"バターン死の行進"(此 「否定」する側の視点
現場関係者の証言


「バターン死の行進」

1.マリベレスからバランガまで ―食糧なき行進―
2.バランガからサンフェルナンドまで ―徒歩行進は続く―
3.サンフェルナンドからオドンネルまで
4.オドンネル収容所にて
5.パンティンガン川の虐殺
6.「否定」する側の視点 仝従豐愀玄圓両攜   ・・・本稿
7.「否定」する側の視点◆ ̄η貧醒鼎任痢嵌歡袁澄




 ここまでのところで、要点をざっとまとめておきます。



1.捕虜は、投降時、長期の食糧不足により栄養失調状態にあった。かつ、マラリアなどの疫病も蔓延していた。また彼我両軍とも「食糧不足」の状態にあった(これ自体には、日本軍に責任はない)。

2.日本軍は、「捕虜の栄養失調状態」「マラリアなど疫病の蔓延」という状況に、全くといっていいほど配慮を行わなかった。「捕虜を人道的に取扱う」という方針が明確にあったのであれば、例えば、行進速度を無理のないものにする、可能な限り食糧を運搬し供給する、という方法も考えられかもしれないが、上層部は「バターン戦」に続く「コレヒドール攻略作戦」でそれどころではなく、また現場は「計画通りの捕虜輸送」に拘るばかりで、結局捕虜にとって過酷な行進が強行された。

3.「計画通りの捕虜輸送」への拘りは過剰ともいえるもので、捕虜が渇きに耐えかねて列を離れることすら許さない例が多数あった。さらに「捕虜への蔑視感」が、現場における捕虜の取扱いを過酷なものにした。 特に脱落者に対しては過酷で、飢えと渇き、疲労、マラリアなどのために列を乱す捕虜がいれば、殴打、銃剣を突く、場合によってはそのまま殺してしまう、という「残虐行為」も少なからず見られた

4.さらに「パンティンガン川の虐殺」のような、400名規模の捕虜集団虐殺事件も発生した。

5.やっとのことで到着したオドンネル収容所は、水不足・食糧不足・衛生材料不足という捕虜にとっては最悪の環境
で、万を超える多数の死者が発生した。

※念のためですが、既に触れてきた通り、日本軍の捕虜取扱方針は事実上「現場任せ」になっていましたので、「楽な行進」を経験した捕虜も多数存在しました。しかしそのような「幸運な」捕虜の存在を強調したところで、上に触れたような「日本軍の責任」は帳消しにはなりません

 2−5さえなければ、状況から推してある程度の「悲劇」は免れなかったとしても、ここまで「バターン死の行進」が問題にされることはなかったでしょう。日本軍の失態、と言わざるをえません。

 以上を前提に、現場の将官による「否定論」、また現代の論壇における「否定論」を見ていきましょう。





 「事件」を知らない


「バターン死の行進」を、現場の第十四軍関係者はどのように見ていたのか。

 総じて、現場関係者は、

1.「事件」そのものを明確に認識していない。

2.「事件」を認識していても「日本軍側にも責任がある」とは考えていない。

 このどちらかのスタンスをとっているように思われます。




 フィリピン戦線の最高指揮官であった本間雅晴第十四軍司令官は、明らかに1のスタンスでした。

本間雅晴『私の"死の行進"日記』

(1945年)九月十八日(火)

 今のところ私の罪名はバターンの俘虜七万余名を飲食を与えず炎天に遠い収容所まで行軍せしめ、そのため多数の死者を出したというのである。我軍の総兵力に匹敵する俘虜を歓待し又は自動車で輸送する事は、食糧事情と輸送力との関係上不可能で、これ以外手がなかったのだ

 法廷にはこの外私の知らぬ罪科もあるかも知れぬ。私はこの罪科すらAP記者に聞くまでは気がつかなかった。(P4)

(『週刊朝日』1952年5月25日号所収)


