盧溝橋事件 一周年座談会5
盧溝橋事件 一周年回顧座談会

ー昭和十三年 東京朝日新聞ー


出席者

陸軍少将    牟田口廉也氏(紙上参加)
陸軍歩兵中佐 桜井徳太郎氏
陸軍歩兵中佐 一木清直氏
陸軍歩兵中佐 川本芳太郎氏
陸軍歩兵少佐 岩崎春茂氏
陸軍歩兵大尉 寺平忠輔氏
当時本社北京支局長、現東亜部支局
          園田次郎氏


本社側 緒方主筆、美土路編集局長、野村編集局次長、北野整理部長、細川政治部長■


 

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●東京朝日新聞 昭和十三年七月二日

盧溝橋事件一周年回顧座談会

先方の挑発歴然  ”不拡大”で交渉開始


牟田口少将 七月七日の夜十時半頃わが軍は龍王廟支那軍陣地から突然数発の不法射撃を受けた、

 この時ちやうど私は五、六の両日天津の部隊を検閲して七日夕刻北京に帰り宿舎で二晩も徹夜した疲れをやすめてゐると、午後十一時五十分電話で演習中の部隊が支那軍から射撃を受けた旨の報告があり、

 そこで私は当時の前後の状況を判断した結果まづ部隊に対し「事は慎重にやれ」と命じ自分も交渉によつて事件を解決する慎重な態度をとり支那軍と現地交渉を開始することにし、支那側から苑平県長王冷斉が派遣されて来たので、我が方は 森田中佐を交渉委員に命じ森田中佐にもとくに慎重にやるやう命じて置きました

 すると八日午前三、四時頃またもや二回目の不法射撃を受けた旨の報告を受けとつたので私はかかる不法行為は日本軍を意識してのことに相違ない、しからば我軍の威武を冒瀆するも甚だしい、この際支那軍の不法は容赦なく膺懲すべきであると決意し午前四時二十分私は全部隊に戦闘開始の命令を下したのです

 一文字山にあつて戦闘隊形をとつてゐたわが一木部隊はまさに歩兵砲の火蓋を切らんとした刹那、さきに私より慎重にやれといふ命令を受けて交渉員となつて現地に来た額田中佐が驚いて、この発砲を制止した今一度交渉を進めるべくわが部隊は敵前四百メートルで食事を命じたところ

 午前五時半頃わが部隊の食事中を目がけてまたもや支那側から射撃をして来たので、森田中佐は事ここに及んでは支那側と交渉の余地なしと 森田中佐から全軍に支那軍膺懲の砲撃を命じたのであります

 この戦闘において遺棄された敵の死体三十数個、全部二十九軍の制服を着た支那兵だつたのです、この事件も二十九軍の首脳部から日本軍を射撃せよと命令したものとは思はぬが日頃日本軍を敵軍とする想定の下にやつてゐることが直接この事件を生じたことは明かです、

 宋哲元が右手に日支親善の旗を振り左手には南京に媚を売つた両刀使ひ日頃対日戦争を予想してやつた部下の訓練のために、いはば宋哲元は策に溺れた形であります、日支の大局から考へると来るべきものが来たことになります、

 支那軍は日本は常に東洋和平を叫び堪忍自重してゐるのは日本の力が弱いからだと誤信し、ソ連、英国の援助を受ければ日本など問題でないと自惚れたから日本打倒を叫びその結果が今日に至つたことはいふまでもありません、

 事変勃発当時各国新聞通信記者達が一文字山の現地を視察に来たが、その当時私は敵弾雨飛の中で熱心に日本の立場を説明した、すると彼等は支那軍から発砲してことはよく解つたが何故日本軍がかかる場所で演習しなければならなかつたかといふことにつき疑問を持つてゐるやうでした、

