| "バターン死の行進"(�后� | パンティンガン川の虐殺 |
「バターン死の行進」それ自体は、結果として大変な「悲劇」になってしまったとはいえ、少なくとも「計画的な残虐行為」ではありませんでした。 しかしその「行進」の間に、上級からの「命令」に基づく400名規模の「捕虜殺害事件」が発生したことも事実です。事件は「パンティンガン川の虐殺」として知られ、戦後の戦犯裁判において、本間雅晴将軍に対する訴追理由のひとつともなりました。 以下、虐殺事件の概要を見ていきましょう。 ※本コンテンツに使用した各資料は、そのまま紹介するとあまりに長文となるため、こちらでは大幅にカットしています。 関連部分全体を確認したい方は、「バターン死の行進 「パンティンガン川の虐殺」資料編」をご覧ください。
「命令」が伝達されたのは、バターン戦が終了し日本軍が大量の捕虜を得た、1942年4月10日の昼頃と伝えられます。 命令を受領した記録としては、歩兵第百四十一連隊(福山)大隊長の今井武夫大佐、歩兵第百四十二連隊(松江)副官の藤田相吉大尉の回想が遺されています。
※余談ですが、「米比軍の投降者は、まだ正式に捕虜として容認されていないから」殺してしまってもいい、というのも無茶な理屈です。
今井武夫によれば、第十独立守備隊にも同様の命令が届いています。
いずれも「第六十五旅団」(旅団長奈良晃中将・通称「夏」部隊)司令部からの直接命令です。しかし三部隊は、この無茶な命令に、三者三様の「サボタージュ」を試みました。 今井大佐は、「口頭命令」ではなく「正規の筆記命令」を要求しました。
そして、それでも「殺害」命令が来た時に備え、今井は捕虜を独断で釈放してしまいます。
また藤田大尉は、電話口で即座に命令を拒絶しました。
当然ながら、「命令絶対」の日本軍の軍系統において許される行為ではありません。さすがにこの正面きっての「抗命」には、周囲も不安を隠せなかったようです。
結果としては、三部隊とも、「虐殺」の実行者になることを免れました。 今井大佐のもとには「筆記命令」は到着しませんでした。 また藤田大尉へは、都渡参謀から「命令取消」の電話が入りました。
第十独立守備隊の方は、いささか混乱します。この乱暴な命令を実行すべきかどうか。どうしていいかわからないままに数日が経過します。 その間に、神保は本間第十四軍司令官に直接確認に赴きました。それでようやく「ニセ命令」であることが判明、守備隊は「虐殺実行部隊」の汚名を免れることとなりました。
さて、この無茶な命令の出所はどこか。 今井武夫の回想には「辻(政信)参謀」の名が、はっきりと登場します。
どうやら、辻参謀の「独断命令」を「第六十五旅団」の司令部が受け入れ、麾下の各部隊にそのまま伝えてしまった、ということであるようです。藤田相吉大尉もそのように観測しており、また今日の「定説」にもなっています。 「シンガポール華僑虐殺」に続き、またもや「辻政信」の登場です。太平洋戦争初期において辻が日本軍の「戦争犯罪行為」をどれだけ助長してしまったのか。慄然とせざるを得ません。 ちなみに辻は、「第六十五旅団」以外の司令部にも「命令」して回ったようですが、相手にされなかった、という記録もあります。
ここに名が出た和知鷹二参謀長は、「マニラ裁判」で、辻の「命令」について証言しています。大谷の記述の傍証となるでしょう。
なお辻自身は、自分の回顧録などでは、このような「越権命令」を行ったことに完全に頬かむりしているようです。
しかし既に見てきた通り、軍の組織命令系統において、「命令」へのサポタージュは、決して容易なことではありませんでした。特に第六五旅団の場合、「捕虜殺害」は旅団からの「正式命令」でしたから、むしろこのように多くの部隊が「サボタージュ」に成功したことに驚くべきかもしれません。 そして今井は、この「命令」を実行してしまった部隊が存在したことに触れています。前の文を再掲します。
「第六十五旅団」は、歩兵第百十四連隊(福山)、歩兵第百四十二連隊(松江)、歩兵第百二十二連隊(松山)の三連隊を中核に構成されます。 上述のように、このうち歩兵第百十四連隊、歩兵第百四十二連隊は「サポタージュ」に成功しました。しかし、今井は「某部隊」という表現で名指しを避けていますが、どうやら最後の歩兵第百二十二連隊が、命令通りの「虐殺」を実行してしまったようです。 被害者側の記録としては、数少ない「生き残り」であるペドロ・フェリックスの回想がよく知られています。ノーマン『バターン死の行進』は、主としてフェリックスの回想から「事件」を再構成しています。
※「ゆう」注 鷹沢のり子『バターン「死の行進」を歩く』にも、フェリックスの、ほぼ同趣旨の証言が収められています。(「パンティンガン川の虐殺・資料編」参照)ノーマンは、はっきりと「第六十五旅団」を「犯人」に指名しています。 これに対応する日本側証言は、私の知る限り、今井回想以外には存在しません。しかしノーマンは、「第百二十二連隊」に所属していた3名の兵士のインタビューに成功したようです。 ※「ゆう」注 ノーマン書の巻末の「謝辞」に、「ロンドン・タイムズ社に勤めた経験のある大軒京子さん」の協力を得て、「二二人の日本人」にインタビューすることができた旨が記されています。その「二二人」のリストの中に、以下の3名の名も登場します。
なお重田氏へのインタビューについて、ノーマンは、序文「日本の読者の皆様へ」の中で、こんなエピソードを披露しています。
以上、ノーマンによる三人の元兵士へのインタビューを紹介しました。 数十年前の出来事の回想ですので、細部がどこまで正確かはわかりません。しかし少なくとも、この三人の元兵士が、「事件」を実行もしくは目撃したことは間違いない、と見ていいでしょう。 最後に、アメリカ、フィリピンの歴史概説書の「認識」をまとめておきましょう。
「バターン死の行軍」途上における四百人規模の捕虜殺害は、日本においてはあまり知られているとはいえません。しかし世界では、「死の行進」を構成する事件群の一つとして、明確に認識されています。 なお、以下のコンテンツで紹介する通り、日本の右派論壇では、「バターン死の行進」を否定もしくは正当化する言説が多く存在します。しかし彼等は、この事件の存在をほとんど無視していることを付け加えておきます。 (2014.1.12)
|