続:y1892aさんに答える(1)
「スマイス報告」編


 2013年2月、私は、1年以上も前に書いたy1982aさんに答えるを公開しました。

 yさん、よほど気になったのでしょう。 「知恵袋」を使って、私のサイトに執拗な攻撃を仕掛けてきました。「知恵袋の目的外使用」の癖は、治らないようです。

 もちろん彼は、上の「y1982aさんに答える」には一言も反論できません。何とまあ、当時の議論を全く無視して新しい「答案」を書いてしまいました。当時私を論破した、という大言壮語はどうなってしまったのでしょうか?

 彼の文章は、ほとんど「使い古された否定論のごた混ぜスープ」とも言うべき内容であり、本来こちらのサイトで採り上げるほどのものでもないのですが、行きがかり上、一応コメントしておきます。

※実際に書いてみると、以下、とんでもない長文になってしまいました。全体の構成は次の通りです。


1.続・y1982aさんに答える(1) 「スマイス報告」編・・・本稿
2.続・y1982aさんに答える(2) 「スマイス報告」編
3.続・y1982aさんに答える(3) 捕虜殺害編
4.続・y1982aさんに答える(4) 捕虜殺害編◆)詆椹鎧件
5.続・y1982aさんに答える(5) 捕虜殺害編 安全区掃討
6.続・y1982aさんに答える(6) 捕虜殺害編ぁ,修梁召諒疥沙Τ







 さすがに私は、彼があちこちに書き散らした文章をストーカーのようにフォローしているわけではありません。また、たまたま目についたものすべてにいちいち回答する気も起きません。とりあえずは彼の「自信作」であろう、私のサイトへの批判を見てみましょう。


 まず、タイトルです。ここからして、もうおかしい。

捕虜の処刑は「虐殺」か?〜「南京事件」肯定派「ゆう」氏を論破してみました

 あれあれ、私は確か一年以上前に「論破」されていたはずですが。「論破」の「やりなおし」ですか(笑)

 どうでもいいけど、論破「してみました」って・・・。You Tubeでよく見かける、「歌ってみました」と称する素人のど自慢大会じゃないんですから(^^ゞ

 しかしすごいタイトルです。「捕虜の処刑は「虐殺」か」って、これ、ほとんど「殺人は法律違反か」と同じレベルの「疑問」なのですが・・・。 国際法上は、「どうしてもやむえない場合」という例外を除けば、「捕虜の処刑」は「不法殺害」ということになっています

 さて彼は、どのようにしてこの「国際法」の「常識」を覆そうとするのでしょうか。お手並み拝見といきましょう。



”南京事件”肯定派の「ゆう」氏による「南京事件 初歩の初歩」
http://yu77799.g1.xrea.com/nankin/shoho.html
こちらを参考にして、彼らの「捕虜処刑は虐殺論」を論破してみたいと思います。

なお、彼はたくさんの南京事件関連図書を和書のみならず洋書まで読みあさるネット界の「南京事件博士」です。
http://yu77799.g1.xrea.com/bookguide.html

1.幕府山事件2.安全区掃討3.下関の捕虜殺害4.その他の捕虜殺害(66連隊事件)5.民間人殺害 スマイス報告

 「博士」を「論破」したボクはこんなに偉いんだぞ、と言いたいのでしょうか。ともかく、お褒めにあずかり、どうも(笑)。

 ただ私なんぞ、プロの研究者の足元にも及びません。

 ネットの世界では少しは詳しい方かもしれませんが、こちらにも(あまり出ていらっしゃいませんが)渡辺久志さんという「大物」がおりまして、私なんぞ百年勉強してもかないそうにない(^^ゞ

 私なんぞを「論破」したつもりになって嬉々としているようでは、yさん、まだまだです。




このうち、5の民間人殺害についてはこちらで論破済みです。『南京大虐殺(南京事件)』での一般市民殺害は?〜スマイス報告を中心に

 あ、「論破済み」だったのですか。ちっとも気がつきませんでした。

 では一旦、「「捕虜の処刑は「虐殺」か?」を離れて、まずはこちらを拝見することにいたしましょう。


※ここでは一般市民殺害についてのみ考察いたします。

南京安全区国際委員会の事務局長であったルイス・S・C・スマイスが南京陥落の3ヶ月後に実施した戦争被害調査「スマイス報告」によると、
南京市街地【城内】での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)
南京周辺部【城外】での暴行による死者が9160人
合計15,760人が民間人の被害ということでした。