 本間将軍は「死の行進」で戦犯として訴追されました。しかし何で訴えられたのか、「記者に聞くまで」気が付かなかった、というのです。

 もちろん「残虐行為」についても、全く認識がありませんでした。マニラ法廷でのやりとりです。


マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


問 ・・・あなたは軍司令官としてフィリピンにいた。その行進中に死者が出たことについて、報告はまったくなかったのですか。

答(本間将軍) あったかもしれませんが、明言することはできません。

問 ・・・多くの残虐行為がありました・・・捕虜は、殴られ、銃剣で突かれ、銃で撃たれました・・・これは、あなたが攻略前に発表した捕虜虐待計画を実行したものだと思いますか?

答 残虐行為については、この法廷で初めて知りました。そして、そういう残虐行為が実際にあったとすれば、私は自分を恥ずかしく思います(P530)



 余談ですが、本間将軍は、リベラルな「親英派」として知られていました。バターン攻略に際しても、捕虜の待遇について、「友愛の精神をもち、虐待しないよう」全軍に命令していたと伝えられます(ノーマン『バターン死の行進』P521)

 しかし「命令」は末端まで浸透せず、結局本間は、自分が知らない「犯罪」で「死刑」という厳罰を受けることになりました。本間に対する世間の同情は根強く、例えば火野葦平は、こんなことを書き記しています。

火野葦平『革命前夜』より

第三十六章

 「ゼネラル・ホンマか罪を問われた『バタアン死の行進』のときには、君もいたわけですね。どんな感想かありますか」

 「ずっとはじめから終わりまでいまして、事情をよく知っております。この二月、マニラで行なわれました本間中将の裁判で、本間さんが死刑に処されたことを、私は残念に考えております。この当時のバタアンの事情について、ここで申しのべますことは、あまり煩雑に、また長くなりますから省きますけれども、 結論として、私は、『バタアン死の行進』については本間雅晴将軍になんの罪もなく、本間さんが鬼畜と称せられていることは当たらないと考えます。

 本間さんは立派な人で、部下はもちろんのこと、フィリピン人たちからも尊敬され、慕われておりました。本間さんが軍司令官の任を解かれて帰国するときには、比島人たちは、ぜひフィリピン総督になって、もう一度来て欲しい、と多くの者が心からそれを望んでいたくらいです」

(『火野葦平兵隊小説文庫9』 P340)


 ここまでたびたび触れて来たノーマン『バターン死の行進』も、「彼は、有能で、明敏で、深みのある人物だった。ともに戦った部下たちを愛し、自らの指揮の結果である甚大な損失を深く悲しんだ」(P10)と本間将軍に大変同情的で、最終章の全ページを本間に関する記述で埋めています。



 いずれにしても、軍のトップにさえ「事件」の情報が伝わっていなかった、というのは、いささか異常な事態でしょう。軍にとって「捕虜の取扱い」はほとんどどうでもいいことであった、という事情を伺わせます。





 「知らなかった」のは、本間ばかりではありません。本間将軍麾下第十四軍の作戦部将校の認識も、似たようなものでした。


寺下辰夫『サンパギタ咲く戦線で』

 この「死の行進」という問題にたいする軍当局の受け取り方にも、当時として、かなり軽視していた点があったことはいなめない。

 つまり、アメリカはじめ連合国側かどう感じ、どうこれを受けとるかという点に就いて、単純に考えていた傾向が多かったのだ。

 第十四軍の作戦参謀部付の将校たちは、

なアに、例によって、アメリカ式の大ゲサな文句だから、いいたければ勝手にいわせておけだ。 要するに、"ひかれ者の小唄"というもので、放っておけだ。むこうが"死の行進"ならば、こちらの兵士にとっても"死の行進"なのだから、そんな文句をいわれてたまるかい。それよりもだ、 水筒一つで身軽なアメリカ俘虜にくらべると、銃剣や重い背嚢をかついで、それを護送した日本兵のほうが、どのぐらい辛い行進だったか知れないので、日本兵の方にとってこそ"死の行進"であったことになるではないか・・・」

