2014年秋から冬にかけて、本多勝一氏と藤岡信勝氏との間で、「南京大虐殺」をめぐる「公開討論」が行われました。
「週刊金曜日」と「週刊文春」の共催の形をとり、五往復、合計十回のやりとりを、お互いのメディアに発表しあう、という形式です。
「週刊文春」が藤岡氏を、「週刊金曜日」が本多氏を、それぞれ押し立てての「公開討論」です。
マスコミでは「南京」は間違いなく「売れる」テーマとされていますので、「提案者」の側であった文春が、最初のうち、この討論を大きく膨らませる意向であったことは確実と思われます。
しかし結果として、「週刊文春」は、当初予定の「五往復」を二回に分けて掲載したのみで、他の識者にコメントを求めることすらせず、あっさりと「討論」を終わらせています。いかにもおざなりな、そっけない扱いでした。
最後(連載二回目)など、「週刊文春」の新聞広告スペースは折からの「総選挙」特集で埋もれてしまい、私も最初、この「討論」が掲載されていることに気がつかなかったほどです(笑)。
※「週刊金曜日」は一往復ずつ五回に分けて掲載しましたが、「週刊文春」の側は「五往復」を二回に分けてまとめ掲載を行いました。「週刊金曜日」の側では、討論終了後、渡辺久志氏が「まとめ役」として登場しています。
私は「文春」の側にも何か「後追い記事」が載るのではないか、と期待していたのですが、結局何も掲載されることはありませんでした。
以下、討論の流れを追っていくことにしましょう。
まず「公開討論」に至った経緯につき、簡単にまとめます。
きっかけになったのは、「週刊文春」の、こんな朝日攻撃記事でした。
週刊文春『朝日新聞 「売国のDNA」』より
サンゴ事件 女性戦犯法廷 松井やよりと3人のホンダの遺伝子
(略)
そして、松井氏と同様に「売国のDNA」を撒き散らしたのが、"三人のホンダ"である。
まずは、朝日のスター記者だった 本多勝一氏。本多氏は、事実とかけ離れた「南京大虐殺三十万人説」を流布させた人物だ。七一年に朝日紙上で連載した「中国の旅」でこう書いている。
〈歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで二カ月ほどつづけられ、約三十万人が殺された〉
東京裁判で示された南京事件の死亡者十一万九千人は事実より少なく、三十四万人説が事実に近いと、中国専門家の分析などが紹介され、「日本軍は三十万人以上も虐殺していたのか」と衝撃を持って読まれたのだ。
拓殖大学客員教授の藤岡信勝氏はこう呆れる。
「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者三十万人などは、まったくのデタラメです」
本多氏に取材を申し込むと、今回の朝日の検証記事は「読んでいない」とし、南京事件の死亡者数については、「私自身による調査結果としての数字を書いたことはありません」と答えた。(P27)
(『週刊文春』2014年9月4日号)
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これを読んだ読者は、確実に、本多氏が「三十万人説」を支持して宣伝した、と理解するでしょう。
しかし実際の『中国の旅』を見ると、「三十万人説」はインタビューに応じた「姜さん」の言葉として語られているにすぎず、本多氏自身も単行本では「姜さんの説明では約三〇万人という大ざっばな数字を語っていたが、正確な数字はむろん知るよしもない。」との注釈を加えています。
本多氏が編集委員を務める「週刊金曜日」は、早速、「週刊文春」あてに公開質問状を突き付けました。
小誌、藤岡信勝氏に公開質問状
(一部抜粋)
1)コメントにある「この記事」とは、『週刊文春』読者は記事の流れから〈歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで二カ月ほどつづけられ、約三十万人が殺された〉の部分しか具体的にはわからないと考えますが、
藤岡さんはこの部分が本多編集委員が結論として書いたのではなく、姜眼福さんの体験の聞き取り部分であることをご存じですか。
2)〈歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで二カ月ほどつづけられ、約三十万人が殺された〉は姜さんの発言のため、発言には下記の注が付けられています。
〈南京事件で日本軍が殺した中国人の数は、姜さんの説明では約三〇万人という大ざっぱな数字を語っていたが、正確な数字はむろん知るよしもない。
東京裁判のころの中国側(蒋介石政権当時)の発表は四三万人(市民二三万人、軍人二〇万人)だった。東京裁判判決では一一万九〇〇〇人だが、これは明白な証言にもとづくものだけなので、事実より少ないとみる研究者もいる。
洞富雄著『近代戦史の謎』の分析は、三〇万人、あるいは三四万人説を事実に近いとみている〉。
(検証しやすいように、『中国の旅』[朝日文庫版初版1981年12月20日発行]から引用しています)
藤岡さんはこの編注をご存じですか。
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『週刊文春』側では、これに応えて、『週刊金曜日』の側に「公開討論」の申し入れを行いました。
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
「週刊文春」編集部は、すぐに藤岡氏と対応を協議した。
せっかく「南京事件」に関する問題提起をされたのだから、これを機に藤岡氏と本多氏、両名による公開討論で徹底的に議論してはどうかと「週刊文春」編集部が提案すると、藤岡氏は快諾した。 (P40)
(『週刊文春』2014年11月13日号) |
おそらくこの時点では、『週刊文春』の側は、「南京」にあまり知識のない編集者を担当させていたのではないでしょうか。
いくら何でも、藤岡氏のような「極端な」論者にコメントを求め、さらにこの藤岡氏を旗頭にして「公開討論」を挑むなど、無謀が過ぎます。
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本多氏が「30万人」を主張していないのは認める、
しかしそれでは不十分だ |
まずは、争点の「30万人」問題をめぐるやりとりです。藤岡氏は、「30万人」が本多氏の主張ではないことを、あっさり認めてしまいました。
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
藤岡信勝氏からの第一信
質問の趣旨はおそらく、「約三十万人が殺された」という記述は著者(本多氏)の結論ではなく、姜眼福という証言者の言ったことを伝えただけだ、と言いたいのでしょう。(P41)
(『週刊文春』2014年11月13日号) |
しかし藤岡氏は、論点をずらして、本多氏への攻撃を続けます。
本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
藤岡信勝氏からの第一信
しかし、それによって「南京虐殺三十万人」をひろめたあなたの責任が免除されるわけではありません。
二、三、質問します。中国共産党が用意したこの人物は、四十三歳の南京港務局内河船員だそうですが、そういう立場の人物がどうして全体の数字を知り得たのですか? どうして知ったか質問しましたか?(P40-P41)
そもそも日中両軍は武器をもって戦っていたのですから、双方に死者が出ました。証言を読んでも、姜という人物は戦死者と虐殺の犠牲者の区別すらしていないのではありませんか?
