"バターン死の行進"(后 パンティンガン川の虐殺


「バターン死の行進」

1.マリベレスからバランガまで ―食糧なき行進―
2.バランガからサンフェルナンドまで ―徒歩行進は続く―
3.サンフェルナンドからオドンネルまで
4.オドンネル収容所にて
5.パンティンガン川の虐殺   ・・・本稿
6.「否定」する側の視点 仝従豐愀玄圓両攜
7.「否定」する側の視点◆ ̄η貧醒鼎任痢嵌歡袁澄





 「バターン死の行進」それ自体は、結果として大変な「悲劇」になってしまったとはいえ、少なくとも「計画的な残虐行為」ではありませんでした。

 しかしその「行進」の間に、上級からの「命令」に基づく400名規模の「捕虜殺害事件」が発生したことも事実です。事件は「パンティンガン川の虐殺」として知られ、戦後の戦犯裁判において、本間雅晴将軍に対する訴追理由のひとつともなりました。

 以下、虐殺事件の概要を見ていきましょう。

※本コンテンツに使用した各資料は、そのまま紹介するとあまりに長文となるため、こちらでは大幅にカットしています。 関連部分全体を確認したい方は、「バターン死の行進 「パンティンガン川の虐殺」資料編」をご覧ください。





 虐殺命令 ― 抵抗した部隊長たち


 「命令」が伝達されたのは、バターン戦が終了し日本軍が大量の捕虜を得た、1942年4月10日の昼頃と伝えられます。

 命令を受領した記録としては、歩兵第百四十一連隊(福山)大隊長の今井武夫大佐、歩兵第百四十二連隊(松江)副官の藤田相吉大尉の回想が遺されています。


今井武夫『支那事変の回想』  


 (「ゆう」注 四月十日)午前十一時頃私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。

 特に聯隊長を指名した電話である以上、何か重要問題に違いない。

 私は新らしい作戦命令を予期し、緊張して受話器を取った。附近に居合わせた副官や主計、其の他本部付将校は勿論、兵隊一同もそれとなく私の応答に聞き耳を立てて、注意している気配であった。

 電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った。

 それは

 「バターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊を挙げて降伏を申し出たが、日本軍はまだ之れを全面的に承諾を与えていない。

 其の結果米比軍の投降者は、まだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊は手許にいる米比軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する。

 貴部隊も之れを実行せよ。」


と、いうものである。

(P178)

※余談ですが、「米比軍の投降者は、まだ正式に捕虜として容認されていないから」殺してしまってもいい、というのも無茶な理屈です。

実態から見て日本軍は明らかに彼らを「捕虜」として受入れてしまっています。今さら、いや、実はこれは「正式の」受入ではなかったのだ、と強弁しても、世間の認めるところとはならないでしょう。 また「殺害」を正当化できるような特殊要因もありません。 戦後の戦犯裁判でこの「屁理屈」が持ち出されなかったのはもちろんのこと、以下に見る通り、
多くの現場指揮官は、この「理屈」を認めませんでした

ネットのごく一部ではありますが、「南京事件」についても、「正式の捕虜」ではないから(どうしてそういうことになるのかよくわかりませんが(^^ゞ))中国兵の殺害は合法、という、ちょっと耳を疑うような暴論を唱える方も存在するようですので、念のために付言します。

藤田相吉『ルソンの苦闘』


 ぐっすり寝ている処を突如通信兵にゆリ起された。時計を見ればちょうど正子(ママ)だ。

 「兵団の都渡参謀殿から電話であります」

※「ゆう」注 第六十五旅団参謀・都渡正義少佐。

 「よし、判った」

 私は電話に出るなり、「吉沢支隊の藤田であります」と小さな声で言った。

 「都渡参謀ですがネ、吉沢支隊の明日の行動に就て、申しておきます。筆記をしないで下さい」

 参謀も何かはばかるものがある様な口振りだ。

 「判リました、言って下さい」

 「兵団命令の要旨を伝えます」

と前置きして、

 「吉沢支隊は、『明早朝、露営地を出発し、「レナチン」川支流右岸に適宜陣地を占領し、後退し来る敵捕虜を捕捉殲滅すべし』 細部は、出発の時に申します。以上です」(P81-P82)

※「ゆう」注 日付の明記はありませんが、この事件を記した次の段落に「翌四月八日」の文字が見えることから、「四月七日」の出来事である、と推察されます。ただし、今井の記録は十日のことであり藤田への命令も同日に発せられたと考える方が自然であること、また藤田への命令を取消したその3日後に今井に同じ命令を発するとは考えにくいこと、から、日付は誤っている可能性があります。


