しておきます。delicioucoffee氏が私やja2047さんについてとんでもないデマ宣伝を行ったという事実、これはもうよろしいですね。この一点だけ確認できれば、今回の投稿の主テーマはお終いで、私にとって、あとは「おまけ」であるに過ぎません。


>yuさん、中国の提示している写真や証言の嘘についてどう考えていますか?ぜひ知りたいので教えていただけませんか?

>私は実は昔は南京大虐殺が存在していたと思っていました。しかし、写真が明らかな捏造であることがはっきりしてからは、前提が狂ったのだからこれは嘘だなと思いました。yuさんは、写真が捏造であることを理解しながらもなお南京虐殺を信じている理由を教えてもらえたらと思います。


まず私は、あなたの「知識レベル」を存じ上げません。私がいつもあちこちで書いていることではありますが、

1.「南京大虐殺」を、「中国側の主張する30万人虐殺」と定義するのであれば、私はそれに否定的ですし、日本側の研究者の多くも同じ意見であると思います。

2.しかし、「南京大虐殺」を、「南京における大規模な虐殺」と定義するのであれば、そこまでを否定する方は、少なくともまともな研究者には存在しないでしょう。


で、あなたが「なかった」という「南京大虐殺」って、どちらの意味なのでしょうか? もし万一、2の意味なのでしたら、私としては、「もう一度勉強して出直してきなさい」としか言いようがないのですが。


次に、「写真」の問題にいきます。はっきりいいますと、私は、「写真」問題は、「南京大虐殺」(2の意味です)の「存否」論争に影響を与えるものではないと思っています。それは、大多数の研究者も同じ意見でしょう。「写真批判」派の先鋒である東中野氏だって、確か同じようなことを書いていたはずです。

まあ、こちらに出てくる以上は、あなたは少なくとも、「南京事件」(2の意味での「南京大虐殺」)についてのスタンダードな本はひととおり読んでいるものと理解し、それを前提に話を進めます。

で、笠原氏でも、秦氏でも、板倉氏でも、「南京戦史」グループでも、吉田氏でも、洞氏でも、いいです。以上の方は、いずれも2の意味での「南京大虐殺」は否定していないと思いますが(板倉氏のように、単に「南京事件」と呼ぶべきだ、とする論者は存在しますが)、どなたか一人でも、「写真」を論拠として「南京における大規模な虐殺は存在した」と論じている方はいらっしゃいますか?

一人も、いませんよね。要するに日本側の論者にとって、「写真」問題は、「事件」の存否論争には何の影響もない、言ってみれば「派生的問題」なのです。それをあたかも「存否」論争の重要なテーマのように見せかけてしまったのは、ネットにいる、レベルの低い方々の仕業であるに過ぎません。(誰とは言いませんが(^^))

極端な話、「写真」がすべて「ニセモノ」であると証明されたとしても、2の意味での「南京大虐殺」が否定されるわけでは全くないのです。


そして「写真」問題にしても、東中野氏の無茶な「捏造」指摘が否定されているものが多数あります。

私はこちらにはあまり詳しくありませんので、もしお知りになりたければ、こちらの「画像検証」板をどうぞ。・・・って、こちらに登場してきたからには、当然ご存知ですね。

その上で、反論があればしてください。再反論は、「画像検証」板に書いている皆さんにお任せします(^^)
*「ゆう」解説 結果としては、私が懸念したとおり、このt-hideさんの投稿は「思考錯誤」板の猛者たちの恰好の美味しい「エサ」となり、たちまちのうちにコテンパンにされてしまいました。

余談ですが、その後にあちらのコメント欄についたdeliciousuicecoffee氏の「なぐさめ」のコメントが余りに面白かったので、紹介しておきます。

>T-hideさん。「思考錯誤」って、変な反日連中同士が馴れ合う所のようです。おそらく、どんなに正論を述べても変な反日連中が寄って集ってチンピラのような因縁を付ける所だと思うので早めに抜け出す方が良いと思います。「君子危うきに近寄らず」。ちなみに証拠力・証明力を有する写真は1枚たりとも存在しませんね。