 といって、このアメリカ側の世界放送を、一笑にふして、何ら気にしていなかった。(P227)

 まして、これらの「死の行進」ということが、後日になって、本間雅晴最高指揮官を処刑させる、よき口実の一つとなろうとは、彼ら参謀たちは、夢にも思わなかったところである。(P228)



 福山歩兵第百四十一連隊長であった今井大佐も、同様の認識です。『支那事変の回想』より、関連部分全文をそのまま紹介します。


今井武夫『支那事変の回想』  

 バターン半島の戦闘に終始したわが夏兵団は、新たに中部ルッツ島の戡定(かんてい)作戦のため、再び北方に反転することとなったが、四ヵ月に及ぶ密林の露営生活は、食糧の補給雑と相俟って、将兵の体力を全く消耗し尽していた。

 その上不幸な事には、敵陣地を占領した途端に、皮肉にも敗走した米比軍が、今まで悩んでいた悪性のマラリヤやデング熱の病菌に汚染した地域を通過するため日本軍に伝染し、まるで敗退軍の復讐かのように重症患者が統出し、大半の将兵が罹病したが、新任務は一日の猶余も許さず、休養の暇もなかった。

 われわれは再び四十度の炎天を冒し、南部サンフェルナンドまで、舗装道路を徒歩で六十数粁行軍せねばならなかった

 窮余の一策として毎日午前二時に宿営地を出発し、二十粁の行程を遅くも午前十時頃迄に、目的地に到着するよう、行軍計画を樹てたが、落伍兵を激励しながら、行軍するのは、全く容易でなかった。

 然るにわれわれと前後しながら、同じ道路を北方へ、バターンで降伏した数万の米比軍捕虜が、単に着のみ着のままの軽装で、飯盒と水筒の炊事必需品だけをブラ下げて、数名の日本軍兵士に引率され、えんえんと行軍していた

 士気が崩れ、節制を失っていた捕虜群は、疲れれば直ちに路傍に横たわり、争って樹蔭と水を求めて飯盒炊事を始める等、其の自堕落振りは目に余るものがあった。

 しかし背嚢を背に、小銃を肩にして、二十瓩の完全武装に近いわれわれから見れば、彼等の軽装と自儘な行動を、心中密かに羨む気持ちすらないとは言えなかった。

 戦後米軍から、バターン死の行進と聞かされ、私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて、この時の行軍の実状を調査されたが、始めはテッキリ他方面の行軍と間違えているものと考え、まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった

 米軍は戦時中国民の敵慨心を昂揚するため、政略的に死の行進を宣伝し、戦闘で疲労した将兵に自動車を提供せず、徒歩行軍を強制したのは、全く日本軍の惨酷性に基づく非人道行為の如く罵声を放ったものである。

 明らかに日本軍の当時の実情に目を掩って、曲解したものと言わねばならない。(P185)

 しかも彼等が撒いた宣伝の結果は、無理にも刈り取ることが、政策的に必要とされた。

 その上比島の捕虜は、ルソン島中部のオードネル捕虜収容所に収容されてから、バターンの戦闘間流行した熱帯病或いは食糧不足のため生じた栄養失調で、病死者が多発した事も米軍が誤解する原因となったかも知れない。

 何れにしても、この為め日本軍から、軍司令官本間中将が、マニラ軍事法廷で其の責を問われたことは周知の通りだが、別に輸送の責任者として河根兵站監やその部下の平野兵站司令官が、横浜軍事裁判で、死刑の判決を受け、戦争犠牲者として一命を捧げたことは、誠に痛恨に堪えない。(P186)



