| "バターン死の行進"(�供� | バランガからサンフェルナンドまで ―「徒歩行進」は続く― |
約40キロの徒歩行進の末、捕虜の群れは、半島東海岸のバランガに到着しました。ここでは当初の「計画」通り、ようやく最初の「食糧供給」が行われることになります。ただしその「量」は必ずしも十分なものではなかった、と伝えられます。
また、食糧供与に与れなかった捕虜も多数存在した、とする記述もあります。
なお「バランガでの食糧提供」について、報道班員の寺下辰夫は、こんなエピソードを書き残しています。
寺下氏は、本間将軍擁護のための「美談」として上のエピソードを紹介しています。ただし、「バランガで食糧を提供する」ことは、当初の計画で決まっていたことですので、寺下の行動が実際にどれだけの影響を与えたのか、不明です。 しかし、もし仮にこれが事実であるならば、寺下が本間将軍に「進言」を行わなかったら捕虜への給食は行われなかった、ということになります。寺下の意図とは裏腹に、むしろ「日本軍の捕虜の窮状に対する無関心」を象徴するエピソードである、ととることも可能でしょう。 ただし、バランガで捕虜がようやく「苦痛」から解放されたかといえば、必ずしもそうは言えないようです。バランガの仮収容所の衛生環境は劣悪であった、と伝えられます。
当初の計画通りにいけば、捕虜たちはバランガで「食糧」を得、かつ以降は「徒歩行進」から解放されてトラックで移動できるはずでした。しかし結果として、「死の行進」はそのまま続くことになります。
当初、バランガからサンフェルナンドまでは、トラック輸送を行う計画でした。 しかし日本軍は「捕虜輸送」に回すトラックをほとんど確保できず、一方で捕虜の数が当初見積りの二倍近くに達したこともあり、大半の捕虜は「徒歩行進」を続けざるをえませんでした。 バランガでようやく給食を得たとはいえ、捕虜の健康状態を劇的に改善するところまではいきません。火野葦平は、バランガからサンフェルナンドへ向う途中、オラニ難民区の様子を、このように書き記しています。
そして相変らず、監視する日本軍は「規律正しい捕虜移送」に過剰に拘り、行進の秩序を乱すことを許さなかったようです。
「行進から落伍した捕虜の殺害」も続けられました。
ともあれ、約90キロの徒歩行進の末、ようやく捕虜たちは、列車の駅があるサンフェルナンドに到着しました。 |