大変わかりやすい、「悔し紛れの捨てゼリフ」でした。



[3792]平頂山事件の犠牲者数 田辺説の検討

- 07/1/3(水) 9:40 - 

*「ゆう」解説 以下は、「平頂山事件」をめぐる、熊猫さんとの議論です。熊猫さんもこのテーマにつき思い切りマニアックに調べていただき、大変参考になりました。
満州事件一周年を間近に控えた1932年9月16日、撫順炭鉱附近の「平頂山村」において、日本軍による住民無差別殺害が行なわれました。

「南京事件」などと異なり、この事件をめぐっては、「事実関係」についての議論はほとんどありません。議論となっているのは、「殺害人数」、あとは「川上大尉は事件に関与していたか」程度のマイナーな論点です。

「殺害人数」については、中国側は「三千人」を主張しています。一方、右派の論客田辺敏雄氏は「四百−八百人」説を主張しており、日本側のメディアでは、概ね「両論併記」で記述されることが多いようです。

以下、今私の手元にある資料をもとに「田辺説」についての検討を行なっていきます。なお、最初にお断りしておきますが、「犠牲者数」が「三千人」であっても「四百−八百人」であっても、この事件が「婦女子を含む民間人大量殺害」であった、という事実には変わりありません。


さらにお断りしておきますが、田辺敏雄氏は、東中野氏のように、ちょっと一次資料と照合すればたちまちのうちに「インチキ」がバレてしまう「ニセモノ」とは異なり、それなりの論者ではあります。

自分の足でデータを集め、認めるべきことは認める。しかし、譲れないところは譲らない。「南京事件」で言えば、板倉氏のようなイメージでしょうか。


「田辺説」のエッセンスを要約すると、以下のようになります。(『追跡 平頂山事件』P229以下)

1.事件の起こった9月16日は、休日ではなかった。従って、「成年男子の多くは、炭鉱に行っていたであろうし、女性も男ほどでないにしろ、家をあけていたはずである」。だから、「全住民が殺害されるはずはないのである。難を逃れた住民が多数あって当然であろう」。

2.部落人口が、三千人もいたはずがない。当時の満鉄関係者から得た証言によれば、二十数棟しか住居設備がなかった。「満州日報」昭和7年10月15日朝刊によれば、(匪賊による)被害状況は、「平頂山」村につき、「人口1,369 死者400」と記述されている。田辺氏はこの数字を、「被害者数はさておき、人口についてはまったく正しいか、あるいは極めて近い数値ではないかと思っている」。

3.「事件」の現場にいた兵士たちの証言は、大部分が「400人−800人」の範囲に収まる。



村の人口に「在宅率」をかけて、「400-800人」になる、というわけです。

一見したところでは、説得力があります。これに明確に反論している資料を探してみたのですが、とりあえずは見当たらない。また、いくら調べても、中国側の主張する「三千人」の根拠もはっきりしません。

現場から掘り出された骨が800体以上、まだまだ発掘は不完全なものであるので「3000人」という説明にも無理はない、という主張も見かけましたが、これをそのままネットに流したら、「バラバラになった骨を、誰が、どうやって「何人分」だと認定したのか」「その数字には中国側の「誇張」がないと言い切れるのか」という「突っ込み」を受けてしまいそうです。

(私は中国語が読めませんし、またとりあえずは、中国側の中文資料も入手できておりません。このあたりに「根拠」が示されているのかもしれませんので、どなたか「中国説」の根拠をご存知の方、ぜひ教えてください)


しかし、私が「田辺説」に疑問を感じたのは、「成年男子の多く」が「炭鉱に行っていたであろう」という田辺氏の「推定」と、中国側の「生存者」の証言が一致しないことでした。



莫徳勝さん

 事件当時、私は八歳、殺された妹は三歳でした。妹も一緒に父も母も、そして祖父も祖母もみな殺しされました。

(略)

