続・y1892aさんに答える(4)捕虜殺害編

1.続・y1982aさんに答える(1) 「スマイス報告」編
2.続・y1982aさんに答える(2) 「スマイス報告」編
3.続・y1982aさんに答える(3) 捕虜殺害編
4.続・y1982aさんに答える(4) 捕虜殺害編◆)詆椹鎧件・・・本稿
5.続・y1982aさんに答える(5) 捕虜殺害編 安全区掃討
6.続・y1982さんに答えるa(6) 捕虜殺害編ぁ,修梁召諒疥沙Τ



続:y1892aさんに答える(4)
「捕虜殺害」編 幕府山事件


 さてここまでが、(長い)まえがき。まず「幕府山事件」です。こちらもまた、長い。おつきあいする方も、大変です(^^ゞ

 yさんの文章に入る前に、簡単に「幕府山事件」のおさらいをしておきましょう。(詳しくはこちら

 「幕府山事件」は、「山田支隊」が公式発表1万4千人余の捕虜を得、最終的には揚子江岸で彼らを殺害してしまった事件です。

 従来は、「捕虜が反乱を起こしたのでハプニング的に殺害となった」とする「自衛発砲説」が「定説」でした。しかし1990年代になり、小野賢二氏らが新たな資料発掘・ヒアリングを行い、その調査結果に基づいて「自衛発砲説はつくり話。捕虜殺害は計画的なもの」との主張を行うに至ります。

 事件の経緯を簡単にまとめると、次の通りとなります。(「自衛発砲説」では釈放・逃亡により人数がどんどん減っていったことになっていますが、複雑になりますので省略します)




1.山田支隊は、12月13日以降、南京北方で1万4千人余り(実数は諸説あり)の捕虜を得た。

2.捕虜は幕府山南側の国民党軍兵舎に収容した。

3.軍から「捕虜殺害」の命令が行われた。(長勇参謀の独断命令とする説と、正式の「軍命令」であったとする説の両説あり)

4−1 山田支隊長、両角連隊長は、捕虜を釈放するために彼らを揚子江岸へ連行するように指示した。(自衛発砲説)
4−2 山田支隊長、両角連隊長は、捕虜を殺害するために彼らを揚子江岸へ連行するように指示した。(計画殺害説)

5.捕虜は揚子江岸に連行された。

6−1 捕虜が反乱を起したことをきっかけに、ハプニング的に捕虜を殺害する結果となった。(自衛発砲説)
6−2 捕虜殺害の命令に基づき捕虜を殺害した。(計画殺害説)



 「軍から殺害命令が出た」「結果として捕虜を大量に殺してしまった」という点については争いはありません。ご覧の通り、両説の大きな分岐点は、4と6になります


 「捕虜釈放の意図があったかどうか」は、山田支隊長・両角連隊長の内心の問題であり、直接に伺い知ることはできません。私自身は、こちらで触れた通り、以下の根拠から「計画殺害説」により説得力があると考えています。

1.舟による対岸への輸送を計画したというが、実際にはそれだけの舟を集めた気配がない。
※中国軍崩壊の後、大勢の中国軍兵士が舟で揚子江を渡って逃げようとしました。しかし舟はもうほとんど残っておらず、多くの中国兵が下関に取り残されることとなりました。この状況で、なお数千人なりを運べる「舟」の確保が可能だったとはとても考えられません。

2.釈放したいのであれば、「舟での対岸への輸送」に拘らず、「不注意で逃げられてしまった」ことにすればいいだけの話ではないか。現に「自衛発砲説」では、「釈放」するまでもなく、大量の捕虜が「逃亡」したことになっている。

3.山田支隊長、両角連隊長などという「陸軍のエリート」が、「軍命違反」の重罪を覚悟の上で、果たしてあえて「軍命令」に逆らうことができたのか。

4.栗原証言などに見られる通り、日本軍は、殺害現場への連行中にも「捕虜殺害」を行っている。また、一斉銃撃後、わざわざ「生き残り」を刺殺して回っている。「解放目的」であったとすれば、このようなことを行う必要はない。少なくとも現場の兵士は「釈放目的の連行」とは理解していない。

※4については、「解放」は幹部だけへの「極秘命令」であった、とする証言者もいます。しかしもしそうであれば、「解放」を意図していた上官の旁で現場兵士は平気で捕虜を殺害していたことになり、違和感は拭えません。どうして上官がそれを止めなかったのか、という疑問も生じます。