 今井武夫によれば、第十独立守備隊にも同様の命令が届いています。

今井武夫『支那事変の回想』  


 神保(信彦中佐)はバターン戦で、われわれ夏兵団の右側に隣接して戦闘した、生田寅雄少将の指揮する第十独立守備隊司令部で高級副官をしていた。(P179-P180)

 生田兵団は中国大陸から比島に転用され、四月四日リンガエン湾に上陸し、四月七日オロンガポから前進してバターン半島西岸地をマリベレス山西麓に向って攻撃前進した。

 私が捕虜殺戮の命令を受けた同じ日、生田司令官は夏兵団の高級参謀から電話で、私が受けた命令と同じ内容の大本営命令を伝達された。(P180)


 いずれも「第六十五旅団」(旅団長奈良晃中将・通称「夏」部隊)司令部からの直接命令です。しかし三部隊は、この無茶な命令に、三者三様の「サボタージュ」を試みました。



 今井大佐は、「口頭命令」ではなく「正規の筆記命令」を要求しました。

今井武夫『支那事変の回想』


 私は自己の責任上避けられない立場に困惑したが、心を決めて直ちに応答した。

 「本命令は事重大で、普通では考えられない。従て口答命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達せられ度い。」

と、述べて受話器をおいた。

(P179)

 そして、それでも「殺害」命令が来た時に備え、今井は捕虜を独断で釈放してしまいます。

今井武夫『支那事変の回想』


 私は直ちに命令して、部隊の手許に居った捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するように指示して、一斉に釈放して仕舞った

 私の周囲に居った渡辺中尉や杉田主計中尉其の他若い将校は、私の意外な指示に仰天してあっけに取られ、棒を呑んだように息を詰めたまま私を見詰めていた。

 戦後彼等の告白によれば、聯隊長の突飛な命令に吃驚りして、実際頭がどうかしたのではないかと、疑ったと述べている。

(P179)

※「ゆう」注 今井は、日中戦争における日本側の大プロジェクトであった「汪兆銘工作」に携わったことでも知られいます。「国家的プロジェクト」に関わったという自負が、このような「事実上の命令無視」という大胆な行動のエネルギー源だったのかもしれません。


 また藤田大尉は、電話口で即座に命令を拒絶しました。

藤田相吉『ルソンの苦闘』


 私は一瞬我が耳を疑った。奇怪な命令である。驚くべき命令、私は暫く考えて、

 「それは出来ません」

と、はっきり言いきった。

(略)

 「都渡参謀殿、私は、今日、何千という捕虜を見ております。敵の師団長とも会って話をしています。武器を捨てて、我が軍の命令通りに後退して来る捕虜を騙し打ちにすることは皇軍の道ではないと思います。第一、あの多数の捕虜を皆殺しにすることは技術的にも不可能です。後日必ず問題になります」(P83-P84)


 当然ながら、「命令絶対」の日本軍の軍系統において許される行為ではありません。さすがにこの正面きっての「抗命」には、周囲も不安を隠せなかったようです。

藤田相吉『ルソンの苦闘』

 「藤田大尉殿、兵団参謀にあんなことを言っていいんですか

皆起き上って私を取りかこみ"発狂者"の如く見つめる。

 「よくはないよ。だから俺は、明日は軍法会議だ。俺が引っ張られて、抗命罪で銃殺されても、後をしっかりやれえよ

 「まさか、そんなことはありますまい」

 「わかるものか。狂人参謀のことだ。抹殺という術もある」

 軍の一人の気狂い参謀の為に日本軍の歴史を穢してはならぬ。私は如何なる処分も甘んじて受ける覚悟だ。首を洗って待っている。(P86)



 結果としては、三部隊とも、「虐殺」の実行者になることを免れました。

 今井大佐のもとには「筆記命令」は到着しませんでした

 また藤田大尉へは、都渡参謀から「命令取消」の電話が入りました。


藤田相吉『ルソンの苦闘』


 約一時間を経過した。再び兵団から電話が来た。私は直ぐに受話機を握る。(P86)

 「藤田であります」

 「私は都渡です。先程の電話命令は、取り消します

 私は、自分の意見具申が入れられ、明日の凄惨、阿修羅の場面を避け得た喜びを禁じ得ない。

 「判りました。有難う御座いました。参謀殿、先程の御無礼を深くお詫びします」

思わず、お礼をいう始末である。(P87)


