"バターン死の行進"(供 バランガからサンフェルナンドまで

―「徒歩行進」は続く―


「バターン死の行進」

1.マリベレスからバランガまで ―食糧なき行進―
2.バランガからサンフェルナンドまで ―徒歩行進は続く―  ・・・本稿
3.サンフェルナンドからオドンネルまで
4.オドンネル収容所にて
5.パンティンガン川の虐殺
6.「否定」する側の視点 仝従豐愀玄圓両攜
7.「否定」する側の視点◆ ̄η貧醒鼎任痢嵌歡袁澄






 バランガにて

 約40キロの徒歩行進の末、捕虜の群れは、半島東海岸のバランガに到着しました。ここでは当初の「計画」通り、ようやく最初の「食糧供給」が行われることになります。ただしその「量」は必ずしも十分なものではなかった、と伝えられます。

レスター・I・テニー『バターン遠い道のりの先に』

 倉庫の中庭で一団の日本軍の見張りがグルグル回っているのが見えた。数分も経ないうちに私たちはそちらの方へ集められた。

 びっくりしたことには、動き回っている連中の真中には3つの大鍋がありそれぞれ米が入っていた。食器セットを持っていない連中は直径3インチ(約8センチ)ほどのおむすびをもらった。食器セットを持っている連中はおにぎりと同じくらいの量のご飯をぐっと一杯すくってもらった
。(P100)

 畑のずっと端のほうでは別の一団の見張りが熱いお茶を支給していた。容器を持っていない者は、この有難い水分の配給を手に入れるのにちょうどよい水筒とかコップとかを友だちから借りていた。(P100-P101)

 


マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 ジョン・コールマンたちの隊列は、バターン州の州都バランガの郊外に差しかかるころ、ある監視兵に「今晩、食べ物をやる」と言われた。

 しかし、彼らは以前に何度も同じことを言われていた。日本兵が「タベモノ、タペモノ」といって前方の町を指差し、あそこで食べ物を与えると請け合っても、いざ到着してみると灰色のほこりと悪臭のする水たまりがあるだけだった。

 それでも、バランガとその一五キロほど北のオラニにはたしかに給食施設があった。調理器具には大釜、手押し車、ドラム缶が使われ、湯気の立つ飯とお茶が用意されていた。(P263)



 ミズーリ州コマース出身のビル・シモンズ伍長は、バランガ市内の待機所でうとうとし、食事をする夢を見ていた(食卓には山盛りの料理の皿と冷水のコップが載っていた)。そのとき誰かが叫んだ。「おい、米を炊く匂いがするぞ」

 捕虜たちは鍋に「飢えた獣のように」殺到したが、誰かが「規律を乱すな」と叫んだので、彼らのうちふたりが配膳係を務めることになった。

 携帯用食器のない者は手近なものを代用にした。古い空き缶、ヤシやバナナの葉、ヘルメット、素手(リチャード・ゴードンは、鉄鍋から飯を配っている監視兵に、手のひらをくぼめて突き出した。監視兵はやけどするほど熱い飯をゴードンの素手に勢いよく入れ、声を立てて笑った)。(P263-P264)

 捕虜はひとりにつき飯一杯、塩一つまみ、お茶半リットルを配られた。味のない、量の乏しいこの食事では満腹感を得られなかったが、シモンズたち飢えた捕虜にしてみれば、味が悪くとも、量がわずかでも、「感謝祭のディナーのよう」だった。(P264)



鷹沢のり子『バターン「死の行進」を歩く』


 先のジェームス・バルダサレさんは、マニラ法廷で次のように証言した。

 「バランガの教会の前に来たときだった。平服を着ていたある男性が、二〇〇リットルもある大きな容器に入れたご飯を、私たちが手を差し出すとのせてくれた。握り飯一つくらいだ。彼は兵士だったのか市民だったのかわからない

 また、ペドロ・ゴンザレスさんは、バランガで食料を受け取ったときの様子を語った。

 「私は皺くちゃになった汚れたハンカチを広げて飯を受け取った。皿がなかったので手に直接握りしめて、手をご飯粒だらけにしている捕虜もいた。中には軍服に受けるしかない捕虜もいた

 バランガにやっとたどり着いた捕虜たちに与えられたのは、「おにぎりが一つ」だった。それでは約四〇キロを歩いてきた捕虜たちには残酷である。(P51-P52)

 