 わかりやすくするため、「スマイス調査をめぐる「議論」」に掲載した表を再掲しておきます。


市部調査   死者 2,400人  
行方不明者 4,200人  
合計 6,600人 南京城内およびその周辺
農村調査 死者   26,870人 「南京特別市」6県のうち4県半
  うち江寧県 9,160人 「南京市」が属する県
合計 死者・行方不明者  33,470人  


 「南京戦史」は、「市部調査」と、「農村調査」のうち南京市を含む「江寧県」の合計15,670人を「被害者数」のベースとしています。

 そして「南京戦史」は、この中には「戦闘員としての戦闘死、戦闘行為の巻き添えによる不可避的なもの、中国軍による不法行為や、また堅壁清野戦術による犠牲」が含まれるものと考え、 「一般市民の被害者数は、スマイス調査の一五、七六○人よりもさらに少ないものと考える」と結論づけています。


 秦郁彦氏、板倉由明氏は、「被害者数」の推定にあたり、このスマイス調査の数字を利用します。

 板倉氏の推定は、「不法殺害」を「一万六千の三分の一から二分の一」と見て、「五千から八千」。秦氏は「農村調査」の数字を独自に修正した「二万三千」をベースとして、 そのうち「二分の一から三分の二」を不法殺害と考え、「八千〜一万二千」を民間人犠牲者数と推定しています。(「犠牲者数をめぐる諸論」参照)

 私見では、「中国軍による不法行為や、また堅壁清野戦術による犠牲」を裏付ける資料がほとんど存在せず、また「戦闘行為の巻き添え」は「軍事行動」に分類されているはずであることを考えると、この「割引率」は高すぎるように思います。

 逆にスマイス調査の数字を「過小」と見る論者も存在します。まあ板倉・秦推定あたりまでが、「まともな議論」の範囲でしょう。

 しかしyさんは、こんな「常識」には従いません。ずっと読み進めていくと、いきなりこんな「結論」に遭遇し、思わず目が点になります


【結論】日本軍による一般市民殺害は「国際委員会の日本軍犯罪統計」の49人が上限である。


 いったいどのような「論理展開」をしたらこんな「結論」になるのか。以下、見ていきしょう。




 「1.1937年12月の南京攻略に至るまで」「2.南京から脱出した南京市民」については、言いたいことは多々ありますが、本題と離れますので省略します。まずは「3.日本軍が南京にいたるまで 」と題する章からです。



3.日本軍が南京にいたるまで


上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員
『(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。』『私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません』 『日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった』『上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。』
(1989年10月号の『文藝春秋』)


『中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。 中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。 これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい』(ニューヨークタイムズ、ティルマン・ダーディン)。


『12月6日 UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。 まったくの「焦土作戦」だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。』(南京事件の日々――ミニー・ヴォートリンの日記)



日本軍が南京攻撃に至るまでに市民を虐殺したという事実も無い。
むしろ規律の悪い中国兵によるものと考えた方がよさそうだ。


【当時の中国兵の実態「匪賊同然」】
(リンク先省略)


【南京大虐殺は実は「漢奸狩り」】
(リンク先省略)

【重要論点】
★12月7日に中国軍によって城外の建物が焼き払われ近郊の住民は住む所がなくなり、8日に唐生智司令長官は城内のすべての非戦闘員に対し「難民区」に集結するよう布告した。 さらに、9日には日本軍が飛行機で「勧告文」を城内に散布した。それでも南京城外に一般市民たちは降伏勧告回答期限の十日午後一時まで残っていたのでしょうか?
スマイス報告の城外での死者9160人はほぼすべて中国側による犠牲者と言うことではないか?(中国軍による焼き払いや漢奸狩りなど)




日本軍が南京攻撃に至るまでに市民を虐殺したという事実も無い。

 「南京攻撃に至るまで」ということは、「上海戦から南京追撃戦の間に」日本軍は一人の市民も虐殺していない、ということでしょうか。

 いきなり大胆な断定ですが(1件でも「市民を虐殺した」という事実を完全否定できなくなったら、上の立論は崩壊します)、どうもその根拠は、ダーディンの発言だけであるようです。 これは、ダーディンの見聞がそこまで及んでいなかった、というだけの話でしょう。