※「ゆう」注 今井大佐ですら「正面からの命令拒絶」はできなかったのに、「副官」の立場で、しかも連隊長の意向も聞かずにいきなり「命令拒絶」という大胆な行動をとった ― 本当にこんなことができたのか、私個人としては疑問に思わないでもありません。また以下に触れる通り、同じ旅団の第百二十二連隊は命令を「実行」してしまっています。 第百四十二連隊には命令を撤回したのに、第百二十二連隊に対しては撤回せずそのまま「虐殺」を行わせた、というのも違和感があります。しかし、少なくとも「命令が伝えられたが、結果として実行されなかった」ことは「事実」と見ていいでしょう。



 第十独立守備隊の方は、いささか混乱します。この乱暴な命令を実行すべきかどうか。どうしていいかわからないままに数日が経過します。

 その間に、神保は本間第十四軍司令官に直接確認に赴きました。それでようやく「ニセ命令」であることが判明、守備隊は「虐殺実行部隊」の汚名を免れることとなりました。

今井武夫『支那事変の回想』

 私が捕虜殺戮の命令を受けた同じ日、生田司令官は夏兵団の高級参謀から電話で、私が受けた命令と同じ内容の大本営命令を伝達された。

 驚いた生田少将は、特に部下大隊長四名を招集して、この命令により約一万人に達する捕虜の処置を協議したが、もとより重大問題であるだけに、慎重に審議すればする程、異論が出て、決論が決まらないまま数日を経過した。

 其の間に神保は、自ら軍司令部に出かけて、この軍命令は、本間軍司令官の関知せざるものであることを偵知し、危うくこの蛮行の実行を中止することが出来た。

(P180)

※「ゆう」注 余談ですが、この神保信彦中佐は、のち、マニラ軍司令部から、日本軍捕虜となったマヌエル・ロハス少将への「処刑命令」を受けたが、本間中将に直訴してロハスを助命した、というエピソードを持ちます。ロハス少将は戦後フィリピン大統領となり、今度は逆に、中国で戦犯として死刑判決を受けた神保を助命することになりました。日比関係の「ちょっといい話」として伝えられます。 この経緯については、旺文社文庫『証言・私の昭和史3』に、神保氏への詳しいインタビューが収録されています。さらに言えば、神保氏は、ルバング島に残留した元日本兵小野田寛郎少尉らに対して、ジャングルを出るように呼びかけたことでも知られます。



 さて、この無茶な命令の出所はどこか。

 今井武夫の回想には「辻(政信)参謀」の名が、はっきりと登場します。

今井武夫『支那事変の回想』

 戦後明かにされた所に依れば、かかる不合理で惨酷な命令が、大本営から下達されるわけがなく、松永参謀の談によればたまたま大本営から戦闘指導に派遣された、辻参謀が口答で伝達して歩いたものらしく、某部隊では従軍中の台湾高砂族を指揮して、米比軍将校多数を殺戮した者が居り、アブノーマルな戦場とはいいながら、なお其の異常に興奮した心理を生む行動に、慄然とした。

 勿論戦後マニラの米軍戦犯軍事法廷では、本問題も審理の対象とされ、軍司令官本間中将の罪行に加えられたと聞き、側隠の情に堪えかねたが、同時に斯かる命令を流布した越権行為が、有耶無耶に葬られていることに対し、深い憤りを禁じ得ない。(P179)


 どうやら、辻参謀の「独断命令」を「第六十五旅団」の司令部が受け入れ、麾下の各部隊にそのまま伝えてしまった、ということであるようです。藤田相吉大尉もそのように観測しており、また今日の「定説」にもなっています。

 「シンガポール華僑虐殺」に続き、またもや「辻政信」の登場です。太平洋戦争初期において辻が日本軍の「戦争犯罪行為」をどれだけ助長してしまったのか。慄然とせざるを得ません。


 ちなみに辻は、「第六十五旅団」以外の司令部にも「命令」して回ったようですが、相手にされなかった、という記録もあります。

大谷敬二郎『戦争犯罪』

 これについて思い出すことがある。ここに書くのもどうかと思うが、これは確かな話である。さる当事者から直接聞いたものである。

 話というのは辻政信君に関することだが、第二十五軍参謀から大本営参謀に転じた辻中佐は、昭南市(シンガポール)を発って台湾まで帰ってきた。そのとき、台湾でバターン陥落の報を得た彼は、急遽、飛行機をかってマニラに来た。

 そして大本営参謀の名において、当時軍参謀長だった和知中将に対して、バターン俘虜のことごとくを殺害せよと勧告した。もちろん和知中将はこのような無謀な申出では相手にしなかった

 彼はさらに第十六師団長森岡中将にも同様の勧告した。森岡中将も良識の人、それが大本営参謀の意見だとしてもこれを聴かなかった

 だが、辻参謀はさらに第一線に赴いて同様の勧告を行ない、ために米比軍の投降直後においては、若干の俘虜殺害が行なわれたらしい。辻のこの俘虜みな殺しの思想は食糧事情の困難にあったというが、それにしても恐ろしい暴虐沙汰である。

