盧溝橋事件 一周年座談会7
盧溝橋事件 一周年回顧座談会

ー昭和十三年 東京朝日新聞ー


出席者



陸軍少将    牟田口廉也氏(紙上参加)
陸軍歩兵中佐 桜井徳太郎氏
陸軍歩兵中佐 一木清直氏
陸軍歩兵中佐 川本芳太郎氏
陸軍歩兵少佐 岩崎春茂氏
陸軍歩兵大尉 寺平忠輔氏
当時本社北京支局長、現東亜部支局
          園田次郎氏


本社側 緒方主筆、美土路編集局長、野村編集局次長、北野整理部長、細川政治部長■

 

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●東京朝日新聞 昭和十三年七月四日

盧溝橋事件一周年回顧座談会

不信・協定を無視  万策尽き悠々昼寝


寺平大尉 さうして暫くたつ中に桜井中佐が帰つて来たがもうかうなつた以上は我我は任務の尽しやうがないし昼寝しようぢやないかと云つて弾丸の中で昼寝を始めた、その中にどかんどかんとやられるものだから寝られないで又起きて地図を広げてみた、そしてこんあことをしてゐて夜になつたらどうなるか、一木部隊は河の岸に取りついてゐる、岸は岸でぶつかる、東は苑平城でぶつかる、夜になつたら抜き差しならぬ戦ひになつてしまふ、

 この状況で夜に入つたら長辛店、保定から支那軍が続々増加してくる、河の東側の方に増加して来るかも知れない、非常に敵といふものが増大する、そこで不拡大の任務を持つて来てゐる我々としては日本軍を一先ず河の東側に引く、その代り支那軍は河に西に下げ、河を挟んで東と西とに分けその中間に立つて我々が不拡大交渉をやつたら或は話が纏まるかも知れないといふので桜井中佐と二人で意見を決めた

 それから金振中にその事を持ち出した 「これは一番良い案だから貴様の方は西側に下げろ、さうすれば日本軍も難きを忍んで東側に下げる」

 さうした所が金振中又例の調子で「御趣旨御尤もです、併し私は任務を受けてここを守備せいと云はれてゐる、上官の命令なくしては下ることは出来ない」と一々上官の命令といふ

 「どうしても下らんか」「下れぬ」

 「どうしても下らんといふことになれば仕方がない、日本軍は堂々と苑平城を攻撃することになるだらう、その場合になれば二十九軍と日本軍とは正々堂々戦をやるが城外城内に支那の住民はどの位居るか」と云ふと苑平県長がブルブル震えながら「約二千人居る」といふ

 「二千人の住民といふものを砲弾の犠牲にするといふことは人道上忍びないから住民だけを河の西に下げろ、さうすれば日本軍は苑平城を攻撃する、我々は今さら斯ういふ意見を決めて置いて逃げも隠れもしない、日本軍の弾丸で一緒に戦死する」といつたけれども金は「私はさういふ行政上の命令の権限がない」とか何とかいつて住民も撤退させない

一木中佐 それは何時ごろですか

桜井中佐 八日の午前十一時か十二時頃でした、秦徳純にはもつと確りした代表をよこせと三回も電話をかけた

寺平大尉 何時まで経つても埒が明かぬので北京で片をつけることに肝を極めて城内を出ることにして城門の処に行きましたが城門は締めて土嚢で固めてあつて外には出られない、仕方がないから城門の上から縄を下げて縄にぶら下つて下りました、其時に金振中は東門の城壁にゐる部下に「白旗を持つてゐる人は軍使であるから射つてはいかぬ」と盛んに叫んでゐました、

 縄にぶらさがつてフト下を見るとアメリカ人の新聞記者が自動車から下りて私が縄で下りるところを写真にとつてゐました、

*「ゆう」注 寺平忠輔氏「盧溝橋事件」によれば、この記者こそ、「中国の赤い星」等を著した大ジャーナリスト、「エドガー・スノー」でした。

 東門から一文字山までは千米あるからその間を歩いて行つたら射たれるに決まつてゐる、だからといつて高粱畑の中をこそこそ行くのもどうかと思つたのでしたが丁度私を写してゐたアメリカ人の新聞記者の自動車があるのです、貸してくれといふとオーライといふ

