"バターン死の行進"(検  オドンネル収容所にて


「バターン死の行進」

1.マリベレスからバランガまで ―食糧なき行進―
2.バランガからサンフェルナンドまで ―徒歩行進は続く―
3.サンフェルナンドからオドンネルまで 
4.オドンネル収容所にて     ・・・本稿
5.パンティンガン川の虐殺
6.「否定」する側の視点 仝従豐愀玄圓両攜
7.「否定」する側の視点◆ ̄η貧醒鼎任痢嵌歡袁澄





 『世界戦争判事犯罪辞典』によれば、「バターン死の行進」における死者数は、「行進中の死亡者数は、アメリカ兵約六〇〇人、フィリピン兵約一万人、オドンネル収容所での死亡者数は、アメリカ兵約一六〇〇人、フィリピン兵約一万六〇〇〇人以上」(P135)とされています。

 実際には、「行進」途中での「死者数」を正確にカウントすることは困難でしょう。しかし少なくとも、「オドンネル収容所」での死者数が「行進中」のそれを上回ることは確実とみられます。


 日本でイメージする「バターン死の行進」は、文字通り、「徒歩行進」の部分でしょう。しかし最初に触れた通り、アメリカ・フィリピンでは、通常、その後の「オドンネル収容所」の悲惨な状況までをセットにして語られます。

 「オドンネル」の実態については、日本側、捕虜側の「証言内容」に大きな差違は見られません。火野葦平は「地獄」と表現、捕虜たちの証言もそれを裏付けるものです。

 以下、オドンネル収容所の状況を見ていきます。



 収容所長の「演説」


 捕虜側の証言の多くが、収容所長の捕虜を迎える「演説」に言及しています。オドンネル収容所の捕虜に対する考え方を象徴しているとも見られますので、まずはこれを見ていきましょう。

ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 ⊂困訛斥


 捕虜たちはついに、果てしない平原の上につくられただだっ広い建物にたどり着いた。建物はがたがたでいまにも倒れそうだった。護送兵は捕虜を追い立てて、機関銃をすえつけた塔に挟まれた門をくぐつて、日の丸の旗がひるがえっている丘の上の建物のところまで連れて行った。

 彼らは太陽の下で一時間待たされた。やがて収容所の指揮官である将校がドアをあけて出てきた。彼は捕虜に向かって好戦的な口調で、アメリカは最大の敵であり、日本は百年かかってもアメリカ人をうち懲らしてやると演説した。通訳がそれを訳した。

 「大尉、彼は、諸君が捕虜ではないと言っている」 通訳はエド・ディーエス大尉のグループに言った。「諸君はただのとりことして処遇されるだろう。彼は、諸君が軍人として行動していないと言っている。諸君は規律をわきまえていない。諸君は彼が話している間、直立不動の姿勢をとっていない。大尉、彼は、諸君をひどいめに会わすと言っている」(P252-P253)



 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 「私は恒吉義士大尉で、この収容所の所長だ」と、その将校は通訳を介して述べた。

(略)

 「君たちは名誉ある捕虜ではない」と司令官は続けた。「君たちは囚人なのだ! それ相応に扱うから、覚悟せよ」

 君たち全員を殺せないのは遺憾だが、真の戦士たるもの慈悲をかけるべしと武士道にあるから、私もそうしなければならない。だが、当収容所の規則に違反する者、脱走を試みる者がいれば、躊躇なく撃ち殺す。ひとりが脱走すれば、その仲間九人を処刑する。服従こそが肝要である。こちらの指示命令に従っていれば帰国できるかもしれない。従わなければ命はない

 −司令官はそう言うと、民族と政治について大熱弁を振るった。その内容は、演説するたび少しずつ変わったが、だいたい次のようなものだった。東洋でのアメリカはおしまいだ。日本がそうさせたのだ。この戦争が一〇〇年続こうと、日本は勝つまで戦い抜く。「君たちはどこまでもわれわれの敵なのだ」

 これを聞いて意気消沈する者もいたが、アーカンソー州ローラ出身の航空隊整備兵クレティス・オバートンのように、ほとんどの者は「たんに怒鳴り、騒ぎちらしている」司令官を眺め、「この男は頭がおかしい」と考えていた。
(P314)



レスター・I・テニー『バターン遠い道のりの先に』

収容所長

 日本人の収容所長は戦争捕虜として私たちがすべきことについて講義をしたが、その間私たちは気をつけの姿勢をするように命令された。所長のツネヨシは35歳くらいで、背の高さは5フィート8インチ(約一七〇センチ)あり、体重は一六〇ポンド(約72キロ)ぐらいにみえた。そのとき彼はおよそ三〇〇〇人いた捕虜を真前にして高い台の上に立っていた。

 彼は通訳を介して、私たちが臆病者である、捕まることが差しせまっていたら日本兵なら誰でも自殺したであろうし、私たちもそうすべきであったと話しはじめた。私たちのことを「犬以下だ」と言い、一〇〇年以上もの間アメリカ人はわれわれの敵だったと大声を上げ叫んで言った。

