旧『思考錯誤』投稿集 −2005年


 旧「思考錯誤」板、及び「画像検証掲示板」への過去投稿を集めたものです。

<参考>

 『思考錯誤』投稿集 2008年−2009年


 『思考錯誤』投稿集 2007年


 『思考錯誤』投稿集 2005年−2006年



<目次>

写真26 十六歳の少女 2005/04/16 03:42

鉄砲担いで幾山河 2005/03/06 09:04:00


Re: 鉄砲担いで幾山河 2005/03/12 08:30:56

Re: チベットの虐殺 2005/02/19 06:02:51

「ラーベ日記」(平野訳)の誤訳について 2005/02/05 16:16:18

本日発売・東中野修道氏「南京事件 証拠写真を検証する」 2005/02/03 20:40:09

Re: 本日発売・東中野修道氏「南京事件 証拠写真を検証する」 2005/02/11 13:10:04

小ネタでもう一つ 2005/02/13 15:09:02

赤尾純蔵氏の記述の変遷 2004/12/04 06:26:21


落合信彦『目覚めぬ羊たち』 2004/05/29 06:45:28

石井清太郎氏(荻洲部隊) 「いのちの戦記」 2003/11/26 22:00:55

いいかげんな「ラーベ日記」翻訳 2003/10/25 11:33:13

セオドア・ホワイト「歴史の探究」 2003/10/12 08:09:41

東中野氏「南京攻略戦の真実」 2003/08/09 08:56:08

Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」 2003/08/14 18:45:46


Re: 「どろんこの兵」より 2003/08/18 22:00:48

Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」 2003/08/15 09:29:50

新聞記事コレクション 2003/12/27 09:12:08





写真26 十六歳の少女

- 05/4/16(土) 3:42 -

<東中野修道氏 『南京事件 「証拠写真」を検証する』より>



写真26は「南京で日本軍に輪姦され病気となった十六歳の少女」と説明されているが、この少女まマギーフィルムにも出てくる。 南京で唯一開いていたのは鼓楼病院(南京大学病院)であり、そこのロバート・ウィルソン医師は、詳細な日記風の家族宛ての手紙を残している。

 ところが非常に印象的なこの写真やフィルムに該当する記述が見当たらないのである。(同書 P104)
 


 東中野氏、一体何を言いたいのでしょうね。言いたいことがあったらハッキリ言え、ってなもんです。

 「該当する記述が見当たらない」から、この少女は実は「鼓楼病院」の入院患者ではなかった。実はマギーは「患者」をデッチ上げていた・・・・なんてハッキリ書くと、いかにも無理無理なアホ文章になってしまいますね。

東中野氏、わざと「結論」を書かず、あとは読者のご想像にお任せします、と逃げてしまっているんじゃないか、という気がします。


 ウィルソン日記は確かに「詳細」ですが、それでも、何百人(おそらくは千人以上)という患者全員に余すところなく触れるほど「詳細」なわけではありません。 具体的な症例に触れているのは、全体で、せいぜい三十数人、というところでしょうか。

 実際に日記を見ると、ウィルソンの関心がどこにあるか、よくわかります。ウィルソンにとっての一番の関心事は、目の前の患者、それも、自分が直接手術を行った難しい症例の患者であったようです。 当時ありふれた存在であった「強姦された少女」にいちいち言及しなかったとしても、何の不思議もありません。

http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/wilson01.html
http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/wilson02.html
http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/wilson03.html


 この写真に対応する記述を「マギー牧師の解説書」に探してみたのですが、どうやら見あたりません。私は「マギーフィルム」を実際に見たことがないのですが、「解説書」と「フィルム」が、必ずしも厳密に対応しているわけではないようですね。

http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/mageefilm.html



 さて実は、ウィルソン医師、極東軍事裁判ではしっかりとこの少女に言及しています。ちょっと調べればすぐにわかるのですが、東中野氏はスルーしてしまったようです。

<極東国際軍事裁判 ウィルソン証言より>

 「ジョン・マギー」牧師に依つて十五歳になる女の子が病院に連れて来られました。診察の結果はそれを確証致しました。約二箇月後に再び此の女は病院にやつて参りました。第二期黴毒の腫物の状況がありました。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻 極東国際軍事裁判関係資料』)


 ついでに、極東軍事裁判におけるウィルソン証言の全文を紹介しましょう。

 http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/wilson04.html

 ウィルソンに対して反対訊問を試みたのは、岡本弁護人と伊藤弁護人。このうち岡本弁護士の追及はどうやら不発に終わっていますが、伊藤弁護人の方は、上の少女に話を絞って、 「ひょっとしたら犯人は日本兵ではなかったのかもしれない」と思わせることに成功しています。

 有名なシーンですが、あらためて紹介しておきますと・・・・


<極東国際軍事裁判 ウィルソン証言より>
 
○伊藤弁護人 松井石根被告の弁護人伊藤清であります。私は英語が能く解りませぬので、昨日の証言に付て念の為に質すのでありますが、中国の女が日本兵に強姦されて、其の後二箇月にして其の女が黴毒の二期の徴候を現はした、さう言われましたか。

○ウィルソン証人 其の通りであります。

○伊藤弁護人 私の研究した所、勿論素人ですから大したことぢやありませぬが、黴毒の二期の症状は、感染後三箇月以上経たなければ現はれないやうに著書にも書いてあるのですが、如何ですか其の点は。

○ウィルソン証人 それは第三期のことであります。

○伊藤弁護人 学説の違ひですか。私の持つて居ります此の著書には三箇月以後と書いてあります。

○ウィルソン証人 あなたの引用されて居る本は何でありますか知りませぬが、私の経験する所に依りますと、黴毒の発疹を致しますのは感染後六週間から三箇月の間であります。

○伊藤弁護人 私の此の著書に依りまして、日本兵と関係してから後、二箇月にして黴毒の二期の症状が出て来たとするならば、其の黴毒の感染は少くともそれよりも三箇月以上前でなければならないのだから、 其の感染は日本兵に依る伝染ではない、斯う云ふやうに断ぜざるを得ないのであります。

○ウィルソン証人 あなたはあなたの御意見を御持ちになることが出来ますし、私は私で自分の意見を持つことが出来ます。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻 極東国際軍事裁判関係資料』)




 これだけ読むと、どうもウィルソンの旗色が悪い。ウエッブ裁判長が、このあとに「あなたは証人の証言を受取らなければなりませぬ」と無理矢理に話を遮ってしまったところが、その印象に拍車をかけます。伊藤氏、なかなか優秀な弁護人であったようです。

 松村俊夫氏なども、このやりとりを取り上げて、伊藤弁護人に軍配を上げているようです。
 

 しかし幸いにして、現代の我々は、「ネットで検索する」という裏技を使うことができます。試しに、「梅毒 第二期」で検索をかけてみました。


http://homepage3.nifty.com/humansexuality/mail/st/std0/S8.htm

 その後、第二期に入り、6〜8週間後くらいから皮膚や粘膜にやや盛り上がった赤い発疹が繰り返し表れるようになる。

http://www.infocompu.com/adolfo_arthur/japones/sifilis_s.htm
梅毒第二期では、口腔内に粘膜班が現れる、これは、スピロヘータの侵略に組織が対応するために生じる病変である。スピロヘータは血やリンパによって運ばれる。6週間から6ヶ月の潜伏期間の後で現れる。

http://www.sm-sun.com/kenkou/seibyou/baidoku.htm
感染して約三ヶ月後に、第二期の症状があらわれてくるようになります。全身にバラ診といわれる、赤い発疹が出たり消えたりするようになります。これも痛みのない発疹です。

http://www.condomall.cbr-j.com/condomall/Byouki/baidoku.htm
第二期梅毒(感染3ヶ月後くらい)
全身に発疹がみられるのが特徴。発疹の形は丘疹、斑状疹、膿疱疹が顔や胴体に発生します。どの発疹もバラ色をしているのでバラ疹とも呼ばれています。