 既述の通り、今井大佐は「パンティンガン川の虐殺」の存在に言及するなど、日本軍に不利なことであっても事実は事実として認める、というスタンスです。ですので、ここでの「まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった」「明らかに日本軍の当時の実情に目を掩って、曲解したもの」というのは、今井大佐の掛け値のない「本音」でしょう。

 今井大佐ですら、現場の悲惨な状況を十分認識していなかったようです。 またかなりの「残虐行為」が行われていたことにも、気が付いていません。



 念のためですが、以上のような頼りない認識を「なかった」論拠にしてしまう一部論者の議論は、暴論、としか言いようがありません。「南京事件」を知らなかった、という元兵士の証言をことさらに採り上げて、無理やりに「南京事件はなかった」という結論を出そうとする、一部否定派の粗雑な「論理」と同レベルのものです。

 行軍の悲惨さ、また、行軍中及びその後の収容所での大量の死者発生は、間違いなく事実でしょう。問題はむしろ、「彼らがなぜそれを認識できなかったのか」という点にあります。




2  日本軍に責任はない


 戦後になってから米比側の情報で知ったのかもしれませんが、「悲劇」を認識していた軍幹部も存在しました。ただし多くは、「日本軍に責任はない」とのスタンスをとります。

 和知鷹二参謀長の証言を見ます。

戦史叢書『比島攻略作戦』より


注 「死の行進」に関し和知参謀長は、要旨次のように述べている。


 元来バタアン半島はマラリヤのはびこる地帯である。それだけに敵味方ともマラリヤにかかり、その他にデング熱や赤痢に倒れる者もあって全く疲れていた。

 バタアンの米比軍の捕虜は五万であったが、その他一般市民で軍とともにバタアンヘ逃げ込んだのが約二〜三万は数えられ、合計八万に近い捕虜があった。 一月から四月まで、かれこれ三ヵ月半も、バタアンの山中にひそんでいたためほとんどがマラリアその他の患者になっていた。

 その彼らを後方にさげねばならなかった。なぜなら軍にはまだコレヒドール島攻略が残っていだからである。

 捕虜は第一線から徒歩でサンフェルナンドヘ送られた。護送する日本兵も一緒に歩いた。水筒一つの捕虜に比し背嚢を背負い銃をかついで歩いた。

 全行程約六十数粁あまり、それを四〜五日がかりで歩いたのだから牛の歩くに似た行軍であった。疲れきっていたからである。

 南国とはいえ夜になると肌寒くなるので、日本兵が焚火をし、炊き出しをして彼等に食事を与え、それから自分らも食べた。通りかかった報道班員が見かねて食料を与えたこともある。

 できればトラックで輸送するべきであったろう。しかし貧弱な装備の日本軍にそれだけのトラックのあるはずもなかった。次期作戦、すなわちコレヒドール島攻略準備にもトラックは事欠く実情だったのである。

 繰り返していうが、決して彼らを虐待したのではない。もしこれを死の行進とするならば、同じく死の行進をした護送役の日本兵にその苦労の思出話を聞くがいい。

 むろん道中でバタバタと彼らは倒れた。それはしかしマラリヤ患者が大部分だった。さらにもう一つ付け加えれば、 彼らはトラックで移動することを常とし、徒歩行軍に馴れていなかったことである。つまリ機械化された軍隊と、そうでない軍隊との違いだ。といって機械化されていなかったことを自慢するわけではない。

 彼らはサンフェルナンドに着くと、そこから汽車で中部ルソンのオードネル捕虜収容所に送られた。そしてそこにたどりついてから、気がゆるんだのか息を引きとった捕虜が多かった

 私はこの情報に接し心から気の毒に思った。そしてコレヒドール陥落後、本間軍司令官の代理としてオードネル収容所に駆けつけ、無名戦士の墓に花輪を捧げ、日本策としてせめてもの供養をしたものだ。(P432-P433)

 また本間中将は比鳥人捕虜は現地で釈放した。ともかく軍としてはあの条件下でありながら、できるだけのことはしたつもりである。だのに本間中将はバタアンの死の行進を主な罪状とされ、戦後銃殺刑に処せられたのである。(P433)