 私たちの家族六人をはじめ村民の誰一人、そんな恐しい作戦が話しあわれていることなど、知るはずもありませんでした。

(石上正夫氏『平頂山事件 消えた中国の村』P102)


夏維栄さん

 証言内容は、父と母が凶弾に倒れた時、幼い夏さんを抱いて逃げてくれた父の弟、夏廷沢さん(当時二七歳)から、後で聞いた話である。

(略)

 夏さんの家は村の中央に近く、父(当時二九歳)、母(当時二五歳)、長男の維栄さん、叔父の廷沢さんの四人家族であった。

(石上正夫氏『平頂山事件 消えた中国の村』P110 )


韓樹林さん・趙樹林さん

 韓さんはその当時一二歳だった。両親のほか、長兄(当時二七歳)夫妻とその子供(同三ヵ月の女児)・次兄(同一五歳)の計七人家族である。日本軍のトラック第一陣が来たとき、父はまだ寝ていた。

(略)

 いっぽう趙さんは当時一一歳だった。父親は病気で失業していたので、母が毎日炭鉱の独身寮に通い、洗濯と着物のつくろいをしてわずかな賃金を得ていた。趙さんのほか、子供は姉(当時一七歳)と妹(同七歳)がいたから五人家族である。

(略)

 日本軍のトラックが来たとき朝食はすんでいたが、母はまだ炭鉱に出かける前の時間だった。

(略)

 こうして韓さんの七人家族も趙さんの五人家族も、銃剣に追われて家をとびだした


呉長慶さん

 一家五人のうち、父、母、祖母、おばが亡くなり、私は一人ぼっちになりました。私は二ヵ月間乞食をしながら暮らしをつなぎ、その後伯父を探し当てました。

(平井潤一『平頂山の惨劇―その経緯と生存者の証言』より=『季刊中国』2002年春季号P32)


楊占友さん

 後で知ったことだが、私の家族二十四人のうち四番目の不在の兄を除いて、難にあったのは二十三人で、脱出出来たのは、五人であった。

(小林実『リポート「撫順」1932』P87)


方素栄さん

 わが家は全部で八人でしたが、生き残ったのは私だけです。

(平井潤一『平頂山の惨劇―その経緯と生存者の証言』より=『季刊中国』2002年春季号P34)


呉景悄さん

 私は当時十三才で、家族は全部で十人でした。あの惨殺事件で生き残れたのは家族の中で私一人でした。母も、兄も、兄嫁も、弟も死にました。

(『平和日報』1947年7月 『平頂山堀骨視察記』=小林実氏『リポート「撫順」1932』P106)



 ご覧の通り、いずれも、家族のほぼ全員が殺された」という証言です。ここでは、田辺氏が「推定」するような、「男たちが炭鉱に行っていた」という事実を見出すことはできません。

 中国側証言に一定の「誇張」が含まれている可能性があることは、私も否定しません。しかし、「殺された家族の人数」という基本的なところで「誇張」を行なうとは、私には思われません。

 まして、上のうち、莫さん、方さんは、日本で「謝罪、賠償」を求める訴訟を起こしているのです。少なくとも「人数」については、これらの証言者たちは、自分の認識を正直に語っている、と見るのが自然でしょう。


 ひとつの「仮定」として、当時の撫順炭鉱が「二交替」勤務であったとすれば(『リポート「撫順」1932』P200以下のの勤務予定表では、「4:00-16:00」「16:00-4:00」の二交替となっています)、平日であっても炭鉱員の半数は家にいたはずです。しかしそれにしても、「出勤日の平日」の割りには、「在宅率」は非常に高い。


 しばらくこの「矛盾」をどう解くかで頭を悩ませたのですが、よく考えたら、この日は「炭鉱襲撃」の翌日でした。当然、「操業」にも影響したはずです。
(「平頂山事件」は、前日の「匪賊」(抗日反満ゲリラ)の撫順炭鉱襲撃への「報復」としておこなわれたものです)