 幸いに第一線指揮官の良識はこれに聴従しなかったとはいえ、このバターンの俘虜取扱いにおいて、こうした一幕僚の意思、俘虜は殺してもよいのだ、といった考え方が、これに従った第一線指揮官に影響を与えていなかったと誰が断言することができよう。(P164)



 ここに名が出た和知鷹二参謀長は、「マニラ裁判」で、辻の「命令」について証言しています。大谷の記述の傍証となるでしょう。

マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 和知の証言によれば、辻は、戦場の連隊長に対して捕虜を「情け容赦なく扱う」よう指示し、従うよう脅したのだという

問 「情け容赦なく扱う」とはどういう意味ですか?

答 殺すという意味です。(P524)



 なお辻自身は、自分の回顧録などでは、このような「越権命令」を行ったことに完全に頬かむりしているようです。

田々宮英太郎『参謀辻政信・伝記』  

 大本営から比島に派遣された辻参謀だが、その言動の片鱗も、自著からは窺えない。細大もらさず綴られたように見える、夥しい戦後の著作だが、自分に都合の悪い場面や事件はタブーのように触れられていない。(P170)






2  「命令」は実行された


 しかし既に見てきた通り、軍の組織命令系統において、「命令」へのサポタージュは、決して容易なことではありませんでした。特に第六五旅団の場合、「捕虜殺害」は旅団からの「正式命令」でしたから、むしろこのように多くの部隊が「サボタージュ」に成功したことに驚くべきかもしれません。

 そして今井は、この「命令」を実行してしまった部隊が存在したことに触れています。前の文を再掲します。


今井武夫『支那事変の回想』


 戦後明かにされた所に依れば、かかる不合理で惨酷な命令が、大本営から下達されるわけがなく、松永参謀の談によればたまたま大本営から戦闘指導に派遣された、辻参謀が口答で伝達して歩いたものらしく、某部隊では従軍中の台湾高砂族を指揮して、米比軍将校多数を殺戮した者が居り、アブノーマルな戦場とはいいながら、なお其の異常に興奮した心理を生む行動に、慄然とした。
(P179)

※「ゆう」注 「台湾高砂族」の名が登場する資料はこの今井回想のみであり、実際に「高砂族」が「事件」に関与したかどうかは不明です。1943年発行の柴田賢次郎『樹海』には「今度の攻撃には助かりますばい。高砂族の勇敢なのが沢山来てくれましたんで・・・」という文が出てきますので、「高砂族」がバターン戦に参加したのは事実であるようです。なおフィリピンを攻略した第十四軍は、フィリピンに来る直前は台湾を集結地にしていましたので(『戦史叢書『比島攻略戦』P106)、「高砂族」はその関係から軍に参加したのかもしれません。


 「第六十五旅団」は、歩兵第百十四連隊(福山)、歩兵第百四十二連隊(松江)、歩兵第百二十二連隊(松山)の三連隊を中核に構成されます。

 上述のように、このうち歩兵第百十四連隊、歩兵第百四十二連隊は「サポタージュ」に成功しました。しかし、今井は「某部隊」という表現で名指しを避けていますが、どうやら最後の歩兵第百二十二連隊が、命令通りの「虐殺」を実行してしまったようです。






 被害者側の記録としては、数少ない「生き残り」であるペドロ・フェリックスの回想がよく知られています。ノーマン『バターン死の行進』は、主としてフェリックスの回想から「事件」を再構成しています。

 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 四月十一日、第九一師団ほか二個師団の生き残りはバターン半島西海岸のバガク近郊で投降し、日本軍の命今に従って東へ徒歩移動することになった。舗装されていない山道の八号道路をたどり、半島の中央を通ってバラッガヘ向かうのだ。

 四月十二日の朝、フィリピン軍の士官および下士官以下の兵員およそ一五〇〇人からなる捕虜は(フェリックスによれば、アメリカ人の軍顧問はバガクに残された)パッティッガン川まで移動し、そこで野営している日本陸軍第六五旅団歩兵部隊の管理下に置かれると決まった。

 日本軍の指示を受け、労働者として小さい本橋の修復を手伝った捕虜たちは、川を渡ってつづら折りをのぼり、サマット山麓の草深い丘の上で足を止めた。そこは川からおよそ二キロ半標高の高いジャングルで、八号道路ともう一つの山道の交差点だった。草の生い茂るその一帯に、大勢の日本兵が待ち構えていた。(P284-P285)