 インタビューアーの古森氏ですら、「ダーティン氏のこの言葉は「上海から南京までの間で日本軍による大規模な殺害や略奪があった」という一部の説とはくいちがっている」というコメントを挟んでいますが、 yさんには見えなかったのでしょうか? yさんには、この「一部の説」を完全否定する義務があります。


 「スマイス調査」の範囲からは外れますが、ここでは拙サイト未紹介資料として、「上海戦」に関する「民間人殺害」の記録を紹介します。

 まず、「サンケイ新聞」に連載された『戦記 甲府連隊』です。

樋貝義治『戦記 甲府連隊』よ


 密偵が、わが軍の占領地内にいることはたしかだった。どこの部隊でも、怪しい土民はすべて捕えて処刑した。なかには無実のものもいたかもしれない。だがなにしろことばは判らず服装は同じ、戦場の常としてやむをえなかった点もある。

 夜になると、よく暗い空高く、打ち土げ花火のようなものが、スーイ、スーイ、スーイとあがるのをみかける。はじめわが軍は気にもとめなかった。ところが、これは敵の射撃の合図だった。

 二か所から、スーイと打ちあげ、中空で交錯させる。その交点の下がわが軍の陣地というわけだ。

 最初、敵の夜間砲撃の正確さにおどろいた日本軍だが、やがてこのわけを解明、ナゾの花火の追及を行なった。いずれも土民のしわざだった。捕えてみたら老婆だったこともある―抗日思想は、こうした土民の間にまで根をおろしていたのだ。

 そして、それ以後、土民にたいする追及は厳しくなり、捕えたものは、すべて処刑することになったのだった。(P236)

 怪しければ、たいした取調べもせずに、とりあえず殺してしまったようですね。これでは「民間人被害」が「ゼロ」となるはずがありません。


 また、第百一師団衛生隊の元軍医、岡村俊彦氏も同様の証言を残しています。


岡村俊彦『血と泥の野戦包帯所』より

 農民の死体・・・ずいぶんありました。苦戦の連続で、兵隊は殺気だっていましたからね。敗残兵が便衣を着て逃げるということもあり、少し怪しい者とみれば、たちまち射ち殺してしまう。 だから良民も相当な被害を受けていると思います

(『中国』1971年第94号 P56)


 あるいは、当時読売新聞上海総局の記者であった西里竜夫の目撃談です。

西里竜夫『革命の上海で』より

 だが、ジリ押しに押してゆく日本軍の進撃に、逃げ遅れた中国の市民が幾人も出てきたは逃げてゆく。持てるだけの家財を背負っている老婆、恐ろしさに泣くことも忘れた子供の手を引っ張って走ってゆく若い母・・・。

 佐多氏はそのとき、おびえきった妻と子供をつれた一人の男が、日本兵に捕えられているのを見た。私が、とっさに「非戦闘員の家族だから、許して許してやってはどうか」と言ったら、兵士たちも離してくれた。 その男は、「謝謝儂、謝謝儂(ありがとう)!」と、妻子の手をひっぱって走り去った。

 それからしばらくして、部隊が蘇州河畔近くで小休止にはいったとき、さっき助けたばかりの三人の家族が、また他の部隊に捕えられていた。

 兵士たちが、そこらに散らばっていた「中国画報」の蒋介石の写真を見せて、これを知っているかと、指さしていた。私が、また許してやるように口をはさんだら、余程これまで苦戦してきた兵士達でもあったのか、こんどは私に喰ってかかってきた。

 その捕えられた男は、蒋介石の写真をみて、首をタテにふった。そしたら即座だった。隊長らしい将校が、軍刀を引き抜いて、たちどころに斬りつけた。悲鳴をあげ、血を吹きながら、息絶えてゆく夫を、 その妻は、ハッと息をのんだまま凝視していた。

 夫の死をまのあたりにして、声も立て得ずに、子供を抱きしめたまま、恐怖におののいていたその妻の顔が、いまも私の脳裏にこびりついている。(P192-P194)