 また、食糧供与に与れなかった捕虜も多数存在した、とする記述もあります。

マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 行進してきた捕虜の多く―バランガおよびオラニを通過した者の三分の一以上―は食事をまったくとれなかった。というのも、慢性的な物資不足と常習的な準備不足のせいで不倶戴天の敵である捕虜を困窮させても、日本兵は何とも思わなかった。捕虜に満足に食べさせる余裕もなければ、そうする意思もなかったのだ。(P264)



ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 ⊂困訛斥

 もはや捕虜の数が予想をはるかに上回っていることは明白であった。捕虜たちに最初の食事を与えることになったものの、収拾つかぬほどの人数に対して平等な配分はしだいにできなくなっていった。ある者は米、塩、水をもらったが、何ももらえない者が多かった。(P246)




 なお「バランガでの食糧提供」について、報道班員の寺下辰夫は、こんなエピソードを書き残しています。

寺下辰夫『サンパギタ咲く戦線で』

本間中将の救助方配慮

 さて、私は、当時「バランガ」に進駐していたが、この俘虜と、おびただしい比島避難民の哀れな姿を目撃して、いかに、友軍が食糧不足をつげている折とはいえ、このまま見過しにすることは、人道上、どうしても放置しておくことは出来ないと考えて、直ちに勝屋中佐と現状を視察した上で、某参謀に、急速、できるかぎりの救護を与えたいと進言した。

 ところが、某参謀は―

 「冗談じゃないよ。こちらもヘトヘトで、食うや食わずでいるではないか。どうして、この大軍の人間を、うまく救助したり、理想的な輸送が出来る余裕があるもんかね。

 これまで頑張って来た以上、彼らだって辛い行進ぐらいは、覚悟の上ともいえるじゃアないか。

 勿論、輸送上においては、出来得るかぎりの寛大な態度で、彼らを引率するように手厚く輸送しろということは、まったく不可能だね……」

 と、一言のもとに、つっぱねられてしまった。

 そこで、バランガの小学校に宿舎を構えている和知鷹二中将(参謀長)に、もう一度、救護方法を懇請してみようと、勝屋中佐と二人で、出かけた。

 すると、われわれの言葉を聴いていた和知参謀長は、深くうなずいて―

 「そうだ。作戦第一主義の時は、もう終ったのだ。これからは、君らの意見のように、宣撫工作、文化工作に足を突込んだのだから、なんとしても、彼らを救援してやることが肝心だ。

 僕も、救助方は賛成するからと、早速本間閣下に伝えて、できるかぎりの救援をしたらよいとおもう。


 ところが、今夜は本間最高指揮官は、サンフェルナンドから、所用のために、マニラ官邸に帰っていられるから、どうするかね……」と、いうのである。

 「では、すぐ、これからマニラに飛んで、本間閣下に御目にかかって、本間閣下の命令で、各部隊長の協力を指令していただいて、救護にあたりたいとおもいます」

 「ご苦労じゃが、そうしてもらおうか」と、いう言葉を背に、私は、その足で、勝屋中佐の「五五三号」の自動車で、呉金燦運転手に―

 「今夜だけは、全速力でマニラに飛んでくれ!」

 と命じて、フルスピードで、五十里の道をふっ飛ばして、夜の十時近くマニラの本間中将の官邸に飛び込んだ。

 副官に逢って「夜おそく相済みませんが、これこれの事情によって、バランガから飛んできましたが、本間閣下に御取次を頂けませんか」と申込むと、副官は、すぐに承知して、本間中将に、この由を告げた。(P234-P235)

 本間閣下は、快くすぐに会って下さった。そして、最前線の様相を仔細に報告して、和知参謀長も同意したことを告げて、最高司令官の御決裁を頂きたいと話すと、考える様子もなく、即座に―

 「すぐに、救助方に万全を期せよ

 と裁決をあたえて下さった。

 そして、副官を呼びよせて、その場で「救助命令」を伝えられた。(P235)



 寺下氏は、本間将軍擁護のための「美談」として上のエピソードを紹介しています。ただし、「バランガで食糧を提供する」ことは、当初の計画で決まっていたことですので、寺下の行動が実際にどれだけの影響を与えたのか、不明です。

 しかし、もし仮にこれが事実であるならば、寺下が本間将軍に「進言」を行わなかったら捕虜への給食は行われなかった、ということになります。寺下の意図とは裏腹に、むしろ「日本軍の捕虜の窮状に対する無関心」を象徴するエピソードである、ととることも可能でしょう。