 短いもので6週間、長いもので約3か月。ページによってちょっとバラつきがありますが、ウィルソンの「私の経験する所に依りますと、黴毒の発疹を致しますのは感染後六週間から三箇月の間であります」という発言は、決して無理なものではないようです。

 まあいずれにしても、東中野氏のコメントが見当違いであることは間違いありません。




鉄砲担いで幾山河

2005/03/06 09:04:00

 著者の草川鐘雄氏は、第三師団第六連隊第一大隊第三中隊所属。上海戦当時は歩兵伍長、終戦時は准尉でした。この手記は戦場の想い出を淡々と綴ったもので、元中隊長が序文を寄せています。

 その中に、ふたつばかり、興味を引かれるエピソードがありましたので、紹介します。いずれも「上海戦」での出来事です。

 まずは、「捕虜殺害」です。



 そんな或る日、第一分隊長の武田伍長が衛兵勤務の時私は衛兵を下番して眠り込んでいるを「草川オイ草川」と起される、なんだと問うと彼が「捕虜が1人いるが目障りだから首を切れ」と言うので「お前が切れ、刀は此処だ」と言うに 「いやお前でなければいかん」「そうかよーし」と刀を持って衛兵所に出向きました。

 捕虜を引張り出し、衛兵所から少し離れた処の戦車壕の穴の傍に座らせて「エイーッ」と掛声とともに 我乍ら見事に切り、戦車壕の内に死体を落としました。 黒山の様に取り囲んだ見物の仲間達に「上手いもんだ」と賞められて好い気持ちの後が大変でした。

 旅団から大切な捕虜を預かり事の重大さを知らず、無断で首を切ったと大変なお叱りだとか、塚本准尉さんも上部(中隊長代理)に呼び出された由、聞いて申し訳のない事したと思ったが、武田伍長が草川が勝手に捕虜を引張り出して切ったと言ったと聞いて、 馬鹿にしやがると腹も立ちましたが「気をつけろ!」で済んだのでよかったが、とにあれ切ったのは私ですから責任は矢張り私でしょう。

 以来は例え切っても許可を得て切った事でした。この時が3人目で後に2人切り計5人切りました。

 失敗は一度だけでした。その時は私に向けた顔のなんと凄い目付が時に折に浮んでくるのも私の業のなせる処と般若心経を唱えています。これの事で或る日般若心経を唱えても相手は支那人日本語では霊を静めるのではなく迷うのでは?と、 生き残った方のこちらの身勝手さを思った事でした。

(P142〜P143)


 伍長から「首を切れ」と言われたら何の抵抗もなく簡単に切ってしまう。そして、「切った」ことを自慢話として語っています。「旅団から預かった」捕虜を勝手に切ってお咎めがあったようですが、それも「気をつけろ!」の一言でお終い。 あとの4人は、上部(中隊長代理?)の許可を得れば、簡単に切ることができたようです。

 救いは、「失敗」の時に捕虜から睨まれた目付を思い出して「般若心経」を唱えていることです。いずれにしても、上海戦当時、「捕虜殺害」が日常的に行われていたことを伺わせるエピソードです。


 次は、「未だ息をしている支那兵」の頭に穴を開け、脳味噌を取り出し、焼いて食ってしまった、という凄まじい話です。



此処での思い出に残る物があります。K伍長(原文実名)が「オイ喰わんか」と無造作に呉れた生肉、何んの疑いもなく、オイ肉だ肉だと大喜びで、肉飯にしたり、煮物にしたりして、扨て食事です。

 誰かが「この肉変だぞ!」 そう言えば、そうだ変だ、文句は言っても肉は肉、美味しく食べてからK伍長に聞くと平然と「アーあれか、赤犬だよ」 何の不思議もない顔で言った。

 「なにー赤犬だと・・・・」 あきれ顔の私に、純粋の赤犬は身体には迚(とて)も好いんだが、半年位は薬は何をのんでも効かんからなー」とおっしゃる。

 これが第一で、第二は未だ息をしている支那兵の頭を十字鍬で叩いて穴をあけ、脳漿(彼は脳味噌という)を取り出し、手つかみで大丼にみんな一杯入れ、もう一つの丼で蓋をして、 それに泥を丼に塗りつけ、まん丸みたいにすると、既に穴をあけ火を入れた上に乗せる。その上にもたきぎをのせ、どんどん燃やす。

 やがて泥のかたまりが真赤に焼けてきた。更に一と時火を燃やして「もう好かろう」と火を払い、スコップですくうと泥を落とし蓋を取り去ると中味は真黒になっていた。

 黒焼きの脳味噌、ナイフで突いてひとつまみ口の中に入れ、目を宙に味見するK、皆んなあきれて嘆息ついて、何んと変った事をする偉いお方が御座るものかと、つくつく感心したものです。

 この彼の事に関しては色々と後述しますが、本当に私達の考え思う人とは別な社会の人の様です。
(P117)


どうやらK伍長は、「梅毒の薬」として脳を食べたようです。氏は「戦場でのちょっと面白い話」程度の感覚で語っていますが、嫌悪感なしには読めない記述です。

ちなみに「中国兵の脳を食った話」は、これとは全く別のものですが、井上源吉氏の『戦地憲兵』、あるいは歩兵第104連隊の『歩一〇四物語』にも登場します(いずれも上海戦での話です)。 一部異常者の仕業とはいえ、「脳を食う」というとんでもない行為が、ある程度日本軍の中で行われていたことをうかがわせます。



Re: 鉄砲担いで幾山河

2005/03/12 08:30:56


「戦地憲兵」「歩一〇四物語

 まず、井上源吉氏の「戦地憲兵」。1937年11月頃、北京の捕虜収容所での話です。


 こうして収容所が開設されて一週間ばかりたつと、内地から補充された予備役のおっさんたちが六名ほど門頭溝の中隊から到着し、私たちの小隊へ補充されてきた。

 ところがこれは、中隊の方で手におえぬ者を選んで送ってきたかと思われるほど始末に負えぬ連中で、下士官たちを呼ぴすてにするばかりか、小隊長の命令さえ無視して、満足に勤務にもつかない。

 二、三年兵は神様だがオレたちはその上のホトケ様だといって、毎日一人あたり二合ずつ支給される酒やピールはホトケ様へお供えしろ、と私たちに強要してまきあげ、朝から晩まで室内にとぐろを巻き賭博や飲酒にふけっている、いわゆる兵隊やくざであった。

 おとなしい小隊長は、さわらぬ神にたたりなしとばかりに、こうした彼らを知りつつ放任していたが、そのうちに彼らは恐るべきことをやってのけた。

 ある夜、二名の捕虜が逃亡をくわだてた。これをとらえた小隊では他の捕虜たちへの見せしめのため斬首して校庭のすみへ埋めた。これを見た彼らはさっそくこの首を掘りかえし、脳をとりだしてくってしまった。