もし、あなたが姜という証言者にこうした質問すらしていないとすれば、あなたは何の検証もせず、中国共産党のプロパガンダをそのまま伝えたということになります。ジャーナリストとしてその責任は重大です。(P41)
(『週刊文春』2014年11月13日号) |
「三十万人」という発言を聞いたら、それをそのまま受け入れるのではなく、きちんと追及しなければダメだ、というわけです。
「感想」は読者にお任せしますが、私にはこれは、ほとんどどうでもいい「言いがかり」に聞こえます。
立場を変えてみましょう。藤岡氏の考えに従えば、例えば「南京虐殺などなかった」という無茶な証言を行う元兵士に対しても、同じように「反対尋問」を行わなければならなくなります。例えば、こんな感じでしょうか。
「南京虐殺などなかった」とおっしゃいますが、それは、あなたの限られた見聞に基づくもので、あなたが知らないところでは「事件」があったのではないでしょうか。
「幕府山事件」、「66連隊事件」などで、多数の捕虜が殺された事実をご存じですか? 安全区掃蕩で、多数の民間人が巻き込まれたことはご存じですか? 「スマイス調査」で、3万人以上の民間人殺害が報告されていることをご存じですか?
インタビューの目的は、相手からできる限りの「情報」を引き出すことです。相手と議論することではありません。常識的に考えて、ほとんどケンカを売っているとしか思えない、こんな「反対尋問」をあえて行う必要はないでしょう。
「南京虐殺などなかった」という証言からは、(証言者がウソを言っていない、という前提ですが)「第〇連隊第〇小隊のこの元兵士はそのように認識している。この部隊は「虐殺」に関与していない可能性が高い」という情報を得ることができます。
とりあえずはそれで十分でしょう。
姜さんの証言からは、「中国では「30万人説」が根強く信じられている」という情報を得ることができます。そして本多氏は、わざわざ注釈で、「正確な数字はむろん知るよしもない」とコメントしています。
インタビューとしてはそれで十分であり、藤岡氏の要求は、明らかに的外れなものである、と私は感じます。
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藤岡氏の「戦略ミス」
秦氏・半藤氏を「敵」に回す |
さて「本題」をめぐる議論はこれでおしまいですが、本多氏側は「公開質問状」の最後に、さりげなくこんな一行を混ぜ込んでいました。
6)藤岡さんは、南京事件の「被害者数」は何人であるとお考えですか。
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この一行をきっかけに、議論は大きく広がります。
あるいはこれは、「藤岡氏の知識のなさ」を浮き彫りにしようとする、本多氏側の作戦だったのかもしれません。そして藤岡氏は、この挑発に思い切り乗ってしまいます。
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
藤岡信勝氏からの第一信
私の考えは、短い言葉で要約すれば、「南京戦はあったが南京事件はなかった」というものです。事件がないので、事件の「被害者」はゼロです。その理由を第二信で述べます。(P41)
(『週刊文春』2014年11月13日号) |
「ゼロ」とは、何とも大胆です。さて藤岡氏、自説をどのようにフォローするのか。「第二信」を見ましょう。
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
藤岡信勝氏からの第二信
前便で予告した通り、「南京事件はなかった」とする根拠を、以下五点にわたって述べます。細部の応接は次便以降に回します。
(1)毛沢東は生涯一度も南京虐殺などに言及していません。南京戦に触れているのは、南京戦の半年後に延安で講義し、『持久戦論』としてまとめられた本の中においてです。そこで毛沢東は「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」と批判しています。日本軍が敵を包囲しながら、殲滅(皆殺し)せずに逃がしていることを、戦争の常道に反するものとして批判し、共産党の幹部に教えているのです。話はあペこべです。
(2)南京戦直前の一九三七年十一月、国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」という秘密文書には、南京戦を挟む一九三七年十二月一日から三八年十月二十四日までに、国際宣伝処は漢口において三百回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公館職員は平均三十五人だったと記録されています。
毎日のように開かれた記者会見の目的は、当然ながら、交戦中の日本軍を非難し国際世論を味方につけることでした。
ところが、この三百回の記者会見において、ただの一度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」などの話をしていません。
(3)南京安全区に避難した南京市民の面倒を見たのが西欧人十五人からなる国際委員会です。その活動記録が『Documents of the Nanking Safety Zone』として、国民政府の監修により、一九三九年に上海の英国系出版社から発行されています。
それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前が二十万人、その後ずっと二十万人で、占領一ヵ月後の翌年一月には二十五万人と記録されています。
あなたは「歴史上まれに見る惨劇が二月上旬まで二ヵ月ほど続けられ、約三十万人が殺された」と書いています。市民は二十万人なのに、どうして三十万人も殺せるのですか。
(4)『Documents of the Nanking Safety Zone』には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されています。
ところが、そのなかで殺人はあわせて二十六件にすぎず、しかもその中で目撃されたものは一件のみです。その一件は合法殺害であるとわざわざ注記されています。
西欧人は日本軍の大虐殺を記録しようとしたはずですが、逆に日本の無実を示す史料になっているのは皮肉です。
(5)南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の屠殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されています。全部で百四十三枚になります。
しかし、科学的な検証によって、そのうちのただの一点も南京虐殺を証明する写真は存在しないことが明らかとなっています。
それどころか、『週刊新潮』(9月25日号)には、そのうちの一枚が、あなた自身が捏造に加担して自著に掲載したものであることを認めています。これについて、まず、読者と国民に謝罪すべきではありませんか?(P42)
(『週刊文春』2014年11月13日号) |
実はこれは、2007年に「南京事件の真実を検証する会」(藤岡氏が事務局長を務めています)なる団体が作成した、「温家宝首相への「公開質問状」」の丸写しでした。
この「公開質問状」がどれだけ低レベルなものであるかは、リンク先で解説してありますので、ここでは省略します。
しかしここまでレベルの低い「否定論」を堂々と掲げてしまったのには、『週刊文春』側もいささか困惑したのではないでしょうか。
これに対して本多氏側は、文藝春秋社に関係の深い二人の論客、秦氏と半藤氏の「南京観」を持ち出して、ゆさぶりをかけます。
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
本多勝一氏からの第二信
A記者 日本軍事史が専門の歴史家、
秦郁彦氏は二〇一二年に民主党の勉強会でこう話しました。
(二十〜三十年前の「まぼろし派」は絶対に数は言わなかった)
(なぜかというと、「虐殺」の観念が変わってきて、今例えば二百人でも「大虐殺じゃありませんか」という受けとめ方になります)
(戦場体験も現場の体験もない人ばかりになると、ある意味で机上の空論的になっていくわけです。例えば難民区の委員会の抗議記録がありますが、それは世話役をやっている牧師さんが被害者の被害届を書き込んで、それを整理して日本の領事館に持っていくわけです。本人はそれで「三万人ぐらい殺されたらしい」と主張していますが、自分の目で見たのは一人しかいないと言いだす。そして「だから、甘く見ても一人なんだ」というような言い方をします)
(「私は目黒区に住んでいるけれども、碑文谷警察署に被害届受理の警察官が座っているのを見ています。記録している警察官本人は事件を見ていないと思いますよ、だからといって目黒区で事件が何もなかったと、言えますか」と私は反論したことがあります)(P43)
(『週刊文春』2014年11月13日号) |
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
本多勝一氏からの第三信
A記者 『週刊文春』編集長や文藝春秋専務などを歴任した半藤一利氏は『週刊金曜日』のインタビューで、秦氏の四万人説、偕行社の三万人説をあげたうえで、(ただ、数字の問題ではないんですね、これは。非戦闘員を殺害したのですから) (一四年十月十七日号)と虐殺を肯定しています。
(『週刊文春』2014年11月13日号) |
藤岡氏は、本多氏が仕掛けたワナに気が付かなかったようです。「挑発」に乗って、半藤氏と秦氏に正面からケンカを売ってしまいました。
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
藤岡信勝氏からの第五信
これではあたかも石川、大宅の両氏は発生当時に事件に言及していたことになりますが、そういう事実はありません。 戦後の言論空間の中で、時流に合わせてなされた発言には何の資料価値もありません。半藤一利氏も同様です。
秦郁彦氏の講演の引用は意味不明。秦氏の『南京事件』(中公新書、一九八三年刊)は、ティンパーリらの西洋人を中立的な外国人として信用し、国民党の作戦どおりに騙されてしまいました。この本は書くのが早過ぎたのです。
(週刊金曜日 2014.12.5(1019号))
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前半、半藤氏への批判はほとんど意味不明。
後半、「この本は書くのが早過ぎたのです」と、当の秦氏が見たら、目を剥いてしまいそうな発言を行っています。
リンク先「2012年民主党勉強会」での秦氏の発言を見る限り、秦氏の認識は『南京事件』を著した当時と全く変わっていないのですが。
