「小林よしのり氏「戦争論」の妄想」に戻る
「小林よしのり氏「戦争論2」の妄想(2)」に進む
さて小林氏は、続く「戦争論2」で、「南京事件」をさらに詳しく論じようと試みます。しかし元ネタが質の低い「否定本」では何とも心もとないもので、相変わらず「事実誤認」のオンパレードです。
まず小林氏は、「サヨクの手口」なるものを問題にします。
小林よしのり氏『戦争論2』より
「残虐行為があったということが重要なんだ これは数の問題じゃない!」
(中略)
「数の問題じゃない! まず虐殺があったかどうか? どーだ?」
「じゃ30万人ってことに、しとけ!」
・・・とまあ、これがサヨクの手口だ
大量殺人では犠牲者の数が最も重要な争点のはずなのに やつらはそこをごまかすのだ!
サヨクは「南京虐殺」は「30万人」というデマをさんざん宣伝しまくり その印象を定着させておいて・・・
それが論破されたらとたんに「数の問題じゃない」と言いだす!
(P302-P303)
|
小林氏の書き方では、
1.従来「30万人」という主張を行い、
2.「論破」されたので「30万人」説からより小さい数字の説に「転向」して、
3.その上で「数の問題じゃない!」と突然主張しだす、
という、とんでもない「サヨク」が存在するかのように錯覚させられます。もちろん、日本にはそのような「サヨク」論者は存在しません。
日本における「南京事件」研究のパイオニアである洞富雄氏にしても、「30万人説」は主張していません。その後も、「30万人説」を積極的に主張する研究者は存在しません。例えば笠原十九司氏なども、「30万人説」は「幻想に近い」との見解を語っています。
さらに「数の問題」ですが、実際に日本の「史実派」研究者がどのような発言を行っているのか、確認しておきましょう。
藤原彰氏『南京の日本軍』より
少数説には、故意にいくつもの事実を曲げた前提がある。まず第一に、犠牲者数をなるべく少なくするために、期間と範囲をなるべく狭く限定していることである。(P68)
南京大虐殺の犠牲者数はどれほどであったかをあきらかにすることは、現在となってはきわめて困難だといわなければならない。
もともと犠牲者は何人だったかという議論そのものが問題なので、期間と地域をひろくとれば犠牲者数はいくらでもふえるのである。(P70)
|
笠原十九司氏『数字いじりの不毛な論争は虐殺の実態解明を遠ざける』より
南京大虐殺事件における犠牲者数の問題(数の問題と略称する)は、事件の規模と実態を知るために重要な問題である。
しかし、数の問題を考えるにはまず、南京事件の歴史事実を認定する必要がある。次に残虐事件のさまざまな実態と被害者の様相など広範で多様な事例に即して具体的に認識していく。そして南京大虐殺のイメージをしっかりと捉えたうえで、規模と全体像を認識するために総合的に数の問題を考える、という認識の順序がある。
否定派が仕掛ける「数の論争」のトリックは、今となっては数の問題に正確な結論は出せないということを利用して、数の問題が解明されなければ南京大虐殺も「まぼろし」「虚構」であるかのごとく思わせ、実態認識にいたろうとする思考の道を妨げるところにある。
(『南京大虐殺否定論 13のウソ』所収 P78-P79)
|
「否定派」議論を批判する形で、「数の問題」を重視しない考えを表明しています。別に、「論破」されたから「とたんに」数の問題を重視しないという立場に転向した、ということではないでしょう。
小林氏は、存在しない「サヨク」論者をでっちあげて、もっともらしくそれに対する「批判」を試みているわけです。
*なお、ネットではしばしば、「中国が主張する南京大虐殺とは30万市民の虐殺のことである」という勘違いを目にします。「南京軍事法廷判決」にも明らかな通り、中国側主張は「捕虜及び非戦闘員」の殺害であり、明らかに「軍人」も含むものなのですが。
小林よしのり氏『戦争論2』より
そんな中面白い本が出た 『再審「南京大虐殺」』 竹本忠雄・大原康男著 明成社
1冊の本で半分日文半分英文 世界中の人に向けた日英バイリンガルの本だ
これは「南京虐殺なんかウソだーっ」と声高に叫ぶ本ではない
「南京大虐殺」を題材にしていわば法廷推理ドラマである。
中国政府の公式見解を告発側の「起訴状」として 著者は弁護士の立場でこれに反駁していく
読者は陪審員の立場で結論はあくまでも読者の判断に任される
ミステリー小説のように楽しめる知的エンタテイメントになっている