「お前たちアメリカ人に何かできたとしたってそんなことでこの気持を変えられない。日本人がアメリカ人から受けてきたその扱い方に対してお前たちアメリカ人は償いをしなければならん」と。それからこう言った、「豚野郎のアメリカ人とは絶対友だちにならん」。(P114)

 そのころには指揮官はヒステリックになっており、腕を振りこぶしを空に振りあげていた。彼は気違いみたいに興奮していた。日中の暑さに参ってくるにしたがって彼は騒ぎたてた。刀はベルトの左側にぶら下がり勲章は軍服から垂れており、バターンでの戦闘に加わっていたのは明らかであった。

 それから「お前たちの死んだ仲間は運が良かったとすぐにわかるだろう」と言った。それは何と正しかったことであろう。

 その次に、私たちに期待されていること、どのように行動すべきかについて指示を受けた。

 第一に日本兵がどこにいようが、見えているかぎり私たちは敬礼しお辞儀をしなければならない。第二に、日本兵が話しかけたら、私たちは必ず気をつけの姿勢で「ハイ」と言う。この規則を守らないものはひどい罰を受けるか殺されるかのどちらかだろうと言った。そのどちらに決まるかはそのときの兵隊次第である、と。

 指揮官の叫び声はすさまじかったので私たちはそれを信じないわけにはいかなかった。日本は戦争捕虜の扱いについてジュネーヴ条約を批推していない。したがって日本兵のやりたいようにアメリカ兵を扱うことができるのだとも言った。

 この演説はほとんど2時間続き、一日の中で一番暑い3時ころに終わった。彼が長々としやべっている間中、私たちは気をつけの姿勢でいなければならなかった。少なくとも12人の男たちが暑さの犠牲となって地面に倒れた。

 彼らは収容所長の演説が終わるまで地面に倒れたままだった。終わってはじめて私たちは彼らを起きあがらせ助けてやることができた。
(P116)


鷹沢のり子『バターン「死の行進」を歩く』


 収容所内にはいると、彼らは広場に座らされて、炎天のもと所長・恒吉大尉の演説を聞いた。マニラ法廷での何人かの証言とアーネスト・ミラー少佐の『Bataan uncensored』(『批判されていないパターン』)から、恒吉大尉が話した内容を紹介しよう。

 「おまえたちは捕虜だ。捕虜の命は天皇のものだ。おまえたちが生きていられるのは、天皇の慈悲と武士道精神の恩恵によってである

 「極東で欧米の影響が完全に消えるまでアメリカとイギリスは日本の敵である」

 「おまえたちは劣った人種だ。日本軍はこの戦争に勝つ。おまえたちは敵だ。日本軍は一〇〇年だってたたかうぞ」

 「アメリカは何年も日本を苦しめてきた。われわれの興味はアメリカ人兵士たちの死亡者数だ。また、オードネル収容所でこれから死亡する捕虜たちの数である」

 「おまえたちは捕虜だ。きょうから将校の地位はない。バッチははずすこと。全員が平等である。しかし日本兵にはどんな位の人にでも敬礼すること。おまえたちが収容所の規則どおりに従えば平等にあつかう。しかし命令にそむいたり、規則に従わなければ罰をうける」

 収容所に着いた日に出された布告文にはこう書いてあった。

 「次の行動をした者は射殺する。一、逃亡を企てた者および逃亡した者。二、市民に変装して逃げようとする者。三、人に損傷を与える者、略奪する者、放火する者」(P104)


 最後のミラー少佐証言のみ「おまえたちは捕虜だ」と言っており、他の証言との整合がとれません。あるいはこれは、証言者の記憶違いかもしれません。

 しかしいずれにしても、すべての証言で「捕虜の敵視」というニュアンスは共通しています。所長の発言を総合すると、どうも収容所側には、捕虜を「捕虜」として人道的に扱う考えはなかったように思われます。



 オドンネル収容所の「地獄」

 そしてこのオドンネル収容所の環境は、劣悪極まりないものでした。上田氏は、そもそも捕虜の数に対して建物が少な過ぎ、「野宿」を余儀なくされた捕虜が大勢いたことに触れています。

 当然これは、病気に苦しむ捕虜にとっては生命にかかわることでした。


上田敏明『聞き書きフィリピン占領』

 二昼夜の強行軍に耐えたペレスさんは、四月一一日にオードネル収容所にたどり着いた。

 一二に分かれた地区のうち第四収容所に入れられた。中隊―小隊―分隊の三段階に編成され、中隊は三つの小隊から、小隊は四つの分隊から、分隊は捕虜八人からなる ― という形にされた。一棟には二中隊が入れられ、定員四八人の兵舎にちょうど四倍、一九二人ほどもの人間が押し込まれての生活が始まった。

 証言者たちの語るところによると、実際には大半の捕虜たちが兵舎からあぶれ、床下の地面で寝起きするしかなかった。雨が降ると水が避けられず、床下の住人たちは眠ることもままならなかった