 なお念のためですが、私は捕虜の実数については判断を保留しています。「8千名」なのか「1万4千名」なのか「2万名」なのか、知られているデータだけでは断言できない、という考えです。

※個々の中隊の捕虜数を調べればもう少し詳しくわかるのではないかと考え、調べてみたことがあります。結果として、データを捜しだせたのは、第五中隊(約三千人)、第十二中隊(千数百人)の二中隊だけでした(詳しくはこちら)。二中隊のみで四千数百人ということになります。この数字が正しければ、全十二中隊ではこれを大きく上回ることは確実ですので、yさんのいう「4−6千名」はほぼありえない数字、と言えるでしょう。


 さて、以上を前提に、yさんの文章を見ていきましょう。



1.幕府山事件


戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』
『・・・・第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。・・・・』
(リンク先省略)


板倉由明著『本当はこうだった南京事件』より
『小野賢二資料集掲載の兵士の日記にも、しばしば作戦についての言及がある。しかし、その多くは確実に把握した正確な情報では無く、小耳に挟んだ知識の断片や伝聞・噂のたぐいである。虚勢や強がりで「捕虜は皆殺しだ」と大言壮語したのが記録されて、戦後日本軍の非行の証拠とされている例もある。かの「百人切り競争」なども虚から実を生じた最悪の例だが、この資料集だけから軍の意向を判断するのは本質的に無理である。』
『日本人は本質的に冷酷になれないから、捕虜を見殺しにする勇気が無い。敵が食料を足ったら捕虜から先に餓死させれば良い。放って置けば「虐殺」でなく自然に死ぬものを、何とかせねばならぬと思い詰めるから精神的動揺が生ずる。南京への急進撃の結果、各部隊への補給は途絶えがちで、日本軍自体が食糧不足のため困窮している状態で、我に十倍する捕虜への給養はいかに努力しても不可能であった。速やかに何らかの処置をせざるを得ないと思い詰めたのが事件の原因かもしれない。なんと言っても殺し合いが終わってわずか2,3日しかたっていない。もちろん、山田市隊長以下の幹部をそこまで追い詰めた責任が捕虜対策の貧困あるいは欠落していた軍の首脳部にあることは否定できないが、現在明らかになっている史料の客観的分析からは、大量の捕虜を皆殺しにしようという意図も計画も感じられない。もちろんそれを示唆する軍命令も無い。』
『一万人を四列縦隊にして前後の感覚を1メートルにすると2千5百メートルの長さになる。(中略)収容所と殺害現場の距離は4〜5キロというから、先発組が現場に到着してもまだ3分の2は収容所から出発できない。最後尾が到着するまで先発組は5時間も吹きさらしの河原で待つことになり、路上には延々たる捕虜の列が7時間以上も続く。(中略)結局捕虜の実数は一万人など居なかった、と考えるのが最も合理的な説明である。』
(リンク先省略)


毎日新聞 昭和59年8月7日栗原利一伍長インタビューより
『栗原さんによると、捕虜を殺したのは、十二月十七日から十八日の夜で、昼過ぎから、捕虜をジュズつなぎにし、収容所から約四キロ離れた揚子江岸に連行した。一万人を超える人数のため、全員がそろった時は、もう日が暮れかかっていた。』


栗原利一伍長証言 南京大虐殺研究札記
『私たちが幕府山で捕えた1万何千人という捕虜を、初めから、”殺してしまえ”ということではなかったんです。彼らを連行し、揚子江の中央の島に送るため、1ヶ所に集めた。船も用意されていたんです。もうすぐ日が暮れるという頃になって”何々少尉やられる”という声が聞こえたんです。その後”撃て”という命令がくだった』
『細かい点はわかりませんよ。そこに策略があったかどうかわかりませんが、トラブルが起れば”殺すしかない”という用意はあった。こっちは百何十人、あっちは1万数千人ですからね。彼らをとり囲んで、機関銃が構えていました。将校以下、7名が殺されたわけですから”やっちまえ”ということになった』
私たちは、それまでに痛い経験を何度もしているんです。ちょっと気をぬいたばかりに手痛い被害を何度も受けてきた。あの時の同じように、捕虜を集めて、反乱された時もある。捕虜は逃げ、こっちは殺されることもあった。したがって”反乱したらやるしかない”という用意があったのも当然だったわけです
『当時、1万3500人と聞いていたし、内地の新聞でもそのように書いたのだけど、ほんとうにそれほどいたのかどうか...。それは誇張で、連れてきたのは、せいぜい4、5千人から6千人ぐらいの間じゃなかったのかなあ。人間1万人というのを坐らせたら容易じゃないですよ。言われて聞いて、1万数千人ということであって、実際は...』