 手元の『リポート「撫順」1932』を見返したら、しっかりと「操業中止」のデータが掲載されていました。「匪賊」の襲撃による、被害状況です。


小林実『リポート「撫順」1932』より

 建物工作物供用品等焼失 218,125円
 楊柏堡坑 約十五日間作業中止
 東岡坑  工場及び運炭桟橋焼失により能率低下、出炭減 51,000t
 東郷南坑 採炭中止
 東郷本坑 三日間作業中止 出炭減 30,000t
 老虎台坑 数日間作業中止 工人の退散多数

(同書 P60)


 これでは「炭鉱に行く」ような状況ではありません。

 さてでは、この日「平頂山」の村民たちは一体何をしていたのか。各「証言」を見ても、意外とデータは乏しいのですが、「匪賊の死体埋葬」を行なっていた、という記録がありました。


小林実『リポート「撫順」1932』より

 この兵士の屍体を、平頂山の村民が穴を掘って埋めている。これを目撃している日本人は多い。

 「武器も持たず、油をにじませたボロきれを、雑木の先にまいたのを、しっかり握っている匪賊を見た時、憎くもありましたが、何か哀れに思えたのを、覚えています。あれは、火をつけて、放火しようとしたのでしょうね。と証言する婦人。「中国人が、同じ中国人のために穴を掘る、胸中複雑なものがありました。」と話す老男性。

 平頂山村民、楊占友はこの死体埋葬を昼近くまでやっている。そしてその頃、平頂山の村は、昨夜の話でもちきりではあったが、いつもと変わらぬ平和な村であった。
(P63〜P64)


 よく読み返してみると、田辺氏もこのあたりは意識していたようではあります。

だが、十六日(金曜日)の平日であれば成年男子の多くは、炭鉱に行っていたであろうし、女性も男ほどでないにしろ、家をあけていたはずである。・・・ また、操業不能下であっても、回復のための仕事はあったろうし、日給なので職場にでたという推察も成り立つであろう。(田辺敏雄氏『追跡 平頂山事件』P230)


「回復のための仕事はあったろう」・・・。これは、完全な「想像」にとどまります。

何よりも、被害者たちは「家族のほぼ全員がその場にいた」と口を揃えて証言しているのですから、少なくともこれらの証言を何の検討も行なわずに否定してしまうことは、フェアな態度とは言えないでしょう。


さて、これで氏の論理のうち「1」については「必ずしも説得力を持つ説明ではない」ことがはっきりしたと思います。田辺氏の論理では、「村民の大部分がその時村におり、その大半が殺された」ということを決定的にくつがえすことはできそうにありません。


長くなりましたので、「2」の「人口問題」についてはまた後日。

直観的に、「被害者数」は不正確だが「人口」は正確であろう、とする氏の「論理」に違和感を感じてしまったのですが、「満州日報」のこの記事を確認しないうちは、決定的なことはいえそうにありません。


なお「3」の「現場にいた兵士の証言」は、「加害側」には人数を少なめに証言する傾向があること、あのような状況で「人数」を数える余裕などあろうはずがなく「目視」で一目でわかるような人数であったとも思えないこと、から、これまた決定打とするには不十分なものであるように思います。




[3828]平頂山村の人口

- 07/1/7(日) 16:26 -

「人口問題」につき、満州日報、昭和7年10月15日の記事を確認してきましたので、ご案内します。

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満洲日報 昭和七年十月十五日 

撫順県下被害者を 県公署当局で救済

 匪賊に蹂躙された跡



【撫順】 匪賊に蹂躙された撫順県下千金堡外六ヶ所の村民は目下家は焼かれ衣食はなく秋風冷たい昨今全く気の毒な状態にあるので

撫順県公署では右各村の被災民を救済するとともに各村の復興をはかるべく今回右に関する布告を公布するとともに夏県長を委員長とし救済委員会を組織し又奉天省公署より四万元、撫順炭鉱より三万五千元の救済基金を仰いで目下着々救済の望みをあげてゐるが、

