盧溝橋事件 一周年回顧座談会

ー昭和十三年 東京朝日新聞ー


出席者

陸軍少将    牟田口廉也氏(紙上参加)
陸軍歩兵中佐 桜井徳太郎氏
陸軍歩兵中佐 一木清直氏
陸軍歩兵中佐 川本芳太郎氏
陸軍歩兵少佐 岩崎春茂氏
陸軍歩兵大尉 寺平忠輔氏
当時本社北京支局長、現東亜部支局
          園田次郎氏


本社側 緒方主筆、美土路編集局長、野村編集局次長、北野整理部長、細川政治部長■

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●東京朝日新聞 昭和十三年七月六日

盧溝橋事件一周年回顧座談会
北京入城を阻止    桜井顧問 広安門の活躍


一木中佐 宮崎といふ兵は二等兵ですが盧溝橋の橋の下を渡つて行く時に例の中之島からドンドン射たれてエッチもオッチも行かん程やられた、行く兵も行く兵も皆負傷してしまふ

 その中を勇敢に這つて行きました、弾丸の中を、そしてたうとう目的地へ行つたものですから中之島の敵兵を掃蕩出来ました、機関銃の兵が敵弾の中を機関銃を持つて行く、通信兵が電線を架設するいづれも勇敢なものです、傷ついてもそのまま匍つて向ふへ行つて居ります、一人の兵が川の中で射たれて流れ出したのを衛生曹長が泳いで行つてそれを引つ張り上げて来て居ります

 大隊本部の旗を持つた兵が河を渡るときに、弾丸が旗の中に中つたのでせう、河に落ちて流れた、これは一大事といふので河の中を追つて行き取つて来ました

緒方主筆 桜井さん広安門事件について御話を願ひます

桜井中佐 盧溝橋事件があつてから非常に形勢不穏になつて特務機関と支那側の交渉の真最中、北京市内の防備が足らんといふ事で兵を入れることになりました、それは郎坊事件の翌日の二十六日です、

 初め戒厳司令部に電話をかけて門を明ける事に約束してあつたが門の所へ行つて見ると支那の便服を着た奴が秦徳純に電話をかけ、その命令だといふので又門を閉めて、城門に上つて来ました

 種々交渉すると今度は門を開けるといふので特務機関に帰り例の戦死した川村通訳を連れて行きました、

 最初前田といふのを連れて行くつもりでしたが服か何かを取りに行つて帰る間に川村が顔を出したので「代りに行くか」といふと「行きます」といふので連れて行つたのですが、人の死ぬか死なぬかといふ時はこんなものです、

 門のところで城壁の上から宋哲元の秘書が入れと挨拶した 私が日本の部隊に「はいれ」というた時に写真班が来て写真を撮つた、門が半分左側が開いて居る、新聞記者諸君は城門の北角の所に立つて居つた

 広安門には支那兵が一個中隊ばかり来て居ましたが田舎の兵で僕の顔を知らない、大分入つたと思ふ頃そいつが射ち出した、こいつはいかんと思つて止めて居るうちに前の方の奴がやり出した、僕はもう止めるのに一生懸命だ、

 早く止めないと外側の兵隊が射たれる、一生懸命止めて居るうちに後ろの方が止まつた、それは目標がなくなつたから止めたので十台目の自動車までが中に入り城の内と外とに遮断されてしまひました、

 日本軍は半分しか入つて居ない、指揮官広部部隊長も中に入つて居る

 僕は宋哲元の所へ連絡したり、王といふ隊長を捕まへて交渉したりして早く止めるやうに努めて居りましたが、日本軍も城の内と外とで射ち出して居る、城門には弾丸が前方から来た、そこで中々止まらない

 僕は北側の城壁の上で隊長を捕まへて頻に止めて居たが兵士は興奮して「日本人を殺せ」とか言ひ出しました、増援隊が来て支那軍の気勢が挙がりたうとう僕は左足に一発くらつてしまつた、隊長も拳銃を僕の胸に 擬してかかつて来た

 城壁の上で僕と支那の中隊長との格闘となり僕は足払ひで彼れを投げ飛ばした、

 こんな事で止めようとしても何うしても止まらんやうになつた訳です、見ると川村が仆れてゐる、私も左足をやられた、かうなると城壁の上に居てはやられると思つたので下に飛び降りましたが、頭の中では止める事に一生懸命で、生きるとか死ぬとか考へて居なかつた

 兎も角小屋があつたのでその中に入り傷の手当をしたが、左股の傷は手首が入る程でした、ハンカチを突つ込んで縛つたが胸をやられて息が出来ん程でした

川本中佐 胸も射たれたのですか

桜井中佐 胸は射たれなかつたが、中隊長と格闘して投飛ばした時彼の擬した銃口が強く僕の胸に当つたのです 僕は引金を引く余裕はなかつたので弾丸は食はなかつたが骨が一寸どうかしたと見え左の胸が苦しい、それに飛び降りる時に足を挫いたと見え歩くと骨がゴリゴリいふ

 捻挫したらしい、しかし兎に角生命に別状はない、かういふ風に思つて戦況を窺つて居りました、バチバチ銃声が盛んであつて手榴弾が破裂する、さういふ状況で日が暮れたのです

 僕の居る家の後ろへ支那兵が来て土を掘つて居るやうな物音がする 僕は川村を埋めて居るのだと思つた、可哀相なことをしたと思つて陰で拝んで居りました、しかし支那兵はこの時土嚢をつめて居たのだと後で分かりました、

