"バターン死の行進"(掘 サンフェルナンドからオドンネルまで


「バターン死の行進」

1.マリベレスからバランガまで ―食糧なき行進―
2.バランガからサンフェルナンドまで ―徒歩行進は続く― 
3.サンフェルナンドからオドンネルまで ・・・本稿
4.オドンネル収容所にて
5.パンティンガン川の虐殺
6.「否定」する側の視点 仝従豐愀玄圓両攜
7.「否定」する側の視点◆ ̄η貧醒鼎任痢嵌歡袁澄





 列車輸送


 さて、サンフェルナンドに至り、ようやく捕虜たちは「徒歩行進」から解放され、「列車輸送」に与れることになります。しかしそれは、「快適な」移動とは程遠いものであった、と伝えられます。


 サンフェルナンドからカパスまでの「列車輸送」について、捕虜たちの証言はほぼ共通しています。

 まずは、定員大幅オーバーの「詰め込み」です。


レスター・I・テニー『バターン遠い道のりの先に』

サン・フェルナンドからカパスヘ、貨車で

 私たちは小さな貨車に追いこまれた。普通なら10匹の動物か、人間なら多分25人か30人を乗せる列車に、80人から一〇〇人の人間がぎゅう詰めになった。 全員が同時に座るだけの十分な空間がなかったので、かわるがわる座らなければならなかった。列車から足を突き出しても残りの者たちに十分な空間はなかった。(P107)



マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 駅には貨車数台が停車していた。車両は「フォーティ・アンド・エイツ」と呼ばれるフランス製だった。その内部は狭く(長さ約七メートル、高さ二メートルあまり)、人員四〇人、または騾馬か馬八頭を運べる程度だった。

 ところが、この金属と木でできた古めかしい貨車に、日本軍は捕虜一〇〇人以上を押しこむつもりだった。捕虜たちはすし詰めの状態になり、扉を勢いよく閉められたあと、息苦しい闇に包まれた。(P310)



ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 ⊂困訛斥

 捕虜たちは、第一次大戦中のフランス40型と8型によく似た有蓋貨車の中に追い立てられた。一台の小さな貨車に百人以上も詰め込まれた。(P251)




 当然「空調」などついていません。暑さと窮屈さは耐え難いものでした。

テオドロ・A・アゴンシリョ『運命の歳月』第一巻


 自由に動ける隙間もなかった。一度体の位置を取ると、もはやその位置を変えることはできなかった。こうした窮屈な状態を和らげるため、男たちは順番に場所を交代することに意見が一致した。一時間ほど座っていた者は、立ち上がり、座っている他の者に脚を仲ばす機会を与えた。

 靴が、「その中いっぱいに汗をかき、ぐしょぐしょになった」ほど、貨車の中は暑かった。日本軍の監視兵は、カパスまでの三時間の道のりの間、それぞれの停車駅で、不意に思い出したかのように貨車の扉を開け、捕虜たちに車外の新鮮な空気を吸い込む機会を与えた。(P304)



 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 監視兵に背中を押され、ペン・スティールは列車に乗りこんだ。夜明けとともに、日本軍はサンフェルナンドのあちこちの一時待機所から捕虜を引き連れ、鉄道駅へと追い立てた。

(略)

 すでに日が高くなり、車内の温度は上昇していた。真っ暗ななか、暑さと息苦しさによって何人かが自制心を失い、目の前の者を引っかいたり、殴ったり、つかんだりして、車内の真ん中から壁ぎわへ移動しようとした。よろい板に隙間があれば、新鮮な空気を吸えると思ったのだ。

 車内の真ん中では気を失う者が何人もいた。死ぬ者も少なくなかった(捕虜がびっしり詰めこまれ、隙間などなかったので、目的地に着くまでの三時間、死者はその場に立った格好のままだった)。(P311)




 「詰め込まれた」列車の中に、たまたま赤痢患者がいた場合は、輪をかけて悲惨でした。


テオドロ・A・アゴンシリョ『運命の歳月』第一巻


 赤痢を患い、未だわずかに命脈を保っていた者は、便意をもよおすと所構わず排便した。そのため、車内の環境をさらに悪化させた。多くの者が気を失った。身体的衰弱状態にあったことから、立ったまま、あるいは、座ったままで死に絶える者もあった。(P304)



ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 ⊂困訛斥

 赤痢にかかった者はがまんできなかった。仲間の上にへどを吐いた者もいた。列車がカバスに向かって北へゆっくりと動き出すころには悪臭はもはや耐えられないほどであった。

 ある者は押しつぶされて死んだが、ぎっしり詰め込まれているため立ったままの状態で死んでいた。(P251-P252)



 ちなみにこの光景は、泰緬鉄道建設のための「捕虜輸送」と共通するものがあります。日本軍にとっては、こんな過酷な輸送方法が「常識」だったのかもしれません。


日本経済新聞出版社刊 『「BC級裁判」を読む』より

(1943年6月、泰緬鉄道建設のための捕虜輸送)

 輸送は家畜並みの扱いだった。ある捕虜の大尉は「列車の床は約五・九×約二・五メートルの有蓋列車で、二十七人が詰め込まれた。便所も洗面施設もなかった」と話している。

 別の捕虜は「多くの人々が赤痢を患っていたので、貨車の状態はすさまじいものがあった。小便をする唯一の方法はドアからぶら下がってすることだった」という。

(執筆:井上亮=日本経済新聞編集委員)




 ともあれ、3〜5時間のつらい「乗車体験」のあと、捕虜たちはカパスに到着します。そしてそこから徒歩で約14キロ、捕虜たちはようやく最終目的地であったオドンネル収容所に到着しました。




 「事件」の総括 『世界戦争犯罪事典』より


 本サイトでは、この事件に限らず、あちこちで『世界戦争犯罪事典』の記述を紹介しています。編者は秦郁彦氏等の「保守派」が中心ですが、事実関係が概ね適切に要約されており、また「評価」も比較的公正であると思われるからです。

※念のためですが、「事実」を直視しようとせず、むやみに「日本の戦争犯罪」を否定したがる方にとっては、我慢のならない本であるかもしれません(笑)

 ここまでのとりあえずの「総括」を行うために、例によって、まずは『世界戦争犯罪事典』の記述を見ていきましょう。この部分の執筆者は、原剛氏です。


『世界戦争犯罪事典』より

大量死を招いた諸要因

 いわゆる「パターン死の行進」の責任が追及されたのは、戦後になってからの戦犯裁判であった。しかし、この事件が日本軍の意図的・計画的行為ないし重大な怠慢によるものであったとは必ずしも言いがたい

 コレヒドール島攻略戦をひかえた第一四軍としては、その作戦準備や彼我砲撃戦の被害を避け、さらに食糧が少なくしかもマラリア発生地であるパターン半島内に、多数の捕虜を留めておくのは不適切と判断して、中部ルソンの収容所へ移送したのである。捕虜条約も、捕虜の危険地域からの後送を命じているので(第七条)、この措置は正しい。

 しかし、このことが事件の第一要因であるが、以下に日本側からみたいくつかの弁明を列挙しておきたい。

 第二の要因は、米比軍の降伏が意外に早く、しかも予想外に多数の捕虜が出たため、給養・衛生・輸送・収容施設などの準備が不十分だったことである。

  第一四軍は、第一次パターン戦の失敗から、第二次パターン戦の総攻撃準備に全力をあげていたので、捕虜の受け入れ準備をする余裕 がなく、また、米比軍がわずか一週間で降伏(第一四軍は約一ヵ月と見積もっていた)するとは予想しなかった。しかも当初予想の約四万人をはるかに上回る七万人余が、多数の避難民とともに降伏したのである。

 戦闘継続中の治安不安定、交通途絶などのため食糧の集積と輸送がはかどらず、日本軍自身の食糧も減量されていたので、捕虜の食糧も減量された。特に肉類、野菜類などの副食物が不足し、栄養が不足したのはたしかである。 行進中は、炊き出しを実施し護送の日本兵も捕虜と同じ食事をした。

 何よりも給水の不足は、捕虜たちに最大の苦痛を強いることになった


 日本軍の衛生部隊の編成・装備は貧弱で、医薬品特に抗マラリア剤は少なく、日本軍自身にも多数のマラリア患者が発生し、捕虜患者にまで行き渡らなかった。また、第四、第一六師団の野戦病院および第七五、七六、九六、一一、六の各兵站病院が開設されたが、いずれも日本兵の患者で超満員となり、捕虜患者を収容する余裕がなかった。