栗原利一伍長証言
(リンク先省略)
偕行社「南京戦史」の取材に対して『(毎日新聞の報道について)真意は逆である。大虐殺の立証に利用されて迷惑を感じている。』


板倉由明氏の言うとおり、一万人を4キロも離れたところに誘導するのは7時間くらいかかるのだが、「昼過ぎから」出て「日が暮れかかる」までに「一万人」が「全員そろった」のはおかしいですよね。
12月の南京は6時なら「まっくら」ではないでしょうか。栗原利一伍長も言っているとおり4千から6千くらいの人数だというのが妥当な線です。


栗原利一伍長の証言について論争があるようです。

『長兄の受けつづけた虐待と、父の戦場での行為が父の精神面に与えた影響との関係が将来的に明かにできるかもしれない』
なんだか変な動機ですよね?親子の確執でしょうか?かなり「私情」を挟んでますね(笑


この事件の実態は、あまりに多い捕虜の処遇に困り、揚子江対岸に移動させて釈放しようとしたが失敗した、つまり「宣誓に依らざる解放」の”失敗”です。
(リンク先省略)
『最初から計画的な処刑であるなら、捕虜を集めたところで一斉に撃ち殺せば済むことです。連行途中で暴動が起ったならともかく、集結が終ってから味方に犠牲が出るまで処刑する側が待たねばならない理由は皆無です。』


これは、戦時重犯罪人をやむをえず銃殺した、ただそれだけのことです。

それにしても、一瞬の躊躇が命取りになる戦場での「現場兵士の国際法解釈」の是非を70年たってもつつきまわす肯定派の目的は何なのでしょうか?



 まあ、順番に見ていくことにしましょう。




戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』

『・・・・第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。・・・・』
(リンク先省略)

 かつての通説、「自衛発砲説」です。yさんはこれを、無条件に支持したいらしい。ちょっと、時代に遅れていますよ(^^)




板倉由明著『本当はこうだった南京事件』より

『小野賢二資料集掲載の兵士の日記にも、しばしば作戦についての言及がある。しかし、その多くは確実に把握した正確な情報では無く、小耳に挟んだ知識の断片や伝聞・噂のたぐいである。虚勢や強がりで「捕虜は皆殺しだ」と大言壮語したのが記録されて、戦後日本軍の非行の証拠とされている例もある。かの「百人切り競争」なども虚から実を生じた最悪の例だが、この資料集だけから軍の意向を判断するのは本質的に無理である。』

『日本人は本質的に冷酷になれないから、捕虜を見殺しにする勇気が無い。敵が食料を足ったら捕虜から先に餓死させれば良い。放って置けば「虐殺」でなく自然に死ぬものを、何とかせねばならぬと思い詰めるから精神的動揺が生ずる。南京への急進撃の結果、各部隊への補給は途絶えがちで、日本軍自体が食糧不足のため困窮している状態で、我に十倍する捕虜への給養はいかに努力しても不可能であった。速やかに何らかの処置をせざるを得ないと思い詰めたのが事件の原因かもしれない。なんと言っても殺し合いが終わってわずか2,3日しかたっていない。もちろん、山田市隊長以下の幹部をそこまで追い詰めた責任が捕虜対策の貧困あるいは欠落していた軍の首脳部にあることは否定できないが、現在明らかになっている史料の客観的分析からは、大量の捕虜を皆殺しにしようという意図も計画も感じられない。もちろんそれを示唆する軍命令も無い。』

『一万人を四列縦隊にして前後の感覚を1メートルにすると2千5百メートルの長さになる。(中略)収容所と殺害現場の距離は4〜5キロというから、先発組が現場に到着してもまだ3分の2は収容所から出発できない。最後尾が到着するまで先発組は5時間も吹きさらしの河原で待つことになり、路上には延々たる捕虜の列が7時間以上も続く。(中略)結局捕虜の実数は一万人など居なかった、と考えるのが最も合理的な説明である。』
(リンク先省略)