委員会では中央に民会、建築、計画、宣伝調査の各部を設け又各村には現地委員会若干名宛を設けて罹災の程度其他を査定連絡してゐるが被災民に対しては目下一日一人十銭の食費を支給し又家屋建築補助として五人を一戸として五十円を支給しつつあり、

被災民はここもと随喜してゐるが、被害状況を示せば

 村 別     人口      死者
 千金堡   二、七九一    八六
 大東州   一、二八八    三七
 小東州     七九四     七
 東州河     九二〇     八
 寨承済     八九六    七五
平頂山   一、三六九   四〇〇
 楊柏堡      二八    一三
   計    八、〇八五   六二〇

(四面「満日各地版」 中上 三段記事)

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これを「人口」の最大根拠とするのが、田辺敏雄氏です。
前述したとおり「満洲日報」は平頂山村の人口を千三百六十九名、被害者数四百名とつたえている。被害者数はさておき、人口についてはまったく正しいか、あるいは極めて近い数値ではないかと思っている。信頼できないとする根拠がありそうにないのである。

日本の行政管地区の人口は、実に詳しく把握されていた。このことは当時の年鑑類を見れば明らかである。
(「追跡平頂山事件」P232)

日本側の研究者の間では、「田辺説(400-800人説)」を「諸説のひとつ」程度に位置づける見方が大勢です。他の研究者は、おそらくは上のデータも、「作為」が働いている可能性があると考え、あまり重きを置いていないものと推察されます。

ただし日本側研究者の論稿には、上の人口データへの具体的批判を見出すことはできません。辛うじて、中国側のトウ(にんべんに冬)達氏が、批判を行なっているようです。
これに対しトウ達は、「田辺説は日本人管轄範囲における人口数を基礎としたものであり、平頂山村は日本人管轄行政区に属しておらず、現地での裏づけ調査もない、従って田辺説は虚構だ」と批判している。
(高尾翠氏「天皇の軍隊と平頂山事件」P80-P81)


トウ達氏の「平頂山村は日本人管轄行政区に属していない」との説明が正しいのであれば、田辺氏への決定的反論となりますが、残念なことにその根拠がわかりません。

以上、私の手持ち資料からわかる範囲では、「両論併記」とするしかなさそうです。


以下、暗中模索。

ひとつの思いつきですが、「撫順炭鉱全体の中国人人口」と「日本人管轄行政区全体の中国人人口」がわかれば、その差が、「管轄地域外の中国人人口」である、ということになります。

この数字が十分に大きければ、少なくとも「日本人管轄地域外にも多数の人口があった」という説明にはなりえます。


このうち「管轄行政区域全体の人口」については、データがあります。
「事件当年(七年)の撫順(満鉄附属地)居住人口は下記の通りであった。(満鉄十二月調べ)

内地人(日本人)   (略)
朝鮮人         (略)
満洲国人(中国人)  人口 男33,906人 女9,948人 計43,854人
(小林実氏「リポート「撫順」1932 P21)


というわけで、「撫順炭鉱」全体の中国人人口のデータを探しているのですが、なかなかみつかりません。

「満鉄撫順炭鉱の労務管理史」という本に、「撫順炭鉱の労働者数」を35,511人とする資料があったのですが(P48)、年度ごとの人口の変動は大きいし、また「炭鉱労働者」以外の人口は見当もつきません。

もう少し、捜してみますか。


*皆様に、お礼を言い忘れておりました。最終的にどんなコンテンツになるのかまだまだ暗中模索中ですので、いろいろな視点からのコメントは、大いに参考になりました。お礼を申上げます。
 



[3845]Re(1):平頂山村の人口

 - 07/1/8(月) 17:36 - 

熊猫さんの地図は、こちらのサイトのものですね。いやはや世の中、マニアックな趣味にハマっている方がいらっしゃるものです。
http://keropero888.hp.infoseek.co.jp/city/wuxun.html

