1.続・y1982aさんに答える(1) 「スマイス報告」編
2.続・y1982aさんに答える(2) 「スマイス報告」編
3.続・y1982aさんに答える(3) 捕虜殺害編
4.続・y1982aさんに答える(4) 捕虜殺害編◆)詆椹鎧件
5.続・y1982aさんに答える(5) 捕虜殺害編 安全区掃討
6.続・y1982aさんに答える(6) 捕虜殺害編ぁ,修梁召諒疥沙Τ・・・本稿



続:y1892aさんに答える(6)
「捕虜殺害」編 下関その他


 ようやく「最後」になります。

 何度も述べている通り、「捕虜殺害」は一般論としては「国際法違反」です。「戦数」を認める立場からしても、捕虜(あるいは「捕獲した敵兵士)を殺すには「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしというが如き場合(信夫淳平『戦時国際法講義』第2巻P783)に限る、という厳しい制約があります。

 さて、「捕虜の処刑は虐殺か」なんてすごいタイトルをつけてしまったyさん、この厳しい制約をどのようにクリアしようとするのでしょうか。以下、見て行きましょう。


3.下関の捕虜殺害


「ゆう」氏の根拠は、ダーディン、スティール、スミスら欧米の記者と、従軍画家住谷盤根の回想だけのようです。これらの証言は、戦時重犯罪人の処刑現場に遭遇した、ただそれだけのことです。それをわざわざ、他の項目と別立てで「捕虜殺害事件」なんて呼ぶことが意図的と感じられて可笑しいです。

ダーディンやスミスの証言を無批判に信用するというのなら、こちらの証言も無批判に信用するはずなんですけどね。


上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していたティルマン・ダーディン

『(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。』

『私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません』

『日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった』

『上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。』
(リンク先省略)


二月四日<シカゴ・デイリー・二ュ−ズ>スティール


『日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された。男たちは二、三百人ずつのグループで適当な処刑場に集められ、小銃と機関銃で殺された。あるときは、捕らえられた数百人の集団を片付けるため戦車が繰り出された。』




スティールの記事にもあるように、一般市民に余計な不安を抱かせる恐れがあるので安全区に潜伏していた戦時重犯罪人をその場で射殺するわけにもいかず下関まで連行されて処刑された、ので何も違法性は無いことになります。

「南京戦史」でも確認できます。





「ゆう」氏の根拠は、ダーディン、スティール、スミスら欧米の記者と、従軍画家住谷盤根の回想だけのようです。これらの証言は、戦時重犯罪人の処刑現場に遭遇した、ただそれだけのことです。それをわざわざ、他の項目と別立てで「捕虜殺害事件」なんて呼ぶことが意図的と感じられて可笑しいです。

 別に、「だけ」じゃないんですけれどね。リンク先を開いていただけなかったんでしょうか? 

下関の光景 入城式後の「捕虜殺害」

 まあ「下関の捕虜殺害」には、「安全区掃討」による被害者もかなり混じっていることは事実でしょう。しかしyさん、「安全区掃討」以外の捕虜殺害はゼロ、なんて本気で考えているんでしょうか?

 しかし、「戦時重犯罪人の処刑現場」という文句が、yさんの「お経」になっていますね。逃げ回るだけの敗残兵が「戦時重犯罪人」であることの証明はできていませんし、また「裁判抜きで処刑してもよい」という証明もできていないのに。また、その中には「民間人の誤認殺害」も多数あった、という事実はスルーですか?



ダーディンやスミスの証言を無批判に信用するというのなら、こちらの証言も無批判に信用するはずなんですけどね。


上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していたティルマン・ダーディン

『(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。』

『私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません』

『日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった』

『上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。』
(リンク先省略)


 この人が証言しているからすべて正しい、あるいはすべて間違っている。そんな単純なことでは、yさんに「歴史」を語る資格はありません

 いつも言うことではありますが、証言の信頼性は、証言者の資質、証言の状況、証言内容などを総合的に判断して決定されるものです。


 ダーディンの場合、「証言者の資質」「証言の状況」に、何の問題もありません。「ダーディンは下関で処刑光景を目撃した」「ダーディンは「南京」以前には「虐殺」はなかったと認識している」。これは、いずれも「事実」と判断してよいでしょう。