仮に「週刊文春」側が第三者にコメントを求めるとしたら、おそらく秦郁彦氏が第一候補でしょう。半藤一利氏、という線も十分に考えられます。
しかしここまで派手に「正面衝突」してしまったら、もはや二人から、藤岡氏側に好意的なコメントは引き出せそうにありません。
これで「第三者を巻き込んだ一大議論」への発展は不可能になってしまった。むしろ秦氏や半藤氏との関係を考えれば、この「論争」はなるべく目立たない形でこっそりと終わらせてしまった方がいい
― ひょっとしたら「文春」側には、そんな配慮が働いたのかもしれません。
ここまではともかくも「否定論」の最大公約数的な議論だったのですが、ここから藤岡氏の「暴走」が始まります。
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
藤岡信勝氏からの第三信
私は十数名の研究会メンバーとともに『Documents of the Nanking Safety Zone』を、既存の日本語訳や関連資料と付き合わせながら、一年かけて解読しました。それで、事件捏造のからくりがよく理解出来るようになりました。
例えば、次のようなことがあります。
日本軍部隊は夜間には外出禁止とされ、将兵が安全区に立ち入ることは出来ませんでした。南京市は日本軍が入城したのち全市停電となり、復旧したのはクリスマスのころでした。
ただでさえ不案内で恐ろしい外国の首都を、しかも電灯のない夜間の暗闇の中に飛び込んでいく日本兵がいたとは考えられません。(P43-P44)
ところが、強姦、略奪などの事件の三分の一は夜間に起こっているのです。これは誰が起こした事件なのでしょうか。
英文の記録を読むと、犯人について単にsoldierとのみ書いてあるのに、洞富雄訳では「日本兵」となっているケースがあります。
民間人二十万人を収容していた安全区には推定一万余の国民党軍の敗残兵が、民間人の服装をした便衣兵となって潜伏していました。非行は彼らの仕業です。国民党軍のある元将校は、避難民キャンプから少女たちを引きずり出して強姦したあげく、翌日には日本兵が襲った風にしたと、外国人の前で告白しました。ニューヨークタイムスの記事です。
(『週刊文春』2014年11月13日号) |
「一年かけて解読」した結果がこのお粗末では、呆れるほかないのですが・・・。このあたり、「事実誤認」と無茶な論理展開のオンパレードです。
以下、藤岡氏が提起した、
1.将兵は安全区に立ち入ることができなかったのか、
2.日本軍部隊は夜間に外出しなかったのか、
3.「非行」は「民間人の服装をした」「国民党軍の敗残兵
」の「仕業」なのか、
という3つの論点について見ていきましょう。
まず、「日本軍部隊は夜間には外出禁止とされ、将兵が安全区に立ち入ることは出来ませんでした」の部分です
「将兵が安全区に立ち入ることは出来ませんでした」 ― 藤岡氏は、そもそも「歩兵第七連隊」が安全区内を宿舎としていた、という基本的な事実をご存じないようです。
拙サイト「安全区入口の歩哨」に掲載した資料を、こちらにも載せておきます。
水谷荘日記『戦塵』より
十二月十五日
今日も夕方になって漸く宿舎が決定、難民区の中に、各中隊分散して宿舎に入った。
(『南京戦史資料集』 P502)
*筆者は歩兵第七連隊第一中隊・一等兵。
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N・Y一等兵『初年兵の手記 硝煙の合間にて』より
十二月十五日、南京城内
漸く宿舎にする家が定まったので、領事館の前を出ると出発したのはもう夕暮近い頃であった。背嚢や嵩ばるものを自動車に積んでいると鼓楼寺院の先刻の運転手がガソリンを十缶ばかり持ってきてくれた。それらを全部積んで宿舎へ走った。
宿舎になる家は三階建の大きな家で難民が一杯入っていたのであったが、自分たちが来ると聞いて続々又一式の家具を担って出ていった。
夜具も釜も何にも残っていないと言うので、今朝居た家迄自動車でとりに行く事になった。
(『南京戦史資料集』 P495)
*筆者は歩兵第七連隊第一歩兵砲小隊・一等兵。
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『井家叉一日記』より
十二月十五日
本日又居住家屋を変えて外人街の家に入って又寝る。付近は避難民で一杯である。我々が入って行くと恐る恐る笑ふ。又上手もするのは哀れ敗残国民として全く同情に値するものと想う。
(『南京戦史資料集』 P475〜P476)
*筆者は歩兵第七連隊第二中隊・上等兵。
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藤岡氏は、「一年」も「研究」していて、『南京戦史資料集』にも掲載されている、こんな基礎的な資料にも気が付かなかったのでしょうか。
また、直接「宿舎」にはしていなくても、日本軍の将兵が勝手に安全区に入っていったことを示す資料として、下記のものがあります。
ジョン・ラーベ日記 十二月二十八日
それから、今後安全区に衛兵を派遣することになったと聞かされた。日本兵が入りこまないようにするためだというのだ。
あるとき私は、その衛兵とやらをじっくり観察してみた。 日本兵はだれ一人呼びとめられるでも尋問されるでもない。それどころか、奪ったものをかかえて日本兵が出てくるのを見て見ぬふりをしていることもある。これで「保護します」とは聞いて呆れる!