 正午ごろ、日本陸軍の司令車が八号道路をのぼってきて、捕虜数百人が待機させられている場所から三〇メートルほど離れたところに停車した。将校がひとり降りてきたが、その周囲の者たちの従順な態度から、フェリックスは彼を大物だろうと思った。捕虜のあいだに立っていた日本兵のひとりから聞いたところでは、この将校は実際、第六五旅団長の奈良晃中将だったという。

 奈良中将はここで同じ区域にいる将校全員―捕虜管理の責任者である四人と、行進の行程で野営していた歩兵部隊の指揮官数人―を集め、将校会議を開いた。話し合いのあと中将は立ち去ったが、間を置かず、捕虜は二手に分けられた。士官および下士官の集団と兵卒の集団である。

 約一一〇〇を数える兵卒は八号道路を東のバランガ方面へ歩くよう命じられた。一方、約四〇〇人からなるフィリピン軍の士官と下士官は三列に整列させられた。そこへ、日本兵がもっとあらわれ、電話用電線を運んできた。

 捕虜の士官と下士官は、手をうしろで縛られ、数珠つなぎにされた。一五人から三〇人ずつつながれると、谷まで行進させられた。一つなぎになった先頭グループは崖のほうを向いて並ぶよう命じられた。その他のグループも少し離れて並ばされた。

 すると、先頭グループの背後で日本軍の兵卒が銃剣を装着した小銃を構えた。また、日本軍の士官と下士官が軍刀を抜き放った。

 タガログ語を話せる日本人の民間人が前へ出て、捕虜にこう言った。

 友人たちよ、堪忍してほしい。あなたがたがもっと早く降伏していれば、殺すことはなかった。しかし、われわれの兵力は甚大な被害を受けた。だから、堪忍してほしい。最期に望むことがあれば、われわれに申し出てもらいたい。(P285-P286)

 煙草を吸いたいという者もいれば、食べ物と水をほしいという者もいた。多くの者は命乞いをした。

 先頭グループの最後尾にいたペドロ・フェリックスは、小銃か機関銃での銃殺を希望した。せめて「前を向いて」つまり処刑者のほうを向いて死にたいと訴えた。

 日本軍はこれを拒否した。

 そしてひとりの将校が合図をした。

 列の左端にいたペドロ・フェリックスは三つの頭がはねられるのを目の端にとらえた。

 彼は大きく息を吸いこみ、止めた。

 最初の一刺しで右肩をやられた。二度目には胸を刺し貫かれ、彼は膝をつき、横に倒れた。三度目には刃が背骨にあたり、がつんと音がした。四度目は二度目と同じようで、そのあとはめった刺しだった。

 彼は谷に転がり落ちた―I数珠つなぎにされたまま突き落とされた。やがて、斜面の途中で止まった。彼は身動きしないよう努力した。日本兵があたりをうろつき、動く者がいればとどめを刺した

 フェリックスは唇を噛み、息を止めた。その右側には若いルシアーノ・ヤシント中尉がつながれていた。体をよじり、足をばたつかせていたこの同僚は、断末魔の苦しみのなか、ちょうどフェリックスの体の上に下半身を乗せる格好になった。おかげで、フェリックスは斜面を徘徊するハゲタカ部隊に目をつけられずにすんだ。

 その夜、死体の下からそっと這い出たフェリックスは、頭を少し上げてようすをうかがった。あたりは静まり返っていた。ひとりぼっちだ、周囲は死体ばかりだ、と彼は思った。(P286-P287)


※「ゆう」注 鷹沢のり子『バターン「死の行進」を歩く』にも、フェリックスの、ほぼ同趣旨の証言が収められています。(「パンティンガン川の虐殺・資料編」参照)


 ノーマンは、はっきりと「第六十五旅団」を「犯人」に指名しています。



 これに対応する日本側証言は、私の知る限り、今井回想以外には存在しません。しかしノーマンは、「第百二十二連隊」に所属していた3名の兵士のインタビューに成功したようです。
※「ゆう」注 ノーマン書の巻末の「謝辞」に、「ロンドン・タイムズ社に勤めた経験のある大軒京子さん」の協力を得て、「二二人の日本人」にインタビューすることができた旨が記されています。その「二二人」のリストの中に、以下の3名の名も登場します。
 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 歩兵第一二二連隊で軍馬の世話を担当していた長井義明二等兵は、マラリアにかかり、四月十日の朝には馬具にすがらなければ立っていられなかった。

(略)

 そんなある日、朝食の少しあとにある命令が伝えられた。それが誰の、どこからのものかは不明だった。命令は小隊から小隊へ、中隊から中隊へ、上流から下流へ、山中で野営する兵士たちへと伝わっていった。