 そして「目撃」については、スティールらも同様の光景を目撃していることから、その信頼性は極めて高いもの、と判断されます。

 しかし「「南京」以前には「虐殺」はなかった」というのは、ダーディンが自身の見聞の範囲で「認識」を語っているに過ぎませんこちらで、既に上海戦段階で「日本軍による民間人殺害」が始まっている、という資料を紹介しておきましたが、ダーディンの認識への明確な「反証」がある以上、その認識をストレートに採用するわけにはいきません。

 まあyさんには、歴史学の基本、「史料批判」のおさらいでもしていただくことにしましょう。(間違っても東中野氏や小林氏の頓珍漢な「史料批判」など学ばぬように(笑))


座談会「「南京大虐殺」の核心」より 

 (略)できるだけ沢山の真偽とりまぜの資料を集めて、これを一々、充分に史料批判して、これは本当らしい、いやこれは違う、と選りわけた上で、それを総合して、真実に近いものを描き上げていくのが、歴史家のやり方なんです

(『諸君!』1985年4月号 P81)

 ま、当り前の話ではあります。



二月四日<シカゴ・デイリー・二ュ−ズ>スティール


『日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された。男たちは二、三百人ずつのグループで適当な処刑場に集められ、小銃と機関銃で殺された。あるときは、捕らえられた数百人の集団を片付けるため戦車が繰り出された。』

スティールの記事にもあるように、一般市民に余計な不安を抱かせる恐れがあるので安全区に潜伏していた戦時重犯罪人をその場で射殺するわけにもいかず下関まで連行されて処刑された、ので何も違法性は無いことになります。

「南京戦史」でも確認できます。


 まず前提の話ですが、既に見てきた通り、「戦時重犯罪人」なるものを「漠然たる嫌疑位」で「重刑に処する」ことなどあってはならないことですし、また「他に取るべき道なきの急迫の場合」でなければ「即時殺害」など認められません。(信夫淳平『上海戦と国際法』)

 そもそも「下関」まで連行する「余裕」があるのであれば、「他に取るべき道なきの急迫の場合」なんて状況にあるとはとても思えないのですが・・・。そこまで「急迫」した状況であれば、捕えた敗残兵+民間人を何キロも連行するなんて危険を冒さず、その場で殺していたはずです。


 それはともかく、yさんの書き方では、まるでスティールが「一般市民に余計な不安を抱かせる恐れがあるので安全区に潜伏していた戦時重犯罪人をその場で射殺するわけにもいかず下関まで連行されて処刑された」と書いたかのように錯覚しますが、もちろんスティールはそんなことを一言も書いていません。

 スティールのこの記事は、本サイトにも掲載しています。(こちら


 
一九三八年二月四日

記者は、パニックの南京の中国人虐殺をアメリカのジャックラビット狩りに比す


A・T・ステイール


<シカゴ・デイリー・ニューズ>紙外信部特別通信

 日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された。男たちは二、三百人ずつのグループで適当な処刑場に集められ、小銃と機関銃で殺された。あるときは、捕らえられた数百人の集団を片付けるため戦車が繰り出された。

 私は集団処刑を一つ目撃した。数百人の男たちの一隊が大きな日本国旗を抱えて、術路を行進してきた。これに二、三人の日本兵が付き添い、空き地へ引き連れて行く。そこで彼らは小人数ずつ、残虐に銃殺された。一人の日本兵が小銃を手に、膨れ上がる死体の山を監視しており、少しでも動きを見せる人体があれば、弾丸を浴びせた。

 日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える。(P477)

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)


 スティールは、「戦時重罪人の処刑」なんて認識はしていません。スティールから見れば、これは「単なる殺戮」でした。


 さらに言えば、yさんには根本的な「事実誤認」があります。日本軍は別に、安全区掃討で捕えた敗残兵・民間人を、すべて下関まで連行して殺害したわけではありません。

 
一九三七年十二月十八日

捕虜全員を殺害、日本軍、民間人も殺害、南京を恐怖が襲う

F・ティルマン・ダーディン

 (略)

