盧溝橋事件 一周年座談会8
盧溝橋事件 一周年回顧座談会

ー昭和十三年 東京朝日新聞ー


出席者

陸軍少将    牟田口廉也氏(紙上参加)
陸軍歩兵中佐 桜井徳太郎氏
陸軍歩兵中佐 一木清直氏
陸軍歩兵中佐 川本芳太郎氏
陸軍歩兵少佐 岩崎春茂氏
陸軍歩兵大尉 寺平忠輔氏
当時本社北京支局長、現東亜部支局
          園田次郎氏


本社側 緒方主筆、美土路編集局長、野村編集局次長、北野整理部長、細川政治部長■

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●東京朝日新聞 昭和十三年七月五日

盧溝橋事件一周年回顧座談会

果然・共産党暗躍   日支両軍衝突を策す


寺平大尉  九時だつたか十時だつたか支那側は河の西の方に下り始めました、それを此方に知らせてないので此方の第一線では支那兵が下り始めたのでそれとばかり追撃を始めたのです、そんな状況でその間に屡々不拡大に解決し得る見込みがあつたにも拘らず齟齬して段々大きな力に引かれて拡大して行きました、これが七月八日から九日にかけての状況です

一木中佐 今の話の支那側の撤退は認められませんでした、支那は決して下つては居らぬ

寺平大尉 さうですか、夜になつたら下つたでせう

一木中佐 いや下らぬ、保安隊が行つて十二時に下つたといふが便服に着かへて残つてゐた軍服を脱いで便服で残つた、そしてあべこべに龍王廟から鉄橋にかけて占領してゐる、それで十日の龍王廟攻撃になつたのです、

 あの時は午前十時半頃でしたか、桜井中佐が周参謀(周恩靖)と雨に濡れて旗を振りながらやつて来た

 「どうか下つてくれ、第一線は交渉の結果下ることになつてゐる、支那軍は日本軍が構へて居つたのでは恐くて下れない、どうか日本軍は一文字山以北に下つてくれ、さうすれば城から下る」

 といふので私は

 「俺のところでは駄目だから牟田口部隊長の所に行け」

 と周参謀に言つてやつた

 ところが周参謀が牟田口部隊長の所へ行つて交渉の結果、牟田口部隊長の命令で下ることになりました、それが十二時頃です、

 さうすると向ふは下るどころか下らずに依然として頑張つてゐます、一文字山から向ふは保安隊が交代して居つたと称するが事実派交代して居らぬ、便服に着かへて居ります

 それが九日のことですがど私達は此処に居つても仕方がないといふので天津から来た筒井部隊を残して城内にゐる桜井中佐と寺平大尉を救出することに努めることとしてその他の者は下るといふことになりました

 十日になると以前城壁上には敵が居て時々筒井部隊を射撃する、牟田口部隊長は非常に怒つて
 怪しからぬ、撤退する撤退するといふが石友三の部隊に代つて和平協定をすると言ふに拘らず射撃する、而も龍王廟は矢張り敵が占領してゐる、それにこちらには負傷したものもある

 其処で愈々堪忍袋の尾が切れて又十日の日に攻撃することになり木原部隊が夜襲をしました、この時には初めは許されなかつたのです さういふことをやると拡大する、やつちやいかぬといふが牟田口部隊長の意見具申で許されたのです

 それから龍王廟を取り鉄橋を奪つた、所で交渉の結果下れといふので又下りました

 我々は交渉の波に乗つて豊台から一文字山、一文字山から豊台を出たり入つたりしてゐたのです

寺平大尉 二十九軍顧問の笠井少佐が保安隊をつれて盧溝橋に行つた時は下りました、下つた後に保安隊が居つたのだから保安隊とぐるになつて二十九軍が入つて来たのではないでせうか

一木中佐 その方が本当かも知れない

寺平大尉 笠井少佐の話ではそのやうでした

一木中佐 便服に着かへたといふ説もあつたのでその方が本当でせう

寺平大尉 これは根本的な少し大きな問題になつて来ると思ひますがあの戦さの最中に共産党の策動があつた、といふことです

 最初永定河西岸の敵と一木部隊が睨み合つて居つた当時の状況は戦さが始まつたとは言ふものの和戦両様の姿勢でどつちともつかない状態で第一線は睨み合ひ私達は和平の交渉をして居りました、其時日支両軍とも一発も射つてはならぬと協定したことがあります、

 昼間は雨が降つてそれどころではなくじつとしてゐるがそれが夜になるとポンポンと銃声と砲声が毎晩のやうに聴える、日本側はこれを支那軍の不法射撃といふ、支那側では日本軍だと云ふ、そんな馬鹿なことはないといふが結局どつちがどうか判らなくて十日、十一日の夜をむかへましたが矢張り銃声がする

 私は狐につままれたやうな気がした、どうもをかしいとそれから段段話し合つて研究して陣地から線を引いて見ると中間に部落がある

 この辺が怪しいといふのでよくよく調べて見るとまさしく前夜この村で音がした、而もそれは大砲や機関銃ではない、がよく支那のお正月にやる土炮と爆竹だ、これを日本軍と支那軍の中間でする、それを両方から見るとお互に相手がやつてゐるやうに見える、実はこれは二十九軍と勾結する共産党の策動であつて彼等は日支両軍をぶつつけやうとしたのです

 その後七月十四日に永定門の南のところで日本軍のトラツクが爆破されたことがあつたがその時はそれに乗つてゐた歩兵が四名ばかり粉々に粉砕されて肉片がそれこそすき焼きの牛肉位になつて居つた、どれがどれか全く判らぬやうになつて居りました、