 「殺すのだ」。捕虜を皆殺しにしろ、というのである

 これは敵同士の「殺し合い」の「延長」だ、と長井は思った。戦闘の終局ではなく、延長なのだ、と。戦闘と虐殺とは異なるとしても、彼にはその差がわからなかった。彼の仲間のほとんどもそうだった。

 捕虜の生命と権利の保護に関する国際法を、彼らは少しも気にしなかった(大半はそういうものを知らなかった)

 権利? 捕虜には権利などなかった。いまや大日本帝国陸軍は彼らの命を掌握し、しかるべき行動をとる必要があると考えていた。

 「彼らを突き殺せ」というのが歩兵への命令だった。「各部隊はその作業のための使役を出すこと」(P290)

 正確に言えば、これは命令ではなかった。またとない好機だったのだ。捕虜の殺害は、なすぺき作業だった。連隊の各部隊から数人ずつがその実行にあたるのならば、それは適当である、妥当であると思われた。

(略)

 彼は、「自分も仲間と一緒に捕虜を殺したい」と思ったものの、悪寒と発熱で体がまだ弱っていて、立つこともおぼつかなかった。構うものか、せめて見物してやろう、殺すところに立ち会おう、と彼は考えた。

 彼は、山道を這いのぽって崖の上に出ると、「道端にひっついた蟇蛙のように」、「すべてを見わたせる」場所を探しあてた。(P291)

 殺戮が始まったのは朝食のすぐあとだった。人気のない山道の一画に集められた捕虜は、一五人から三〇人ずつ並ばされ、山道を数百メートル歩かされて処刑場にやってきた。処刑場は山道の崖に沿ったところだった。集合場所と処刑場とのあいだは隆起していたので、歩かされていった一団がどんな目にあっているのか、あとに残った捕虜には見聞きできなかった。

 最初に連行された捕虜の一団は、崖のほうを向いて座らされた。そのひとりずつに日本兵がつき、襟首をしっかりつかんだ。その背後には処刑役の別の日本兵が立ち、小銃、銃剣、軍刀を構えた。

 合図とともに襟首の手が離れると、処刑役は心臓のありかの見当をつけ、うしろから深々と刺し貫いた
。そして、死んだ捕虜、あるいは死にかけている捕虜を谷へ蹴り落としたあと、次の一団を連れてきた。

 次の一団は、地面に血が流れ、谷底に死体が落ちているのを見て動揺し、襟首の手が離れるやいなや崖から飛び降りてしまった。体をあちこちにぶつけながら険しい斜面を転がり落ち、骨が砕ける者もいた。谷底の岩盤に、じかに叩きつけられる者もいた。

 「いちかばちか、飛び降りるしかなかったんだろう」と、遠くで眺めていた長井は思った。「殺されるとわかっていたんだから」

 それからは、捕虜は崖を背にして座らされた。刺殺、あるいは斬首されたあと、手足を抱え上げられ、「一、二、三」の掛け声とともに谷に投げ落とされた。(P292)

(以下略)


 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 村上勇二等兵は、父親 ―農業、漁業、林業によって生計を立てていた― のことを、少なくとも当時としては、変わった人だと思っていた。息子の出征のときに、たいていの親は「生きて帰るな」とか「お国のために命を捧げよ」などと言った。だが、彼の父親は戦争を憎み、軍を非難し、このままでは日本は敗北し、破滅すると言っていた。

 長男の勇が召集され、外地へ行くために歩兵第一二二連隊第二大隊第五中隊軽機関銃分隊に出頭する当日には、目に涙を浮かべていた。

(略)

 中隊長の説明によれば、各中隊に命令があって、「特別任務」のために銃剣の扱いに優れた者数人を出頭させなければならなかった。

 迎えにあらわれたひとりの中尉に連れられ、選ばれた四人は小山をのぼってジャングルに分け入り、谷を見わたせる崖の上の道にやってきた。そこには大勢の捕虜が集められていた。数百人にのぼる捕虜は、大半がフィリピン人だったが、一握りのアメリカ人も含まれていた。目隠しをされ、ロープや鉄線で縛られていた。

 村上勇は不穏な空気を感じとり、いやな気持ちになった。他にも不安そうな顔をしている者がいた。

 「何をすればよろしいのですか」とひとりが尋ねた。

 「処分」とひとりの将校が答えた。「捕虜を殺せ」という意味だ

 その将校は村上の名前を呼び、一歩前へ出るよう命じた。

 村上はためらった。(P296)