 何千人という捕虜が日本軍に処刑された。安全区に収容されていた中国兵のほとんどが、集団で銃殺された。市は一軒一軒しらみつぶしに捜索され、肩に背嚢の痕のある者や、その他兵士の印のある者が探し出された。彼らは集められて処刑された。

 多くが発見された場所で殺害されたが、なかには、軍とはなんの関わりもない者や、負傷兵、怪我をした一般市民が含まれていた。記者は、水曜日の二、三時間の間に、三つの集団処刑を目撃した。そのうちの一つは、交通部近くの防空壕で、一〇〇人を越す兵隊の一団に、戦車砲による発砲がなされた虐殺であった。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収 P421)


今井正剛『南京城内の大量殺人』

 虐殺を眺める女子供

 以前の支局へ入ってゆくと、ここも二、三十人の難民がぎっしりつまっている。中から歓声をあげて飛び出して来たものがあった。支局で雇っていたアマとボーイだった。

 「おう無事だったか」

 二階へ上ってソファにひっくり返った。ウトウトと快い眠気がさして、われわれは久しぶりに我が家へ帰った気持ちの昼寝だった。

 「先生、大変です、来て下さい」

 血相を変えたアマにたたき起こされた。話をきいてみるとこうだった。すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の洋服屋の楊のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人とも兵隊じゃないのだから早く行って助けてやってくれというのだ。アマの後ろには、楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員と私はあわてふためいて飛び出した。

 支局の近くの夕陽の丘だった。空地を埋めてくろぐろと、四、五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。空地の一方はくずれ残った黒煉瓦の塀だ。その塀に向って六人ずつの中国人が立つ。二、三十歩離れた後ろから、日本兵が小銃の一斉射撃、バッタリと倒れるのを飛びかかっては、背中から銃剣でグサリと止めの一射しである。ウーンと断末魔のうめき声が夕陽の丘いっばいにひぴき渡る。次、また六人である。

 つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされてゆくのを、空地にしゃがみこんだ四、五百人の群れが、うつろな眼付でながめている。この放心、この虚無。いったいこれは何か。そのまわりをいっばいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。その顔を一つ一つのぞき込めば、親や、夫や、兄弟や子供たちが、目の前で殺されてゆく恐怖と憎悪とに満ち満ちていたにちがいない。悲鳴や号泣もあげていただろう。しかし、私の耳には何もきこえなかった。パパーンという銃声と、ぎゃあっ、という叫び声が耳いっばいにひろがり、カアッと斜めにさした夕陽の縞が煉瓦塀を真紅に染めているのが見えるだけだった。

 傍らに立っている軍曹に私たちは息せき切っていった。

 「この中に兵隊じゃない者がいるんだ。助けて下さい」

 硬直した軍曹の顔は私をにらみつけた。

 「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」
 「どいつだかわかりますか」
 「わかる。女房がいるんだ。呼べば出て来る」

 返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声をあげて女房が呼んだ。群集の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳くらいの青年が飛び出して来た。

 「この二人だ。これは絶対に敗残兵じゃない。朝日の支局へ出入りする洋服屋です。さあ、お前たち、早く帰れ」

 たちまち広場は総立ちとなった。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群集を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがって、群集が殺到した。

 「まだやりますか。向こうを見たまえ、女たちがいっばい泣いてるじゃないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやったらどうだ」

 私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかっていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君とは空地を離れた。何度目かの銃声を背中にききながら。

 大量殺人の現場に立ち、二人の男の命を救ったにもかかわらず、私の頭の中には何の感慨も湧いて来なかった。これも戦場の行きずりにふと眼にとまった兵士の行動の一コマにすぎないのか。いうならば、私自身さえもが異常心理にとらわれていたのだ。

(『目撃者が語る日中戦争』P53〜P55)

*以上、十二月十五日の出来事、とのことです。


 yさんは「一般市民に余計な不安を抱かせる恐れがあるので安全区に潜伏していた戦時重犯罪人をその場で射殺するわけにもいかず」と書きましたが、しっかり「その場で射殺」してしまっていますね。yさん、こんなケースをどう説明するのでしょうか?