(『南京の真実』 文庫版P175) |
次に、「夜間外出」に話を移します。
まあ、確かにタテマエとしては夜間外出は「禁止」であったのかもしれません。しかし、「夜間、非行を働く日本兵」の情報は、外国人の記述に、いくらでも見ることができます。
ミニー・ヴォートリン『南京事件の日々』
一二月一五日 水曜日
昼食の時間を除いて朝八時三〇分から夕方六時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性は怯えた表情をしていた。城内では昨夜は恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。けさソーン氏がやってきて、漢西門地区の状況について話してくれた。(P55)
一二月一六日 木曜日
おそらく、ありとあらゆる罪業がきょうこの南京でおこなわれたであろう。昨夜、語学学校から少女三〇人が連れ出された。
そして、きょうは、昨夜自宅から連れ去られた少女たちの悲痛きわまりない話を何件も聞いた。そのなかの一人はわずか一二歳の少女だった。
食料、寝具、それに金銭も奪われた。李さんは五五ドルを奪われた。城内の家はことごとく一度や二度ならず押し入られ、金品を奪われているのではないかと思う。
今夜トラックが一台通過した。それには八人ないし一〇人の少女が乗っていて、通過するさい彼女たちは「助けて」「助けて」と叫んでいた。
一二月一七日
疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は一二歳の少女から上は六〇歳の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で刺されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人びとに、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが。
) (P61)
※「ゆう」注 「一二月一七日」に関する限り、「日本兵」の原文は「soldiers」です。
この点、「翻訳」に関しては藤岡氏の批判が当たっていると言えなくもないのですが、それにしてもまさか、これが「国民党軍」の「便衣兵」の仕業であった、と考える人はいないでしょう。
ヴォートリンも、「兵士」といえば「日本兵」に決まっているので、特に「Japanese」の語を入れる必要を感じなかった、と見るのが自然でしょう。
なお「一二月一五日」については、原文は「Japanese soldier」となっています。
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ヴォートリンは、夜の間にさまざまな事件が生じた、という情報を得ています。藤岡氏は、これらをすべて「国民党軍の敗残兵」の仕業にしたいようですが、それはいくら何でも無茶というものでしょう。
※あくまで個人的な「印象」ですが、これは実際には、噂が噂を呼んだ形で、中国人たちの間に実態以上のパニックを引き起こしたのではないか、という気がしないでもありません。
しかしヴォートリンの目撃や直接聴取だけでも、この夜、ある程度の規模で日本兵たちが難民キャンプを襲った、ということ自体は、事実と考えていいでしょう。、
なお日本側にも、「夜間外出」を認める証言は存在します。
藤田清氏の証言 (独立軽装甲車第二中台本部曹長、後中尉)
私の中隊が南京の軍官学校に駐留していた頃、夜になると、こっそりと隊を抜けだす男が二人居るという話が、戦友仲間で話題になった。
将校は誰も知らず、私も何も報告しなかったが、Fという現役あがりとOという招集兵であった。
この二人が部隊を抜け出して何をしたかを究明したわけではないが、恐らく女遊びに行ったものと想像する。
私たちの中隊は軍紀厳正な部隊であったが、百二十名の中に二名の不心得者が居ったことは事実である。
(『偕行』1984年9月 「証言による『南京戦史』(6) P6) |
藤田氏は「南京虐殺」を否定する側の証言者ですので、この証言を必ずしも額面通りに受け止めることはできないかもしれません。
しかし少なくとも、「軍紀厳正」ということになっている部隊の中にすら、「夜になるとこっそり隊を抜けだす男」が存在していた、という事実は銘記されてもいいでしょう。
さらに、「ただでさえ不案内で恐ろしい外国の首都を、しかも電灯のない夜間の暗闇の中に飛び込んでいく日本兵がいたとは考えられません」の部分です。
これはもう、藤岡氏の、根拠のない勝手な思い込み、としか評価のしようがありません。
例えば『守山義雄文集』には、朝日新聞・守山記者の、夜間外出のエピソードが掲載されています。
墨田栄吉『仕事熱心』
昭和十二年十二月南京陥落。私は少し遅れて上海から前線特派員の食料をトラックに積んで入城しました。
当時は電灯もつかず水道も作用せず、夜は真っ暗で、朝になると新しい死体が、ちょいちょい見られる物騒な頃でした。
前線支局に沢山いた特派員連絡員など、ポツポツ、ロウソクをつけて夕食にかかろうとしたが、誰かが守山さんがいないといいだしましたので、皆が心配しだし、自動車で住宅方面を探そうじゃないかと決り、懐中電灯とメガホンを各自が持って、
朝日の守山さんと呼んで回りました。
一向、返事がないので、どうしても分らんと皆んなが心配そうな顔をして帰って来ました。
これは大変な事になった、どうしようかと、さわいでいる時、真っ暗の中を右手に大きなピストルを突き出し、左手に懐中電灯をてらして、のっそり支局に入って来ましたので、皆がまたびっくり。
一体、今頃までどうしていたのかと尋ねますと、本人は案外平気な顔をして、外人の宣教師のインタビューに行っていた。ピストルを持っていると、案外こわくないものやなあといって、皆んなが心配したことなんか知らん顔で、外人の見た日本軍の話をしていました。
仕事に熱心なあまり危険になる時間も忘れるとは守山さんらしい一面でした。
(朝日新聞客員)
(『守山義雄文集』P448) |
新聞記者ですらも「電灯のない夜間の暗闇の中に飛び込んで」いっているのに、軍人が「暗闇」では行動しない、と決めつける根拠はありません。
また、こちらはおっかなびっくりではありますが、第三艦隊の従軍画家、住谷磐根も、夜間、自転車で南京の街を走った体験を語っています。
住谷磐根『南京陥落から入城までの間』
私は自転車を得たことで、ゆっくりながら、中山、紫金山、玄武湖の畔など写生し、とうとう日が暮れて来た。十二月の日は短い。
忽ちとっぷり暮れて、真闇の南京の街、ライトのない自転車で、ほの白く感じる市街の道路を揚子江の 下関碼頭に戻らなければならない。
昼間戦死した中国兵の死骸を五、六頭の野犬が競って喰う様子を見た私は、その犬がどうも、私の後を追って来るらしいので、死にもの狂いで、自転車を走らせるがスピードが出ない。ペタルのせいである。
それでも暫く走って犬を撒いたが、今度は歩哨に立っているであろう日本の陸軍兵に射殺されてはたまらない。我れ日本人なることを、姿の見えない日本陸軍兵に知らさなければならない。そこで咄差に口に出た当時の流行歌「天皇陛下の為ならば―」の一とくさりを声がかれるまでくりかえし唱ったのである 。犬にも死にもの狂い、歌にも死にものぐるい。