 「蒋介石」の顔を知っているだけでただちに殺してしまう、というのもいかにも乱暴ですが、これが当時の日本軍の雰囲気だったのでしょう。

 以上、とりあえず「上海戦」の話をいくつか紹介しました。「日本軍が南京攻撃に至るまでに市民を虐殺したという事実も無い」という断定は、いささか無茶が過ぎます。




 さて、次の記述も大胆です。

むしろ規律の悪い中国兵によるものと考えた方がよさそうだ。


 まあ、中国兵による被害者が皆無だったという断定はいたしません。しかし犠牲者が全員(日本軍が(一人も)市民虐殺をしたことはない、ということですので、論理的にはそうなりますね)「中国兵」のせいだった、というのは無茶です。

 なんでそこまでのことを言えるのか、とリンク先を開いてみると、出てきたのがタウンゼント「暗黒大陸中国の真実」。これ、1933年発行の本ですので、 1937年南京戦において「中国兵が民間人を殺害した」なんて根拠になるはずもありません

 しかもリンク先を見る限り、タウンゼントが言っているのは、当時(1933年以前の話です。念のため)中国軍の規律が非常に悪く、平気で「略奪・強姦」を行っていた、まで。どこにも「市民を殺し放題だった」のような記述は見えません。

 参考までに、タウンゼントと似たような見方を持つ西岡香織氏への、吉田裕氏の批判です。

吉田裕『南京事件論争と国際法』

 しかし、中国軍に対するこうした見方は、中国における抗日ナショナリズムの台頭と、それを背景にした中国軍の旺盛な戦意という新たな歴史的事態を完全に見落としている。

(略)

 中国の地方軍の中には、未だに軍閥軍的性格を脱し切れていないものが存在したし、南京防衛軍の中にも、なかば強制的に拉致され、ほとんど訓練も受けていない新兵や雑兵が存在した。 しかし、だからと言って、中国正規軍の全体を「土匪的軍隊」とするのは、明らかな偏見である。

(『現代歴史学と南京事件』所収 P80-P81)



 次のリンク先を開くと、今度は「漢奸狩り」。ただしこれ、「陥落前の南京」の話で、「南京戦中」の「民間人殺害」とは何の関係もありません。 また当時の日本メディアの記事の信頼性の低さは「常識」といってよいことですので、記事の真偽判断は慎重に行うべきところでしょう。

 「南京戦中」にも統計に影響を与えるような大規模な「漢奸狩り」が南京及びその周辺で行われていた、と主張するのでしたら、ぜひともその根拠資料を挙げていただきましょう。


 しかしこんなヨタ記事を平気で引用する彼の無神経さには唖然とします。前の「y1982aさんに答える」にも、ちゃんと書いておいたはずなのですが。



行政院秘書であった黄月秋が最初に銃殺され、当時から日本側と頻繁に交渉していた外交部アジア司長高宗武汪兆銘の腹心である曾仲鳴とチョ民誼、 実業家の周作民、許卓然などは監禁されるか生死不明となり、何澄など新聞記者 6 名(大公報 2 名、大美晩報 2 名、チャイナ・プレス 1 名、チャイナ・ウイークリー・レヴュー 1 名)が処刑された。

『画報躍進之日本』ではこれらの「漢奸狩り」について、「このような人物たちは皆日本語に通じ、日本をよく知る者であったが日本によく抗議するのもその人物や新聞記者たちであり、 日本を知っていると同時に愛国心の強い連中であったにも関わらず血祭りにするほどの逆上ぶりであった」と報告している。

 実は私は「汪兆銘」についてはちょっとは詳しい(笑)。また「高宗武」については個人的なファンでして、Wikipediaの「高宗武」の記事を立ち上げたのは、実は私です。

 このうち高宗武は、この時期蒋介石の信頼を得て、香港・武漢を飛び回って活躍していたようです(「高宗武回憶録」)。

 周作民も、この時期活動を停止した気配はうかがえません。この時期曾仲鳴とチョ民誼が「監禁あるいは生死不明」となっていた、という情報は知りません。

 他2名については全くわかりませんが(中国語検索エンジン「百度一下」で名前を検索してもヒットしません)、以上、この情報、かなり怪しげなものであると判断されます。

 実はこの部分、氏名不詳の「親日支那人」の話がソースということになっています。こんな怪しげな情報源しかないのであれば、当時の日本のメディアの状況から見ても、「単なる噂」として受け止めるのが無難でしょう。




★12月7日に中国軍によって城外の建物が焼き払われ近郊の住民は住む所がなくなり、8日に唐生智司令長官は城内のすべての非戦闘員に対し「難民区」に集結するよう布告した。 さらに、9日には日本軍が飛行機で「勧告文」を城内に散布した。それでも南京城外に一般市民たちは降伏勧告回答期限の十日午後一時まで残っていたのでしょうか?