余談ですが、この「世界飛び地領土研究会」サイト、なかなか楽しいものでして、私も「お気に入り」に入れて愛読しております。

私の手元にあるもので一番詳しいのは、「満鉄撫順炭鉱の労務管理史」所収の地図。「平頂山村」の名は出てきませんが、他の本の地図と照合すると、「村」の場所は熊猫さんの図の通りであるようです。

地図を見ると、「千金堡」は明らかに管轄区域外。「平頂山村」はちょっと微妙、というところでしょうか。念のため、当時の南満鉄株式会社作成の地図を、注文したところです。

「平頂山村」が管轄地域内か否かをめぐっては、田辺氏とトウ達(トウはにんべんに冬)氏の記述、真っ向から対立します。

襲撃対象となった工人部落は満鉄所有で、同型の建物が二十数棟並んでいたという。(中略)以上は久野(朔太郎)氏の話にもとづいている。(「追跡 平頂山事件」P231-P232。なお、この「棟」は「長屋」であり、田辺氏は「一棟に六〜八世帯が居住し、一世帯平均六〜九名が住んでいたと仮定すれば」、「人口1,369人」という数字と「辻つまが合う」、と主張しています)

これに対しトウ達は、「田辺説は日本人管轄範囲における人口数を基礎としたものであり、平頂山村は日本人管轄行政区に属しておらず、現地での裏づけ調査もない、従って田辺説は虚構だ」と批判している。
(高尾翠氏「天皇の軍隊と平頂山事件」P80-P81)

田辺氏の記述の根拠は、当時の満鉄関係者の証言です。トウ達氏の方はよくわかりませんが、中国側の独自調査による情報であったのかもしれません。


いずれにしても、中国側証言を信頼するのであれば、「村民の死亡率」は極めて高かったはずです。私としては、「満洲日報記事にある「平頂山村人口1,369人、死者400人の数字は、被害を小さく見せたい日本側の作為である可能性を否定できない」を、とりあえずの結論としておきたいと思います。

*なお、「人口」については、こんな記述もあります。
満鉄が行なった撫順居住者戸口調査があるが、平頂山村としての記録はない。

次のような仕分けで、昭和三年度の記録がある。(「中国人人口」以外のデータは省略します)

東郷    人口 2,653
楊柏堡   人口 5,060
東岡    人口 1,970
老虎台   人口 4,461

この仕分けで、楊柏堡地区に平頂山村が含まれるなら、村民の数は相当なものであったと考えられる。
(小林実氏「リポート「撫順」1932」P85-P86)




[3873]とりあえず、コンテンツアップのお知らせ

- 07/1/14(日) 8:52 -

新コンテンツ「平頂山事件」、アップしました。
http://yu77799.g1.xrea.com/nicchuusensou/heichouzan.html

とりあえずは「基礎知識編」。あちこちの資料をつなぎあわせて「平頂山事件」の経緯をまとめた程度のものではありますが、おそらくウヨさんから見ても文句のつけようのない内容でしょう。

続編として「犠牲者数論編」も考えていますが、こちらは誰も関心を持ちそうもない思い切りマニアックなテーマですので、「ご案内」をせずにこっそりとアップしてしまうかもしれません(^^;


最近、やたらと「通州事件」を強調する議論をあちこちで目にします。

しかし、「事件」としての「規模」を問題にするのであれば、明らかに「平頂山事件」の方が大きい。

また、「通州事件」は「傀儡政府の保安隊の反乱」であり、誰にも「責任」を求めようのない事件でしたが(日本側も「傀儡政府」に責任をかぶせてお終いにしてしまいました)、こちらは日本軍の正規部隊が正規の軍事行動として起こした「無差別虐殺事件」ですので、責任の主体はあまりに明確です。

「通州事件」を問題視する方のほとんどは、「平頂山事件」をご存知ないか、あるいは完全にスルーしてしまっています。私としては、強い違和感を感じざるをえません。

*「ゆう」解説 私としては最終的には「田辺氏説批判」の論稿をアップしたかったのですが、そのキーとなるトウ達氏の著作(中国語)を、私の能力では到底日本語に翻訳できないことから、断念せざるをえませんでした。
 