 今井大佐と異なり、和知は捕虜が「道中バタバタと」倒れたことを正しく認識しています。しかし、捕虜の「飢えと渇き」、「マラリヤ患者」を無理やり歩かせたことの責任、そして日本兵の「捕虜虐待」にまで思いが至らなかったのは、和知の限界である、と言えるでしょう。

 しかしそれにしても、オドンネルでの捕虜大量死を、収容所の劣悪な環境に頬かむりをして、「気がゆるんだのか」の一言で片づけるのは、いかにも乱暴です。これでは、死亡したのが捕虜の側の責任であるかのように錯覚します。

 なお和知は、戦後まもない時期、本間将軍の「マニラ裁判」で証人に立ちましたが、その時は「事件」の存在を否定していたようです。

マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


問 路上に死体があるのを見ましたか?

答(和知鷹二参謀長) いいえ、全く見ませんでした。

問 行進中の捕虜に対する日本兵の残虐行為について報告を受けたことがありますか?

答 いいえ、いっさい聞いていません・・・。(P521)

問 行進中の捕虜の死亡について報告を受けたことがありますか?

答 死者が出たことはあとから聞きました。

問 人数は?

答 記憶していませんが、多くはありませんでした。

問 参謀長として、捕虜の処刑について報告を受けたことがありますか?

答 処刑はありませんでした。



 和知は法廷では、本間を助けるため、知らぬ、存ぜぬの「タテマエ証言」を押し通したわけです。



 もう一人、今井と同じく辻正信の「捕虜殺害命令」を拒絶した、第百四十二連隊副官、藤田相吉の証言も見ましょう。

藤田相吉『ルソンの苦闘』

六 所謂"死の行軍"

 後日、「バタアン」半島死の行軍として、悪名高く、軍司令官本間中将が極東裁判で銃殺到に処せられた"罪科"の一つに挙げられたそれが此の米比軍捕虜の大移動だ。然し、それは極東裁判の誤りである。米比軍がこの捕虜の移動を"死の行軍"ならば、戦勝軍たる日本軍移動の為の行軍は"超死の行軍"だ。

 斯くして捕虜の大行進は、中部ルソンの「オードネル」に向う。

 一体、米比軍は、持てる弾丸を撃ち尽し、持てる食糧を食い尽す迄は頑強に抗戦し、之が尽きれば平然として手を挙げる。降伏すれば、其の時から日本軍は吾々を給養する義務がある。とうそぶいている。 日本軍の思想を持ってしては到底考えられない。虫のよい考えである。国際条約があったとしても、日本軍は斯くも多数の捕虜が密林中から出るとは予想していない。(P90-P91)

 従って、糧食や医療の材料も輸送の機関も収容所の準備もないのだ。なぜ糧秣の余裕のあるうちに、降伏しないかと言い度い。

 昨日の敵は、今日の友、可愛そうだという気持ちは充分感じても、戦死した戦友のことを思うと憐憫の情は消える。已むを得ないことだ。日本軍はそれ以上に苦労しているのだ。狹然だ″という感情しか湧かない。(P91-P92)

 我々は今戦闘中なのだ。 「コレヒドール」の敵は未だ降伏していないではないか。しかも、現に捕虜群と並列して進む日本軍の姿を見よ。重い装具をつけて喘ぎ乍ら進んでいるではないか。

 貴様等に散々射たれ肉体的にも、精神的にも、言語に絶する苦難に堪えた日本軍だ。 出来れば背負える背嚢も貴様等に負わせてやり度い位だ。貴様等を軽装で行軍させるのが寧ろ慈悲だと思えと言い度い。戦勝軍が戦敗軍以上の苦しみを音味わわねばならん理由はないのだ。(P92)