陸軍の歩哨の前をその歌を唱いながら通った。近づいて懐中電灯で私を照らして、腕章を検べて、−海軍さんですか−、もうすんでのことで一発放つところでした、あぷないですよ−、注意して波止場へ行って下さい−というわけであった。
(『東郷』1983年12月号 P40) |
そして藤岡氏は、こんな誤った認識をベースに、「夜の事件は国民党軍の敗残兵のせい」なる珍説に傾きます。
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
藤岡信勝氏からの第三信
ところが、強姦、略奪などの事件の三分の一は夜間に起こっているのです。これは誰が起こした事件なのでしょうか。
英文の記録を読むと、犯人について単にsoldierとのみ書いてあるのに、洞富雄訳では「日本兵」となっているケースがあります。
民間人二十万人を収容していた安全区には推定一万余の国民党軍の敗残兵が、民間人の服装をした便衣兵となって潜伏していました。非行は彼らの仕業です。
国民党軍のある元将校は、避難民キャンプから少女たちを引きずり出して強姦したあげく、翌日には日本兵が襲った風にしたと、外国人の前で告白しました。ニューヨークタイムスの記事です。(P44)
(『週刊文春』2014年11月13日号) |
「将兵は安全区に立ち入り禁止」「夜間に外出することはない」という大前提が崩れているのですから、この議論は無意味です。
「便衣兵となって」という認識の誤りはともかく、「非行は彼らの仕業です」とまではっきり断定してしまったのは、いくら何でも行き過ぎでしょう。
そもそも「民間人の服装」をした「犯人」を、どうして日本兵と認識できたのか、という素朴な疑問が生まれますが、藤岡氏はその点はスルーです。
藤岡氏の認識に従えば、「国民党軍の敗残兵」は、トラックなどを利用して、大規模に女性をさらっていったことになります。
日本軍の占領下で、こっそり隠れているべき「敗残兵」たちがそんな派手な活動をしていた、と考える方がどうかしています。
そんなアホな、という以外の感想を持つのは難しいでしょう。
藤岡氏の論は、いまどきネットでも見かけないレベルの、明らかなトンデモです。
※今さらではありますが、最後の「ニューヨークタイムスの記事」はあの東中野修道氏が取り上げたことにより有名になったものですが、調べてみると、根拠に乏しいものであることがわかります。
拙サイト 「反日攪乱工作隊(1)」以下の、5つの記事をご参照ください。
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あまりに使い古された「否定論」
ティンパーリ、ベイツ、曽虚白 |
続く第四信では、藤岡氏は「南京事件を語った人々は実は国民党側の人物であった」という、ネットの世界ではとっくに終わっている「陰謀論」を持ち出しました。
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
藤岡信勝氏からの第四信
南京事件を海外に宣伝したのは、蒋介石の謀略でした。
上海戦の結果、日本を相手にした戦争に勝てないことを思い知った蒋介石は、南京陥落の一ヶ月前に国民党中央宣伝部に新たに国際宣伝処を設け、「宣伝は作戦に優先す」を合い言葉に宣伝戦に総力をあげました。
南京事件の研究者で亜細亜大学教授の東中野修道氏は、台北の国民党党史館で、「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」なる文書を発見しました。
「極機密」の印が押された謄写版刷りのその文書には、国民党がどのように南京事件をデッチ挙げたか、そのやり方が詳細に書かれていました。(『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』二〇〇六年)
国際宣伝処の処長だった曽虚白は『自伝』の中で、「われわれは目下の国際宣伝においては中国人みずから決して前面に出るべきではなく、われわれの抗戦の真相と政策を理解してくれる国際友人を探し出して、
われわれの代弁者になってもらう」と述べています。
宣伝は、日本を道徳的に貶め、日本人を精神的に敗北させるためでした。
国際友人で最も有名なのは、『戦争とは何か』という本を英語で書いたティンパーリです。
オーストラリア人の彼は、イギリスの新聞マンチェスター・ガーディアンの記者として中立を装いながら、実は国民党中央宣伝部の顧問で、田伯烈という中国名まで持っていました。
処長の曽虚白は、金を出してティンパーリに、日本軍の南京における大虐殺の「目撃録」を書いてもらったと言っています。
もう一人の重要人物は、南京金陵大学の歴史学の教授だったマイナー・ベイツというアメリカ人です。
十二月十五日、ベイツは東京日日新聞の記者に、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」と言いながら、その裏で南京を離れる欧米の新聞記者五人に、「利用して下さい」と言って「ベイツ・メモ」を渡しました。
その中には南京城内での日本軍の殺人・略奪・強姦など、ありもしない残虐行為が書かれていました。
ニューヨークタイムスのダーデイン記者、シカゴデイリーニュースのステイール記者などが、同じような書き出しの記事を書いたのは、自分の目撃情報ではなく他人のメモがネタ元だったからです。
しかし、いったん英語でニュースが発信されると世界中にその誤情報が広がります。中華民国政府顧問の地位にあったベイツは、その働きによって、国民党政府から二度にわたって勲章を与えられました。
(以下略)
(週刊金曜日 2014.11.28(1018号))
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あまりに使い古された「おなじみ」の否定論で、読者の方も「ああ、またか」という感想を持つのではないかと思います。
掲示板の議論では、相手が「ティンパーリ」「ベイツ」ネタを出してきたら、「南京についてあまり詳しくない相手」と判断してよいでしょう。
念のためですが、ティンパーリは当時南京にはおらず、「南京事件」の証言集『戦争とは何か』を編集しただけの人物であるに過ぎません。従って藤岡氏の言うような「目撃録」など書きようがありませんし、実際に書いていません。
またちょっと考えればわかりますが、「発信者」が例え中国国民党に近い人物だったとしても、それだけで「発信した内容」をウソだと決めつけることはできません。さらに「ベイツ」については、本当に「国民党側」の人物であったかどうかも疑わしいものです。
当時、南京には、十数名の外国人が残っていました。ベイツ、あるいは国民党と関係が深いフィッチが「デマ」を振りまいたとしたら、他の外国人たちが黙っていないでしょう。
現実には、ベイツやフィッチ以外にも、ラーベ、ヴォートリン、スマイス、ミルズ、フォースター、ウィルソン、マギー、マッカラム、スチュワード、ソーンといった多数のメンバーが、それぞれの直接体験や見聞に基づき、
「南京における日本軍の暴虐」を語っています。
藤岡氏は、彼らが口裏を合わせて「南京事件」をデッチ上げた、とでも主張したいのでしょうか?
