| "バターン死の行進"(�機� | マリベレスからバランガまで ―食糧なき行進― |
「バターン死の行進」は、太平洋戦争初期における日本軍の「戦争犯罪」の代表例として、しばしば取り上げられます。
ただしその事実認識、及び責任論については、今日でも大きな争いがあります。「南京事件」と同様、「加害者側」と「被害者側」では「事件」に対する認識が全く食い違っており、日本軍側(及びそれを継承する現代の右派論壇)では、日本軍側の責任を否定する議論が盛んです。 以下のコンテンツでは、1〜3で主として被害者側から見た「行進」の状況を概観し、4で捕虜たちがようやく到着した「オドンネル収容所」の悲惨な実態を取上げます。5は「番外編」、行進中に生じたと伝えられる「パンティンガン川の虐殺」です。そして6、7で日本側の「否定論」を重ね合わせて、事件の全体像を探っていきます。
1941年12月、マニラを放棄した米比軍は、バターン半島に立て籠もって戦闘を続けました。 日本軍は、この米比軍を攻めあぐねます。最終的に「大攻勢」を仕かけたのは、それから4か月後の、1942年4月のことでした。 日本軍は当然のことながら、大量の捕虜発生を予期しています。「捕虜後方移送計画」については、上田敏明氏のまとめが簡潔にして要を得ています。(上の地図と合わせてご覧ください)
日本軍の輸送能力では、発生するであろう大量の捕虜に対して食糧を運ぶことは困難である。そうであれば、食糧を捕虜のところまで運ぶのではなく、逆に捕虜を食糧のところまで連れて行こう、という計画です。 バランガまでの最初の39キロは徒歩行進。バランガからはトラックと鉄道で収容所最寄り駅のカバスまで移送し、最後の14キロは再び徒歩行進。食糧は、バランガまでは捕虜の手持ちに頼り、バランガ以降は食糧を供給する。 机上のプランとしては、特段無理があるとも思われません。しかし、実際に捕虜を得てみると、この計画の前提となった条件はすっかり崩壊していました。
「計画」との齟齬は、以下の2点です。 1.米比軍将兵は既に慢性的な食糧不足の状態にあり、「手持ちの食糧」など存在しなかった。そのためにバランガまでは「食糧なき行進」となった。しかも彼らはマラリアなどの猖獗に苦しんでいた。 2.投降兵の数は当初見積りの3倍であり、「トラックでの輸送」が困難となった。 (現実には、「トラック」の大半は、フィリピン戦の最終段階である「コレヒドール」攻略のために使われ、捕虜輸送に回る状態ではありませんでした) このうち捕虜の大量死に直結したのは1の方でしょう。捕虜の投降前に、既に「飢えとマラリア」は深刻な問題になっていました。
蛇、猿、イグアナまで、「食糧」としなければならない状況であり、また高熱を発するマラリアなどの病気の蔓延により、米比兵たちは「行進に耐えうる状態」にはなかった、ということです。 本間雅晴・山下奉文両将軍の「戦犯裁判」を扱ったテイラー『将軍の裁判』の記述も同様です。
ともあれ、「計画」の前提条件がすっかり狂ってしまったにもかかわらず、当初の「計画」を強行したことが、「バターンの悲劇」の大きな原因の一つとなりました。
この時期、フィリピンは「乾季」に当っていました。
捕虜たちは、こんな天候の下、空腹に苦しみ、水すらも補給を制限されていました。例え「病気」がなかったとしても、「行進」の苦痛は、いうまでもないことでしょう。
「病気」の蔓延が、捕虜の苦痛に拍車をかけます。
当然のことながら、行進についていけなくなる捕虜が続出しました。
飢えとマラリアの高熱に苦しむ兵士たちを、四十度近い炎天下、食糧も(場合によっては水も)与えずに何十キロも「徒歩行進」をさせたらどういうことになるか ― 日本軍には、そういう「想像力」が欠けていた、と言わざるをえません。 報道班員の寺下辰夫も、戦後の著書の中で、拙速すぎたのではないか、との感想を漏らしています。