(P305) |
いや、この著は明らかに、「「南京虐殺なんかウソだーっ」と声高に叫ぶ本」なのですが・・・。
何しろ副題からして、「世界に訴える日本の冤罪」という勇ましいものです。「結論は読者の判断に任される」などという、中立的な雰囲気は全くありません。
「冤罪」とまで言うからには、筆者は「何もなかった」という無茶な主張を押し通したいのでしょう。こんなトンデモ本を「知的エンタテイメント」などと評価すること自体、小林氏の認識の「偏向」ぶりを伺わせます。
ともかく、この本から学んだという、小林氏の記述を追っていきましょう。
小林よしのり氏『戦争論2』より
終戦直後中国国民政府は東京裁判に備え 南京の中国人に日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけた
ところが申告する者「甚だ少き」ばかりか 調査をすると唖然として「口を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいた
(中略)
以上から次のことがわかります
第一に当時の中国人は日本が敗戦したにもかかわらず
その犯罪を告発するのに消極的であってり否定的であったり
かつ信憑性のある証言をする者も全くいなかった!
(P308-P309) |
一応、「再審 南京大虐殺」の表現も確認しておきます。
竹本忠雄氏、大原康男氏「再審 南京大虐殺」より
ところが、日本軍の残虐行為を申告するものが「甚だ少き」ばかりか、聞き取り調査を行うと唖然として「口を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。
(P39) |
ご覧の通り、小林氏の記述は、「再審 南京大虐殺」の「丸写し」でした。
さて、竹本氏ら、及び小林氏は、虐殺の事実がないから「口を噤みて語らざる」状況になったのだ、と示唆したいようです。まずは、元の中国国民政府の文を確認してみましょう。
「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」より
此間、敵側の欺瞞妨害等激烈にして民心消沈し、進んで自発的に殺人の罪行を申告する者甚だ少きのみならず、委員を派遣して訪問せしむる際に於ても、冬の蝉の如く口を噤みて語らざる者、或は事実を否認する者、或は自己の体面を憚りて告知せざる者、他処に転居して不在の者、生死不明にして探索の方法なき者等あり。
(『南京大残虐事件資料集』第1巻 極東国際軍事裁判関係資料編 P142~P143) |
ご覧のとおり、「唖然として」という表現は、竹本氏らの「作文」です。この語の挿入により、竹本氏ら、及び小林氏は「証言すべき事実がなかった」かのような印象を作ろうとしているわけです。
なぜ調査が難航したのか。この時期の「調査」の雰囲気を示すものとして、次の資料があります。
「南京市臨時参議会関於協助調査南京屠殺案経過概術」(1946年11月)
さて、調査方法は以下の通りである。
本件について、かつて幾つかの機関が調査を行なったことがあるが、事件からすでに八年間の歳月が経過し、被害者の死亡や移動により、訴えを代理する人もいなくなった。あるいは、時間が経つに連れて怒りも徐々に薄くなり、旧い傷跡を触りたくなくなった。
代表的な事例は、女性が敵に強姦された後、殺されてしまうケースである。また、加害の部隊の番号を知らないとか、調査に協力しても苦しい生活の改善につながらないとかを理由に、関心を示さず、調査員の訪問を無視するケースもある。
(楊大慶『南京アトロシティズ-建設的な対話は可能なのか』=『国境を越える歴史認識 日中対話の試み』所収 P143~P144)
|
もう「事件」のことなど思い出したくもない。また、調査に協力しても、何のメリットもない。面倒だから放っておいてくれ。・・・そんな感じでしょうか。むりやり「唖然として」の語を挿入した竹本氏ら、小林氏の書きぶりとは、全く印象が異なってきます。
少なくとも、「事実がなかったから口を噤んだのだ」と決めつける必然性はありません。
なお小林氏は、同じページに、こんなことを書いています。
小林よしのり氏『戦争論2』より
2か月半調査して結局法廷に提出できた目撃証言はこの「5万7418名殺害」のただ1件だけしかなかった
ほかならぬ中国国民政府が東京裁判に提出した調査報告にそう書いてあります!