※「ベイツ」云々については、拙記事「ベイツ=中華民国顧問説」で、詳細な解説を行っていますので、ここでは省きます。
これを書いたのは2004年のことでしたが、当時はまさか、この怪しげな説がここまでポピュラーなものになるとは思っていませんでした(^^;
※※さらに「ニューヨークタイムスのダーデイン記者、シカゴデイリーニュースのステイール記者などが、同じような書き出しの記事を書いたのは、自分の目撃情報ではなく他人のメモがネタ元だったからです」なる論に対しても、
私は「ベイツ文書と新聞記事」で詳細に解説を行っています(2005年)。
ダーディン、スティールが「ベイツレポート」のみを頼りに記事を書いたかのような書き方は、彼ら記者の熱心な取材活動を無視した暴論である,というのが私の結論です。
参考までに、この問題に関しての井上久士氏のコメントを紹介します。
井上久士氏『南京大虐殺と中国国民党宣伝処』
鈴木氏、北村氏などのかような言説は、要するに事実の確定よりもその「伝えられ方」を問題にするところに大きな特徴がある。
「伝えられ方」の背後には、中国のおどろおどろしい情報工作、西洋人情報工作者の暗躍があり、お人好しの日本はとうとう「悪者に仕立てあげ」られたというわけである。
北村氏などが、日本のかつての戦争犯罪を否定しようとする人々に、大いに受け入れられている理由もここにある。
しかしこうした議論には致命的な弱点が存在する。
第一に国民党の宣伝が存在したかしなかったかにかかわらず、南京で起こった事実は変わらないということであり、第二に南京大虐殺に関する国民党の宣伝工作が全く事実を曲げた謀略であったことを十分説得的に証明できていないということである。(P244-P245)
(『現代歴史学と南京事件』所収) |
ただしネットの精緻な「南京大虐殺」論争に慣れた我々から見ると、本多氏の反撃も「突っ込み不足」である感は免れません。ティンパーリ・ベイツを持ち出した藤岡氏に対して、本多氏の次回返信はこのようなものでした。
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
本多勝一氏からの第四信
A記者 石川達三氏や大宅壮一氏の記述を知りたいとの希望が討論の読者からありました。
本多 第1回芥川賞を1935年に受賞した小説家の石川氏は東京裁判の前、『読売新聞』にこう語っています(46年5月9日朝刊)。
〈女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は死屍累々大変なものだつた、
大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた/また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、
揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した〉
(支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか〉
〈『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師団長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた/何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、
私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ〉
A記者 大宅氏は『サンデー毎日』でしたね。
本多 そう。臨時増刊1966年10月20日号でこう発言しています。
〈入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね〉(P41)
(週刊金曜日 2014.11.28(1018号)) |
正直、これにはさすがに私も驚きました。こんなわかりきったことなど書かず、「ティンパーリ」「ベイツ」云々の「使い古された否定論」にしっかり反論してほしい、と思ったのは、おそらく私ばかりではないでしょう。
しかしそれにしても、この「読者」は、「ネットで検索する」ということを知らなかったのでしょうか。
石川達三・大宅壮一の証言など、本多氏にわざわざ尋ねるまでもなく、10年以上前からネットでは「常識」なのですが(実は、ネットで最も早くこれを掲載したのは、
おそらく拙サイトの記事「文化人と「南京事件」」(2003年)です(^^;)
※藤岡氏は最後の「5回にわたる誌上討論を終えて」の中で、
<石川は後に阿羅健一氏に「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。…あの話は私は今も信じてはおりません」と葉書に書いて送っている。>と発言しています。
私も興味を持って、その後随時、石川達三が「南京」に触れた言葉を集めています。その結果は「文化人と「南京事件」」の中でまとめていますが、
石川氏の認識は「読売新聞」記事以降も一貫しており、この阿羅氏への回答だけが異様に浮いている感は免れません。
例え阿羅氏が石川発言を正確に伝えていたとしても、「会えるような状況ではなかった」ほど健康を害していた時期の発言ですので、これをもって石川氏の過去発言を「取消し」してしまうのは、ちょっと無理があるでしょう。
そんな隔靴掻痒感を解消してくれたのが、討論終了後に「週刊金曜日」側に掲載された、渡辺久志さんの論稿です。わかりやすいので、そのまま紹介します。
渡辺久志『南京虐殺の犠牲者をめぐる「ゼロ」と「30万」の信念』
蒋介石がつくったプロパガンダか
南京事件がなかった根拠として、藤岡氏は国際宣伝処による300回の記者会見が事件に触れていないことをあげている。その一方で、南京虐殺は蒋介石の反日プロパガンダで謀略という。
そうであれば、仮に南京虐殺に触れた会見があったとしてもプロパガンダが発表されたに過ぎず、南京事件の有無に関係ないのではないか。結局、記者会見は事件がなかった根拠にはならない。