※「ゆう」注・・・念のためですが、ここに出てくる「軍」は「軍隊」という普通名詞ではなく、「軍」−「師団」−「連隊」−「中隊」という組織系統の最上部としての「軍」です。この場合、「軍」は「上海派遣軍」の意味になります。板倉氏が問題にする「軍の意向」とは、「山田支隊長の意向」のことではなく、もっと上部の「方面軍の意向」のことです。つまり板倉氏が論じているのは、「殺害命令が長勇参謀の独断であったか、それとも「方面軍」全体の意向であったか」という論点についてです。yさんが理解していない可能性がありますので、一応確認しておきます。

 ここ、珍しくyさんが自分の手で写しているようです。「食糧を足ったら」とか「山田市隊長」とか「前後の感覚」とか、やたらと誤字が多い。


 ・・・ということはともかく、板倉氏の提示している論点は二つあります。ひとつが「人数」問題、ひとつが「意図」問題です。

 先に書いた通り、「人数」については、私は判断を保留します。「公式発表」約一万五千人、ただし実数は不明。私にはここまでしか言えません。

 ただし板倉氏の根拠は、「公式発表」を否定するには弱い、という印象は持ちます。「仮定の数字」を積み上げて、だから一万人もいない、という論法は、「仮定の数字」をちょっと変えるだけで全く違った結果が出ますので、かなり危なっかしいものです。

※念のためですが、「幕府山事件」における捕虜処刑は、12月16日と17日の二回に分けて行われました。上の書きぶりを見ると、板倉氏は、一度で全員を連行殺害した、という誤解をしているようです。あるいはこれは、「二回に分かれていた」ことがまだ明確になっていない時期の文章だったのかもしれません。

ついでですが、yさんのいう「4−6千名」は、二回目だけの数字ですよね。yさん、間違いなく、そのことをわからないで書いています。



 余談ですが、板倉氏自身、この本の中で「仮定の数字」を使った大失敗をやらかしています。

板倉由明『本当はこうだった南京事件』より

 (表6)南京の人口は戦前公式統計で百万と言われているが、筆者が南京市街を用途別に分類して東京の過密時期の二倍の人口密度と想定して推計してみると、三十万ないし四十万程度としか考えられないことを示す表である。(P52)

 板倉氏は「東京の過密時期の二倍の人口密度」という「仮定の数字」から南京市の各地区の人口を「推計」し、それを合計して南京市の戦前人口を「三十万ないし四十万程度としか考えられない」と主張してみせました。

 今さらですが、南京市の戦前人口が百万に及んだことについては、今日争いはありません。明らかに板倉氏の大チョンボです

 板倉氏の手法の「危なっかしさ」を象徴する失敗事例、と言えるでしょう。




 さて「意図」問題ですが、氏の書き方はなかなか慎重です。

 「現在明らかになっている資料の客観的分析からは、大量の捕虜を、皆殺しにしようという意図も計画も感じられない」と書きながらも(ただし前後の文脈を見ると、この主語は「山田支隊長ではなく「軍」であるように思われます)明確に「釈放の意図であった」と主張しているわけでもありません

 かつては「自衛発砲説」を支持していた板倉氏ですが、小野資料に触れて、いつのまにか「迷う人」(秦郁彦氏の表現)に変わってしまったようです。

小野賢二『虐殺か解放か 山田支隊捕虜約二万の行方』より

 ところが、この見解を出した一人でもある
板倉氏は、後に「約三、〇〇〇(処断)」の結論の責任を放棄して、「『南京戦史』の釈放中のハプニング説〔゛自衛発砲説゛のことー筆者〕も、決め手になる資料はない」 ( 「南京大虐殺・虐殺はせいぜい一〜二万人」『ビジネス・インテリジェンス』一九九四年八月号 ) 、つまり『南京戦史』の結論には゛根拠がない゛と断定するに至った。ということは゛自衛発砲説゛は史料的根拠のない作り話であることを認めたことになる。(P144-P145)

(『南京大虐殺否定論13のウソ』所収)

※『ビジネス・インテリジェンス』誌のこの号は国会図書館にも置かれておらず、入手困難ですので、ここでは小野氏の文章からそのまま紹介していることをお断りしておきます。



 で、yさんは板倉氏の文章を長々と紹介して、一体何が言いたいのでしょうか? まさか板倉氏が「自衛発砲説」を無条件に支持している、と勘違いしているわけではありませんよね?