 「ひとり殺せば隊に戻ってよし」と、村上の所属中隊の軍曹が言った。

 村上はその場に立ち尽くした。

 軍曹はふたたび□を開いた。

 「ここには他の中隊の将校が何人もいる」。その口調は穏やかだった。「彼らの部下はすでに捕虜を殺している。中隊長どのは、われわれの隊にもできる者がいることを示したいのだ。できるだけすばやくやれ、ひとり殺せば戻ってよし」。そして、曹長はこう付け加えた。「できなければ、中隊長どのに殺されるぞ」(P297-P298)

 苛立った将校が軍曹を怒鳴りつけた。

 「貴様、早くやらせろ! これは天皇陛下のご命令なのだ!」

 村上勇は「選択の余地はない」と思った。

 訓練では大きいわら人形を相手にしていたが、それと現実とはわけが違った。

 彼は小銃を構えて前に出た。目の前の捕虜はフィリピン人で、真っ青になり、目に恐怖の色を浮かべていた。

 村上勇は小銃をぎゅっと握りしめ、腰を落とし、捕虜の心臓のあたりを狙って銃剣で突いた(〈やあ!〉)。

 すると、ごつっという音が聞こえた。彼は、あばら骨を突いたに違いないと考え、銃剣をぐいとひねって深く押しこむと、捕虜の体から引き抜いた。

 フィリピン兵は膝をついた。傷口から血があふれ出ていた。

 彼は「終わった!」と、反抗的にも聞こえる口調で言った。

 「蹴れ」と少佐が大声で言った。蹴り落とせ、と。

 村上は倒れて痙撃している捕虜の体をかかとで道の外へ押し出し、谷に落とした。

 少佐は「次は貴様がやれ」と別の者に言い、そこに来ていた歩兵たちに、順番に同じことをさせた。

 銃剣がくりだされるたび、悲鳴が上がり、山々にこだました。大勢の捕虜が横たわっている谷底からも、苦しそうな声が聞こえてきた。呻き声と泣き声の合唱である。(P298-P299)

 「どうしてこんなことをしなければならないんだ」と村上勇は思った。(P299)

(以下略


 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 捕虜を殺すだって? と、歩兵第一二二連隊第一大隊の砲兵重田竹貞一等兵は思った。そんなことをしても意味がなかった。

 「両手を上げてジャングルから出てきた捕虜を、どうして殺すんだ?」彼には疑問だった。「戦いは終わっている。殺し合いをする状況ではなくなったのに

 四月十二日、パンティンガン川のほとりに野営していた歩兵第一二二連隊の兵士たちは、いつになく大量の酒を支給された。しかも、飲めるだけ飲んでいいという。それから少したって、捕虜の殺害を命じられた。(P299)

 下士官が言った。「捕虜を殺したい者は前へ出ろ。どの捕虜でも、好きなだけ殺してよし」

 その任務を進んで引き受けた者は、他の者を説得しようとした。

 彼らの主張はこうだった。「あの捕虜たちは厳密に言えば捕虜ではない。まだ拘束されていないのだから、捕虜だとは言えない。収容所の捕虜を殺すのはまずいだろうが、彼らはまだ敵兵で、日本は現在も交戦中である。彼らを殺さなければならない

 殺戮は正午近くから始まった。処刑役の者はいくつかの班に分かれ、川辺や丘の上の野営地に集合したあと、どこかへ行進していった。川辺の兵士の動きを見ていた重田竹貞には、処刑は複数の場所で行なわれ、それに関わる歩兵は数百人にのぼると思われた。(P300)

(以下略)


 なお重田氏へのインタビューについて、ノーマンは、序文「日本の読者の皆様へ」の中で、こんなエピソードを披露しています。


 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 インタビューに答えることによって戦争犯罪に問われるのではないかと心配する人もいたが、もはやそういう時代は過ぎ去った。すでに講和条約が結ばれて久しいのだ。

 だから私たちは、バターン半島を流れるパンティンガン川での捕虜虐殺事件の当時者だった重田竹貞氏にも会いにいった。

 彼にはこんなふうに尋ねた。終戦から長い時間がたった今、話しにくいことを進んで打ち明ける気持ちになったのは、なぜなのですか?