[3910]Re(2):平頂山村の人口

 - 07/1/20(土) 18:47 -

「撫順炭砿概要」という小冊子があります。「南満洲鉄道株式会社」発行の小パンフレットで、どうやら毎年のように改訂されていたようです。私の手元には、3年分あります。

さらに、熊猫さんも、私が持っていない年の分が1部あるようです。

この4冊から、「附属地内」の「満洲国人(または中国人)」の人口推移をまとめておきましょう。

1925年12月    42,182人
1932年12月   43,783人
1934年12月   55;489人
1938年1月   170,036人 (「康徳5年1月」となっていますが、たぶん1938年でよろしいのではと)

ここまでは、そんなにおかしくない数字です。まずは撫順炭砿、順調な発展ぶり。最後の4年間でいきなり3倍増していますが、満洲国建国に伴う「撫順」の都市づくり政策の効果でしょうか。

この間、「1932年10月」の「平頂山事件」直後に人口は大幅減しているはずですから、「1931年」とか「1930年」とかの数字がわかると、面白いかもしれません。

(なお、前に触れた「1932年12月満鉄調べ」の数字は「43,854人」でした。まあ、誤差の範囲でしょう。)


ところがこれに、熊猫さんの資料を重ね合わせると、状況が一変します。

1925年12月  42,182人(撫順炭砿概要)
1930年12月  21,741人(昭和12年軍事年鑑)
1932年12月  43,783人(撫順炭砿概要)
1934年12月  55,489人(撫順炭砿概要)
1935年 6月  32,288人(昭和12年軍事年鑑)
1938年 1月  170,036人(撫順炭砿概要)

一見して、「昭和12年軍事年鑑」の数字と、「撫順炭砿概要」の数字が整合しないのです。「基準」が違うのか、「情報源」が違うのか。

一方、田辺氏が挙げているのは、新聞記事の文脈まら見て、おそらくは「撫順県公署」の「救済委員会」の数字でしょう。どちらかといえば、「満鉄」に近い情報源ではないか、という気がします。


私としてはむしろ、トウ達氏の論が正しいとすればの話ですが、「平頂山村」の一部、あるいは全部が「附属地内」になかった可能性がある、という事実を重視したいと思っています。

当然のことながら、当時は「戸籍制度」はありませんでしたから、上の数字は「戸口調査」でしか判明しません。おそらく流動が激しかったであろう「満州国人人口」をどこまで正確に把握できたのか。

そして実際の話として、「平頂山村」に「附属地外」部分があったとすれば、そこまで「戸口調査」がきちんと行われたのか。少なくとも私の手持ち資料からは、「附属地外」の人口まできちんと把握していた、というデータは出てきません。


そして、実はこの「撫順炭砿概要」、「附属地外」にも多数の人口があったであろうことの裏づけにもなるのです。

大正15年(1926年)3月15日 中国人従業員数 43,785人
大正14年(1925年)12月末  附属地内中国人人口 42,198人

時期は3か月ほどずれますが、「従業員数」よりも「附属地内人口」の方が少ない。「従業員」には当然「家族」もいるでしょうから、これは、「附属地外」に居住して「撫順炭砿」に通っていた「従業員」が多数存在していたことを示唆します。

なお、1932年になると、「附属地内人口」が「従業員数」を大きく上回るようになります。これはこれで、面白いデータです。


今後調べが進むとまた考えが変わるかもしれませんが、とりあえずは、「満鉄側は附属地外の人口を、附属地内ほどには十分に把握していなかった可能性がある。従って、新聞記事の「平頂山村人口」は確実なものではない可能性がある」程度を、今時点の中間的結論としたいと思います。

とりあえずは、「平頂山村」が本当に「附属地外」にハミ出ていたかどうかを確認しないと・・・(^^;
 




(2009.11.15)


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