(P308) |
確かに、「5万7418名」の「魯甦証言」は、信頼性の低いものではあります。日本の研究者でも、この証言を真面目に取り上げている方は見受けられません。
しかし、「目撃証言」が「ただ1件」で、そのことが「中国国民政府が東京裁判に提出した調査報告」に書いてある、というのは、無茶苦茶です。「再審 南京大虐殺」では、次の表現になっています。
竹本忠雄氏、大原康男氏「再審 南京大虐殺」より
やむなく中国政府は暫定的な報告を一九四六年一月二十日、東京裁判に提出したが、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯甦という人物の「目撃証言」ただ一件であった。
その後も調査を進め、ようやく「五百件の調査事実」を発掘したが、「資料を獲得する毎々一々これを審査」した結果、新規に採用できたのは僅か四件であった。
(中略)
東京裁判開廷から二カ月後の一九四六年七月一日から十一月十一日まで約五ヵ月間にわたって再調査を実施した。その結果、「確かな証拠にもとづいて出廷し証言した者は二千七百八十四件分、その中でも被害情況が重い被害者で出廷し証言しえた者は十一件分」あったという。
(P39-P40) |
小林氏の言うような、「ただ1件」ではありません。小林氏は、自身がネタにしたこの本すら読み飛ばしていたのでしょうか。
さて、ここまでが前置き部分で、小林氏はいよいよ「南京虐殺」のトータルな否定に精を出すことになります。
小林よしのり氏『戦争論2』より
まず陪審員のみなさんに当時の南京がどのような状態だったか知ってもらう必要があります
(中略)
南京城の外は中国軍が「清野作戦」で半径16キロを焼き払ってしまったので無人状態でした
南京に残った市民は南京中心部に設定された「難民区」に殺到 地域を管理するため設けられた安全区委員会も「われわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めました」と記しています
つまり南京城内外の非戦闘員はほとんどすべて安全区の中にすし詰めでその外には中国兵しかいなかった
(P310-P311)
|
小林氏は、①南京城外、②南京城内、の「ほとんどすべて」の非戦闘員が安全区に集まった、と書きます。
①南京城外は「清野作戦」によりすべて焼き払われてしまったので「無人状態」になった。
②南京城内は「ほとんど全体」が安全区に集まっていたので「安全区」外はこれまた無人状態であった、
というわけです。
今さらの感はありますが、これは、「南京市」の人口を「20万」と決めつけ、従って「30万虐殺」などありえない、というストーリーをつくるためのトリックです。
まず、①南京城外。小林氏の「半径16キロを焼き払ってしまった」というのは、誇大な表現です。ソースと思われるダーディンの記事を見ましょう。
『ニューヨークタイムズ』1937年12月8日付
F・ティルマン・ダーディン
十二月八日、水曜日、南京発。(略)
焼却はさらに続く
中国軍による防衛線内の障害物の焼却が続けられていた。中山陵園の中国高官の宏広な邸宅も昨夕燃やされたところに含まれる。
南京は深い煙の層によって囲まれた。昨日、中国軍が半径一〇マイル以内の町の建物や障害物を焼き払い続けたからだ。
本記者は車で前線に行く途中、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを見た。中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村は、一面煙る廃墟と化し、事前に避難しなかった住民は、その僅かばかりの哀れな持ち物を背に南京に向かって道にあふれ、ときおり立ち止まっては、もといた家のほうを悲しげに見やるのであった。
(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』 P390)
|
ダーディンの記事の表現は、「焼き払い続けた」です。この地区の建物にかなり大きな損害が出たのは事実ですが、「半径10マイル」という広大な地の、すべての建物が焼失してしまったわけではないでしょう。
例えば激戦地であった「南門」方面でも、その「先」は「大して焼失していない」との報告もあったようです。
南京安全区国際委員会 『第六十六号文書 現在の状況にかんする覚書』より
1938年2月8日正午
今朝、南門を出たある西洋人の報告するところでは、城外にはより多くの住民がおり、南門の先は大して焼失していない とのことである。
(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』 P205)
|