 たまたまそのとき用事のため彼らのたむろする部屋へはいった私にたいしても、「珍らしい肉が煮えているからひと口くっていけ」といってすすめたが、私は彼らと接触することをさけるため、隊務にことよせてこれをことわりはやばやと退散した。

 このときはその肉が何であるか知らなかった私であったが、翌日になってそれが人間の脳ミソであることを知り、身の毛がよだつ思いがした。

 彼らは外出すれば、飲み屋の女や淫売婦たちをおどして金をまきあげ、他隊の兵隊と帯剣を抜いて刃傷沙汰におよぶという、まったく街のごろつき顔まけの行為をつづけていたが、彼らの仲間は私たちの小隊だけではなく、門頭溝の中隊にもいた。 (同書P58〜P59)



井上源吉氏は、1937年3月応召、北支那駐屯軍歩兵第一連隊に入営。1938年5月東京陸軍憲兵学校を卒業後、中国各地を転任、終戦時陸軍憲兵曹長。憲兵としてのさまざまな体験談が語られており、興味深く読める一冊です。 なお上は、憲兵になる以前の兵隊生活でのエピソードです。


次は、「歩一〇四物語」。上海戦の頃の記述です。



 戦後、いろいろの作家が戦争と犯罪について書いているが、私は別の角度から書いてみたい。一つは迷信に基く純朴な犯罪についてである。

 Aの妹は肺病(結核と思うが)である。Aは両親がなく妹と二人だけであった。不治の病と宣告されていた。妹の病気には脳の黒焼がいいということを聞いていた。彼は敵兵の脳をひそかにとって、おぼろげな話をたよりに黒焼を作って凱旋の日を待った。

 Bの母は中風で半身不随であった。それには人間のきもがよく効くという。彼はきもをガーゼにのばして陰干にした。彼はこれを後生大事に持っていた。

 Cの愛児は今でいう脊髄カリエスであった。人骨を粉にしてのませると治るという話だ。彼は人骨集めに夢中になった。ある日、友達に発見された。

 この三人はみんな戦死したという。これは私が病院で聞いた話である。これは、うちの連隊の兵士のことではない。

(P426〜P427)



この本、「第十三師団歩兵第一〇四連隊」のいわば「公式戦史」なのですが、無味乾燥に戦闘の叙述を並べるにとどまらず、いろいろと面白い記事が掲載されています。これまた、読んで損のない一冊です。



さて、「鉄砲担いで幾山河」を含めた3冊のうち、「歩一〇四物語」は、病院での噂話であるに過ぎません。しかし、あとの2冊を読むと、この「噂話」は十分ありうることではないか、という気がしてきます。

「鉄砲担いで幾山河」では、筆者は、「脳を食った」伍長の話を、自分の直接の目撃談として語っています。しかも、自分も相手も実名です

「戦地憲兵」は、筆者がその現場を見かけ、くっていけ、と勧められた話。「それが捕虜の脳であることをどのようにして知ったのか」という細かい話は省略されていますが、井上氏自身が「それは脳だった」と認識していたことは事実です。

念のためですが、紹介した三冊は、別に「日本軍告発の書」ではありません。いずれも、よく見かける「戦場体験追憶物」です。「鉄砲担いで幾山河」にも、しっかりと当時の上官の推薦文が載っています。


以上は、たまたま、自分の手持ち資料の中で、私が気がついたものであるに過ぎません。本気で捜せば、この種の話はまだまだ見つかるかもしれません。

まあ私も、ある程度信頼できる資料の中にこんな話が出てくるとは、ちょっと意外でした。中国側資料には、我々の感覚ではちょっと信じがたい「猟奇的事件」がいろいろと出てきますが、 ひょっとすると、そのうちの一部は、日本軍の異常者によるこの種の話が拡大されて伝わった、という可能性もあるのかもしれませんね。




Re: チベットの虐殺

2005/02/19 06:02:51

実は私、「南京」に関心を持つ直前、「チベット」について掲示板で議論したことがあります。

文献など1冊も当たらず、「ネット情報」のみを頼りにした議論でしたが、その時調べた限りでは、「120万説」はどうも根拠薄弱らしい、という印象を持ちました。


おそらくお気付きと思いますが、「人数」について詳しいのが、ここですね。ここが「120万説」のルーツであろうと推定されます。

http://www.tibethouse.jp/human_rights/human38.html


「1949〜1979年の間に死亡したチベット人」の合計が、1207387人、とのことです。

当然、私は素朴な疑問を持ちました。何で人口が400万だか600万だかわからなかった地域で、「被害者数」が「人」単位でわかるんだ?  しかもこれは「虐殺」人数ではなく、「死亡した」人数。「飢餓」「自殺」まで含まれています。まあ、広い意味では「虐殺」なのかもしれませんが、少なくともこのページでは、「虐殺が120万人以上」という表現は使われていません。

この素朴な疑問、未だに解消されていません。「人権侵害」自体はおそらく事実でしょうが、「120万虐殺」というのは眉唾ではないか、というのが私の感想です。

ただまあ、「チベット」を問題にする方というのは、「人権意識」から問題意識を持つのではなく、「中国だって自国民を120万も殺してるじゃないか。日本のやったことなんてたいしたことじゃない」という方向から論じる傾向があるように思います。

アムネスティのように「人権意識」から「チベット」に取り組むのであれば私も大いに共感するところを感じますが、ネットウヨ君の言い分は、「ボクはキミをいじめたかもしれないけど、キミの親だってキミを虐待しているじゃないか」というレベルの話。 ほとんど小学生の言い訳です。




「ラーベ日記」(平野訳)の誤訳について

2005/02/05 16:16:18


「月曜評論」に掲載された、桑原草子氏の「ラーベ日記日本語訳を検証する」を入手しました。

「月曜評論」というのは、「月曜評論社」が出している、月刊新聞。右派系のようですね。同社のサイトを見ると、「購讀料 年間9,000圓」なんて調子の旧漢字に、ちょっとぎょっとさせられます。
http://www.matsubaratadashi.com/getsuyou.html (現在はリンク切れ)

さて、当論稿、新聞紙のまるまる3面分を使った、大作です。桑原氏の右派に偏したコメントが鼻につきますが、「誤訳」指摘自体は非常に面白いものです。以下、桑原氏が指摘する事例のうち、いくつかを紹介していくことにしましょう。


11月17日

(平野氏訳)程度の差こそあれ、みな、ぼろをまとって、荷物を背負い、・・・

(桑原氏訳)程度の差こそあれ、全員が、ボロボロになつた
平服をまとい、・・・


文庫版では、P53です。わかりにくいので、平野氏訳を、もう少し長く引用します。

>それにしても新たに徴集された新兵、かれらはなんというひどい恰好をしているのだろう。程度の差こそあれ、みな、ぼろをまとって、荷物を背負い、さびついた猟銃をかついでいる。

「ぼろをまとって」は「ボロボロになつた平服をまとい」が正しい、とのことです。なるほど、徴集されたばかりで、これから軍服を支給されるんだろうな、と私など素直に思ってしまうのですが、ここ、桑原氏の解説はちょっとトンでいます。