 輸送部隊としては第三野戦輸送司令官の指揮下に独立自動車大隊三個、独立自動車中隊三個があったが、コレヒドール作戦の準備や第一六師団の南部ルソン、第六五旅団の北部ルソンヘの転進に伴う軍需品輸送などに使用され、捕虜の輸送に使用する余裕がなく、捕虜輸送には二〇〇台のトラックしかまわせなかった。(P136-P137)

 第三の要因は、日本軍と米比軍の文化の違いであった。日本軍の移動は徒歩が原則であったが、当時の米比軍は車両によるのが当たり前であり、徒歩行進に不慣れであった。

 第四の要因は、米比軍が投降時すでに栄養不良、マラリア、赤痢などに罹病するなど、平均して健康状態が不良だったことである。食糧や医薬品が欠乏した状態で、三ヵ月余りもパターン半島に立てこもった米比軍の作戦自体が、犠牲者をふやしてしまった。

 第五の要因は、日本軍の捕虜に対する蔑視観念である。日本軍人は「戦陣訓」により捕虜になることを恥と教えこまれ、同じ日本軍人でも捕虜になった者を軽蔑した。このような日本兵が、恥じるようすもなく捕虜になった米比軍将兵を見て軽侮の念を抱いたのは自然であった。

 国際法に基づく取扱いを要求したり抗議する者には、「捕虜のくせに生意気だ」と殴打などの暴行や残虐行為が加えられた。栄養失調、マラリアなどで行進に遅れる者も、怠け者として似た仕打ちが加えられた

 ジョン・トーランドは意図的、組織的に行なわれたものではないと述べているが、いずれにせよ、以上のような諸要因から多くの死者が発生したことは事実であり、英米通として著名だった本間軍司令官が実情に適合した処置を工夫する余地がなかったか、との思いは捨てきれない。

 その後、アメリカ兵捕虜は、五月よりオドンネル収容所からカバナツアン収容所に逐次移送され、フィリピン兵捕虜は六月以降、身元確実な者から逐次釈放され、翌年一月までに全員が釈放された。(P137)



 原氏は「南京事件」では、「被害者数約1万人」という、どちらかといえば「少数説」の見解に立ちます。氏のスタンスは、「防衛研究所戦史部調査員」という肩書からも窺える通り、ある程度「日本軍寄り」と言えるかもしれません。

 上の文では、「要因」の「第一」から「第四」までを「やむえなかった理由」で埋め、ようやく「第五」に「捕虜に対する蔑視観念」「残虐行為」が出てくる、という構成になっています。(ただし上の書きぶりを見ると、「殺人」まで至ったかどうかについては、原氏は判断保留しているようです)

 私見では、原氏は「第五」を軽視しすぎているようにも思われますが、それでも「残虐行為」に触れ、「本間軍司令官が実情に適合した処置を工夫する余地がなかったか」と「日本軍の努力の余地」を認める形となっています。



 さて以上、主として「被害者側証言」によって、事件の経緯を見てきました。

 本サイトで取り上げて来た数々の「戦争犯罪」事件(南京事件、シンガポール華僑粛清、マレーシア華僑虐殺、平頂山事件など)では、「被害者側証言」に加えて「加害者側証言」もかなり揃っており、双方を比較検討してより正確な「事実」に接近することが可能でした。

(念のためですが、これらのサンプルでは、どちらかといえば右派、保守派の論客も、「加害者側証言」を積極的に発掘しています。おそらく「被害者側証言」の誇張を許さない、という動機からでしょうが、その結果として、「加害者側もここまでは認めている」という最低ラインを確保することができるようになっています)

 ただこの「バターン死の行進」については、このような「加害者側証言」の発掘がほとんど行われていません。後で見るように、「残虐行為」の存在すら認めない、明らかな「タテマエ証言」が多数となっています。

 その意味で、「被害者側証言に誇張がないか」という点については、議論の余地があるかもしれません。また「後日の回想」ですので、細部までの正確さを求めることは困難でしょう。こちらでも、「被害者側証言」をかなりの程度割り引いて紹介していることをお断りしておきます。

 しかしここまで多種多様の証言が残っている以上、どんなに控え目に見ても、日本軍側が、「殴る」「銃剣などで突き刺す」といった「残虐行為」を、かなりの規模で行ったことは否定できそうにありません。




 次の章では、捕虜たちがようやく到着したオドンネル収容所の悲惨な実態を取上げます。これについては、少なくとも事実関係については、日本軍側、被害者側で、争いはほとんどありません。

(2014.1.26)


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