ですので、「焼き払い」自体は、「無人地帯」説に対して何の証明にもなりません。実際問題として、例えば南京城外、揚子江に面する下関(シャーカン)付近、「宝塔橋街」という場所に、二万人規模のキャンプが存在していました。
『フィッチの手記』より
十二月二十九日、水曜日。
(中略)
河岸におよそ二万人の難民がいるという下関からの伝言が、中国赤十字社の代表をつうじてとどきました。日本軍の到着前にわれわれが彼らにもたせた米の配給はもうつきはてようとしており、大変な苦難です。
彼らは安全区に入りたいというのですが、われわれの方はすでに超満員の状態です。とにかく、日本側はそれを許可しないし、われわれが出かけていって彼らを助けることも許さないでしょう。
さしあたり彼らとしては、どうにかしてやって行かなければならないだろうと思います。
(ティンパーリ編『戦争とは何か』所収=『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』P41) |
*このキャンプについては、「否定派」である田中正明氏の「南京事件の総括」にも、「この町の中ごろに紅卍字会の前記の保国寺難民区があり、数千人の難民と約二万人の市民は不安に脅えていた」(展転社版、P179)との表現が見られます。(「ゆう」注 「保国寺」は「宝塔橋街」に位置する寺です)
また他にも、「法雲寺」「上新河鎮」に難民キャンプが存在していた、という中国側証言があります(「南京事件FAQ 城外の人口の資料」参照)。日本側の資料にも、「城外の住民」についての記述はいくつか残されています(拙コンテンツ「資料:城外、農村部の住民」)。
「半径16キロを焼き払ってしまったので(城外は)無人状態でした」という小林氏の命題は、到底成立しえません。
*さらに、「半径16キロ」の範囲からはやや外れるものの、南京城北東20キロの場所に、棲霞山寺という2万人規模のキャンプが存在していたことも有名です。
次に②「南京城内」に視点を写します。城内の人々は、本当に「ほとんど」安全区内に集まってきたのでしょうか。確かに「国際委員会文書」には、こんな表現が見られます。
南京安全区国際委員会 『第六号文書(Z9)』より
1937年12月17日
言いかえれば、十三日に貴軍が入城した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾によるきわめてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却をおこなったさいにも何ら略奪はみられませんでした。
(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』 P126) |
しかし考えてみれば、これは、南京陥落からわずか5日目、12月17日の国際委員会の認識です。そして、その後の外国人の記録・証言を見ると、安全区外での状況が確認されるにつれ、明らかに認識が修正されたことがわかります。
ジョン・ラーベ「南京の真実」
一月十七日
私はまた、安全区は、日本軍が要求していたように空になるどころか、今なお満杯である、という印象を持っている。
上海路の混雑ときたら、まさに殺人的だ。いまは道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられ、なかには盗まれた故宮宝物まで混じっている。
安全区の総人口の見積もりは現在約25万である。約5万の増加は市の廃墟となった部分から来ている。人々は、実際、どこにとどまるべきなのかわからない。
(文庫版P215-P216。ただし「ゆう」が一部翻訳を修正)
*「ゆう」注 日本語版の翻訳は不正確であると見られるため、一部、英語版から翻訳し直しました。ちなみに日本語版「南京の真実」の赤字部分の翻訳は、「難民の数は今や二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ」(英文Estimates of the total population of the Zone are now around 250,000. The
increase of about 50,000 comes from the ruined parts of the city..)となっています。
|
ラーベは、「市の廃墟となった部分」に「約5万」の人口が存在した、という認識を示しています。
「極東軍事裁判」 速記録第49号 (A.検察側立証段階7)
○ブルックス弁護人 日本軍が十二月十三日に、南京に入つた時の南京の人口は大体どの位でありましたか、十二月十三日に二十万位でありましたか。