 ただし、バランガで捕虜がようやく「苦痛」から解放されたかといえば、必ずしもそうは言えないようです。バランガの仮収容所の衛生環境は劣悪であった、と伝えられます。


マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 なんといっても、捕虜の数が多すぎた。

 バランガではとりわけ混乱がひどかった。たくさんの隊列が二つの方向から市内に入ってきた。南のマリベレスから行進してきた数千の捕虜と、半島の西側のバガクから東西に延びる道路をたどってやってきた、さらに大勢の捕虜とがここで合流したのだ。

 総勢七万六〇〇〇人にのぼる捕虜が、その半分以下の人数の想定にもとづき物資を用意してあった一時待機所および休憩所に詰めこまれたのである。(P264-P265)

 バランガに到着した捕虜たちはほこりっぽい道路に立つたまま放置された。ぼろをまとった彼らはあてどなく周囲をぶらつき、瓦礫の山をぼんやり眺めた。やがて、次から次へと押し寄せる捕虜たちは、監視兵に誘導され、空き家に押しこまれたり、郊外の有刺鉄線のめぐらされた土地または建物に閉じこめられたりした

 まもなく、バランガ市内の校庭、商品倉庫、穀物倉庫、闘鶏所、トタン屋根の公共施設、工場の資材置場はフィリピン人とアメリカ人の捕虜でいっぱいになった。郊外の田畑はカンザスシティやシカゴの家畜飼育所のようだった。

 一か所にできるだけ大勢が詰めこまれたので、満足に座ることも横になることもできなかった。彼らは、日中には膝を抱えて座ったが、脚が前の者の背中につかえ、肩が隣の者の肩に押しつけられた。そして夜には、缶詰の魚のように隙間なく地べたに横たわった。

 比較的早く到着して待機所に収容されたグループは、いっとき行進から解放され、休息できると思っていた。ところが、バランガとオラニの捕虜の数は数日のうちにどっと増え、数千人に達した。待機所はどこも人員過剰におちいり、汚水溜めのようになった。

 列をなして続々とやってくる、疲れきり、飢えと渇きにあえぐ捕虜を出迎えるのは「不快な悪臭」だった
。バランガに到着したバーナード・フィッツパトリックは、「町全体が下水のよう[な臭い]だ」と思った。

 赤痢にかかっている者は非常に多く、彼らが座ったり横になったりする待機所には、糞尿、分泌物、血液がそのまま垂れ流された。日本軍の衛生部隊が塹壕式の便所を設けていたが、腹を下している者があまりにも多く、蓋のないその溝(長さ二メートル半、幅六〇センチ、深さ一メートル二〇センチから五〇センチだった)は一日であふれてしまった。

 一方、数百人は便所に行くこともままならなかった。待機所に着いてから気力が尽き、力が抜けて、一歩も歩けなくなったのだ。病による緊急事態―激しい腹痛と抑えようのない便意―にも何もできず、着衣のまま糞便を垂れ流し、自分自身の汚物にまみれ、朦朧として横たわっていた。(P265-P266)

 

 当初の計画通りにいけば、捕虜たちはバランガで「食糧」を得、かつ以降は「徒歩行進」から解放されてトラックで移動できるはずでした。しかし結果として、「死の行進」はそのまま続くことになります。



 「死の行進」は続く


 当初、バランガからサンフェルナンドまでは、トラック輸送を行う計画でした。 しかし日本軍は「捕虜輸送」に回すトラックをほとんど確保できず、一方で捕虜の数が当初見積りの二倍近くに達したこともあり、大半の捕虜は「徒歩行進」を続けざるをえませんでした。

 バランガでようやく給食を得たとはいえ、捕虜の健康状態を劇的に改善するところまではいきません。火野葦平は、バランガからサンフェルナンドへ向う途中、オラニ難民区の様子を、このように書き記しています。


火野葦平『バタアン死の行進』


 オラニ難民区。

 (略)

 炎天に灼かれながら、捕虜の隊列は遅々として進まない。思ひ思ひの服装や姿勢で、勝手な行軍をしてゐる。

 指揮をとる者は誰もゐない。ただ、命ぜられた同じ方向に、口もきかず、疲れきった身体を運んで行く。精神のない機械のやうに、或る者は立ちどまり、道傍にしゃがみこむ。また、歩き出す。

 炎天の陽炎につつまれて、弱りきった兵隊たちはときに亡霊のやうにすら見える。道路傍にへたばったまま、長く起きあがらなかったり、そのまま、二日も三日も動かぬ者もある。(P56-P57)

 