毎日新聞 昭和59年8月7日栗原利一伍長インタビューより
『栗原さんによると、捕虜を殺したのは、十二月十七日から十八日の夜で、昼過ぎから、捕虜をジュズつなぎにし、収容所から約四キロ離れた揚子江岸に連行した。一万人を超える人数のため、全員がそろった時は、もう日が暮れかかっていた。』


栗原利一伍長証言 南京大虐殺研究札記
『私たちが幕府山で捕えた1万何千人という捕虜を、初めから、”殺してしまえ”ということではなかったんです。彼らを連行し、揚子江の中央の島に送るため、1ヶ所に集めた。船も用意されていたんです。もうすぐ日が暮れるという頃になって”何々少尉やられる”という声が聞こえたんです。その後”撃て”という命令がくだった』
『細かい点はわかりませんよ。そこに策略があったかどうかわかりませんが、トラブルが起れば”殺すしかない”という用意はあった。こっちは百何十人、あっちは1万数千人ですからね。彼らをとり囲んで、機関銃が構えていました。将校以下、7名が殺されたわけですから”やっちまえ”ということになった』
私たちは、それまでに痛い経験を何度もしているんです。ちょっと気をぬいたばかりに手痛い被害を何度も受けてきた。あの時の同じように、捕虜を集めて、反乱された時もある。捕虜は逃げ、こっちは殺されることもあった。したがって”反乱したらやるしかない”という用意があったのも当然だったわけです
『当時、1万3500人と聞いていたし、内地の新聞でもそのように書いたのだけど、ほんとうにそれほどいたのかどうか...。それは誇張で、連れてきたのは、せいぜい4、5千人から6千人ぐらいの間じゃなかったのかなあ。人間1万人というのを坐らせたら容易じゃないですよ。言われて聞いて、1万数千人ということであって、実際は...』


栗原利一伍長証言
(リンク先省略)
偕行社「南京戦史」の取材に対して『(毎日新聞の報道について)真意は逆である。大虐殺の立証に利用されて迷惑を感じている。』




 一応「常識」として「経緯」を確認しておきますが、栗原氏にまずインタビューを行ったのは、毎日新聞、次いで本多勝一氏です。

 本多氏によれば、栗原氏が証言を行った動機は、次のようなものであったと伝えられます。


本多勝一『南京への道』より

 南京陥落後、無抵抗の捕虜を大量処分したことは事実だ。この事実をいくら日本側が否定しても、中国に生き証人がいくらでもいる以上かくしきれるものではない。 事実は事実としてはっきり認め、そのかわり中国側も根拠のない誇大な数字は出さないでほしいと思う

(P208)


 つまり栗原氏は、別に「史実派」を利する目的で証言を行ったのではなく、むしろ「中国側」の「誇大な数字」を諌めるためにインタビューに応じたわけです。

 しかしこんな証言を行った栗原氏に対して、中傷・悪罵が殺到しました。

毎日新聞1984年9月27日 『記者の目』より

  歴史の発掘報道に思う

  
 勇気ある当事者証言 匿名の中傷 卑劣だ 

    反論 堂々と姿現して

福永平和(社会部)


 発端は八月の末。社会部の電話が鳴った。電話の主は八月七日付朝刊二社面(東京本社発行最終版、以下本紙掲載日は同)で掲載した「元陸軍伍長、スケッチで証言 南京捕虜一万余人虐殺」の記事で取材し、紙面にも名前の載った東京都小平市の退職警察官(七三)だった。 だが、電話の向こうの声は最初からひどく震えていた。

 「まったくひどい。何とかしてもらえないだろうか」

 記事に載った証言は、鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」や防衛庁防衛研修所戦史室の「支那事変陸軍作戦<1>」などの「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛的集団射殺」という定説を覆すものだった。

 電話の主は、この記事が出て以来、次々と「読者」からの封書、はがきが届いたが、これらの多くは中傷で、脅迫まがいのものもあるという。証言者の自宅へ出向いた。

 「恥知らずめ、おぼえておけ。軍人恩給と警察官の恩給を返して死ね」「貴様は日本人のクズだ!!」「思慮の浅い目立ちたがり屋か老人ボケ」

 思いつく限りの悪罵を投げつけていた。

(『毎日新聞』1984年9月27日朝刊第5面)