 同じ日の晩永定門外で銃砲声がする、直ぐ調べさせると永定門外で爆竹と土炮をやつてゐるが正確には何者か判りませぬといふ

 ところがそれを明瞭に共産軍の策動であるといふ断定をつけ得たのが七月の二十七日です

 広安門事件の翌日、居留民が危険だといふので公使館区域に収容した、日本が居留民を収容すると欧米各国人も続々避難した、さうするとその日から北京城内には公使館区域を除くほかは外国の力が及ばないとになります

 ところがその日の昼頃東単牌楼の附近にロシア人が流暢な支那語で百何十名の支那人を集めて演説をした、日本軍は北支で事件を構へて第二の満州国をつくらうとしてゐる、支那はこれに抵抗しなければならぬ、支那がそれをやればロシアは武器だらうが金だらうが援助を惜しまない、この機会を利用して徹底的にやれと演説してから自動車に乗つて宣伝ビラを撒きながら去つた、

 その宣伝ビラの一枚を密偵が拾つて来ました、内容は演説と同じことだがその最後に中華民国共産軍総指揮朱徳、毛沢東とありました

 従来共産軍の工作は裏面工作であつたがその日から俄然表面化して来たのです、戦さが始つて以来事件毎に日本と支那側の間に入つて拡大に導かうと策動したもので確かに共産軍の工作が入つてゐたものと思ひます

川本中佐 日本側としては中央の方針を徹底して向ふに誠意があるならばそれで行かうといふ方針を堅持して、ならぬ堪忍もしたのです、

 日支両軍の第一線の状態は爆竹もあつたかも知れぬが此方は不拡大で纏めようとする、向ふは或程度追随してゐたかも知れないが向ふから常に射つ、射たれた時射ち返したこともあるが大体に於て射たれ損、怪我人を出したら出し損といふ状態でありました、

 それ程まで我慢した日本側としては責任はありません、従つて今度の事変の冒頭に於て何とかして置けばよかつたといふ諦めのつかぬ気持が支那軍にはあらうとも日本軍には断じてない、斯ういふことは言へると思ひます

寺平大尉 苑平城の日本軍の砲撃の状態を・・・

桜井中佐 日本軍の砲弾の当るのにはびつくりした、支那の方でも驚いて居りました、八日だつた、交渉に行つて団長や営長を集めて会議をやつた

 営長は龍王廟から逃げて来た奴を斬つて了つて激怒しておる、電話は切れて通信は効かない、命令がないから下れんといふ、僕は名刺の裏に「協定万策尽きた、運命を天にまかせて城と共に生死を決せんとす五時四十分」と書いた程です

 それから斉藤通訳に今までの経過を書かして県政府公署に頑張るつもりで居た、ところが県政府は目標になるから憲兵隊に行つてくれといふので憲兵隊に行つた

 その時ガーンと音がして三分前まで私の居つた会議室にポカッと穴が開いて飛んでしまつた、県知事の部屋として三つの棟があつたがそれにも弾丸が中つた 公安局もやられた、兵営もやられた、弾丸はこれ等のものにしか中つて居ない、住民は唯一人怪我しただけであつた

 支那兵は無智だ、馬鹿みたいなものです、色々話を聞かしてやると成る程と言つて聞いて居る、退却する時は怨めしい顔をするだらうと思つて居たが命が助かつたのでホッとしたといふ様子です、死ななければならんと思つて居たのが後ろに下れといふ命令でヤレヤレといふわけ(笑声)

 しかし支那兵もなかなか勇敢な奴が居て怪我したものも又戦線に出てやつて居る

 又営長が龍王廟から逃げ帰つた少尉をたち所に斬つて殺してしまひました、さういふ事なんか思ひ切つてやります、この営長はもう破れかぶれだといふのだらうが意気軒昂として戦線に出かけて八度も負傷したと言つて居ました

川本中佐 徐州作戦の時に或る参謀が中央軍は強いか弱いかと質問した所大して強くない、宋哲元に比較すればとても問題でないといふ事でした

桜井中佐 一番初めは強かつたですね

川本中佐 宋哲元軍は支那軍の中でも最も強いやうですね

一木中佐 長城戦では日本軍に負けて居らんと豪語して居る、盧溝橋の時は決して強いとは思はなかつたが南苑攻撃のときは正面を攻撃しても逃げない 私共はもう逃げるだらうと思つて見物して居つたが中々逃げない

 其うちに第一線の方で地雷がドカンと破裂した、観測班は味方の大砲が近くに落ちたものと思つて「近し!」と叫んだ程です、近い筈だ、地雷だつたんです、どうしても逃げないので部隊長は「貴様達何をして居るか 南苑攻撃が遅れるぞ」といはれました

 どこを見ても敵の陣地です、仕方がないから中央突破の突撃をやりました、突撃するまで逃げない、突撃すると手榴弾を投げつけて抵抗する

 こつちが突込んで行くと鶴が垣根に首を突つ込むやうに散兵豪へ頭を突込んでしまつて格闘しない、突撃すれば弱いがそれ迄の抵抗は実に頑強なものでした

川本中佐 頭を突込んで殺されるのを待つて居るんですか

一木中佐 さうです、事変の初めの時は支那兵も何回も負傷しては又出て来たものもありましたが、わが軍にも第一回の戦ひで勇敢な兵が沢山ありました

(続く) 

 

(2004.11.20)


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