 立ったり、しやがんだりの姿勢で夜が明けるのを待った。そして飢えやマラリア、デング熱などで苦しむ捕虜の場合、雨上がりの朝には息を引き取っていることが多かった。

 四月二九日に収容所に入ったカバーロさんの兵舎では、あるひどい雨降りの晩にできるだけ病人を床下から建物に入れてやった。翌朝、床下に残された者が全員、死んでいた。(P89)





 さて火野は、オオドネル(オドンネル)収容所を「地獄」と表現しています。

火野葦平『バタアン死の行進』


 翌日(「ゆう」注 四月十七日)、私はオオドネル捕虜収容所に行った。タルラックの郊外、カバス町からちょっと入ったところである。アラヤット連山の麓にひろがった丘陵地帯に、簡単な哨舎が数百軒、将棋の駒をならべたやうに建てられてある。ここは演習のための哨舎であったらしいが、日米開戦になるとアメリカ軍が日本軍の捕虜を収容する場所の一つに予定してゐたとのことであった。

 この高原はなだらかな起伏のうへに、檳榔(ビンロウ)、ラバ、バナナ、檳樹、椰子などが聳え、ボガンビリヤ、火焔木、などが緑の中に紅を点綴してゐて、ちょっと見ると、快適な避暑地の観を呈してゐる。しかし、実際は人間の住む諸条件がどれも悪く、後には「地獄」の名によって呼ぱれて、恐怖の土地となったのである。(P59-P60)

 捕虜たちはバタアン半島からオオドネルへ、つまり、地獄から地獄への道を行進して来たのであった。(P60)

 

 まず、水がない。火野によればこの時点で「二万七千人」の捕虜を収容していますが、ポンプは一つだけ。食糧も衛生材料も不足している。

火野葦平『バタアン死の行進』


 ここは米と塩としかなく、なにより水のないことに閉口する。二つポンプがあったのに、昨日一箇壊れてしまった。やむなく、ここから四キロも離れてゐるサンタ・イグネシヤ川まで汲みに行く。フィリピン兵は弱りきってゐるので、アメリカ兵にガソリン罐を持たせて汲みに行って貰ってゐる。しかし、その水もあまり上等ではない。こんなことでは先が思ひやられる。

 毎日死者が出るので、アメリカ兵からマニラの赤十字に連絡をとるやうに要求されてゐるが、諸事ごったがへしてゐて、なにごとも思ふやうに行かぬ。食糧、衛生材料、人員等、緊急を要するものばかりなのに、軍の方もてんてこ舞ひしてゐて、こちらまで手が廻り兼ねてゐるらしい。(P60-P61)

 しかしこれは、ほんの「始まり」に過ぎませんでした。

火野葦平『バタアン死の行進』


 ところが、このころのオオドネルはまだ真の「地獄」の名に値しなかった。オオドネルが戦慄すべき死の世界と化したのは、それから数ヶ月先のことであった(P62)。


 「数ヶ月先」にオドンネル収容所を再訪した火野が見たものは、大量の墓でした。

火野葦平『バタアン死の行進』


 収容所の周辺に作られた墓地をさまよふ者も多かった。私はその墓標の無数といってもよい羅列に、眼を瞠(みは)った。簡単な十字架に名が書いてある。(P68-P69)

 「大変な数だね。何千あるか知れやしない」私がさう呟くと、運転手は無表情で、背を向けたまま、ぶっきらぼうに、私にいった。

 「三千や五千ぢやありません。万の単位ですよ」

 「これは、捕虜の墓かしらん?」

 「さうです。全部、バタアンからやって来て死んだフィリピン兵の墓です」


 私は息をのむ思ひだった。

 四月に来たとき、いきなり葬列に出あひ、毎日四五人づつ死ぬときいて、暗澹とした思ひに沈んだのである。しかし、今考へると、まだ四月のオオドネルは「地獄」の名に値しなかったのであった。(P69)

※「ゆう」注 収容所で死亡した捕虜の数については、マニラ裁判のときバシリコ・ヘルナンデス陸軍少佐が提出した記録に「八月五日までに所内で絶命した捕虜の数は二万七一六九人にも達していた」とのデータがあります(上田敏明『聞き書きフィリピン占領』P96)。また先に見た通り、「世界戦争犯罪辞典」では、アメリカ兵約一六〇〇人、フィリピン兵約一万六〇〇〇人以上(P135)となっています。火野の記述から見て、ありえない数字ではないように思われます。


 案内の伊藤中佐が、収容所の惨状を語ります。

火野葦平『バタアン死の行進』


 門を入ると、収容所の様子が前回のときと違ってゐる。次々に建て増しをしたらしく、まるで初めてのところに来たやうな印象を受けた。鈍重で鼻孔の奥を刺戟する、嘔吐を感じさせる臭気が門を入る前から気にかかっていたが、それは屍臭であった