 栗原氏としては、たまらない気持だったでしょう。これ以降、証言内容は、「中傷・悪罵」に懲りたのか、「否定派」に有利な方向に微妙に変化していきます。ただしご子息によれば、それは「全く任意性はなく、信頼性に欠けるもの」だそうです。

栗原氏のご子息「核心」さんの証言(「南京事件資料集」掲載)

 結論から言うと、父の証言に関しては、毎日新聞の記者の方へのインタビューと本多勝一氏へのインタビューだけが任意でなされたものです。

 両記事のあとは脅迫手紙や脅迫電話が相次ぎ、また戦友や上官の方からも証言を取り消すようにとか、矮小化するようにとかの干渉が長い間なされています。

 ですから、それ以降の父の証言と称する内容に関しては、全く任意性はなく、信憑性に欠けるものです
 
 yさんは「南京大虐殺研究札記」の記事のみを採り上げていますが、これは明らかに初期証言と矛盾します。

 例えば「人数」については、栗原氏自筆のスケッチには、はっきりと「1万3,000名余」と書かれていました。(『南京戦史資料集』機P768)

 「それは誇張で、連れてきたのは、せいぜい4、5千人から6千人ぐらいの間じゃなかったのかなあ」という部分など、数十年前の「人数」など改めて「思い出せる」はずもなく、これは否定派側インタビューアーの誘導による「記憶の汚染」と見ていいでしょう。




 さて、yさんの文章に戻りましょう。


板倉由明氏の言うとおり、一万人を4キロも離れたところに誘導するのは7時間くらいかかるのだが、「昼過ぎから」出て「日が暮れかかる」までに「一万人」が「全員そろった」のはおかしいですよね。

12月の南京は6時なら「まっくら」ではないでしょうか。栗原利一も言っているとおり4千から6千くらいの人数だというのが妥当な線です。

 yさん、「仮定の数字」を盲信してしまっています。前提となる数字は「仮定のかたまり」なのですから、数字をちょっといじれば、「時間」は簡単に変わってしまいます。

 「仮定の数字の積み上げ結果」に過ぎない「7時間」を、唯一無二の「正しい解答」であるかのように断定するのは、やめておいた方が・・・。





この事件の実態は、あまりに多い捕虜の処遇に困り、揚子江対岸に移動させて釈放しようとしたが失敗した、つまり「宣誓に依らざる解放」の”失敗”です。

『最初から計画的な処刑であるなら、捕虜を集めたところで一斉に撃ち殺せば済むことです。連行途中で暴動が起ったならともかく、集結が終ってから味方に犠牲が出るまで処刑する側が待たねばならない理由は皆無です。』

 yさんが「自衛発砲説」を支持する理由は、「捕虜を集めたところで一斉に撃ち殺せば済むこと」の一点であるようです。しかしこれは明らかに説得力を欠きます。

 大量の捕虜を殺すためには、「広い場所」であった方が都合がいいでしょう。またその後の「死体処理」も考えなければなりません。だから揚子江岸まで連行した。そう考えて、何の問題もないでしょう。


 参考までに、「味方に犠牲が出」た事情を、小野氏はこう説明しています。

小野賢二『虐殺か解放か 山田支隊捕虜約二万の行方』より

 一方、虐殺現場となる長江岸には半円形に鉄条網が張られ、その外側に重機関銃が設置された。捕虜はこの鉄条網の中に入れられる。

 証言によると、長江岸から捕虜を並べるのに「整理兵」と呼ばれた兵士たちが、捕虜とともに鉄条網の中に入り誘導した。重軽機関銃の銃撃は半円形の鉄条網の両端にたいまつのような装置を設置し、この装置に点火と同時に銃撃が開始され、闇の中で、その両端の火をそれぞれの機関銃の「射撃範囲」とした。

 だが、この時なんらかの事情で何名かの「整理兵」が鉄条網の外に出られなかったという。七名の死者の何名かは捕虜とともに銃殺された「整理兵」だった。(P151)

(『南京大虐殺否定論13のウソ』所収)