藤岡氏によると、ティンパーリは新聞記者として中立を装いながら国民党中央宣伝部顧問をしていたという。
そして、中央宣伝部国際宣伝処長だった曽虚白の「自伝」に、国際友人に代弁者になってもらい、ティンパーリに南京事件の目撃録を書いてもらったとあることから、ベイツらとともに日本軍の「ありもしない残虐行為」を書いたという。
しかし、「代弁者」というだけで、「ありもしない」ことを書いたと、なぜ断定できるのか藤岡氏は説明しない。(P40-P41)
ここで、ティンパーリが1937年の南京戦当時に顧問だったというのは誤りである。顧問となったのが39年であることは、秦郁彦『南京事件』や54年の追悼記事などにも書かれている。
顧問の時期の誤りは、国民党政府が「盧溝橋事変后」にティンパーリを英米に派遣したとする『近代来華外国人名辞典』の記述の「后」を、「直後」と北村稔氏が恣意的に解釈したことに始まる。
しかし、北村氏もティンパーリらがかかわった英文資料は「概ねフェアーな記述」と考えてよいとしている(『「南京事件」の探求』124頁)。
ところで、藤岡氏や東中野修道氏が引用しない「自伝」の箇所がある。それは、引用箇所直前の、日本軍の南京殺到を記述した部分で、こう書かれている。
「後日得られた資料で我々は知ったのだが、日本軍はあろうことか、何度にも千・万の単位に針金で縛った人々を集団にして機銃掃射し、まだ死んでいない者は刀で殺しまくり、死体全部に石油をかけて焼却した。
この外にも、男を見れば殺し、女を見れば強姦した後に殺害、いたる所物資の略奪が終わると放火して家屋を焼いた。殺された人の総数は約三〇万人。実に全人類の戦争史上空前絶後の大虐殺であった」
(『曽虚白自伝(上集)』200頁)。
曽は南京大虐殺を事実と考えて情報を発信していたということではないのか。国際宣伝処長が蒋介石の作り話を真に受けて晩年に至るまで信じていたというのだろうか。蒋介石謀略説は荒唐無稽と言うほかない。(P41)
(週刊金曜日 2014.12.5(1019号))
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つまり『曽虚白自伝』によれば、「約三〇万人」云々の認識の正確さはともかくとして、曽虚白は「事実」と考えていたことをそのまま宣伝していたにすぎない、ということになります。
「ウソをウソと知りながら宣伝していた」という「プロパガンダ」説派のイメージとは、随分印象が異なります。
さらに言えば、曽虚白は、「プロパガンダ」は「事実」に基づいて行われるべきである、という考えを持っていました。
井上久士氏『南京大虐殺と中国国民党宣伝処』
ところで上記曾虚白の国際宣伝計画書のなかで、曾は国際宣伝を実効あるものにするための原則を三点あげている。
第一は、絶対に嘘を言って人を騙したり、誇張してごまかしてはならず、事実に基づいて本当のことを言ってこそ真に人を動かすことができる。
第二に敵の残虐さを暴露し、これを広く宣伝して国際的な同情と援助を獲得するようにする。
第三に最も重要なことであるが、共同抗敵の連合戦線を作るようにする。
ここに当初からの国民党の国際宣伝の意図が明確に示されている。要するに日本軍の残虐さを暴露し、アメリカなど第三国に働きかけて中国の抗戦に有利な国際環境を作るようにつとめるが、その宣伝は事実に基づいて行われるべきであるということであろう。(P246)
(『現代歴史学と南京事件』所収) |
「南京事件」の事実性は、数多くの資料で担保されています。また国民党も、「南京事件」を「事実である」と認識した上で抗日宣伝に利用しています。
以上、「南京事件」が国民党の「プロパガンダ」に使われたからといって、それを「ウソ」と決めつける理由は何もありません。
以下は「おまけ」です。第五信の、藤岡氏の「勝利宣言」を、あえて紹介しておきます。
「本多勝一×藤岡信勝 「南京30万人大虐殺」の真実」
藤岡信勝氏からの第五信
��以上、私は本多氏の全ての質問に答え、すべて論破しました。それに対し、本多氏はそもそも立論がない上に、私の主張を何一つ崩すことができませんでした。
私の第四信に対し本多氏第四信は一言も発することすらできませんでした。私は論争に敗北した本多氏に、一九七一年以後の朝日新聞などに掲載した全ての南京関連記事を取り消すよう要求します。(P44)
(週刊金曜日 2014.12.5(1019号))
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私は思わず、私を「論破した」と豪語していた、
あのy1892aさんとか、あるいは円城寺憲さんとかを連想してしまったことを、告白します(笑)
※余談ですが、藤岡氏は、『WiLL』2015年1月号に、「改めて呆れた本多勝一氏の卑劣な手口」なる文章を寄稿しています。
どこが「卑劣」なのかといえば、本多氏の返信に「A記者」が登場したことは、「私は一人で相手は二人だから、変則タッグマッチとでも言うべき不公平な試合だ。極めて失礼であり、ルール違反である」(P70)のだそうです。
さすがにこれには、私も苦笑を禁じえませんでした。
例えば掲示板の議論では、「1対1」がいつのまにか「1対多数」に化けることなど、決して珍しいことではありません。私自身、何回もそれを経験しています。もちろん「数」を頼んでいる分だけ、相手側の書き込み分量はこちらの数倍にもなり、こちら側は大きなハンディを負うことになります。
こういう事態であれば、「不公平」「ルール違反」という氏の言い分も理解できないではありません。 しかしこの「本多−藤岡論争」では、スペースは双方に全く公平なものでした。 自説に自信があるのであれば、相手が何人で「共同作業」を行おうとも、堂々と自説を述べればいいだけの話ではないか、と私は感じます。
(2015.9.21)
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