○マギー証人 それは一寸幾らいたかと云ふことは申上兼ねるのでありますが、我々委員会で推定した所では、安全地帯に入つたのは少くとも二十万は入つたと思ふ。其の外に安全地帯に来なかつた者がどの位あつたかは到底推定出来ないと思ふ。けれども三十万は最低の見積りであらうと思ふ。兎に角城外に居つた者、市外に居つた者がどの位居つたかと云ふことは到底推定出来兼ねる。
(「南京大残虐事件資料集 第2巻」P100)
*「ゆう」注 読みやすくするため、脚注となっている「モニターの訂正」部分を本文中に押し込めました。
|
マギーもまた、城内・城外を含めると、かなり多数(三十万?)が安全区外にいた、という認識を持っていたようです。
もちろん当時の混乱した状況では、「城外人口」「安全区外人口」を正確に把握することなど、不可能でした。その意味では、国際委員会メンバーの認識がどこまで正確であるかには、議論の余地があるかもしれません。
しかし、「国際委員会文書」の記述をもって「安全区外は無人地帯である」と主張したいのであれば、その後の彼らの認識の変化を無視することは、決してフェアな態度であるとは言えないでしょう。
以上、「南京城外」「南京城内の安全地帯外」とも、「無人地帯」であった、という断定はできません。
実際問題として、例えば有名な「夏淑琴さん事件」は明らかに安全区外で生じた事件ですし、その他外国人の資料、中国側資料にも、「安全区外で被害にあった」という証言・記録は多数存在します。
「安全区以外はすべて無人地帯であった」という主張は、このような証言群と明確に矛盾します。「これらの証言はすべてウソだ」という、東中野修道氏ばりの無茶な決め付けをしない限りは、「無人地帯」説は成立しえません。
*拙コンテンツ「安全区外は無人地帯?」、及び中国側証言を集めた熊猫さんの労作「安全区外は無人地帯だったか?」をご参照ください。
小林よしのり氏『戦争論2』より
では安全区の中には何人いたのか? いいですか これが最重要のポイントですよ
安全区委員会委員長ジョン・ラーベが日本大使館に当てた手紙が残ってます
その手紙には日本軍の南京入城式が行われた12月17日付でこう書いています
「もし市内の日本兵のあいだでただちに秩序が回復されないならば20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう」
安全区委員会にとって最大の仕事は市民の食糧を確保することで 何人分の食糧が必要か正確に把握することが必要不可欠でした
彼らは何度も大使館に食糧支援要請などの手紙を出しましたが一貫して人口「20万人」と記しています
つまり南京の非戦闘員の人数は確実にもしくは幾分多めに見積もって20万だったということです
多くても20万人しかいなかった市民をどうやったら30万人殺せるのですか?
(P311-P312)
|
「20万人しかいなかった市民をどうやったら30万人殺せるのか?」-「極東国際軍事裁判」のやりとりに端を発する、レトロな「否定論」です。
私は別に「30万人説」を支持するものではありませんが、「30万人説」を否定する立場からしても、この論理はあまりに杜撰なものです。拙コンテンツ「二十万都市で三十万虐殺?」で取り上げた通り、
1.「三十万人」は、「民間人プラス軍人」の犠牲者の数字です。これと「民間人」のみの「人口」を比較することに、あまり意味はありません。比較するのであれば、「民間人の人口」プラス「中国軍の数」をベースにするべきでしょう。
2.「二十万人」は、「虐殺」の範囲である、「南京市」、あるいは「南京行政区」の「人口」ではありません。その一区画である「南京城」の、そのまた一区画である「安全区」の推定人口です。これも比較するのであれば、「虐殺」の範囲と「人口」の範囲を合致させるべきでしょう。
ということになるでしょう。
「何人分の食糧が必要か正確に把握することが必要不可欠」だったから「国際委員会」は人口を把握していたはずだ、というのはネットにもよく見られる俗論ですが、「必要不可欠」であることと「実際に人口の把握ができている」こととは、全く別の話です。
実際問題、「国際委員会」の食糧供給は結果として限定的なものにとどまっており、「20万」(?)の人口全体に対して食糧供給を行った事実はありません。
なお、そもそも日本側の研究者で「三十万人説」を採っている方はいませんので、この説明は「中国説」への批判の試みではあっても、日本側「史実派」が主張する範囲・規模の「南京大虐殺」を否定できるものではありません。
小林よしのり氏『戦争論2』より
しかも約1カ月後の1938年1月14日付文書ではラーベはこう書いているのです!
「当市の総人口は多分25万から30万だと思います。
これだけの人口を普通並みの米の量で養うとすれば、一日に2000坦の米(あるいは一日に1600袋)が必要となるでしょう」
なんと一カ月後人口が増えている!