このような状況が正確に軍中央に伝わり、かつ軍中央に「捕虜」に心を向ける余裕があったのならば、「死の行軍」はかなり緩和されたものとなったかもしれません。しかし日本軍の関心は、「フィリピン戦」の最後を飾るであろう「コレヒドール戦」に集中しており、バターンの「捕虜の待遇」は事実上現場任せになっていました。 伊藤正徳は、どちらかといえば「日本軍擁護」のスタンスをとります。しかしその伊藤氏ですら、「擁護」の材料を並べつつも、最後にこう付け加えざるをえませんでした。
「世界戦争犯罪辞典」の記述も同様です。
「バターンの悲劇」を増幅したのが、日本軍兵士の捕虜に対する暴力、虐待です。これさえなければ、欧米の「バターン」に対する評価は、随分と違ったものになっていたでしょう。 その背景には、こんな「捕虜観」があったと伝えられます。いずれも、バターン戦に同行した「報道班員」の記録です。 ※開戦時、大勢の作家・詩人・マスコミ関係者が「徴用」を受け、各地の戦場に派遣されました。フィリピン戦の「ペン部隊」メンバーは、火野葦平、尾崎士郎、石坂洋二郎、今日出海など、今日でも名が知られるなかなかの豪華メンバーです。彼らは「報道班」に組織され、軍の宣伝活動の一翼を担いました。
「バターン戦」に限らずよく言われることですが、実質的に「降伏」を禁じられていた日本軍兵士にとって、敵兵の「降伏」は、理解できない、軽蔑すべき行為でした。こんな蔑視観が、「捕虜虐待」につながっていきます。
本来は「捕虜を食糧のある場所まで運ぶ」ために行進させていたはずなのですが、現場では「計画通り捕虜を移送すること」がいつのまにか自己目的化してしまったようです。行進についていけなくなった捕虜が虐待されたという証言は、到る所に登場します。 日本軍が、「捕虜は人道的に扱うべき」という「国際法」のルールを守ってさえいれば、「バターン」がここまで大きな非難の的となることはなかったかもしれません。 しかし「南京事件」と同様、現場兵士の国際法への無知が、ここでも災いしました。 基本的に日本側の「部隊戦史」ものはこのような「残虐行為」の存在をスルーします。数少ない例外が、「福山聯隊史」でしょう。
日本軍内部では「私的制裁」が日常的に行われていました。その延長で捕虜に対しても「暴力」を振るうことに何の抵抗もなかった、という説明です。識者の認識も、この点はほぼ共通しています。
さらに、列を乱す捕虜への「虐待」が「捕虜虐殺」にまでエスカレートした例も、多数報告されています。
※「行進から落伍した兵を殺した」事例としては、本件「バターン」の他に、1945年の北ボルネオ「サンダカン死の行進」の事例が知られています(ただし「はっきりした証拠は出ていない」との見方もあります)。また、「南京事件」でも、「幕府山事件」において、栗原利一ら2名の元兵士が「列から離れた捕虜が殺された」旨を証言しています。 目立つのが、「渇きに耐えかねて水を飲むために勝手に列を離れた捕虜を殺害した」というパターンです。
実際にどの程度の「残虐行為」があったのか、今日では検証は困難です。しかし、これだけ多種多様な「証言」が揃っている以上、少なくとも「日本軍の捕虜取扱には何の問題もなかった」と強弁することは困難でしょう。 念のためですが、すべての捕虜が、このような悲惨な行進を経験したわけではありません。 日本軍には統一的な「捕虜取扱方針」は存在しませんでした。「人道的に扱え」という指示もなかったかわり、別に「輸送を最重点とし、規律に従わない捕虜には厳格な態度をとれ」という明確な指令があったわけでもありません。 言ってみれば、捕虜にとって、どのような待遇を受けるかは、どの部隊が監視に当るかという「運」次第、という状況でした。 この点については、日米双方の論者の見解は一致しています。
その意味では、ここで取り上げた事例は、最も「不運な」ケースであったのかもしれません。 しかし言うまでもありませんが、「捕虜を人道的に取り扱うこと」は国際的な「ルール」です。例え一部とはいえども、それを逸脱した捕虜取扱事例の存在は、米国世論の轟々たる非難を呼び起こすのに十分なものでした。 |