 「いまの世の中の人々に知ってもらいたいから」だと彼は言った。

 そして彼は語りはじめ、大軒さんを含めた私たち三人は涙しながら聞いた。(P10)



 以上、ノーマンによる三人の元兵士へのインタビューを紹介しました。

 数十年前の出来事の回想ですので、細部がどこまで正確かはわかりません。しかし少なくとも、この三人の元兵士が、「事件」を実行もしくは目撃したことは間違いない、と見ていいでしょう。




 最後に、アメリカ、フィリピンの歴史概説書の「認識」をまとめておきましょう。

ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 ⊂困訛斥


 多くの残虐行為はこうした日頃の訓練と背景から生まれたものだが、「死の行進」で死者の数がふえたのは、辻中佐からでた独断の、口頭命令に直接起因している。この命令の遂行を拒んだのは生田将軍と今井大佐だけではなかった。しかし他の者はその命令を完全に、あるいは部分的に実行した。(P256)



テオドロ・A・アゴンシリョ『運命の歳月』第一巻


 四月十二日正午前、まだバランガに在った第六十五旅団司令官の奈良将軍は、車でやって来て将校らと協議した。その後、将軍が去ると、捕虜たちは、自分らの運命が日本軍の警備兵の手中にあることを悟った。(P291-P292)

 「諸君が、三ヵ月前に降服していたら、」と、日本の通訳が言った。「諸君は、今頃、こんな刑罰を受けずに済んだであろう。我が軍の兵士が、君たちと戦って大勢死んだ。諸君は、今その償いをするのだ。君たちは首をはねられるのだ。」

 あるフィリピン人の将校が、逆境に立ち向かう雄々しさで、自分らを銃殺刑にしてくれるよう提案した。だが、この日本人は、彼の勇気ある提案を拒絶し、フィリピン人は、アメリカ人と手を結んでいる、そのアメリカは日本の敵国であると言った。

 合図があった。すると、日本軍の将校たちは、剃刀みたいな日本刀を引き抜き、一斉に捕虜の首を切り落とす忌まわしい行為を始めた。「血しぶきが噴き上がり、地面が真っ赤に染まった。」と、この光景を目撃した米国陸軍所属のプエルト・リコ人、バージリオ・N・コルデロ大佐は言った。

 この大量虐殺から生き残ったフィリピン人はわずか四人で、この恐ろしい話を今に伝えている。(P292)



上田敏明『聞き書きフィリピン占領』より

 前出『フィリピンの勝利』(Triumph in the Philippines)C・A・アンチェタは、マリベレスで二五人のフィリピン人兵士が銃剣の餌食になったと伝えている。日本人将校が眺めるのにうってつけなように、捕虜を木にくくり付け、殴り、ツバを吐きかけ、そして剌殺した。

 アンチェタによると、こうした嬲り殺しはマリベレスのみならず、別の地点でも降伏した部隊に対して行なわれた。半島西部オリオン山(四八九ノートル)山麓の八号道路にあった第一軍フィリピン陸軍第九一師団もそうだ。

 一〇日の深夜、師団は降伏命令を受け、定められた降伏地点へ向かい、徒歩で移動し始めた。途中、日本軍の車が後ろから隊列の先頭に追い付き、将校に止まるよう命じた。約四〇〇人の将校と下士官が残り、両手を縛られ、さらに戦場電話の通信線で一列の隊列につながれた。六号道路と二九号道路の交差する辺りまで歩かされ、近くの渓谷に沿って立たされた。

 日本兵たちは列の後部から銃剣で、日本軍将校は列の頭から日本刀で、捕虜を刺し殺しだした。虐殺は午後三時から始まり、五時過ぎに終わった

 またピラー町−バガック町間の道路(二〇号道路)では、第一一師団の捕虜の多くが生き埋めにされた。歩けない米比兵を埋めるよう、日本軍の軍医将校が命じたのだった。

 こうした捕虜の殺害は、前に触れた辻正信(「ゆう」注 「政信」の誤記)参謀の越権行為が主因だった。大本営の命令と称し、「米比軍投降兵を一律に射殺すべし」と辻参謀が口頭で各部隊へ命じたのだ。

 ただし全部の部隊が従ったわけでなく、例えば御田重宝が著した『バターン戦』によると、第六五旅団の第一四一連隊の隊長=今井武夫大佐や同旅団第一四二連隊の副官=藤田相吉大尉は、命令を拒絶している。

 個人の生命を優先したのか、国家からの命令を優先したのか。個人の戦争責任とは、ゆき着くところ、その人が戦時中いったい何を最優先に行動していたのか、ということではないだろうか。そして国家に強く帰属意識を抱き、国家を最優先に考えられる人は、いつの日か再び戦争に巻き込まれる可能性がある、といえるのではなかろうか。(P68)



 「バターン死の行軍」途上における四百人規模の捕虜殺害は、日本においてはあまり知られているとはいえません。しかし世界では、「死の行進」を構成する事件群の一つとして、明確に認識されています

 なお、以下のコンテンツで紹介する通り、日本の右派論壇では、「バターン死の行進」を否定もしくは正当化する言説が多く存在します。しかし彼等は、この事件の存在をほとんど無視していることを付け加えておきます。

(2014.1.12)


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