 伊藤中佐に案内されて、高い櫓に登った。所内をはじめ、アラヤット山、麓の牧場、サンタ・イグネシヤ川、フィリピンの原始民族ネグリート族のゐるといふサンタ・アリアナ村等が、一望の下である。水牛ばかり見なれた眼に、牧草を食べてゐる黄牛が珍しい。(P69-P70)

 食糧不足のため開墾してゐるといふ野菜畑がひろがり、水不足を補ふために掘られた井戸が方々にある。それから、蕎麦の花畑かと疑はれる白い墓標が密集して立ちならんだ墓地。供養塔らしいものが立っている。

 所内には、いろいろなことをしている捕虜の姿が望まれるが、また、誰か死んだとみえて、葬列が墓地の方へ行くのが眺められた。

 「いまだに、死者があるのですか」

 と私は気の鬱するのをおぼえながら訊ねた。

 「あるんです。しかし、このごろはもう稀で、平常に復したといつてよいでせう。ひところは大変でした。逃げだしたくなりましたよ。一日に、二百人、三百人といって死ぬんですからね。統計やグラフが作ってありますから、後ほどごらんに入れますが、最高は四百八十七人でした。総計二万ほども死んだでせうか

 こんなに死人があると、どうにも処置に困りますが、ほってはおけませんから、あのとほり、墓地に埋めて墓標を立てたのです。そのころは死体埋葬のほか何一つ出来ませんでした。百方手を尽したのですけれど、どうにも及びませんでした」(P70)
 


 報道班員の一人、尾崎士郎もオドンネルを訪れています。戦前の、それも「戦意高揚」という軍部方針に沿った記述ですので、かなり押さえたものになっていますが、それでも悲惨な状況を窺い知ることはできます。

尾崎士郎『戦記 バタアン半島』

四月十七日

 オードネル俘虜収容所に赴く。タルラック州、パンバンガ町。

 収容所員は、将校三名、下士官五名、兵九名、邦人より成る警備隊四十三名、勤務隊十名、通訳、比人係十名、米人係二名。

 俘虜の収容人員は住民兵を合せて四万五千。その数は日一日にふえてくる。

 収容隊長恒吉大尉のはなし。

 「何しろこれだけの人数ですからね、どうしても手が回りませんよ。目下のところでは団長と、副団長と分団長をつくって各自規律を保つようにさせていますが、割合にうまくいっています。水の無いのは一ばん閉口しますね。それから薬がない、何しろ山の中では相当に無理な生活をしていますからマラリヤ患者が非常に多い

(以下略)」

(P137)




 しかし火野や尾崎は、「地獄」の実態にほとんど触れていません。捕虜たちの証言から、具体的な状況を見ていきましょう。


 まず、火野も取り上げている「飲料水」の問題です。

マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 二五〇ヘクタールの敷地内に、稼働している掘り抜き井戸は一つだけだった。

 
ポンプによって汲み上げられた水は、直径一六ミリのパイプを通じて両方の収容所に供給されていたが、水栓はそれぞれに数か所しかなく、捕虜たちは水を飲むために列をなした。

 アメリカ人収容所では、水栓のうち一つが病院専用、残りの二つが一般用とされ、たった二つの水栓から出る水が九〇〇〇人近くの渇きを癒した。(P318)



 万に及ぼうとする捕虜に対して稼働している井戸は一つだけ ― 火野の記述とも整合します。その水を得るために、捕虜たちは何時間も列に並ばなければなりませんでした。

 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 さらに悪いことに、慢性的なガソリン不足におちいっていた日本軍は、ポンプの稼働時間を制限した。

 だから、水栓の前の行列が一キロ近くなることもよくあった―ざっと二〇〇〇人が夜明け前から並びはじめ、日没後まで二〇時間かそれ以上も待ち続け、たった水筒一本分、約一リットルの水をようやく手に入れることができた。(P318)



レスター・I・テニー『バターン遠い道のりの先に』

 毎日、唯一最も大事な出来事はといえば水筒の水のために列をつくって待つということだった。時には私たちは何時間も列をなして立っていた。(P120)



 並んでいるうちに力尽きて死亡してしまった、という悲惨な事例も報告されています。

レスター・I・テニー『バターン遠い道のりの先に』

 あるとき3時間以上も列に並んで待った挙句に地面に倒れた男を見たことがある。私たちは衛生兵を呼んだが、彼らは到着すると、この男は死んでいると言った。一杯の水の為に列をなして待ちながら彼は死んだのだ。私たちを捕まえた連中は何と野蛮人であったことか。(P119)



 「水不足」は、埋葬活動にも影響しました。「フィリピン歴史学会の第一人者」として知られていた、元フィリピン大学歴史学部長アゴンシリョは、こんな悲惨な状況を伝えます。

テオドロ・A・アゴンシリョ『運命の歳月』第一巻

 幾週間かがゆっくりと過ぎていった。そのうち、フィリピン人は、義務として行なわれる墓掘りを疎むようになってきた。死人は触れられもせず放置され、キャンプ内の空気はあまりにも不快なものになってきた。