>南京には、逃亡・潜伏に際して、急ぎ平服に着替へた便衣兵の他に、初めから平服のまま組織された便衣兵もゐたことが、これではつきり分かる。
(注 桑原氏は「旧かな遣い」を使用していますが、無理して使っている印象は免れません。素直に、「いた」とか「はっきり」とか書けばいいのにね)

「初めから平服のまま組織された便衣兵」が「南京」で戦闘を行った、という信頼できる記録は存在しません。これは「常識」のレベルだと思うのですが、桑原氏、「南京」についての知識は、ちょっと頼りないようです。


私が以下のアドレスで投稿した「誤訳」についても、しっかりと指摘がありました。これは嬉しい。
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/7/pdpqrf/pdpqrf.html

*「ゆう」注 現在はリンク切れ.。本投稿集の「いいかげんな「ラーベ日記」翻訳」がそれに該当します。


12月1日

(平野氏訳)米と小麦粉は売ればいい。
できるだけ高値で。

(桑原氏訳)米と小麦粉は売ることができる。
売値の上限は我々が決めておかねばならない。



●12月7日

(平野氏訳)約束の食料のうち、ここに運び入れることができたのはたった四分の一だ。なにしろ
車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった。

(桑原氏訳)約束の食料のうち、安全区に運び入れることのできたのは、せいぜい四分の一である。といふのも、我々には輸送手段が欠けていた。
車が絶えず軍によって徴発されたのである。



どちらも、ひどい誤訳です。


12月7日

(平野氏訳)
城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。

(桑原氏訳)
城門の外では家が焼かれている。郊外の火を放たれた地域の住民は我らが安全区に逃げるやう指示されてゐる。



「城門のちかく」と「城門の外」「郊外」では、全く違ってきます。この誤訳も、罪が重い。


12月10日(文庫版P108)

(平野氏訳)
欧州の記者たちが報道規制されているのが、残念無念だ! 中国軍のやつら、あいつらの首をしめあげてやりたい。軍隊を立退かせるという約束はいったいどうなったんだ?  いまだに果たされてないじゃないか!

(桑原氏訳)当地に滞在してゐる
欧州の戦争報道記者たちに、真実を包み隠さず伝へることが出来ないのは、本当は残念なことである!  中国軍の例の数人は、晒し台に晒されて、公然と非難されてしかるべきなのだ。安全区から軍隊を立ち退かせるという約束をまだ果してゐないのだから。


何で中国が「報道規制」をするんだろう、と私も引っかかっていた場所です。別に「報道規制」されていたわけではなかったようですね。



次は、誰もが引っかかっていたであろう部分。やっぱり誤訳でした。


●スミス講演(文庫版P131)

(平野氏訳)
十二月十三日の夜になると、中国兵や民間人が略奪を始めました。

(桑原氏訳)
十二月十二日の夜から十三日の未明にかけ、中国兵部隊と市民が略奪を始めました。



そうでしょ。「十三日の夜」のわけ、ないじゃん。


次もまた、ひどい。

12月16日(文庫版P134)

(平野氏訳)ただし、この手紙に記されているのは、無数の事件のうち、
我々が知ったごくわずかな例にすぎない。

(桑原氏訳)ただし、この手紙に言及されてゐるのは、
我々が知つた多くの事例のうちの、ほんの数例にすぎない。



意味が全然違ってきます。



以前話題になった、「ささやかな暴動」も登場します。

●1月8日(文庫版P195)

(平野氏訳)
このときのささやかな暴動に加わった人は死刑になった。いままで安全区が平穏でいられて、本当によかった。どうかこういう悲惨なことにならないようにと祈るばかりだ。

(桑原氏訳)どんなに些細なものであれ、中国人の不法行為は、
日本人によって死をもって罰せられる。これまでのところ我が安全区が完全に保てたことは、本当に喜ばしい。 今後もさういふ悲惨なことは経験せずにすむやう祈るばかりだ。


実際には「死刑」にはならなかったようです。


きりがないので、このくらいにします。「ラーベ日記」の平野氏訳、このままでは到底まともに議論に使える代物ではない、ということを再認識させられますね。「超訳」と思えば、腹も立たないのでしょうが。



本日発売・東中野修道氏「南京事件 証拠写真を検証する」

2005/02/03 20:40:09


本屋に平積みになっていましたので、早速買ってきました。

第1章「南京戦とは何だったのか」は、これまでの東中野説のまとめ。第2章以下が、写真分析です。とりあえず第1章を斜め読みしたのですが、いやあ、東中野先生、相変わらずです。



このように陥落後の人口は「二十万」もしくは「二十五万」と認識されていたのである。・・・かりに殺人の蔓延が目撃され、城内で一万二千人が殺されたと非難するのであれば、その非難を強める意味でも、 誰かが「一万人以上が虐殺され。人口は十九万以下になった」と書いて然るべきであった。ところが誰ひとりとして人口減とは記録していない。(P54)



「二十万」自体、幅を持った「見当」の数字なのですから、一万の虐殺があったとしても、「人口は十九万以下になった」なんて書く人、いるわけないじゃない。先生、「集会は200名の参加を得て成功した」という文章を見たら、 「私が行かなかったら199名だ、ウン」なんて大真面目に言いそうな気かする(^^)

「反日工作撹乱隊」説は復活しているわ、「捕虜の4条件」を真面目に論じているわ、安全区敗残兵狩りでは「反抗的でない市民が処刑された可能性はかぎりなく低い」なんて言い切ってしまうわ、 王固盤の雑談は「談話を発表する」なんてものものしいことになってしまうわ。先生は、絶対にこの「思考錯誤」板を見ていないぞ。

映像資料の検討は、タラリさんなり渡辺さんなりja2047さんなりにお任せするとして、ただまあ、いくら「写真の問題」を暴いたところでそれは別に「南京虐殺」を否定する材料にならないのは、あちこちで言われている通り。


実は私の関心は、「盧溝橋事件」の方にあったりします。この分野、結構真面目な議論ばかりで、私がネタにできるようなトンデモ論にはなかなかお目にかかれないんですよね。右派の中村粲氏にしても岡野篤夫氏にしても、 ストライクゾーンぎりぎりという気はしますが、十分「研究」のレベルに達している。ところが、この東中野氏は・・・。



北京郊外の蘆溝橋で、日本軍はいつものように実弾ではなく空砲を使って演習していた。ところが、昭和十二年七月七日二十二時四十分、日本軍が発砲される。秦郁彦『盧溝橋事件の研究』でも明らかなように、これは中国第二十九軍が放った一撃であった。

一発のみで終わっていたのであれば偶発的なものだったとも言えるが、さらに第二撃、第三撃、第四撃とつづいた。そうなると偶発的どころか意図的な射撃、すなわち挑発と言わざるを得ないであろう。 そう判断した日本軍は、結局、第一撃から七時間が経過した七月八日の視界明瞭な午前五時半、第四撃を受けたのち、ようやく反撃に出たのである。
(P27)

さて、どこがおかしいか。ちょっと御存知の方でしたら一目瞭然でしょうが、ちょうどコンテンツ作成中ですので、「答え」はそちらに書いておくことにしましょう(^^)

