| "バターン死の行進"(�此� | 「否定」する側の視点�� 現場関係者の証言 |
ここまでのところで、要点をざっとまとめておきます。 1.捕虜は、投降時、長期の食糧不足により栄養失調状態にあった。かつ、マラリアなどの疫病も蔓延していた。また彼我両軍とも「食糧不足」の状態にあった(これ自体には、日本軍に責任はない)。 2.日本軍は、「捕虜の栄養失調状態」「マラリアなど疫病の蔓延」という状況に、全くといっていいほど配慮を行わなかった。「捕虜を人道的に取扱う」という方針が明確にあったのであれば、例えば、行進速度を無理のないものにする、可能な限り食糧を運搬し供給する、という方法も考えられかもしれないが、上層部は「バターン戦」に続く「コレヒドール攻略作戦」でそれどころではなく、また現場は「計画通りの捕虜輸送」に拘るばかりで、結局捕虜にとって過酷な行進が強行された。 3.「計画通りの捕虜輸送」への拘りは過剰ともいえるもので、捕虜が渇きに耐えかねて列を離れることすら許さない例が多数あった。さらに「捕虜への蔑視感」が、現場における捕虜の取扱いを過酷なものにした。 特に脱落者に対しては過酷で、飢えと渇き、疲労、マラリアなどのために列を乱す捕虜がいれば、殴打、銃剣を突く、場合によってはそのまま殺してしまう、という「残虐行為」も少なからず見られた。 4.さらに「パンティンガン川の虐殺」のような、400名規模の捕虜集団虐殺事件も発生した。 5.やっとのことで到着したオドンネル収容所は、水不足・食糧不足・衛生材料不足という捕虜にとっては最悪の環境 で、万を超える多数の死者が発生した。 ※念のためですが、既に触れてきた通り、日本軍の捕虜取扱方針は事実上「現場任せ」になっていましたので、「楽な行進」を経験した捕虜も多数存在しました。しかしそのような「幸運な」捕虜の存在を強調したところで、上に触れたような「日本軍の責任」は帳消しにはなりません。 2−5さえなければ、状況から推してある程度の「悲劇」は免れなかったとしても、ここまで「バターン死の行進」が問題にされることはなかったでしょう。日本軍の失態、と言わざるをえません。 以上を前提に、現場の将官による「否定論」、また現代の論壇における「否定論」を見ていきましょう。
「バターン死の行進」を、現場の第十四軍関係者はどのように見ていたのか。 総じて、現場関係者は、 1.「事件」そのものを明確に認識していない。 2.「事件」を認識していても「日本軍側にも責任がある」とは考えていない。 このどちらかのスタンスをとっているように思われます。 フィリピン戦線の最高指揮官であった本間雅晴第十四軍司令官は、明らかに1のスタンスでした。
本間将軍は「死の行進」で戦犯として訴追されました。しかし何で訴えられたのか、「記者に聞くまで」気が付かなかった、というのです。 もちろん「残虐行為」についても、全く認識がありませんでした。マニラ法廷でのやりとりです。
余談ですが、本間将軍は、リベラルな「親英派」として知られていました。バターン攻略に際しても、捕虜の待遇について、「友愛の精神をもち、虐待しないよう」全軍に命令していたと伝えられます(ノーマン『バターン死の行進』P521)。 しかし「命令」は末端まで浸透せず、結局本間は、自分が知らない「犯罪」で「死刑」という厳罰を受けることになりました。本間に対する世間の同情は根強く、例えば火野葦平は、こんなことを書き記しています。
ここまでたびたび触れて来たノーマン『バターン死の行進』も、「彼は、有能で、明敏で、深みのある人物だった。ともに戦った部下たちを愛し、自らの指揮の結果である甚大な損失を深く悲しんだ」(P10)と本間将軍に大変同情的で、最終章の全ページを本間に関する記述で埋めています。 いずれにしても、軍のトップにさえ「事件」の情報が伝わっていなかった、というのは、いささか異常な事態でしょう。軍にとって「捕虜の取扱い」はほとんどどうでもいいことであった、という事情を伺わせます。 「知らなかった」のは、本間ばかりではありません。本間将軍麾下第十四軍の作戦部将校の認識も、似たようなものでした。
福山歩兵第百四十一連隊長であった今井大佐も、同様の認識です。『支那事変の回想』より、関連部分全文をそのまま紹介します。
既述の通り、今井大佐は「パンティンガン川の虐殺」の存在に言及するなど、日本軍に不利なことであっても事実は事実として認める、というスタンスです。ですので、ここでの「まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった」「明らかに日本軍の当時の実情に目を掩って、曲解したもの」というのは、今井大佐の掛け値のない「本音」でしょう。 今井大佐ですら、現場の悲惨な状況を十分認識していなかったようです。 またかなりの「残虐行為」が行われていたことにも、気が付いていません。 念のためですが、以上のような頼りない認識を「なかった」論拠にしてしまう一部論者の議論は、暴論、としか言いようがありません。「南京事件」を知らなかった、という元兵士の証言をことさらに採り上げて、無理やりに「南京事件はなかった」という結論を出そうとする、一部否定派の粗雑な「論理」と同レベルのものです。 行軍の悲惨さ、また、行軍中及びその後の収容所での大量の死者発生は、間違いなく事実でしょう。問題はむしろ、「彼らがなぜそれを認識できなかったのか」という点にあります。
戦後になってから米比側の情報で知ったのかもしれませんが、「悲劇」を認識していた軍幹部も存在しました。ただし多くは、「日本軍に責任はない」とのスタンスをとります。 和知鷹二参謀長の証言を見ます。