 しかし、今井記者の文を見るまでもなく、「一般市民」の一番の不安は、「敗残兵狩り」に自分なり家族なりが巻き込まれてしまうのではないか、ということでしたよね。

 本当に「一般市民に余計な不安を抱かせ」たくないのであれば、そもそも「敗残兵」もろとも「民間人」を殺害するような乱暴なことをしなければいい話である、と思うのですが(笑)。


 


 「66連隊事件」は、「日本軍は捕虜は絶対に殺さない」と投降を勧誘したにもかかわらず、結果として投降兵たちを全員殺してしまった、という事件です。ここまで無茶をやってしまうと、「否定派」の立場から見てもほとんど弁解の余地はないでしょう。


 板倉氏にしても、「殺害の不法性」で争うのは諦めて、「殺害」が「軍」の命令だったのか、それとも現場の独断だったのか、という「責任論」に論点をずらしてしまうのが精一杯です。

 案の定、yさんも、その「不法性」にはコメントできません。以下、ただ「書いてある」だけの文章です。


4.その他の捕虜殺害(66連隊事件)

「ゆう」氏いわく、
『12月12日、中華門を攻略していた歩兵第66連隊は、「日本軍は捕虜は絶対に殺さない」と中国軍に投降勧誘を行い、その結果1500人余の中国軍兵士が投降してきました。(中略)何とまあ、「命は助けてやる」と投降を勧誘しておいて、結局は全員殺してしまったわけです。 誰が見ても、弁解のしようがない「虐殺」です。』
降伏勧告文にて「捕虜は絶対殺さない」ではなく、『日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆及び敵意無き中国軍隊に対しては寛大を持ってこれを犯さず』と勧告したのです。
中国兵に「日本軍は捕虜は絶対に殺さない」と叫ばせたのが事実だと仮定しても、降伏勧告文のような長文を叫ばせても伝わらないからです。前線の日本兵と中国兵の言葉の問題もありますし、戦場ですし。

 何を言いたいのかさっぱりわかりませんので、コメント省略。

 確か最初は、私の引用がインチキだ、という趣旨のことが書いてあったと思ったのですが、自分が間違ったことに気がついて上のように書き直したのでしょう。黙って全部消しておけばそれで済む話なんですが。




『千五百人という多数の捕虜を得たのは渋谷大尉が、日本軍に投降しようと白旗を掲げる自軍の兵士を城壁上から射殺するのを見かねて、最初に投降した三人の兵士に「日本軍は捕虜は絶対に殺さない」と叫ばせた。このため多数の兵士が投降してきたので、江南鉄道のレール上に集めて武装を解除し、負傷者は衛生兵が日本軍と同様に手厚く治療してやった。これを目撃した中国兵は安心してぞくぞく投降したのであった。』(『野州兵団奮戦記』より)
とあるように、督戦隊という戦法で味方からも攻撃される中国兵が気の毒で「日本軍は捕虜は絶対に殺さない」と呼びかけたうえ、日本側が手厚く治療してあげたんですが(→【写真2】)、それにしてもこの人はいったいなぜ日本軍だけを責めるんでしょうかね?

「督戦隊で自軍の兵士を銃殺しようが日本に責められる筋合いは無い。でも日本軍が自軍(日本にとっては敵軍)の兵士を射殺するのは戦場であっても許さん。」とでも言いたいんですかね?自軍の兵士の命を虫けらのように扱っておいてどのツラ下げて言うつもりでしょうか?

 よくわかりませんが、中国軍に「督戦隊」があると、日本軍は中国兵捕虜を殺してもよくなるんでしょうか? あるいは、日本軍内部においては「リンチ、暴力」が日常化していましたが、そうすると日本には、アメリカの「原爆」や「東京大空襲」を批判する資格がなくなるのでしょうか?

 ・・・で、yさんの「66連隊事件」に関する記述は、とりあえずこれだけです。この部分では意味のあることは一言も言っていない、と理解して、次に進みます。





※幕府山事件と66連隊事件その他において
「捕らえられた敵兵」は全て「捕虜」か?彼らに審問は必ず必要か?