 その次に「9160人」の単語が見えますので、彼はどうやら、「城外」「近郊」という言葉で、「9160人」の範囲である「江寧県」をイメージしているようです。

 念のためですが「江寧県」の範囲を受け継ぐ現代の「江寧区」の面積は1,500k屬曚匹任△襪茲Δ任后「焼き払い」の範囲は、そのうちごく一部。「江寧県」全体の住民が「住む所がなくなったわけではありません。


 それはともかく、「清野作戦」については、「日本軍の放火」中の「中国軍の清野作戦」にまとめておきました。 そこに掲載したデータ群を見ると、「中国軍による大規模な焼払い」自体は事実であるとしても、「南京周辺をすべて焼払う」というレベルまでは達していない、と判断するのが妥当でしょう。
 

 また、唐生智が「難民区」集結を布告していたとしても、全住民がただちにそれに従ったわけではありません。

 マギーの記録にも、 「城内南部」に留まって被害にあった人々の話がいくつか登場します。 また中国側証言集では、日本軍の南京占領後にあわてて「安全区」に逃げ込んだ、という証言を多数見ることができます。 夏淑琴さんの一家も、「難民区」への避難を行わず、被害にあっています


ニューヨークタイムズ記事

1937年12月19日 ダーディン

 日本軍の砲弾が新街路近くの一角に落ち、一〇〇人以上の死傷者を出した。一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われる。その死傷者数は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。安全区の非戦闘員の食料は、中国軍の瓦解により供給が完全に絶たれた。

(「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 P423)


 「避難勧告を無視して家にとどまり結果として被害にあった」というパターンは、2005年ニューオーリンズの水害、2011年東北大地震の例を見るまでもなく、極めてありふれたもの、と言えるでしょう。

 秦郁彦氏のコメントを紹介します。なおこの文は、否定派の総本山とも言える『南京「虐殺」研究の最前線』に掲載されたものです。

秦郁彦氏「南京事件―論点と研究課題」より

 問題は、難民区以外の市内にどのくらいの市民がいたかです。「全員が難民区に逃げ込んでいたから、空っぽのはずだ」という議論がありますが、私はそうは思わない。

 例えば神戸の大地震の時に思ったのですが、避難住宅を用意しても、壊れた自分の家がいいからと動かない人は少なからずいた。南京は日本軍の砲爆撃をほとんど受けていませんから、家はあまり壊れていない。 したがって、自分の家に留まっていた人はかなりいただろうと思います。 

(東中野修道編著「南京「虐殺」研究の最前線 平成十四年版」P21)





 さて、最後の一行に引っくり返ります。

スマイス報告の城外での死者9160人はほぼすべて中国側による犠牲者と言うことではないか?(中国軍による焼き払いや漢奸狩りなど)

 この「9160人」は、「交戦期間中」に「暴行」により死亡した死者です。この時期に「漢奸狩り」により大量の死者が発生した、というのであれば、その資料を提示していただきましょう。


 そして「中国軍による焼き払い」がどのように行われたのかは、いみじくも彼が提示した「ヴォートリン日記」でわかります。

 ※彼はなぜか「日付」「ページ数」を明記していませんが(たぶん自分ではこの本を持っていないので、ネットのどこからか拾ってきたのでしょう)、12月6日、日本語版「南京事件の日々」P36の記述です。


中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。



 基本的には「一人残らず連れ出し」てから「焼き払っ」たようです。死者が出た、という記述ではありません。わざわざ自分の主張の「反証」となる資料を紹介して、どうしようというのでしょうか。

 それでも「中国軍の焼き払いにより大量の死者が発生した」(「暴行」とはちょっと違いそうですが)と主張するのであれば、具体的な資料を持ってきていただくことにしましょう。


 しかし、yさんのこの二つの文章をつなぎ合わせると、「一般市民はみな難民区に避難した(はずだ)」、でもなぜかその無人地帯で「9160人の死者」が発生した、ということになってしまうのですが。 彼、この矛盾を一体どうやって説明するのでしょうね。