*「ゆう」解説 その後「盧溝橋事件」については、「盧溝橋事件 「第一発」問題」などにまとめました。




Re: 本日発売・東中野修道氏「南京事件 証拠写真を検証する」

2005/02/11 13:10:04


とりあえず、ネタをひとつ

東中野氏のこの本は、最初の2ページほどが前置き的部分。そこを通過した最初の文章に、早くもおかしな記述が見られます。  


そうするうちに疑問が出てきた。南京で戦死体の埋葬を指揮した南京特務機関の丸山進氏にお会いしてみると、 氏は南京陥落(昭和十二年十二月十三日)から三カ月後の昭和十三(一九三八)年三月十五日をめどに埋葬を完了させたので、ラーベの言うような三万体の死体はそのころはもうなかったはずだと語られた。(P10)



ここで私も引っかかりました。埋葬完了は3月15日とのことですが、ラーベは2月中にはもう南京を離れていたはずです。

そこで、「ラーベ日記」を確認してみると・・・。


二月十五日

 委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。 いままで毎日二百人を埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は、下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。

(文庫版 P290〜P291。今手元に英語版がありませんので、翻訳が正確であるかどうか、定かではありません)


やはり、「二月十五日」の話でした。丸山氏は「三月十五日」の時点で「三万体の死体はそのころはもうなかったはずだ」と言っているようですので、これはラーベの記述が間違いであると決め付ける根拠にはなりません。

「三万」という数自体はおそらくは目分量によるもので正確ではないでしょうが、「紅卍字会」の埋葬記録を見ても、「二月十五日」以降に下関方面で相当数の死体を収容しています。(二月二十一日5000体、三月六日1772体、など)

これはおそらく、丸山氏が「ラーベ日記」を十分に読まなかったための単純な勘違いでしょう。しかし、これをそのまま紹介してしまった東中野氏の罪は、重いと言わざるをえません。



小ネタでもう一つ

2005/02/13 15:09:02

(一部略)


東中野氏は、P65で、おなじみの「チャイナプレス」記事を引用して、「反日撹乱工作隊」説を復活させてしまいました。その「引用」に続けて、こんな文章が見られます。


安全地帯に潜伏していた将校が安全地帯の中国兵に撹乱工作を命じていたのだった。

これと同じような記事は、小林太巌氏が『日本「南京」学界会報』第十二号(平成十六年三月)に詳論したように、 『大阪朝日新聞』(昭和十三年二月二十七日付)が「皇軍の名を騙り掠奪暴行 不逞支那人一味捕る」と題して、実名入りで報じている。



「大阪朝日新聞」記事が、「反日撹乱工作隊」説の裏付けになっているように読めますね。ところが実際には、この記事は、「中国兵」ならぬ「洋服仕立」屋さんたちが、 「皇軍入城後日本人を装ひわが通訳(注 「日本兵」ではない)の腕章を偽造してこれをつけ」て強盗を働いていた、というものに過ぎませんでした。

http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/ivhqrf/urwqrf.html#urwqrf

*「ゆう」注 現在はリンク切れ。本投稿集の「新聞記事コレクション」がこれに該当します。

ちなみに、私のこの記事の紹介は、一昨年の12月27日のことですから、小林氏の紹介よりも早い(^^)


この時の、私のコメント。

>南京における「種々の暴行」を、ひとつの強盗団の仕業にしてしまおうという、苦心の発表です。そもそも「通訳の腕章」しかつけていないわけですから、「将兵」の「数々の暴行」を彼らのせいにしてしまうのは、無理があります。

>「一味を日本人と信じきつてゐたため発覚が遅れた」という部分が、問わず語りで、なかなか笑えます。つまり、「日本人と信じきつてゐた」ら、中国人たちは日本側に「通報」することはしなかったようです。



これを「反日撹乱工作隊」説の裏付けに使うのは、いくら何でも無理でしょう。



赤尾純蔵氏の記述の変遷

2004/12/04 06:26:21

私のHPで、第九連隊所属の、赤尾純蔵氏「泥と血の中」(1959年)の記述を紹介しました。「下関の捕虜殺害」をリアルに伝える、貴重な記録です。
http://yu77799.g1.xrea.com/shaakan.html

 さてこの度、同氏が1987年に書いた、「荼毘の烟り」という本を入手しました。この本に、同じ日の出来事がどのように記述されているかというと・・・。



野戦病院で、軍医の手当をうけつつ数日過したのち、私は上海の兵站病院に後送されることになった。私ほか十数人の負傷者を乗せた小型バスは、中山門から南京城内に入り、中山東路という広い道をゆっくり走って、市内の中心部を通り、揚子江岸の波止場に向った。

 この日、私が始めて見た南京の市内は、殆んど人影はなかった。建物もそのままで、大きく破壊されているようには見えなかった。市内は火の消えたように淋しかったが、きれいに清掃されていた。人間の屍体などは一つもなかった。 約一時間ほどゆっくり走って、われわれの小型バスは南京の揚子江岸の波止場についた。

 揚子江上には、数隻の日本軍艦と貨物船が数隻、またその他に赤十字のマークのついた病院船が、イカリを下していた。 揚子江上につき出ている数個の桟橋付近には、普通の日本人にまじって、二〜三〇人の中国の人が、小舟を操って、日本の船からの貨物の陸揚げを手伝っていた。 とても、つい先日熾烈な攻防戦があった南京の波止場とは思えない、和やかな風景であった。

 正午すぎ、私は白衣姿で、病院船にのり、揚子江を下って上海に向った。船内ではからずも、私の陸士同期生の肱岡君に会った。彼も白衣姿であった。 彼は三重県津の歩兵第三十三聯隊の中隊長として、紫金山で戦斗中、胸部を射ちぬかれて重傷を負い、私と同じように、上海に後送されるところであった。

 (P212〜P213)



 前著に書いた「捕虜殺害」の風景が、見事にカットされています。それどころか、何と、「和やかな風景」などという表現まで飛び出してきます。

 念のため、「泥と血の中」の、全く同じ場面での記述を、私のページから再掲します。



揚子江の水は泥水かと思われるほど汚く、流れの真中に数隻の貨物船と病院船が停泊していた。

 波止場にはいくつかの倉庫があったが、その倉庫から五つ六つの細い桟橋が河上につき出ていた。桟橋の上には、青い支那服をきた中国人が倉庫から出て、一歩々々ゆるやかなあしどりで河の方へ進んでゆく列が見られた。 桟橋の先端では、三人の日本人が刀を振りあげて中国人の首を切っていたのである。

 その日本人は軍服を着ていなかったので、武田の眼には軍属のように見えた。首を切られる中国人は、或者は既に観念したものか、橋板の上に行儀正しくひざまずき、首を伸ばして、切りおろされるのを待っていた。 切りおろされると、首は泥水の河中にどぶんという音を立てて落ち込み、そのまま俯せた胴体は、河に足で蹴とばされた。

 殺されることがわかったため、橋の先端で死を免れようと必死にもがいている中国人の姿もあった。しかし、虐殺者はこれを引き据え、一人が押え、他の一人が首を切った。

 おとなしく首を切られるふりをして桟橋の先端に近づくや、水泳の心得があるとみえて、やにわに河にとび込んだ中国人があった。しかし、虐殺者は拳銃をかまえると、河にもぐる人間を執拗に狙撃した。