 そこで、ボルテール・ソトーという中尉が、止むなく、部下を集めて会議を開いた。中尉は、親切心と分別の持ち主ゆえに、部下だちから好かれ尊敬すらも受けていた。彼は、部下が自らの義務を避ける理由を知りたかった。彼らは、「葬送任務」かおりそうになると、決まって仮病を使ったり便所に隠れたりする。ソトーは、自分はそのことに気が付いていると言った。

 一人の男が、勇気を出して次のように説明した。自分たちは、「葬送任務」に加わることが嫌なのではない、水と石鹸が無いのが嫌なのだと。

 その男は、自分の体験を物語った。戦友を埋葬する特別任務を負った者の一人に加えられ、自分は、何人かの者と一緒に死体を墓の中に降ろそうとした。このとき、腐敗の状態が進んでいたため、死んだ男の皮膚が皆の素手にへばりついた。宿舎に戻って、手を洗いたかったが、一滴の水も一かけらの石鹸も見つからなかったというのである。

 捕虜たちが、「葬送任務」に加らないのが得策であると考えたのは、死んだ者から伝染病が移ることを避けようとしたためであった。(P310)





 次に、食糧問題。火野も、「米と塩」しかない、と書いていました。捕虜たちの証言も、概ね同様です。

マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 捕虜たちは米を食べた。小石、土、コクゾウムシの混入した米である。それを、蒸し、煮こみ、スープにして食べた。ときには、米のほかに野菜が配られることもあった−安価で甘味のあるイモや、アメリカでは湿地のキャベツと呼ばれる、ホウレンソウに似たヨウサイという蔓植物のほか、名前のわからない草や葉もあった。

 肉(牛肉か水牛肉)が出ることもあったが、割り当てられる量がとても少なく(一か月に二度、捕虜五〇人分として一ポンド、すなわち約四五四グラム、あるいは、捕虜ひとり分として三分の一オンス、すなわち一〇グラム足らず)、濁った粥の中に少しばかりの薄い肉片が浮いている程度だった。

 飢えた捕虜たちは食べられるものなら何でも食べたので、収容所の敷地の大部分で、雑草もコゴン草もきれいに抜きとられた。

 ジョニー・オルドリッチ陸軍伍長は「牛や馬に草が食えるなら、俺にも食える」と考えた。まず、摘みとった草をそのまま口に入れたが、苦くて飲み下すことができず、集めた「飼い葉」を調理場にいる友人のところへもちこんだ。その長い菜をよく煮こみ、茶色と緑色のシチューにしてもらったのだ。(P322-P323)

 食事をとるのは屋外だった。地面に腰を下ろしたりしゃがんだりし、片手でスプーンか指を使って食べながら、片手で蝿を追い払った。

一日の食事の量は平均約五〇〇グラム(熱量一五〇〇キロカロリー、たんぱく質量三〇グラム)で、健康な成人男性(良好な環境のもと、適度な労働に従事する場合)の必要量の半分だった。病人にとって ― オドネル収容所のアメリカ人およびフィリピン人のほぼ全員がなんらかの病気だった。

この収容所の「食事」はあまりにも粗末だった
。(P323)


 配給は必要量の半分。米には小石、土、コクゾウムシが混入している。捕虜は雑草まで調理して食べていた、ということです。


 先のアゴンシリョの記述もほぼ同じです。

テオドロ・A・アゴンシリョ『運命の歳月』第一巻


 キャンプ・オードネルでの最初の二週間は、非常に苦しいものであった。食糧の配給は情けないほど不十分で、一回の食事は、少量の飯と一摘みの塩であった。捕虜に与えられる米は、実際、「精米所の床から掃き集められたもの」で、炊飯すると色が紫色に変わった

 たまに、さつまいもが食事に添えられた。しかし、ほとんどが腐ったもので、人間の消耗を捕うには不適切なものであった。さつまいもが少しでも与えられると、皮のまま大きな鍋に放り込まれた。包丁が一本も支給されていなかったからである。調理する段階で、さつまいもは、「五十五ガロン〈二〇八リットル〉のドラム缶の中で、二×四インチ〈五×十cm〉の角材ですり潰された。」(P308-P309)

 ときどき、モンゴという、土産の豆が米に加えられた。一週間に一度、カラバオの肉が配給された。一人当り、八分の一オンス〈三・五g〉から四分の一オンス〈七g〉であった。

 こうした「質素な」食事は、確かに、何も無いよりはましであった。しかし、捕虜たちが健康を取り戻すには何の助けにもならなかった。食事がこれだけ不十分であったため、男たちは、人間というよりも骸骨にずっと近く見えた。肋骨がくっきりと浮き上がり、見た目に数えることができた。尻の肉はたるんで垂れ下がり、腕の皮はしまりがなくだらんとしていた。(P309)




 「食糧不足」については、他の証言も一致します。


上田敏明『聞き書きフィリピン占領』


 郷土を蹂躙され逃避行を続ける民衆が乏しい食事に耐えていたように、捕虜たちに与えられる食事もまた貧弱なものだった。塩を振っただけの握り飯(直径五センチほど)が一つ、あるいは両手ですくうぐらいのご飯、コメがない時は拳ほどの大きさのサツマイモー、二個だった。(P90-P91)