(リンク先省略)
『陸戦規則、俘虜条約、第三条約、議定書気鯣羈咾垢譴佇かるとおり、条約上では、明らかに捕虜として処遇される資格を持たない者を処罰する際に裁判が必須とされたのは1977年の議定書気らであり、第三条約も発効していない1937年当時は、捕虜資格が疑わしい敵対者を捕獲した際、捕虜資格の有無を裁判で決しなければならないという規定も存在していませんでした。


肯定派がよく引用する、立作太郎博士『戦時国際法論』(1944年本格改訂)の
『凡そ戦時犯罪人は、軍事裁判所又は交戦国の任意に定むる裁判所に於て審問すべきものである。然れども一旦権内に入れる後、全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。』ですが、この中の「一旦権内に入れる後」の意味について、(リンク先省略)
2.学説 (1)『戦時国際法』 より



佐藤和男『南京事件と戦時国際法』
…一九四九年捕虜条約は、…少なくとも右の第五条に見られる「敵の手中に陥った者」のことごとくが「敵の権力内に陥った者」(捕獲国から国際法上の捕虜としての待遇を保証された者)とは限らないことを示唆している点において…』


足立純夫『現代戦争法規論』
『1929年の捕虜条約の規定の解釈では、捕獲した敵要員をいつから捕虜とするかは捕獲国軍隊指揮官の自由裁量とされていたが、1949年条約はその考え方を根本的に修正し…』




=>『1937年当時においては捕獲された者が即捕虜としての保護を受けられた訳ではないという点において、見解が一致』



=>『…つまり一旦捕虜として収容した者は、本来捕虜となる資格を持たない戦時犯罪人であっても、交戦者の捕虜と同じように裁判にかけなければならない、というのが「一旦権内に入れる後」という留保の意味するところ……逆に言えば、捕虜として収容していない、交戦者の特権を有していない敵対者を審問を行わず処罰することまで禁じてはいないと解釈できます。…』


結局、「捕らえられた敵兵」は必ずしも「捕虜」ではなく、当時の国際慣習法でさえも「審問」を行う必要は必ずしも無かったようです。

ここであの有名な中島今朝吾師団長の『捕虜ハセヌ方針ナレバ』を思い出していただきたいのです。「捕虜と呼ぶな」という次官通達もありました。おわかりいただけましたか?
非戦闘員も釈放していますので「審問」がおこなわれたと解釈することもできます。

 読んでいて、頭が痛くなる文章です。リンク先を開いてみると、果して、あのnmwgipさんの文章でした(^^ゞ。

 (すみません。今回はnmwgipさんへの「批判」を目的としたものではありません。とばっちり、ご容赦ください(笑))


 大変わかりにくいのですが、要するに、こう言いたいのでしょうか。

1.1949年条約以前は、捕獲した敵要員をいつから捕虜とするかは捕獲国軍隊指揮官の自由裁量とされていた。従って、捕えられたからといって即捕虜としての扱いを受けられたわけではない。

2.「幕府山事件」も「66連隊事件」も、「捕虜」とするかどうかは日本軍の自由。日本軍は彼らを「捕虜」として収容していなかった。かつ彼らは「交戦者の特権を有していない敵対者」なのだから、いつ殺してしまっても構わない。

 (冗談としか思えない主張ですが、そうとしか上の文章は読めません。念のためですが、nさんがそこまで馬鹿なことを言っているのかどうか、私は知りません(^^ゞ)



 「幕府山事件」の場合、中国兵はほとんど抵抗なしに投降してきました。日本軍はそれを、宿舎に収容し、乏しいながら食糧を与えるなどして、2日間留置しました。

 「66連隊事件」の場合、「日本軍は捕虜は絶対に殺さない」と投降を勧誘しました。その投降を受入れて、実際に殺したのは、さらにその1日後です。

 この2つの事例について、「実は日本軍は彼らを「捕虜」としていなかった。だから殺したって全然構わなかったんだ」と主張しても、世間がその主張を受入れることはないでしょう。まさに、「形式論理」のネット議論が、「世間の常識」と大幅に乖離してしまった典型的な事例、ということができます。