 こうして鮮血は泥水を赤く染め、人間の首、人間の胴がふわりふわりと河面に浮び、河中で狙撃された人間は苦しそうにもがきながら河底に沈んでいった。

 河上に停泊している病院船のデッキから、七、八名の看護婦がこの有様を眺めていた。数珠つなぎに並んで桟橋の端にくる中国人が、虐殺者によって首を落されるごとに、彼女たちは「キャッ!」という悲鳴を上げて顔を伏せた。 鬼畜と化した虐殺者は、女性の悲鳴を耳にするごとにいっそう勢づいて暴虐をつづけたのだ。

 白衣姿の武田は、傷の痛みをこらえてこれを眺めながら、やがて病院船に乗り移り、凄惨な南京をあとにして、揚子江を上海に向って下っていった。

(P59〜P60)


「和やか」には程遠い光景です。

1959年と1987年。「南京虐殺論争」が華やかになってきたので、赤尾氏のような「純軍人」の方は、「虐殺論」に組みするような記述を行いにくくなったのではないか、と私は想像するのですが・・・。

逆に言えば、「虐殺の光景の記述がない」ことをもって「この人は虐殺を見なかった」と決め付けることがいかに危険であるか、という証でもあるように思います。




落合信彦『目覚めぬ羊たち』

2004/05/29 06:45:28


「南京」に関心を持ってはや2年半、およそ「南京」と名のつく本は片っ端から手に入れたつもりだったのですが(昭和13年発行『南京への旅』という本を見かけて、おお、これは、と注文して手に入れてみたら、ただの「旅行ガイド」だったりします)、 あの落合氏が「南京本」を書いていたとは、恥ずかしいことに全く知りませんでした。

私でもこうですし、またこの本の話をネットの「南京」論議で見かけたことも全くありませんので、ご存じない方も多数いらっしゃるのではないかと思い、ここに紹介してみます。


この本は、1995年、落合氏が、上海から武漢までの間で、何人かの中国人から「日中戦争」被害の聞き取り取材を行った記録です。いちいち紹介すると大変な分量になりますので、最初の「証言」のさわりだけを書いておきますと、

『上海晩報』副総編集長 馮英子氏

「忘れもしない、あれは一九三七年十一月十九日、蘇州が陥落した日、私の妻と弟の嫁は日本軍兵士に輪姦された。場所は蘇州市内の前万力橋。私の妻は妊娠していたにもかかわらず輪姦されたのです。妻も弟の嫁もそのときは死ななかった。 それが彼女らにとっては逆に悲惨でした。今はもうふたりとも死にましたが。

中国女性が戦争中強姦されたケースは数えきれません。しかし、全部が公表されているわけではない。なぜかというと、だれも言いたくないんです。中国人の道徳観で言うと非常に恥ずべきことだからです。 だから輪姦されて辱めを受けても絶対に言わない。私自身、今までこれについて語ったことはなかった。しかし、今日はあなたが真剣に話を聞いてくれているのであえて言ったわけです」(P19〜P20)


こんな感じの「証言」が、上海、蘇州、南京、武漢、と続きます。おなじみの夏淑琴さんも登場します。本多氏の『南京への旅』を思わせる、構成と内容です。


面白いのは、「敗残兵狩り」における「民間人誤認殺害」の割合を推定させる証言があることです。



「今でもハッキリ覚えているのは、安全区の中に水穴が二、三あったんです。小さなダムみたいなものです。そこに日本軍は二百人ぐらいの中国人を連行して機銃掃射で全員射殺したのです。 そのとき小穴の水が真っ赤に染まったのを鮮明に覚えています。セーフ・ゾーンの中で行われたのです。半分以上は一般市民でした。というのは遺体が近くの山に収容されたのですが、 親とか家族が引き取ったのは百二十人ぐらいでした。ということは半部以上が南京の住民だったわけです。残りの百体ぐらいはたぶん国民党兵士だったろうというのが私の判断です」(P86)



これ、私の準備中のコンテンツ、「敗残兵狩りの実相」に使える(^^)

(さらに言えば、この「百二十体」は「紅卍字会」等の埋葬組織の関与しないところで埋葬されたものと思われ、「埋葬団体の埋葬数」を「死者の上限」とみなす議論への反証ともなりそうです)


他にも、『南京大屠殺』を著した徐志耕氏へのインタビューなど、結構読みどころがあり、お勧めの一冊です。


落合氏といえば、「UFOナチス起源説」というトンデモを言い出したり、ちょっと怪しいジャーナリスト、という印象を持っているのですが、こんな仕事もしていたとは、(私にとっては)驚きでした。 「証言」や「中国側資料」を結構批判的に見ている部分も多くありますが、例えば「南京裁判」へのこんな評価が、氏のスタンスを物語ります。



マス・ヒステリアの波に飲み込まれてフェアな裁判を受けることができなかった谷中将には気の毒ではあった。しかし、だからと言って日本の中国への侵略行為や南京での虐殺の事実は消えるものではない。
いかに詭弁を弄しようが、侵略は確かにあったし、それによって中国側に多数の犠牲者が出たことは動かしがたい歴史的事実であるからだ。(P78)



私にも、納得のしやすいスタンスです。

ただし、(やむをえないことでしょうが)落合氏の「南京」に関する知識は、豊かとは言えない。中国側から提供された「特務機関資料」や「大田供述書」を「新資料」であるかのように紹介していますが、 1995年時点では確かもうかなり知られた資料だったのではないかと思います。(今、手元に資料がない場所で書いていますので、正確ではないかもしれません)





石井清太郎氏(荻洲部隊) 「いのちの戦記」

2003/11/26 22:00:55


昭和十二年九月に応召を受け、荻洲部隊(第十三師団)に所属して、上海戦、徐州戦に参加した石井清太郎氏の「いのちの戦記」を紹介します。

氏は、荻洲部隊のうち「幕府山事件」に関係しなかった方の旅団の所属だったようで、「南京」についての直接体験はありません。しかし、戦場で出会った兵士から、「南京」について、いくつかの話を耳にしたようです。

内容は特に目新しいものではありませんが、「民間人殺害命令」に触れていることが注目されます。早速、私のページに追加しました。

http://yu77799.g1.xrea.com/minkanjin.html


実はこの本、ネット古書店から入手したのですが、私も過去この本の存在を知りませんでしたし、ネットで検索しても出てこない。また、国会図書館の蔵書目録にもないようです。結構掘り出し物かもしれません。


参考までに、下関での捕虜殺害についての記述も紹介します。十二月二十五日昼過ぎ、氏が負傷して南京の病院に向かった時のものです。



南京の街は広い。焼ける前はさぞ美しかったであろう青い瓦のそり屋根が丹塗りに映えて残っている町の辺から探し廻ったが、連絡所など誰も知っている兵はなく、部隊本部へ行ってみてはと言われた。 その兵の本部までは四粁(キロ)はあるといわれてがっくりした。傾く日脚を見て私もいささか当惑した。どこかの空家に夜を明かそうにも食糧を誰も持っていなかった。

探しあぐねた一行は街道端に胡座をかいていると任務を終り帰るらしい一組の兵が通りかかった。私達の前を一度は通りすぎた指揮者らしい濃い髭面の兵が足を止めて声をかけてくれた。事情を聞いて今日は遅いからうちで泊れというてくれた。ありがたかった。

暫らく歩くと戦禍をのがれた静かな処へ出た。這入った家は室数の多い立派な家であった。正面の大部屋に兵が二人居て夕食の準備をしていた。お客様だ、四人前多くつくれと髭面が声をかけると明るい返事があり戦友仲の良い事がうかがわれた。