 これが朝六〜九時と正午、夕方五〜六時に出された。日曜日にだけ、約八五グラムの豚肉か牛肉が付いていた。カンコン(日本ではエンサイ、ヨウサイなどと呼ばれる水草)がおかずのこともあった。もっともこれは平均の話だ。

 第五収容所に入れられたアウグスティンさんは、四月一七日に到着してから四日間は食事にありつけなかった。五日目から一日一回だけの食事が与えられるようになり、八月に国際赤十字が視察に訪れてからようやく三度三度食べられるようになった

 またカバーロさんの兵舎ではコメが充分に食べられたが、一方バラギアオさんの兵舎では四月二〇日にサツマイモー個が出されて以来、三度の食事は大抵サツマイモだった。(P91)



鷹沢のり子『バターン「死の行進」を歩く』


 パナイ島で捕虜となったベニト・ローザさん(当時二六歳・比人)は、私がマニラで話を聞いたとき、収容所の食料事情について次のように語った。前述のモーディさんは飯を配られたと書いているが、ローザさんは粥だったと言う。彼がはいったのは、コレヒドール島陥落後だった。

 収容所に入れられたばかりのころは食事は一日一回で、お粥しかなかった。二カ月が過ぎたころ、粥でないご飯が二回食べられるようになった。それでも量が少ないのでおなかはすく。ときどき肉がそえられることもあった。水牛や豚を解体したときは、ほとんどを日本兵が食べ、あまった肉が捕虜たちに分けられた。(P113-P114)



 このような「栄養失調」状態が、病気の蔓延を招きます。


マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 栄養不足のせいでマラリア、デング熱、黒水熱、ジフテリア、肺炎はいっそう悪化し、患者たちは痛みを伴う症状や命に関わる症状に苦しんだ。

 湿式脚気(ひどい浮腫を伴う)、壊血病(重症になると鼻血が出たり、歯が欠けたりする)、ペラグラ(皮膚に針で刺されるような痛みを感じ、激しい下痢を伴う)、夜盲症(夜間に目が見えなくなる)、弱視(日中に目が見えなくなる、あるいは完全に失明する)、耳鳴り、めまい、ほてり、結膜炎(目に激しい痒みと痛みを感じる)、末梢神経障害(手足の感覚を失う)。

 しかし、さまざまな病気のなかでも抜きん出て厄介なのが赤痢だった。この収容所では赤痢患者があまりにも多く(全体の三分の一から二分の一だった)、定期的に地面を掘ってつくられる便所は、数日もすればいっぱいになった。

 行進の途中で立ち寄ったバランガとオリオンの悪臭漂う待機所もそうだったが、オドネル収容所は外観も臭いも下水のようだった。衰弱して歩けない者は、便意をもよおせばその場で垂れ流した。(P323-P324)



 これに輪をかけたのが、薬品などの「衛生材料」の不足です。

 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 治療に使うサルファ剤が不足していて、赤痢はたちまち蔓延した。バラック内は不衛生きわまりなく、捕虜たちは野外でまだ汚れていない地面を探し、そこをベッドがわりにして眠るようになった。(P324)



 もともと医薬品が不足していたこともあったのでしょうが、日本側から提供される「薬」は、極めて乏しいものでした。


 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 [パウリート(収容所医師)日誌、四月二十八日] 火曜の朝、ジフテリアの治療に使う抗毒素血清を人手しようとしたが、無駄だった ― 時間の無駄だった。日本人は無関心だった。戦争に勝つことで頭がいっぱいなのだ。(P325)



鷹沢のり子『バターン「死の行進」を歩く』


 四月中旬から六月初旬までに一〇〇〇人から一五〇〇人もの捕虜が入院していた。マラリア患者が圧倒的で、次に多いのが赤痢や脚気だった。前出のチャールス・ルイス(米人)が、次のようにマニラ法廷で証言している。

 「何度も日本軍司令部にマラリアに効くキニーネ錠を要求すると、三〇〇錠が渡された。一週間分だと言われる。『重病のマラリア患者には一人につき一日一〇錠は必要だ』とさらに要求すると、『あなた方は捕虜なのだから、それ以上期待してはいけない』と聞き入れてもらえなかった」(P107)



 公平を期するために付け加えれば、フィリピン人医者の「不正行為」も、捕虜に薬品が行き渡らない一因となったようです。

テオドロ・A・アゴンシリョ『運命の歳月』第一巻

 フィリピン人の医者は、薬品の闇取引で罪深き行為を行なっていた者が多かった。死の行進とキャンプ・オードネルを生き残った者の多くが、身内の者や友人らに、次のことを打ち明けた。

 フィリピン人医師らは、自分らの地位を利用し、捕虜たちに信じられない値段で薬を売りつけた。例えば、スルファダイアジン〈葡萄状菌や淋菌などから起こる病気の特効薬〉やスルファチアゾール〈肺炎球菌や葡萄状菌などから起こる病気の治療に用いる〉が、一錠あたり五十ペソで売られた。