 後日、米国は、この大行進を、"バタアン死の行軍″と称して、真珠湾の奇襲と共に、国民の対日敵慨心を煽って、戦意昂揚のキャッチフレーズとした。(P93-P94)

 日本軍とて、万国捕虜条約を知らぬのではない。然し、当時の状況上、日本軍としては、精一杯の処置をしたものと思う。

 某参謀の"捕虜を認めず"の言も、この場合、輸送、給養の面から、捕虜は、少ない程よく、相成るべくは、皆無が望ましい考えから出たのかも知れない。

 終戦後、米軍は比島派遣軍司令官本間中将を、比島迄引っぱって来て「ロスバニオス」で銃殺した。その第一の罪科といわれる所謂"死の行軍″は、状況上真に已むを得ないことであった。ひとリ本間中将一部の将校の罪ではない。強いてこの罪を問うならば"戦争"を罪せよと言い度い。(P94)



 「なぜ糧秣の余裕のあるうちに降伏しないか」 ― 藤田に限らず、現場関係者証言の多くに見られる「感想」です。報道班員の寺下辰夫も、同じように記しています。

寺下辰夫『サンパギタ咲く戦線で』


 バタアン半島の米比軍の抵抗は、敵ながら勇敢に頑張ったことは賞されるべきであるが、その反面においては、その投降時期が、あまりにも遅すぎたために、必要以上に多くの米比兵を苦難な行進に追い込んだことも、慥(たし)かな事柄である。

 してみると、前にものべたように、 この「死の行進」は、厳密にいうならぱ、こちらの輸送力や食糧不足にも、落度とその悲劇があるけれども、それ以上の原因をつくったのは、またアメリカ軍自身であった

 だから、この「死の行進」ということを喧伝するのは、自分らの作戦上のミスの責任を敢えて日本軍にのみ全部押しつけた"虚偽の報道"ともいえるだろう。

 しかも、日本軍の軍用トラックや、ガソリンの欠乏によって、余儀なく、徒歩で日本兵と行進したという事実を歪めて誇大に宣伝して、日本軍、及び、その最高司令官の本間雅晴将軍の残虐行為として世界に大々的にPRしたのは、なんとしても承服できない事柄である。

 まだ戦闘が休止しない戦時中は、まだしも「対敵宣伝」として甘受するとしても、日本が降伏した暁にも、このバタアンの「死の行進」の責任者として、本間中将に冷然と死を与えたことは、まことに、アメリカが、つねに「寛容」と「人道主義」を世界に向って宣伝したこととは、あまりにも"裏はら"な、そして"歪められた戦史"といえる。(P232-P233)


 「その投降時期が、あまりにも遅すぎた」  降伏のタイミングを見極められず、最後のぎりぎりまで抵抗を続けてしまった大日本帝国の旧軍人らがそれを言うのか、と思わないでもありませんが、彼我両軍の「食糧不足」が「バターン」の悲劇の一端をになったことを考えれば、この「感想」も理解できないことはありません。

 しかし日本軍の「大攻勢」の開始は四月三日のことで、それ以前はバターンの米比軍は負けていたわけではありません。むしろ、シンガポール・蘭印などの他の戦場が続々と日本軍勝利に終わる中、日本軍の大隊規模の部隊を全滅させるなど、最後まで頑強に抵抗を続けていた、と見ることもできます。現実問題として「大攻勢」以前の「投降」は考えにくかったでしょう。

 また、これが日本軍にとって「精一杯の処置」であったとは、とてもいえないでしょう。「糧秣の余裕がある」という初期条件が崩壊してしまった以上、日本軍は何らかの対策を講じる必要があったはずです。そこに全く思いが至らなかった、という責任は免れません。

 そして、上層部の捕虜への無関心、そして「残虐行為」の横行が、悲劇を増幅させる結果になったことは、既に見て来た通りです。


 なお余談ですが、藤田は「降伏」自体を「虫のよい考えである」と口を極めて非難していますが、日本軍側は大量の「投降票」をばらまき、多くの米比兵がそれを持って降伏してきた、という事実があることを付け加えておきます。