賑やかに夕食が始められて、鶏肉に葱の炒めものに支那酒(チャンチュウ)なども出た。マッチの火をかざすと青い焔を上げて燃える度の強いやつである。私は病後なので遠慮したが好きな兵は酔いがまわる程馳走になり多辨になり出した。

その内に仲間が何処で聞いて来たか捕虜を多量に処分したそうだがときりだした。その時である。泊めてくれた指揮者らしい兵が急に不機嫌な顔になり、君達に関係のない事だと声を荒らげたのである。一瞬座が白けた。

温厚そうで親切な髭面が仲間の一言に腹をたてた剣幕は常事ではない。深い理由のあることと私は思った。仲間が間の悪そうな顔をしたので、「何か大変お気に触られたようだが、 御馳走になって調子にのりすぎ嫌な事を聞いたのであったならおゆるし願いたい」と私が頭をさげた。続いて仲間も悪意があった訳でないので虚心に詫びた。

すると彼は煙ったげな顔をして、そんな風に言われるとまことに恥かしい。大人気のない事で、 実は投降した捕虜を言われたように多量に処分する命令をうけて仕方なく嫌な事をやったあと幾日も惨いありさまが忘れられず気が滅入ってならないものだからつい失礼な事をいうてと言訳をして、命令された者の辛さを解って欲しいと苦しそうな顔をした。

そして話せば気が楽になるかもと言い、順順に語り出した事は下関ひろばで捕虜を始末した顛末から、避難民の収容地区に軍衣を脱ぎ捨てて便衣に着替えてもぐり込んだ奴を狩り出して銃殺した事、 それにとどまらず災(わざわい)は婦女子に及んだ事までありのままを話した。

外(ほか)の兵もそれに言葉を継いで山間に引き出して血河の出来るまで多量に惨殺した部隊の事を話し始めた。 私は終りまで聞かず、堪えられなくなって中座した。残照の紫金山が中庭から見られた。私には山が深い悲しみに沈んでいるかのようで切なかった。

(P53〜P55)


段落は、読みやすくするため、私が適当につけています。

その後、氏は、下関から船に乗り、「江岸に積み重ねられた青衣の死体が累累とどこまでも続いて」いる光景を目撃しています。村瀬守保氏の写真を思い出しますね。

この本の出版は平成3年。事件から50年以上後の回想ですから、細部は間違っているかもしれません。しかし、内容は他にもあちこちで見る記述であり、大筋では信頼できるものだと考えます。





いいかげんな「ラーベ日記」翻訳

 2003/10/25 11:33:13


「国際安全委員会と食糧問題」なるコンテンツづくりに取り組んでいます。ネットでよく見かける「食糧供与をするために人口の掌握が必要」だったのだから「国際委員会は人口を把握していたはずである。 従って「20万人説」は正しい」という無茶な論に対して、国際委員会が実際にはどれだけの「食糧」を確保してどれだけの量を供給したのか、の解説を試みるものです。

ところが、材料のひとつに使おうと考えている「ラーベ日記」の翻訳が、あまりにもひどい。この部分で手間どって、難航しているところです。

しかし、これはこれで面白いテーマですので、翻訳がどれだけひどいのか、少し解説してみましょう。


事例1 12月1日

(「南京の真実」の翻訳文)
九時半に、クレーガー、シュペアリング両人と平倉巷で開かれる委員会へ行く。いろいろな役目をわりふって、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米三万袋と小麦粉一万袋を提供すると約束。 残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉は売ればいい。できるだけ高値で。難民用の給食所をつくる予定だ。
(文庫版P85)

このうち、「米と小麦粉は売ればいい。できるだけ高値で。」の部分。

(英訳文)
We can sell the rice and flour, but we have to fix the price.

(「ゆう」試訳)
我々は米と小麦粉を売ることができる。しかし価格を決めなければならない。

(解説)
「できるだけ高値で」なんて、どこにも書いていません。これでは、「国際委員会」が利益をあげるために米の販売を行おうとしていたかのような「誤解」が生じます。


事例2 12月2日

(「南京の真実」の翻訳文)
米と小麦粉を運ぼうにも車が手にはいらない。せっかくもらったのに、一部、安全区からうんと離れたところで野ざらしになっている。どうやら軍部にかなり米をもって行かれたらしい。三万袋のうち、わずかその半分しか残っていないという。
(文庫版 P90)

(英訳文)
We're having great difficulty finding vehicles to transport the rice and flour placed at our disposal, some of which is stored outside the Safety Zone without anyone guarding it. We're told that large quantities have already been removed by military authorities. Allegedly only 15,000 sacks of rice are still left of the 30,000 given us.

(「ゆう」試訳)
我々は、自分たちが自由に処分できる米と小麦粉を運ぶための車輌をみつけるのに、大きな困難に直面している。そのうちいくらかは誰も警護する者がいないままに安全区の外に備蓄されているのだ。 我々は、既に大きな分量が軍当局によって持ち運び去られていると聞かされた。噂では、我々に与えられた三万袋のうち、わずか一万五千袋しか残されていないという。

(解説)
「安全区からうんと離れたところ」なんて表現は、見当たりません。またallegedlyは「事実かどうかはわからないが、聞くところによると」というニュアンスの単語であり、翻訳ではこのニュアンスがうまく伝わりません (板倉氏など、これを「事実」ととらえてラーベ批判を行っています)。"15,000"を「半分」と訳すのも、間違いではないにしても、乱暴です。全体の意味がそう変わるものではないものの、いいかげんな翻訳です。


事例3 12月7日

(「南京の真実」の翻訳文)
 これから文字通りの無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊まりし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。 受けとるはずの食糧のうち、ここに運び入れることができたのはたった四分の一だ。なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった。
(文庫版P98)

このうち、「なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった」の部分。

(英訳版)
We've been able at best to get a quarter of the food promised us into the Zone,because we don't have enough vehicles, which are constantly being commandeered by the military.

(「ゆう」試訳)
我々は約束された食糧のうち、せいぜい四分の一を安全区に運ぶことができたにすぎない。というのは、我々は十分な車輌を持っていないからだ。車輌は常時軍の徴発にあっている。

(解説)
明白な誤訳。軍に徴発されたのは、「食糧」ではなく「車輌」です。「中国軍」が国際委員会の食糧を奪ったのかどうかはちょっと微妙なところですので、この誤訳は罪が重い。


事例4 12月9日

(「南京の真実」の翻訳文)
 いまだに米を運びこむ作業が終わらない。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。残っていたアメリカ人たちといっしょに、 ドイツ大使館のシャルヘンベルク、ヒュルター、ローゼンの三人も船に乗っているが、もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。

 さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながらいうところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。 ところが米を積んで戻ってみると、およそ四十人いた歩哨のうちだれ一人生きてはいなかったという。
(文庫版 P103)

このうち、「いまだに米を運びこむ作業が終わらない」の部分です。

(英訳版)
We are still busy transporting rice from outside the city.