 そして相変らず、監視する日本軍は「規律正しい捕虜移送」に過剰に拘り、行進の秩序を乱すことを許さなかったようです。

ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 ⊂困訛斥


 コレヒドール島にいるケソン大統領に会うため島まで泳いで渡ったという若いフィリピン人アントニオ・アキノ少尉もまた、休憩もなく、水ももらえずに歩いていた。彼はバターン半島に来てから二十五キロ以上もやせたが、両足はふくれ上がっていた。

 彼の目の前で一人のアメリカ人がよろめいて、くずれるように道に倒れた。護送兵がそのアメリカ人のわき腹を蹴りつづけた。

 アメリカ人は苦しそうに立ち上がろうとしながら、護送兵に手を差しのべて懇願した。すると護送兵は捕虜の首すじに狙いをつけて銃剣の先端をあてがい、グイと突っ込んだ。そして銃剣を抜くともう一度アメリカ人のからだに突き刺した。アキノらはなすすべもなく見守るはかりであった。(P248)



鷹沢のり子『バターン「死の行進」を歩く』


 また、米比軍第二師団に所属していたジョン・ボール大佐(米人)は、ルバオからサン・フェルナンドの間で起きた出来事をマニラ法廷で次のように証言している。(P87)

 「あるフィリピン人捕虜が歩くのが遅くなって、どんどん離れていきました。まわりの者たちは言い続けた。『起きろよ。早く。日本兵がくるぞ』。しかし彼は起き上がれなかった。意識がもうろうとしていたのでしょう。あたりの水田の掘抜き井戸からは、水が流れていました。

 彼は井戸を見ると走り出した。日本軍警備兵は水を飲んでいる彼をなぐり続けました。彼は立てなくなった。動くこともできないという状態でした。すると日本兵は日本刀を出して彼の肩脛骨の間を刺したのです」

 私が会った元兵士は、「日本兵がせめて水さえ自由に充分に飲ませてくれていたら、死なずにすんだ捕虜はかなりいた」と言う。「暑い四月に水が飲めないのは拷問を受けているようなものだ。日本兵はあまりにフィリピンの気候に無頓着だったのではないか」と、彼は続けた。(P88)



鷹沢のり子『バターン「死の行進」を歩く』


 ルバオにある倉庫に集められた捕虜たちの中には、掘抜き井戸から流れる水を水筒に入れようとして並んでいるときに、機関銃で撃たれて死亡した者たちがいた。フィリピン偵察隊に属していたフェリッペ・マニンゴ中尉は、そのときの様子をマニラ法廷で次のように語っている。

 「四月一四日頃でした。ほぼ一五〇人のアメリカ人とフィリピン人捕虜たちが水筒に水を入れるのを日本兵に許されました。ところが彼らが水を入れている最中に、日本兵たちは捕虜をめがけて射撃を始めたのです。ほとんどが死にました。負傷した捕虜たちは死ぬまでほっておかれました」

 一五〇人の捕虜たちが何の理由で銃撃されたのかは、マニンゴさんにはわからない。いままでの例から察すると、一五〇人は、もうこれから先が歩けない状態だったのかもしれない。日本兵たちが抹殺するのは、「行進」の足手まといになる捕虜たちだった。(P88)




 「行進から落伍した捕虜の殺害」も続けられました。

上田敏明『聞き書きフィリピン占領』

 中部ルソンのタルラック町で会ったレオン・T・アウグスティンさんの場合、マリベレス町を出たのは一〇日の夕方五時ごろだった。その晩は休みを与えられ、翌日バランガ町に入った。二泊させられ、一三日にルバオ町に着いた。

 この途中、ヘルモサ町の北を進んでいるとき隊列の中の二人が歩けなくなったが、日本軍の護送兵は容赦なく鉄砲で撃ち殺した。亡骸はそのままうち捨てられた。(P80)



ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』 ⊂困訛斥


 (ルバオにて)町のはずれで日本兵は捕虜の先頭を、ブリキで囲んだ大きな精米所の建物の中に押し込みはじめた。数千人が詰め込まれた。その中にはたった一つの水道の蛇口があるだけであった。残りの捕虜はその建物の外に集められた。この連中にも水道の蛇口は一つしかなかった。

 その精米所では残虐行為が普通のことになった。捕虜は、ちょっとしたことで言うことをきかなかったと言って軍刀で切りつけられ、はっきりした理由もなくなぐり殺された。(P250)



 ともあれ、約90キロの徒歩行進の末、ようやく捕虜たちは、列車の駅があるサンフェルナンドに到着しました。

(2014.1.26)


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