 念のためですが、幕府山事件で捕えられた中国兵は、当時においても明確に「捕虜」であると認識されていました。

「大阪朝日新聞」昭和十二年十二月十七日

未聞の大捕虜群  ”殺さぬ”に狂喜し拍手喝采

句容敗戦が致命傷 沈参謀なげく


南京にて横田特派員 十六日発

  両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地にて捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は、なにしろ前代未聞の大捕虜群とて捕へた部隊の方が聊かあきれ気味で、こちらは比較にならぬほどの少数のため手が廻りきれぬ始末、まづ銃剣をすてさせ附近の兵営に押しこんだ。

(以下略)

(「大阪朝日新聞」昭和十二年十二月十七日 二面 中下の三段見出し、二段記事)

 
信夫淳平『戦時国際法講義』第2巻

 稀には特定の戦闘に於ける俘虜数を公然報道したのもある。

 例へば南京の攻略戦中烏龍山及び幕府山附近に於て皇軍の俘虜とせる支那兵数を大阪朝日は一万四千七百七十七人、中に将校少なくも十人あり、筆頭は教導総隊参謀沈博施なる者と報道したるが如き(昭和十二年十二月十八日の同紙所載、横田特派員の南京発通信)、又軍発表の公報にありても、例へば南京攻略戦に於ける支那兵俘虜を概数一万零五百と報じ(同年十二月二十九日上海軍発表)、又広東の攻陥後、同方面の俘虜数を二百六十六(昭和十三年十一月五日大本営陸軍部発表)、更に武漢攻略戦に於けるそれを五千二百七十(同年十一月八日同上)、又昭和十四年春の敵の謂ゆる四月攻勢を反撃したる皇軍の四月中の戦果を公報したるものに捕虜約二百三十とった(同年五月十一日大本営陸軍部発表〉。(P136)



   「六十六連隊事件」も事情は同様。「戦闘詳報」でも、はっきりと「捕虜」と認識されています。

歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』


(十二月十三日)午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分に附意見の交換をなしたる結果各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分配し監禁室より五十名宛連れ出し、第一中隊は路営地西南方谷地第三中隊は路営地西南方凹地第四中隊は露営地東南谷地附近に於て刺殺せしむることとせり

(略)

各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り連隊に報告す

(「南京戦史資料集」 P667)
 


 当時においてここまではっきりと「捕虜」と認識されていたのですから、今さら「「捕らえられた敵兵」は必ずしも「捕虜」ではなく・・・」云々の主張をしても、仕方ないでしょう。



 「捕獲した敵要員をいつから捕虜とするかは捕獲国軍隊指揮官の自由裁量」云々については、私は国際法に充分な知識を持ちませんので、よくわかりません。

 しかしまさか、これは「周囲の状況如何に拘らず、指揮官の気分次第で殺そうが生かそうが自由勝手」という意味ではないでしょう。「国際法」の原則からいっても、事情が許す限り「人道的」な取扱いを行う義務があったはずです。

 しかしこの「理屈」を使ってしまうと、逆に米軍による日本軍捕虜・投降兵殺害を非難できなくなってしまうのですが。「否定派」が大好きな、「リンドバーク日記」の記述です。

リンドバーグ『第二次世界大戦日記』より

1944年8月11日 金曜日


 明りのいくらか貧弱なテント内で空箱や簡易ベッドの端に腰掛けたまま、日本兵捕虜の問題を話し合った。

 私は自分の考えを述べた、相手を捕虜に出来るいつ如何なる時でも投降を受け容れないのは間違いだ、投降を受け容れればわれわれの進撃は一段の速くなり、多くのアメリカ人の生命が救われるであろう。とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、彼らは当然踏みとどまり、最後の一兵まで戦い抜くだろう ― そして機会があるごとに捕虜にしたアメリカ軍将兵を殺すであろう、と。

 大多数の将校は私の意見に同意したが(さほど熱烈に同意したわけではないが)、しかし、わが方の歩兵部隊はそのように考えてはおらぬようだと言った。

 「たとえば第四二連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。兵どもはそれを自慢にしているのだ」

 「将校達は尋問するために捕虜を欲しがる。ところが、捕虜一名に付きシドニーへ二週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」