 私としては、積極的に「降伏」を勧誘した側がその「降伏」を非難する、ということに、多少の違和感を覚えないでもありません。

上田廣『地熱』より

 五十人の投降兵の話は残ってゐる全員を昂奮させた。それがみな、投降票を持参したと云ふ事実に、声をあげて喜んだのも私と同じであった。

 文章を綴るものも、絵を書くものも、翻訳するものも、印刷するものも、散布するものも、誰も彼もが持つ共通の喜びにちがひない。数千枚の投降票を撒くために、繰返してきた危険な行動には、それにどれだけの効果があがるかわからなかっただけに、若干の不安が伴なはないでもなかった。

 その不安は、いまや全くぬづひ去られ、新しい勇気がひとしく全員のものとなったのである。(P95-P96)






 さて、戦後の「擁護論」を見ましょう。まずは、防衛庁の「公式見解」ともいえる、「戦史叢書」です。


戦史叢書『比島攻略作戦』より

いわゆる「死の行進」事件について

 降伏時バタアン半島の米比軍と流民の状況は、士気は全く衰え、食料の不足とマラリヤの流行とのため極度に衰弱していたが、コレヒドール攻略戦を目前に控えた軍としては、その準備や防諜上の観点、および米比軍の砲爆撃によって傷つけないためにも、これらの捕虜や住民を現位置に留めておくことはできなかった。

 しかも米比軍の降伏が意外に早かったため、これら捕虜に対する食料、収容施設、輸送などに関し準備を行なう余裕もなかった。当時、軍自体が食料および輸送力の不足に苦慮している状況であった。したがってこれら捕虜もいきおい比較的食糧などを補給しやすい地域に、徒歩で移動させなければならない事情にあった

 そこで軍は、これら捕虜をサンフェルナンドまで六〇粁を徒歩行軍させたが、極度の心身の衰弱と折からの炎天のため、途中と収容所到着直後とに多数の犠牲者を出したことは、もとより軍の本心ではなかったが、真に痛恨きわまりないところであった

 これが連合国側にいわゆる「バタアン死の行進」として宣伝され、これに関連して戦後本間軍司令官以下が処刑されることになったのである。

 このように、当時、連合軍側が軍の処置をきわめて不当なものとしてとりあげ、かつ宣伝した理由は、当時、日本側は、その装備の貧弱ゆえに、「行軍は徒歩によるのがあたりまえ」の思想であったのに対し、米国側などは、機械化されていたために、「行軍は車両によるのがあたりまえ」の思想であり、徒歩行軍に慣れていなかったことにもよるものであろう。(P431-P432)


要約すれば、

1.米軍の砲撃からの避難、及び食糧供給のために、捕虜を移動させることは不可欠だった。行軍は徒歩となったが、それは日本側にとっては「あたりまえ」のことだった。

2.極度の心身の衰弱と折からの炎天のため、途中と収容所到着直後とに多数の犠牲者を出したことは、もとより軍の本心ではなかったが、真に痛恨きわまりないところであった。

とうことになるでしょう。

 「多数の犠牲者を出した」事態を認め、「真に痛恨きわまりないところ」と悔やみつつも、「もとより軍の本心ではなかった」といわば「不測の事態」であったことを強調しています。

 一応は軍の「失敗」を認めているようではありますが、『世界戦争犯罪辞典』における原剛見解との大きな差は、「日本軍の残虐行為」に全く触れないところでしょう。




 また、捕虜の行進は「死の行進」ではなく「生の行進」と呼ぶべきものであった、という見方があります。


伊藤正徳『帝国陸軍の最後』より

 思うに、パターン戦争の翌日における戦場の気分は殺伐であったろうが、それよりも日本軍が持っていた貧困なる物資力から考えると、七万五千人の後送はこれ以外に方法なく 、むしろ比島将兵六万八千人をサンフェルナンドにおいて一挙に放免してしまったことを、「生の行進」といっても差し支えなかったかも知れない。(P186)