 しかし、「あまりに多い捕虜の処遇に困り」でお終いですか? その前に、軍(あるいは長参謀)から「殺害命令」が出されたことに、きちんと触れてくださいね。




これは、戦時重犯罪人をやむをえず銃殺した、ただそれだけのことです。



 何でここに突然「戦時重犯罪人」という言葉が出てくるのか不思議なのですが(^^ゞ 一応、立作太郎の記述を確認しておきます。


立作太郎『戦時国際法論』より

 戦時重罪中最も顕著なるものが五種ある。(甲)軍人(交戦者)に依り行はるる交戦法規違反の行為、(乙)軍人以外の者(非交戦者)に依り行はるる敵対行為、(丙)変装せる軍人又は軍人以外の者の入りて行ふ所の敵軍の作戦地帯内又は其他の敵地に於ける有害行為、(丁)間諜、(戊)戦時叛逆等是である。(P41)



(甲)軍人(交戦者)に依り行はるる交戦法規違反の行為 軍人に依る交戦法規違反の行為を例示せば(1)毒又は毒を施したる兵器を使用すること、(2)敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること及暗殺を為すこと、(3)兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること、(4)助命せざることを宣言すること、(5)不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すること、(6)軍使旗、国旗其他の軍用の標章、敵の制服又は赤十字徽章を擅に使用すること、(7)平和的なる敵国の私人を攻撃殺傷すること、(8)防守せざる都市の不法の砲撃を為すこと、(9)船旗を卸して降を乞ふの意を表したる敵船を攻撃し又は之を撃沈すること、(10)病院船を攻撃又は捕獲し、其他ジュネヴァ条約の原則を海戦に適用するハーグ条約に違反すること、(11)敵船の攻撃を為すに当り敵旗を掲ぐること等である。(P42)



 まさか、「幕府山事件」の捕虜が「戦時重罪」を犯した、と考えているわけではありませんよね。一体彼らはどんな「交戦法規違反」をした、と言いたいのでしょうか。(と、最後まで読んで、yさんはこの「まさか」の主張を行っていることに気がつきました(^^ゞ 読者の方も驚かれると思いますが、詳しくは続・y1982さんに答える(6) 捕虜殺害編ぁ,修梁召諒疥沙Τをご参照ください)


 しかし、「やむえず」とは。あえて「自衛発砲説」側の証言者から、「事件のきっかけ」を語ってもらいましょう。

阿部輝郎『南京の氷雨』より

(角田栄一中尉)


「で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたところ、いきなり逃げ出したのがいる。四、五人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ。これが不運にも、追いかけていた味方に命中してしまって・・・・。これが騒動の発端さ。」(P86)



(平林貞治中尉)


一部で捕虜が騒ぎ出し、威嚇射撃のため、空へ向けて発砲した。その一発が万波を呼び、さらに騒動を大きくしてしまう形になったのです。・・・」(P108)



(箭内亨三郎准尉)


集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が・・・。突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです。・・・」(P101)

 捕虜が反抗したのがきっかけ、という証言もありますが、「自衛発砲説」の立場に立ったとしても、これは、本来殺さなくてもよい捕虜まで殺してしまった「ハプニング」です

 私には、「戦時重犯罪人」なるものを「やむえず」銃殺した、とはとても見えないのですが(^^ゞ

 



それにしても、一瞬の躊躇が命取りになる戦場での「現場兵士の国際法解釈」の是非を70年たってもつつきまわす肯定派の目的は何なのでしょうか?


 「幕府山事件」で「現場兵士の国際法解釈をつつきまわす肯定派」って、あまり見たことがありませんが(^^ゞ 

 それにしてもyさん、順番をすっかり間違えています。

 「肯定派」(なるもの)にとっては、「捕虜殺害」イコール「国際法違反」ですから(一部の例外はあるかもしれませんが)、それ以上の「解釈」を「つつきまわす」必要はありません。前にも触れた通り、「国際法」を強引につつきまわして「あれは不法殺害ではない」とやっているのは、否定派陣営の側です

 で、さらにわからないのが「現場兵士の国際法解釈」という文言。「現場兵士」が、「国際法」云々を意識して動いているとは、私にはとても思われないのですが。彼らは「敵兵だから殺した」だけの話で、「このケースは果たして国際法上殺害が許されるだろうか」なんていちいち悩むはずがないではありませんか(^^ゞ

(2013.3.23)


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