 豊台といふ処は北京といふ都を控へ野菜の産地である、日本軍は北清事変善後処理の議定書によつて何処の地で演習してもよいことになつてゐるが善良な支那農民の生活の糧なる野菜畑を踏み蹂るに忍びず農作物のない現地附近を選んだのである、附近は北寧鉄路の砂利取場で農民には何等の被害も及ぼさないところであるといつて聞かせました

 もう一つ外国人の不審に思つたことは北京駐屯の各国軍隊は日本の外米、仏、伊、英の四ケ国でゐるが、これらは血の出るやうな演習等はやらないのに日本軍だけが真夏の炎天下に演習をするといふことであります、

 然し我に本軍隊は東洋平和のため一身を捧げ常に偉大なる信念に燃えて絶えず武技を練つてゐる、その気分が外国人には解るはずがありません

 最後に私の言ひたいことは常時某国は日支相戦へば極東の赤化はたやすく出来ると云つたことであります、そして現地において共産系が暗躍してゐたことも動かせない事実です、

 蒋介石が容共を捨て防共に先年してゐたら事件は拡大せずに済んだかも知れない、蒋介石は正にソ連を利用せんとしてソ連に利用された形であります、

 支那戦局の展開により共産主義と皇道主義の直接摩擦する場面が拡大して来ました、国民は百年の戦争を決心し時局に臨まなければならぬと考へます

一木中佐 ここで一寸事変当時の駐屯軍の態勢を少し申上げておきますが、天津にをりますところの歩兵部隊は皆秦呈島の近くに野戦に行つてをつた、そこは天津から汽車で半日かかる、そんな遠くに行つてをつた、従つて事変が始まつた時、集合のためには非常な不便な態勢にあつた、 北京にゐる部隊も北京にをらないで通州にをりまして北京には極く一部分しか残つてをりませんでした、

 河辺閣下も秦呈島へ行つてをられますし、若しも一部の悪宣伝の如く日本軍が計画的に事件をやるとしたならば河辺閣下は残つてをつたでせうし、北京の部隊も通州なんかには行かなかつただらうし、又天津にをる処の萱島部隊も秦呈島の方には行つてをらなかつたでせう、

 従つてあの事件が起こつた時の駐屯軍の状態といふものは誠に戦闘のためには不利な状態にあつた、それからか推しましても日本軍が計画的にやつたのではないといふとは明白であります

 それだけ申し加へて置きます

川本中佐 その問題は盧溝橋事件の経緯とか何とかで非常に大事なことと思ひますが、支那側は勿論第三国も盧溝橋事件は日本が計画的にやつたといふことをいつてゐる、

 私は事変発生後天津に出かけて行つて「今度の事件は一体どうなんだ、日本軍がしかけたといふものもあるが果してさうなのか」と聞く と、いまいはれる様に計画的にやるとすれば非常に悪い態勢にあつた、絶対に日本側がやつたのではないといふことをいつてゐました、私はそれで事件の起因については大丈夫といふ確信をもつて東京に帰つて来ました、

 しかるに第三国には真相そのものに触れずしてその国の政策なり立場なりといふもののために色眼鏡で見るといふ始末です

桜井中佐 山海関に行つてゐて七日の夕方に牟田口部隊長と一緒に北京に帰つて来た、非常に暑い日だつた、事件が起ることなどは予想もしてをらなかつたので私は帰つて寝た、すると一時間程して電話がかかつて来た、盧溝橋で支那軍が射撃して日本兵が負傷したといふ、そりあ大変だといふので直ぐ出掛けたのです

園田氏 私が事件勃発の第一報を知つたのは七日の真夜中の一時頃でした、その日は上海から旧い友人がやつて来て話しこんで家に帰つたのは一時を少し回つてゐました、風呂に入つて寝ようとしてゐますと慌しく電話のベルが鳴つて一木部隊と二十九軍が盧溝橋でぶつかつて射ち合つてゐるといふので兎も角も至急報の第一電を飛ばしました、この電報は支那側で抑へられたらしく、本社に着いたのは朝の七時頃だつたさうです