※今さら、「例え一般市民がみな難民区に避難していなかったとしても、城外の死者は全部中国兵の仕業だった」という意味だった、なんて「言い訳」はしないように。 そこまで考えていなかったことは、上の文章から一目瞭然ですから(笑)。





4.南京陥落前の城内


『12日午後、私はイタリア大使館の屋上から日中両軍の激戦を眺めていた。午後4時半、誰かが「日本軍が入城したぞー」と叫ぶや中国兵は中山路を通って続々と下関へ向かい退却を始めた。規律は保たれていたが、武器、弾薬を捨て、 なかには軍服を脱ぎ捨てて安全区に逃げ込む者もいた。夜10時頃、交通部の建物に火がつき、中の弾薬が爆発し、火災が広がり、車両と敗兵と難民は進路を断たれて混み合い、大混乱に陥った。下関の入り口では死体が累々と重なり、 城門が閉まっていたので後ろから来た兵士は縄ばしごや帯で死体の山を越えてよじ登った。小舟や筏で揚子江を渡ろうとして乗りすぎ沈没、溺死する者もいた。翌朝まだ取り残されていた兵士たちは、武器を捨てて難民区へ逃げ込んだ』
(ロイター通信スミス記者 12月18日上海発)


『土曜日(11日)には、中国軍による市内の商店に対する略奪が広がっていた。住宅には手を触れていなかったし、建物に入るために必要な限りの破壊にとどまっていた。掠奪の目的が食糧と補給物資の獲得にあることは明らかであった。 南京の商店は安全区以外では経営者が逃げてしまっていたが、食料は相当に貯蔵してあった。』
『(12日)夕方には退却する中国軍は暴徒と化していた。中国軍は完全に壊滅した。中国軍部隊は指揮官も無く、何が起こったか知らなかったが、ただわかっているのは、戦いが終わり、何とか生き延びねばならぬと言うことだった』
(ニューヨークタイムズ、ティルマン・ダーディン)


『日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、 市民の服欲しさに、殺人まで行った。この時期、退却中の兵士や市民までもが、散発的な略奪を働いたのは確かなようである。』(エスピー報告 12月10日後の主な報告)


【日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体があった】(リンク先省略)


【重要論点】
中国兵でさえ、軍服を脱ぎ捨てて安全区に逃げ込んだのに、安全区に避難しない一般市民はどれだけ居たのでしょうか?
★中国兵にさえ守ってもらえない一般市民は安全区に逃げ込む以外に身を守る方法があったのでしょうか?


 引用資料は、よく知られているものばかり。中国軍は崩壊して、略奪・暴行を行いながら、私服に着替えて安全区に逃げ込んだ、というだけの内容です。

 しかしこの資料から彼が何を読み取るのかといえば・・・。



中国兵でさえ、軍服を脱ぎ捨てて安全区に逃げ込んだのに、安全区に避難しない一般市民はどれだけ居たのでしょうか?
★中国兵にさえ守ってもらえない一般市民は安全区に逃げ込む以外に身を守る方法があったのでしょうか?

 何だか提示資料とこの「重要論点」の結論がうまくリンクしていない気もしますが、それはともかく、一見しておかしな記述です。

 「中国兵」は「戦闘」の当事者。捕まれば殺されるかもしれないから、逃げ込んで当り前。「一般市民」の方は、日本軍がそこまで無茶をするとは思わず、安全区に避難しない者も大勢いただけの話。

 しかし「中国兵にさえ守ってもらえない一般市民は安全区に逃げ込む以外に身を守る方法があったのでしょうか?」という表現は、「日本軍がやってくると身が危ない」という認識を前提とします。ついつい彼の本音が出てしまったのかもしれません(笑)



 余談ですが、「日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体があった」って何だろう、と思ってリンク先を開くと、大勢の負傷兵がそのまま死んでいった、という話と、 例の「エスピー報告」の「市民の服欲しさに、殺人まで行った」という曖昧な記述のみが材料でした。

 そこからこんな結論を出してしまうのですから、驚きです。

南京にはたくさんの死体があった。それも平服の死体があった。

 エスピー報告には「死体」の話など出てきませんから、これは「平服の負傷兵の死体があった」という意味でしょうか(そんなことは彼の提示する資料のどこにも書いていないのですが)。負傷兵の死体があったから何だと言いたいのか、意味不明の一文です。


(2013.3.3)


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