今井大佐と異なり、和知は捕虜が「道中バタバタと」倒れたことを正しく認識しています。しかし、捕虜の「飢えと渇き」、「マラリヤ患者」を無理やり歩かせたことの責任、そして日本兵の「捕虜虐待」にまで思いが至らなかったのは、和知の限界である、と言えるでしょう。 しかしそれにしても、オドンネルでの捕虜大量死を、収容所の劣悪な環境に頬かむりをして、「気がゆるんだのか」の一言で片づけるのは、いかにも乱暴です。これでは、死亡したのが捕虜の側の責任であるかのように錯覚します。 なお和知は、戦後まもない時期、本間将軍の「マニラ裁判」で証人に立ちましたが、その時は「事件」の存在を否定していたようです。
和知は法廷では、本間を助けるため、知らぬ、存ぜぬの「タテマエ証言」を押し通したわけです。 もう一人、今井と同じく辻正信の「捕虜殺害命令」を拒絶した、第百四十二連隊副官、藤田相吉の証言も見ましょう。
「なぜ糧秣の余裕のあるうちに降伏しないか」 ― 藤田に限らず、現場関係者証言の多くに見られる「感想」です。報道班員の寺下辰夫も、同じように記しています。
「その投降時期が、あまりにも遅すぎた」 ― 降伏のタイミングを見極められず、最後のぎりぎりまで抵抗を続けてしまった大日本帝国の旧軍人らがそれを言うのか、と思わないでもありませんが、彼我両軍の「食糧不足」が「バターン」の悲劇の一端をになったことを考えれば、この「感想」も理解できないことはありません。 しかし日本軍の「大攻勢」の開始は四月三日のことで、それ以前はバターンの米比軍は負けていたわけではありません。むしろ、シンガポール・蘭印などの他の戦場が続々と日本軍勝利に終わる中、日本軍の大隊規模の部隊を全滅させるなど、最後まで頑強に抵抗を続けていた、と見ることもできます。現実問題として「大攻勢」以前の「投降」は考えにくかったでしょう。 また、これが日本軍にとって「精一杯の処置」であったとは、とてもいえないでしょう。「糧秣の余裕がある」という初期条件が崩壊してしまった以上、日本軍は何らかの対策を講じる必要があったはずです。そこに全く思いが至らなかった、という責任は免れません。 そして、上層部の捕虜への無関心、そして「残虐行為」の横行が、悲劇を増幅させる結果になったことは、既に見て来た通りです。 なお余談ですが、藤田は「降伏」自体を「虫のよい考えである」と口を極めて非難していますが、日本軍側は大量の「投降票」をばらまき、多くの米比兵がそれを持って降伏してきた、という事実があることを付け加えておきます。 私としては、積極的に「降伏」を勧誘した側がその「降伏」を非難する、ということに、多少の違和感を覚えないでもありません。
さて、戦後の「擁護論」を見ましょう。まずは、防衛庁の「公式見解」ともいえる、「戦史叢書」です。
要約すれば、 1.米軍の砲撃からの避難、及び食糧供給のために、捕虜を移動させることは不可欠だった。行軍は徒歩となったが、それは日本側にとっては「あたりまえ」のことだった。 2.極度の心身の衰弱と折からの炎天のため、途中と収容所到着直後とに多数の犠牲者を出したことは、もとより軍の本心ではなかったが、真に痛恨きわまりないところであった。 とうことになるでしょう。 「多数の犠牲者を出した」事態を認め、「真に痛恨きわまりないところ」と悔やみつつも、「もとより軍の本心ではなかった」といわば「不測の事態」であったことを強調しています。 一応は軍の「失敗」を認めているようではありますが、『世界戦争犯罪辞典』における原剛見解との大きな差は、「日本軍の残虐行為」に全く触れないところでしょう。 また、捕虜の行進は「死の行進」ではなく「生の行進」と呼ぶべきものであった、という見方があります。
プロパガンダとしては秀逸な宣伝文句であると言えるでしょうが、これまた実態の一面しか見ない議論、と言わざるをえません。 日本軍側の主観としては、「生の行進」だったのかもしれません。しかし「目的」が「生」であったとしても、結果として「死の行進」になってしまったことは否定できません。 さらに言えば、到着地のオドンネル収容所が「地獄」であったことは既に触れた通りです。言葉遊びが許されるならば、むしろ「地獄への行進」と呼んだ方が、実態を反映しているかもしれません。 さらに捕虜の行進が「死の行進」であるならば日本軍兵士の行進は「超死の行進」と呼ぶべきである、という見解もあります。
どうして捕虜たちが「軽装」になってしまったのか。捕虜側の証言を見ましょう。
体力的な限界から余分な荷物は一切持てなかったようです。加えて、日本兵から「略奪」を受けていた、という証言も多数存在します。 一方日本兵は、重装備で「行進」を行っていたようです。しかし別に、日本兵の側に大量の死者が発生したわけではありませんので、こちらをも捕虜側と同様に「死の行進」と呼ぶのは、適切なことであるとは思われません。 ※1945年北ボルネオで発生した「サンダカン死の行進」事件では、二千人以上の捕虜のうち約千人が行進に参加、うち約半数が行進中に死亡した傍ら、日本軍側にも七十人以上の死者が発生したと伝えられます(その後も疾病や栄養失調、日本軍による殺害などで死者が相次ぎ、最終的に生き残った捕虜は六人のみでした)。 このような事態であれば日本軍にとっても「死の行進」だった、と言ってもいいでしょう。しかし、「言語に絶する苦難」程度でこれを「超死の行進」と称することは、レトリックの行き過ぎであると考えます。 (2014.2.15)
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