 やがて城内が静かになると闇の中から「桜井顧問!」と支那語で呼びながら懐中電灯を光らせて来るものがある、兵隊だつたらやられると思つて居たがそれは巡査だつた

 「周参謀が探せといふので探しに来た、停戦協定が出来た」といふので安心して小屋を出ました、凄い稲光りのする晩でしたナ、

 周参謀に電話をかけたら返事があつて公安局に行つてくれといふ、兵隊が六人、巡査が二人ついて公安局まで歩いて行きました、公安局まで1千メートル位あるがそこまで歩いて行つたのです

 顔を洗つたり、煙草をのんだりして居ると周参謀の回した自動車が来て漸く特務機関に帰つて来ました、聞いてみると外側の損害は一人の怪我人もないと聞いて非常に気が楽になりました

 新聞記者の犠牲者を出したのは申訳ないと思ひました、川村は私の身代りに死んだのです、兵員の損害も思つたより少なく済みました、

 さういふ風にして夜が明け自分は入院することになつたが二人の新聞記者に玄関で会ひ「どうです傷は」と聞かれ「ナーニ大した事はない」と言つたことを覚えてゐますが、入院してからは全く動けなくなつてしまひました、不思議なものですネ

 翌くる日宋哲元が名刺を以て「済まん事をした」と見舞つたり詫びたりしたが、宋哲元はこの時逃げる気がなかつたらしい、停戦協定が出来たら許して貰へるものと思つて居たらしい、

 広安門事件の翌朝に日本居留民の引揚げがありましたが、居留民が引揚げを完了して怪我人が一人もなかつた事は何よりも喜ばしい、これは皆さんの御努力の賜もので軍隊も亦堪忍自重したおかげで、もし通州のやうな事件が起きたら大変な事でした

寺平大尉 あの時広部部隊長が先頭で、中島中佐も居られた、三、四台城内を入つた時に手榴弾を投げられたが向井といふ初年兵が手柄を立てました、桜井といふ少尉が居りましたが少尉の背嚢と首筋との間に手榴弾が落ちてシュッシュッと火を吹いて居る、向井がこれをつまんで上に投げ返した、その瞬間空中で破裂して乗つて居たものがニ三人怪我をした、

 あれが若し自動車の中で破裂したら全員滅茶々々になる所でした、向井は手を一寸火傷した位で総て軽く済んだ訳であります

 門の中に十二台飛び込んだ、ここで城内を挟んで内と外とに戦闘が始まつたのですが、城壁が高いために梯子なんかを集めて攻撃を開始したのですが梯子が足りない、この日は東風が強く広部部隊長はこれを神風と呼んで居られましたが、攻撃は頗る困難だからこの神風を利用して夜の十二時を期し 楼門に火をつけ燃え上がるのを待つて一挙に乗つ取らうといふ作戦でした、

 所が広安門で衝突したといふ事が軍に報告される、軍では既に二十六日宋哲元に対し最後の通牒を発し、その返事を待つて居る所でしたが、先方に誠意なしといふ特務機関の報告もあり、二十八日正午まで待つて支那側がこつちのいふ通りに実行しなければ断乎たる行動に出る準備をして居た、

 併しその朝郎坊事件も起つて居る、不信不義の行動をとつて支那側に誠意のないことは明かだ、二十八日正午までを待たず全面的に叩かう、広安門事件を動機にやつつけてしまはうといふ議論も出たのですが今直ぐ広安門を攻撃しても仕様がない、大の虫を生かすために広安門は局部的に解決しよう、此際大局から見て強ひて城内に入らんでもよいから悉く豊台に引き返すやうにといふ事になりました

 そして特務機関は直に日支両軍喧嘩をやめ戦さは中止するやう交渉せよとの事で直にその手配をしましたが、支那側では出先の軍と連絡は殆ど取れなかつたらしく、増援隊が一個連隊ばかり繰出す、広部部隊長も神風を利用しての作戦計画を立てるといふ状況でありました、

 私と笠井顧問は今日は軍服を着て行つてはいかんといふので真白い背広服を着て交渉に出かけましたので「夜夜中に戦さを見に来る奴があるか」と支那の兵隊に叱られました、

 連隊本部に行つて連隊長に会ひましたが彼は劉汝明の弟、これを説得しましたが広安門の方ではまだパンパンやつて居る、これを止めなければならぬといふので自動車に乗つてヘツドライトを照しその前に白旗を立てて進んで行きましたが、弾丸が後ろから飛んで来る、自動車の上の方を通つて車体には中りませんでした、

 日本のトラツクのある所まで来ましたがここは静かでした、又ズツと行つた所が道路上にピカツピカツと光るものがある、日本軍の銃剣です、

 飛降りて部隊長に会ふために本部へ行つた、丁度十二時一寸前で、今から神風を利用して広安門をやつつけるといふので中隊長を連れてゾロゾロ出て来る所に会ひました

 「大局上戦さはお止め下さい」と云つたが「戦さは止めない、多数の部下が死んで居る」と中々聞かない

 「誠に御尤もですが、広安門は最後の勝利ではない、宋哲元を引つくり返さねばならぬ、既に最後の通牒は突付けてある、どうか外の戦場で部下の仇をとつて下さい」と言葉を尽して説き、居留民保護の大目的のために広部部隊長の翻意を願つたのですが議が纏まるまでに四、五十分はかかりました、結局それではといふので戦ふ事を止めることになりました

 あたりを見ると附近には沢山の人力車が置き放しになつて居る、早速それを利用して戦死者や負傷者を収容しそれ等を皆トラツクに乗せ公使館区域に向け出発しました、

 トラツクは敵の手榴弾でやられて故障だらけのものもあれば動かんものもある 支那軍がいつやつて来るか分らんといふ心配もあつて急がうといふのですが途中で「第何号車故障」といふやうな訳で、公使館区域まで一時間もかかりました

(続く) 

 

(2004.11.21)


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