 そこでよく判るやうに自動車に白旗をつけて東門から一文字山まで飛ばしました、城門の支那軍はさすがに大隊長が射つてはいかぬと言つたので射たなかつたが城壁の東北角附近の者が命令を聞いてゐなかつたので後から盛んに射つて来る、林耕雨がゐたのだが見えなかつたらしいですネ、後から射たれるといふのは首の方に当るやうな気がして実に変なものです(笑声)

 しかし運転手が命がけでスピードを出したので辛うじて助かることが出来ました、後で見ると弾か或は石がすつ飛んだのか手の甲をやられてゐました、

 一文字山に外国人の自動車で行くのは面白くないと思つたので車を返して憲兵のサイドカーに乗つて其処から盧溝橋の停車場に行つて第一線の鉄橋の方に廻つて行きました、その時は一木部隊は河を渡つて西の方でやつて居た、そこで森田中佐に私共は斯ういふ意見の下に北京の秦徳純馮治安等と解決しようとしてゐるといふことを伝えましたところ森田中佐も全然同感だといふのでその方針でやらうといふことに意見が一致しました

 丁度そこで私は日本の軍曹が負傷した支那兵に包帯をしてゐるのを見ました、話に聞いてはゐたが眼の前にこんな光景を見たのは初めてで実に感銘に打たれました、

 それから自動車で北京に帰つて松井特務機関長及び牟田口部隊長に報告して直ぐ支那側と連絡しなければならぬといふので馮治安に電話すると外交委員会に出席中といふので秦徳純の所に行つてその日(八日)の午後三時頃から夜中の一時頃まで下れ、下れないの交渉を始めた、

 夜は北平全市戒厳令で非常な警戒です、私達はその間を一、二回特務機関との間を往復したがその時分街の辻々は二十九軍の正規兵が警戒して特務機関の自動車も通さない、それでは秦徳純と交渉が出来ないから秦徳純に特務機関まで来いといふと会議で行けないから此方に来てくれと自動車をよこしました、

 二十九軍が止まれといふと「北平市長」というて通るのです、さうして行つて今申上げましたやうに交渉したのです

園田氏 軍使で苑平城に出かけた桜井さんと寺平さんが何時までたつても帰つて来ないので殺されたんぢやないかと随分心配しました、それで私の方では常安君(北京逓信局員)が冒険的に自動車で苑平県城に様子を探りに参りましたが城門から五百メートルばかりのところに行くと支那兵が城壁の上から機関銃でバラバラと射つたので「とてもダメだ」といつて引返して来ました、

 八日の午後四時頃になると北京の各城門はピタリと閉ざされて特別戒厳令が布かれました、物凄い戒厳令で二十九軍の兵士が要所要所を固めて人通りも全くないのです、

 夜になると静かなものだから機関銃や迫撃砲の音が断続して聞えて来ます、身のひきしまるやうな殺気が充ちてゐました、十日の夜なんか戒厳令が最も厳しくて常安君がすんでのところで崇文門の近くで戒厳部隊に殺されかけました、夜はとても凄かつた、それがずつと続いたわけです

寺平大尉 秦徳純と交渉してみると秦徳純はのらりくらりで午前一時頃までかかりました、全般的に河の東と西に分けるといふ趣旨には秦徳純も賛成してゐるがそれに対して反対してゐるのは馮治安です、秦徳純も馮治安が不賛成だといふのを口実にしてゐる、で私はこの調子で行つたらどうなると思ふかと 理を説いてやつたのです

 「支那軍は保定方面から増援して来る、さうなると日本軍は関東軍も内地からも来ることになるだらう さうして両軍が兵力を増じて行つたならば結局日支両軍は全面的衝突となるがそれでもよいか」といふと「金振中に対して今迄命令を与へて守備をさせてゐる、それを茲に至つて急に下れとは部下に対する人情からも面子の上からも言へない」といふので私は憤慨して