 人々は、身内の者や友人らが病気になると、薬品や食べ物を差入れた。しかし、ほとんどの場合、薬は患者に届かなかった。

 フィリピン人医師の中の「抜け目のない投機家」たちは、何千もの生命を枚うことのできる貴重な薬品が差入れられると、自分の手元に残るように取り計らった。しばらくおいてから、こうした医師たちは、差入れのあった当人にその薬を売りつけるのであった


 薬を買う金が無かった者は、売りつけられた薬が、実は本人のものであることを知らずに死んでいった。

 赤痢やマラリアや他の病気で数千もの人間が死んだが、これも多数のメディコ〈医師〉の商売根性のためであった。その医師たちは、病気の捕虜を犠牲にしてでも、自分が金持ちになることだけを考えていた。(P315-P316)



 食糧不足による栄養失調と赤痢などの病気の蔓延、それに対する医薬品の不足。これが、オドンネル収容所における「捕虜の大量死」の正体でした。



 日本側の弁明


 戦後まもない時期、日本側でも「俘虜関係調査委員会」にて「バタアン死の行進」に対する自主調査が行われました。その結果をまとめたのが、「「バタン」作戦終了後ニ於ケル米、比軍俘虜取扱ニ関スル調書」です。(こちらに全文を掲載しました)

永井均『フィリピンと対日戦犯裁判』


 俘虜関係調査中央委員会でバタアン「死の行進」に関する調書が審議されたのは、(一九四五年)一〇月初旬のことである。中央委員会幹事が関係者に送った会議の案内状によれば、一〇月三日の会議で第一次調書について審議、同月一〇日開催の会議通知に「「バタン」関係(第二回審議)」、一一日開催のそれに「比島関係最終審議」とあり、この頃、調書の検討が最終局面を迎えていたことが分かる。

 そして一〇月一五日、ついに「「バタン」作戦終了後ニ於ケル米、比軍俘虜取扱ニ関スル調書」(以下、調書)が完成する。調書は一二頁からなり、バタアン作戦終了直後の米比軍捕虜の輸送問題と、オードネル収容所における管理状況を考察している。

 その内容は、「前言 第一、米国政府抗議ノ要旨 第二、日本帝国政府回答ノ要旨 第三、其ノ後ニ於ケル調査ノ結果並ニ其説明 結言」という構成であった。(P96)


 永井氏が触れる通り、「調書」は「オードネル(オドンネル)収容所」にもかなりのスペースを割いています。

 「調書」はまず、一九四四年に行われた日本政府に対する「抗議」に触れます。


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

二、一九四四年二月五日附瑞西国特命全権公使より日本帝国外務大臣宛書簡

5.「オードネル」収容所に於ては待遇不良にして収容開始後数ヶ月間に米国人二千二百人、比島人二万人以上死亡せりとの確報あり 日本官憲に於て若し最小限度の手当を施したらんには此等死亡の大部分は阻止し得られたること疑なし

 同所の於ける所謂病院なるものは全然事態に即応せず 俘虜は何等手当を受けることなくして憔悴の儘床上に病臥し疾患の余り自らの排泄物より身を動すことをも無し得ざりき

 病院は極度に満員となれる為米国人は灼熱せる日光に曝されたる儘戸外の地面に横臥せり(P10)

 収容所の米人医師は医薬は素より排泄物を洗ひ去る水すら与へられざりき

 「マラリヤ」罹病者は数千に及びたるにも拘らず偶々規那(キニーネ)の供与ありたるときは僅に十件を■するに足る量ありたるに過ぎざりき

 「オードネル」収容所の俘虜にして「バタンガス」に派せられたる労働分遣隊三百人中二百人以上は死亡せり

6.「オードネル」収容所に於ては一九四二年中多数の男子は遮蔽なき場所に生活せしめられたり

 或る場合は二十三名の将校に派幅十四尺、奥行二十尺の仮小屋に収容せらる

 飲用水は極度に乏しき為一杯の飲水を得る為六時間乃至十時間行列を為す要ありたり(P11-P12)

 将校は収容所に於て当初三十五日間沐浴(もくよく)せず その後初めて沐浴を為す為一人に付一「ガロン」の水を与へられたるのみ、■所備品は大釜及五十五「ガロン」入「ドラム」罐一箇なりき

 甘藷は大釜によりて煮られ一本の木片にて潰され各人一人当り食糧として一匙を給せられたり(P13)

(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)

 概ね、ここまで見てきた「証言」と整合する内容です。

日本側も、「事実関係」では争えず、「当初約一月の間」の「不行届」、及び「俘虜の管理が憂慮すべき状態」にあったことを認めざるをえませんでした。


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』

四、「オードネル」収容所に於ける俘虜管理の状況

1 「オードネル」収容所に於ける俘虜の取扱、管理は先にも述べたる如く諸般の準備不十分の為初期の間に於ては十全を期し得ざる実情にありたり(P36)