寺平大尉 私が外出先から帰つて来た時には既に非常呼集で特務機関員全部集まつてをつた、直ぐ軍と連絡を取つてみると軍の方からは直に現地の軍隊を以て苑平県城の東の城門を占領して、さうして現地の交渉を容易ならしめる、交渉の精神はあくまで事件の不拡大といふことを間違へないやうにしてゐるとの意味の電話があつた

 それから桜井さんと私が出かけることとし支那側からも連れて行かなければならぬといふので外交委員会の林耕雨、それから事件の起つた苑平県の県長王冷斉が一緒に行くことになつた

 そして私は牟田口部隊長と連絡する必要がありましたので部隊本部へ行き、桜井顧問らは支那側に苑平県の城門も開けさせなければならぬが相当時間がかかるからといふのでさきに出発された、

 それから私は林耕雨と王冷斉を連れて部隊本部に行つて牟田口部隊長に紹介した、すると部隊長はいきなり立ち上つて林耕雨に対して「又やつたぢやないか」と怒鳴りつけた、すると林耕雨は震へ上つて「誤解からです」と答へると部隊長は「誤解のことについてはこの間にも言つてある」と叱咤された、

 これはこの間の豊台事件は支那兵が日本の士官の馬の尻を叩いたといふのが事の起りですが、その時も支那側は「日支双方の誤解から生じまして・・・」など強弁したので部隊長は「誤解で馬の尻を叩くやつがどこにあるか」と怒鳴りつけられたのです、

 然し兎に角早く現地に行つて解決しなければならぬといふことになつて王冷斉に「君は宋哲元の代表として或は三十七師の師長馮治安の代表として現地に行つてこの問題を解決するだけの全権を委任されてゐるか、どうか」と聞くと「全権は有つてゐる」といふ、「確実に有つてゐるか」といつたら「まあ有つてゐると思ひます」といふ、

 そんな曖昧なことでは駄目だからそれを確めるため王冷斉が電話をかけたがなかなか連絡がとれないのでもう一変秦徳純のところに行つて全権を委任されるかどうかといふことを確かめて来るといつたので皆で吹き出してしまつた、

 それから森田中佐と私と王冷斉、林耕雨、それに赤藤憲兵隊長等が一緒に出かけた、森田中佐は先づ調停問責の交渉に当り、交渉が片づかぬ時は部隊長代理として現地の部隊を指揮するといふ権限を委任されてをつた、そこで自動車五、六台を連ねて広安門を出て行きました、

 城外に出ると向ふの方から駱駝が頭のまはりに鈴をつけ何回も何回もチヤリンチヤリンと音をさして、どこに戦があるかといふやうな呑気な風景、私は森田中佐、赤藤中佐等と、この間の豊台事件のこともあるしどうせ結局大山鳴動して鼠一匹だらう、この前のときは相当問題も大きかつたが今度のは実にくだらぬ問題だなど話合つたものです

 そして夜の明ける頃一文字山の一軒家に着いた、そこで自動車を降りて取敢ず城内にゐる支那側に交渉する前に現地の一木部隊長と連絡をとり現在の状況を聞いてからといふので一文字山の砂山を登り初めた、すると山の向ふで「攻撃前進!」といふ声が聞える、一木部隊が前進を始めたのだ、

 敵は私達がそこに行つた時も見えてゐました、苑平城の城壁の上に灰色の支那服を着た兵士が右往左往してゐる、それを左に見ながら一木部隊が右の方龍王廟の方を攻撃してゐる、私は部隊長の頭が狂つてゐるのぢやないかと思つた、あれだけの敵を前にして分列式をやつてゐる、とに角止めさせなければならぬ、そこで森田中佐が先般お話のやうに「攻撃中止」と怒鳴り始めた

(続く)

(2004.11.12)



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