 「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」

 「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を覚えてるかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ、捕虜を機上から山中に突き落し、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ

 「例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知ってるかね。わが軍が通り抜けたとき、生存者は一人も残さなかったそうだ」

(P549-P550)

※余談ですが、これを紹介する「否定派」の方は、必ずと言っていいほど次の最後の一行をスルーします。「しかし、わが軍も時には野蛮だが、東洋人の方がもっとひどいように見受けられる


 yさんはきっと、こんなひどい事例についても、「国際法上何の問題もないからいいじゃないか」と、米軍をかばうのでしょう。




 なおここに「交戦者の特権を有していない敵対者」云々の語句が見えます。どうしてこういうことになるのかよくわかりませんが、まさかと思いますがyさん、唐生智が逃亡したら残された中国兵は全員「交戦者の特権」を失う、なんて考えているわけではありませんよね?

 試しに、世界に向かって、「唐生智が逃亡したのだから残された中国兵に「捕虜資格」はなく、日本軍が彼らを殺害したことには何の問題もなかった」という主張を展開してみてください。絶対に相手にされないこと、請け合います(笑)。

 余談ですが、吉田裕氏の指摘によれば、沖縄戦では、牛島満・第32軍の司令官と長勇・参謀長が戦いの最中に自殺しています。この論理でいきますと、以降、米軍は日本兵を「捕虜」として扱う必要はなく、いくら殺しても構わない、ということになります

 少なくとも私は、沖縄戦のこの時期に「日本兵捕虜の殺害」があったとしたら、それは立派な「戦争犯罪」を構成すると考えます。「人道」の面から見ても、それが当然のことでしょう。



 さらに、最後の一行です。


非戦闘員も釈放していますので「審問」がおこなわれたと解釈することもできます。

 「自衛発砲説」では、「幕府山」の1万4千人の捕虜の中には民間人が6−7千人混じっており、それを釈放したことになっていますが、yさんはそのことを言っているようです。

 「現場指揮官」が「審問」を行っていいのか、という突っ込みはともかく(yさんも自信なさげで、「解釈することもできます」と随分控え目な書き方をしています)、ここでyさんは、南京城の北方に数千人の民間人が存在した、ということを当然の前提としています

 確かyさん、「スマイス調査」のところで、「城外は勿論、城内にも空き巣・コソ泥以外の一般市民はほとんど居なかったはずである」と書いていたはずなのですが・・・(^^ゞ yさん、ご自身のこんな初歩的な矛盾にも気がつかなかったのでしょうか?





 さて、いい加減、とんでもなく長くなってしまいました。yさんの文章には最後に「まとめ」が残っていますが、ほとんどはここまでの繰返しとなりますので、コメントは省略します。

 なお彼は、この文章を一旦公開した後、頻繁に「書き換え」をやっているようです。「批判」の対象としたyさんの文章がいつのまにか書き替っていることもあるかもしれませんが、そこまでのフォローを行う気も起りませんので、ご容赦ください。 (私が対象とした文は、「スマイス調査」については3月3日、その他については3月23日現在のものです)


 さてyさん、次はどうするんでしょうね。「論破のやり直しの、そのまたやり直し」をやってみるのか。それとも、今回の文に形ばかりの「反論」をしてみせるのか。 全体への再反論は諦めて、細かいところで「挙げ足」をとって大喜びをしてみせるのか。

 私もいい加減、時間を無駄にしてしまいましたので、私の側では基本的にこれで「打切り」にするつもりです。 他にも「やりたいテーマ」は山積みしていますし、どうせ何年かすればyさんの文章などどこかに消えてしまい、私の「yさんに答える」だけが残る結果になることはほぼ間違いないでしょうし。

 まあ私は気まぐれですので、気が変わって「続続・y1982aさんに答える」なり、あるいはもっと広く「知恵袋のトンデモ議論を嗤う」(「知恵袋」で、yさんに便乗して私に対して頓珍漢な「批判」をしている方を見かけましたので(笑))なんて文章を書いてしまうことも、ひょっとするとあるかもしれませんが(^^ゞ


(2013.3.23)

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