 特に当初約一月の間は予備役大尉を長とする少数の人員を以て之が管理に当りし為不行届の点を生じたり

 然らば何故少数人員を以て之が管理に当りしかと云ふに当時兵站各部隊は軍需品の補給、俘虜の管理の外に殆んど銃を採り得るものは全部武装して各地の警備、米比「ゲリラ」部隊の討伐に当り日も尚足らざる状況にありて著しく後方兵力の不足を来しありし実情にありたり

2 五月上旬「コレヒドール」作戦並に各兵団の全比島戡定作戦の基礎配置を終り軍司令部幕僚等「オードネル」収容所を視察して俘虜の管理が憂慮すべき状態にあるを現認し之が改善の施策を講ぜられたり

 即ち先づ有能なる現役中佐を収容所長(英語に堪能にして且人格者を選定せらる)に任命し所員を若干増員せられたり(P37-P38)

 爾来新収容所長は懸命の努力を払って給養、衛生の改善就中死亡者の絶滅対策に邁進せり(P38)


(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)

 「軍事作戦」に手をとられて、捕虜の管理にまで人員が回らなかった、という説明です。ほとんど「言い訳」の域を出ず、日本側が説明に苦慮したことを窺わせます。

 結局日本側としては、その後の「改善努力」を強調するしかありませんでした。


『「バタン」作戦終了後に於ける米比軍俘虜取扱に関する調書』


3 給養の改善

 A 主食の増量

 当時我日本軍に於ても主食は其の数量減少せられあり 俘虜に於ても減少止むなき状態にあり 成し得る限り日本軍と同量ならしむることに努む

 B 副食物

 就中肉類、野菜類の不足著しかりしを以て牛、豚類の飼育配当野菜の現地自活を計ると共に「マンゴ」類の果実を配給す(P38)

(註) 比人は米人に比し「バタン」方面に於ける栄養失調者多く収容所に収容時に於て既に体力気力著しく消耗しありて「マラリヤ」赤痢等の為死亡するもの多き実況にあり

4 住居施設の改善

 A 収容所は管理人員の節減を図り警戒の便を得る為広地域に分散することを得ず 勢ひ狭隘となるの止むを得ざる事情にありたり 然れども其の後兵舎の増築改築を計り住居の改善拡張を期せり

 B 水道管の施設

 収容所の水便は十分ならざる所あるを以て水道管施設により給水の便を図る(P39)

(註) 「オードネル」収容所は高原地帯に在る高燥なる米比軍野営地にして東西千米、南北二千米の地域内に在る臨時構築物を利用 家屋の大部分「ニッパ」藁製にして中に若干の木製あり 然れども「スコール」等の為倒壊せるものありて収容が十分ならざりしを以て増、改築し一九四二年七月末日迄に五十人乃至百人収容家屋を約六〇〇を整備せり

5 衛生施設の改善

 当初に於ては衛生施設見るべきものなかりしを以て病院の施設と薬物の補給消毒の励行等幾多改善施策に努力せり

 A 病院

 一九四二年六月中旬以降「リットルバギオ」に於ける米陸軍病院の当地移動に伴ひ衛生状況は著しく改善せられらり(P40)

 赤痢患者は速に離隔収容し主として米比人衛生部員をして之が看護に当らしめ以て他への伝染を防止せり

 B 排泄物の消毒

 赤痢患者の排泄物の不潔なるは病魔を増長せしむるものにして之が予防の為には排泄物の消毒を第一義なりと認め石灰其の他薬物による消毒を行ふ如く衛生員を督励せり

 又 便所の増築に努む

 C 「マラリヤ」治療の為「キナ」其の他薬物の取得に努めたるも其の最小くして当初の間所望の域に達せざりしも日本軍に於ける薬剤の補給円滑化に伴ひ俘虜に対する支給も漸次円滑となり「マラリヤ」も逐次終息し死亡率亦減少せり

6 死亡調査表作成(P41)

 毎日米比人毎に死者調査「グラフ」を作製せしめ死者の状況を明ならしめ之が原因を探求して減少を策する資たらしむ

 死亡率は当初多かりしも六月中旬病院施設の実現と住居及給養の改善に伴ひ著しく減少し愁眉を開くを得たり

7 娯楽施設

 ■■、運動器具(野球用具其の他)を備付け之が利用により娯楽を得しむると共に体力、気力の増進を図る

8 其の他

 米比人毎に死者に対する墓地を整理せしめ死者の弔を厚からしむ

 以上の施策の実現に努め漸次好結果を収めたるものと認む(P42)


(『戦争犯罪調査資料:俘虜関係調査中央委員会調査報告書綴』所収)

 「報告」が述べる通り、数ヶ月もするとオドンネル収容所の環境は改善され、ようやく「地獄」は終了することとなりました。しかしそれまでの間に、収容所のあまりに過酷な環境から、万に達する死者が発生したことについては、日米(比)双方、争いはありません。

(2014.2.1)


HOME 次へ