※「ゆう」注 公平を期するために付け加えれば、伊藤氏は日本軍を一面的に擁護してわけではなく、 先に紹介した通り、これに続けて、「ただ、こういうことは言い得る―俘虜を好遇する意思が十分にあったならば、モ少し苦痛のない後送法は実行できたであろう」との記述を行っています。


 プロパガンダとしては秀逸な宣伝文句であると言えるでしょうが、これまた実態の一面しか見ない議論、と言わざるをえません。

 日本軍側の主観としては、「生の行進」だったのかもしれません。しかし「目的」が「生」であったとしても、結果として「死の行進」になってしまったことは否定できません。

 さらに言えば、到着地のオドンネル収容所が「地獄」であったことは既に触れた通りです。言葉遊びが許されるならば、むしろ「地獄への行進」と呼んだ方が、実態を反映しているかもしれません。




 さらに捕虜の行進が「死の行進」であるならば日本軍兵士の行進は「超死の行進」と呼ぶべきである、という見解もあります。

藤田相吉『ルソンの苦闘』


 後日、「バタアン」半島死の行軍として、悪名高く、軍司令官本間中将が極東裁判で銃殺到に処せられた"罪科"の一つに挙げられたそれが此の米比軍捕虜の大移動だ。 然し、それは極東裁判の誤りである。米比軍がこの捕虜の移動を"死の行軍"ならば、戦勝軍たる日本軍移動の為の行軍は"超死の行軍"だ。(P90)

(略)

 我々は今戦闘中なのだ。 「コレヒドール」の敵は未だ降伏していないではないか。しかも、現に捕虜群と並列して進む日本軍の姿を見よ。 重い装具をつけて喘ぎ乍ら進んでいるではないか。

 貴様等に散々射たれ肉体的にも、精神的にも、言語に絶する苦難に堪えた日本軍だ。出来れば背負える背嚢も貴様等に負わせてやり度い位だ
。 貴様等を軽装で行軍させるのが寧ろ慈悲だと思えと言い度い。戦勝軍が戦敗軍以上の苦しみを音味わわねばならん理由はないのだ。(P92)


 どうして捕虜たちが「軽装」になってしまったのか。捕虜側の証言を見ましょう。


レスター・I・テニー『バターン遠い道のりの先に』

 しかし、最初の2、3時間が過ぎると、余分の物を待っていた男たちは道ばたにそれらを捨てはじめた。何人かはいっぱいに装備を詰めたナップサックを待っていた、歯ブラシと練り歯磨き、ひげ剃りとクリーム、毛布などである。 パターンから出る道には、最初の2、3マイルを過ぎたあたりから、手当たりしだいに投げ捨てられたこれら様々の品物がばらまかれていた。(P87)
 

 体力的な限界から余分な荷物は一切持てなかったようです。加えて、日本兵から「略奪」を受けていた、という証言も多数存在します。

 一方日本兵は、重装備で「行進」を行っていたようです。しかし別に、日本兵の側に大量の死者が発生したわけではありませんので、こちらをも捕虜側と同様に「死の行進」と呼ぶのは、適切なことであるとは思われません

※1945年北ボルネオで発生した「サンダカン死の行進」事件では、二千人以上の捕虜のうち約千人が行進に参加、うち約半数が行進中に死亡した傍ら、日本軍側にも七十人以上の死者が発生したと伝えられます(その後も疾病や栄養失調、日本軍による殺害などで死者が相次ぎ、最終的に生き残った捕虜は六人のみでした)。 このような事態であれば日本軍にとっても「死の行進」だった、と言ってもいいでしょう。しかし、「言語に絶する苦難」程度でこれを「超死の行進」と称することは、レトリックの行き過ぎであると考えます。

(2014.2.15)


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