 「人情とか面子とか言ふが人情と面子にかられて日支両軍の全面的衝突を惹起することはアジアの将来に対してどんな不幸を招くかも知れないではないか」と言つて聞かした

 九日の午前一時頃になると向ふも言ひ逃れが出来なくなつたらしい、もう一回会議を開く、最後の会議を開いて返事をする、三時までに張尤栄を派して返事をするといふことになつたが私共はもうこれでは徹底的に攻撃するより外はないといふ考えで引きあげました―

 一方私共が交渉してゐる間に軍の方は軍の方で橋本参謀長が張自忠を通じて秦徳純と交渉された、午前三時に張尤栄が来て結局撤退しますといふことになりそれには細かい条件があつたやうですがそれは問題ではなかつたのです

 軍隊が撤退してその後に保安隊が代りに出るといふことでありました、それは宜からうといふので午前六時になつたら日支両軍とも現在の線から両方引分けの形で下ることになつて第一線に電話で連絡しました

 朝六時になつたら下る準備をし始めました、さうしたところが苑平県城から下る時間になつてバンバンと射つて来た、これは約束が違ふ 協定を無視して斯ういふとをやるのは不信不義だ、もう一遍やれといふことになつてしまつたのです

一木中佐 それでまた初まつたんですよ

寺平大尉 其時第一線からいはれました、特務機関は一体どういふ協定をしたのか、出鱈目なインチキ協定を結ぶから却つて射たれて負傷者を出した、特務機関は二十九軍の親戚ぢやないかと言はれましたよ(笑声)

 私個人としては今度の戦は徹底的にやりたいといふ気がしましたが中央から不拡大を命ぜられた以上その通りにやらなければならぬ、それで不拡大不拡大と不拡大の奴隷になつてやつてゐたのです

 それを第一線から二十九軍の親戚とやられた時に「それでは二十九軍をやつつけて拡大させてやれ」といふ気になりました、その時に天津の軍司令部から鈴木少佐参謀長だと思ひましたが電話がかかつて来ました、何かと思つてゐると
 昨夜は非常に御苦労だつた、撤退の協定も出来上つたやうだし後は撤退の実行を監視しなければならぬ、最後の努力だ、しつかりやれ

 と言はれた、さう言はれると徹底的に拡大してやれと思つてゐたが又決心が鈍りました

 矢張り大局から見ると拡大しては悪い、第一線は大いに速つてゐるが中央は大局的に見てゐる 個人の感情でまげてはならぬといふ気持になりました、それから二十九軍に電話をしました

 「盧溝橋の状況はどうなつてゐるか知つてゐるか」

 「六時過ぎてゐるからもう撤退してゐる筈です」

 「してゐる筈とは何事だ、してゐることを確認したか」

 「まだ報告はありませんが当然した筈です」
 
 「さういふことを考へてゐるからいけない、日本側の情報では日本側が撤退し始めたに拘らずパンパンと射つた、お前の方は協定を逆用してゐる、調べ直せ」

 「調べて見ます」

 で電話を切りました、暫くして返事が来ました、それには

 「軍用電話が切断されてゐるので二十九軍司令部では豊台の停車場に電話をかけてそれから歩いて金振中に撤退を命じた、テクテク歩いて行つたが城内に入れないので豊台に引返した、そして伝達できなかつたのでした」と報告して来ました

 その時は午前六時を過ぎてゐたのです、さういふ関係で命令の不徹底のため支那側は知らなかつたといふのです

 「そんなことだからいけない、部隊の訓練不十分のためだ、此方は十五分もあれば撤退出来るから先づそつちを撤退させろ」

 といふことになり大体九時頃に撤退させるがその時間が決つたら此方に伝達するやうにといふことに決まりました、ところが今度は向から此方の方に対してその時間を知らせるのを忘れて 居つた

(続く)
 

(2004.11.16)


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