5万から10万も増えている!
(P313)
|
これまた、レトロな否定論です。
詳しくは拙コンテンツ「南京の人口は増えたのか?」に譲りますが、要約すれば、
1.初期の「二十万」という数字は、何らかの「人口調査」から得られた数字ではなく、「国際委員会」の、単なる「見当」に過ぎない。これと、のちの「二十五万」を並べて「五万人増加」と論じても、あまり意味はない。
2.この「人口数」は、概ね、「国際委員会」の管理下にあった「安全区」の人口であり、「南京市」全体の人口ではない。
避難民の流入から「安全区」の人口が増加したことはほぼ確実だが、「南京市」として「人口増加」があったかどうかは、不明である。
3.「安全区の人口増加」を「治安回復」のメルクマールとすることはできない。人口が増加したのだとしたら、治安が悪化した安全区外から、外国人の管理化にあってまだしも治安がましな「安全区」へ住民たちが避難してきたためである、と
考える方が自然である。
ということになるでしょう。
ついでですが、「二十五万から三十万」という認識は明らかに過大なものであり、以降は国際委員会は「二十五万」の認識に落ち着いています。
*私はこの「二十五万」もやや過大な見積りではないかと考えていますが、細かい議論になりますので、ここでは省略します。詳しくは「南京の人口は増えたのか?」をご参照ください。
小林よしのり氏『戦争論2』より
中国政府は「犠牲者30万人」と告発してますが「南京虐殺」については他にも何種類か「告発状」が出てますね なぜかほとんど日本人の手によるものですが・・・
ある「告発状」は「30万人は虚構でも4万人くらいの虐殺はあった」と「南京中虐殺」を主張しています
他にも「6000くらい」という「南京小虐殺」の告発もあります
(P313)
|
「数」の議論については、拙コンテンツ「「犠牲者数」をめぐる諸論」をご参照ください。
「4万人くらい」は秦郁彦説、「6000くらい」は畝本正己説でしょう。私見では畝本説は明らかに過小なのですが、それはともかく小林氏は、「30万」と「4万」の中間に位置するはずの、「十数万から二十万」という日本の「史実派」の見解を全く無視しています。「中国説」と「史実派」を一くくりにする、というイメージ操作でしょうか。
さて、ここからの小林氏の書きぶりが、何とも大胆です。
小林よしのり氏『戦争論2』より
でもこれらは大中小を問わず一括審理できるのです
(P313)
|
ここまで見てきたように、「南京事件」についての知識の貧困ぶりを露呈してしまっている小林氏が、過去の研究の蓄積である上記諸説を、どのように「一括審理」しようというのでしょうか。答えは・・・
小林よしのり氏『戦争論2』より
なぜならたとえ千人単位でも虐殺があった場所の人口が・・・
一カ月足らずのうちに5万から10万も増えるはずがないのですから!
中国人は耳聡いですからね 南京が安全だという確実な情報がない限りこんな人口増は絶対ありえません!!
(P314)
|
何のことはない、こちらもまたレトロな、「南京秩序回復論」でした。しかしここで小林氏は、「6000人」の「小虐殺」すら否定する、「極端な否定派」の立場を表明してしまっています。
これに対しては、先ほど書いた通り、「人口が増加したのだとしたら、 治安が悪化した安全区外から、外国人の管理化にあってまだしも治安がましな「安全区」へ住民たちが避難してきたためである、と
考える方が自然である」の一言でお終いでしょう。
参考までに、1月7日の安全区国際委員会文書です。
「南京安全区国際委員会 第十七号文書」(Z28)より
一九三八年一月七日
南京における正常状態の回復
Ⅰ 安全区外の市内各地区における秩序の必要性
(1)安全区外が現在のように危険な状態では、多くの難民は帰宅したいと思っても帰宅できない状態にある。
(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』P141)
|
安全区内に逃げ込んだ難民は安全区外の自宅に帰れない。一方、「危険な状態」である安全区外から難民が流入してくる。これが、「安全区の人口増」の正体でした。
*詳しくは、拙コンテンツ「南京の「治安」は回復したか?」をご覧ください。
(2008.10.2記)
|