(「ゆう」試訳)
我々は、市外から米を運びこむのになお忙しい。

(解説)
元の文では、「今現在忙しい」という「状態」を述べているだけなのに、「南京の真実」ではまだまだ運んでいない分が大量に存在する、ということになってしまいます。「事実関係」としては一応間違いないのかもしれませんが、これまたいいかげんな訳です。

なお、もう面倒なので「英訳紹介」は省きますが、後半の文でも、「米を取りに行っていた」「米を積んで戻ってみると」とのフレーズは英訳版には存在しません。


以上、私が取り上げようとしていた4つのフレーズが、英訳版を確認したところ、すべて「誤訳」あるいは「いいかげんな訳」でした。しかしこれ、東中野氏や田中氏の「いいかげんさ」に匹敵しますね。 こんなものを信じて「議論」を行ったら、大変なことになります(^^)

渡辺さん、翻訳者に抗議されるご意向でしたら、私もおつきあいします。(笑)



セオドア・ホワイト「歴史の探究」

2003/10/12 08:09:41


掲示板では、近頃、「セオドア・ホワイト」流行りです。ネタ元は、言うまでもなく、北村本ですね。



ホワイトは国際宣伝処の特集記事監修を担当したが、当時の重慶では「アメリカの言論界に対し嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだとアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい、 それは必要なことだと考えられていた」と述べる。

(「南京事件の探究」P61)



ホワイトのこの部分は、宣伝というのはこういうものだ、という一般論を述べているだけで、別にティンパーリ『戦争とは何か』が「嘘」だと言っているわけではありません。この後に出てくる「実例」も、こんな具合です。 (ダーディンが出てくる部分が興味深いので、ちょっと長めに引用します)


 中国軍が退却すると、「戦略的に出し抜く重要な行動」を軍がとったという具合である。日本軍に町や都市を奪われると、陥落したばかりの町で「わが軍は、敵を巧みに罠にかけた」と決まって最初に報じられた。 それが前線でわずかな勝利を収めたとなると、広報では必ず「武器不算」―中国軍が莫大な量の武器を押収したことになるのだった。

 このようなニュースが外国の報道陣を困惑させぬはずはない。記者の何人かを御することはできた。AP通信を代表していたのは、中国人の妻を持つ若いオランダ人で、ロイター通信は中国人の上級官吏が代表していた。 その他にも中国政府に忠誠というかたを渡している者がいた。彼らは政府の発表をそのまま伝えていた。

 政府が操れなかった厄介な記者は、調子に乗ると素晴らしい記事をものしていたUP通信のロバート・マーチンと、ニューヨーク・タイムズのF・ティルマン・ダーディンである。 ダーディンはアジアの諸問題に関して優れた記事を書いており、中国政府すら彼に嘘をつくのは尻込みするくらい、威厳のある人だった。

(「歴史の探究」(上)P102)


このあとに、「中国抵抗戦士団の巴御前」である「ミス・ゴールデン・フラワー」の話(「ダーディン以外」の通信員はみなこれに飛びついたそうです)、「十四カ月間に・・・難民キャンプに二千五百万食ほど配った」のが「二千五百万人の難民」の話に化けてしまった話、 が出てきます。


「宣伝に使われた」ことイコール「事実ではない」ということにならないのは、この掲示板を見ている方にはもう説明の要もないでしょうから、省略します。

最後に、ホワイト氏の、「日本軍の暴行」についての認識を書いておきます。「誇張」を一切抜きにしても、この程度の認識を持っていたことに注目してください。「戦争とは何か」に示される日本軍の暴行ぶりが、 中国戦線においてはありふれた話であったことがわかると思います。



以来、私は、日本軍がどのような行為に及んだかをたびたび誇張して話してきたので、ここでは当初の原稿に戻って記憶を正すのがよいだろう。

「・・・村は次々にすっかり破壊された。家は焼け崩れ壁は汚され、橋は裂け落ちた。日本軍兵士は、退屈しのぎに、また極悪非道な心根から家々を焼いたのだ。寒さのための火と暖を必要としたからである。

 日本軍は無差別にかつ効果的に略奪を行なった。価値のあるものはみな剥ぎ取られ、持ち去られた。電話、電線、時計、石鹸、寝具、何でも集めて物資補給部に送るのである。私用の品は別に略奪した。 日本兵が欲しがったのは衣料と食物である。好みもへちまもあったものではない。女性用の絹の衣類、木綿の野良着、靴、下着、何もかもが、不幸にして日本軍分遣隊の手におちた中国人の背から剥ぎ取られたのだ。

 日本兵は胸元まで泥まみれだった。二週間も伸ばしたままの髭はぼうぼうで、しかもがつがつと飢え切っていた。村人たちは、家畜を連れ、穀物その他の食事を携えて、日本軍の手の届かぬ山中に逃げこんだ。 谷間のいたるところで、ちっぽけな敵の守備隊は互いに通信し合うことができず、泥まみれとなって餓死しかかっている・・・。

 ある村では女たちが一人残らず占領兵士に強姦された。村人が素早く逃げ出せなかった村では、日本兵はまず初めに女を捜し出して餌食にしたのである。畑に隠れた女たちは騎兵隊に追い出された。 馬に乗って畑を踏み荒し、女たちが出てくるまで脅かしたのだ。

 男は裸にされ、荷車につながれ、まるで駄馬のように帝国陸軍に駆りたてられた。日本軍の馬とラバは、泥の中で死ぬまで鞭打たれた。どの道路にも丘にも腐りゆく動物の残骸があり、馬の骨が陽の光に白く曝け出されている。 馬の代わりをさせられた中国人農民は、同じように仮借ない怒りで駆りたてられ、ついには倒れて、死ぬか気が狂ってしまうのだ

沁河の渓谷で見守った戦闘は、私の期待どおり、駆け出しの戦争記者としてはなかなかの記事になった。

(セオドア・ホワイト「歴史の探究」(上)P118〜P119)





東中野氏「南京攻略戦の真実」

2003/08/09 08:56:08

まだお読みでない方のために、一読しての「感想」を報告します。


この本は、「偕行文庫室長」が出してきた「第六師団」兵士の手記、原稿用紙1900枚の「転戦実話・南京編」上下から、東中野氏がピックアップして文庫本一冊分の分量にまとめたものです。


こういう資料は、できれば、一切の「編集」なし、「省略」なしで、生のまま見たいところです。

しかし氏は、残念なことに、読み物として面白くするためでしょうか、原典の順番を無視して「テーマ別」に編集してしまっています。また、「旧かなづかい」をすべて「新かなづかい」に直してしまったことはまあいいとしても、 「明らかな日付の間違い」を勝手に訂正するなど(一応そのまま掲載して、「注記」で訂正すべきところでしょう)、「編集」の姿勢も気になります。

東中野氏ではなく、「偕行社」の編集で読みたかったですね。


とはいうものの、この本の内容は、私の本棚に多数(でもないか)ある「郷土部隊公式戦史」もののひとつとして見れば、それなりに貴重なものです。 本の帯の「発見!「虐殺論争」に終止符か!?」という笑えるキャプション(「公式戦史」がそんな材料に使えるわけがない。「?」が正直だ)、東中野氏のアホなコメントを読み飛ばせば、結構興味深い。

なにしろ、「モーゼル」を持って「徴発」に出かける軍曹は出てくるし(P63)、(おそらくは)13日に安全区の上海路に侵入してしまった23連隊兵士の話も出てくる(P125)。私のHPの美味しい材料です(笑)。



さて、東中野氏のアホなコメントの例です。



東京裁判で南京「虐殺」を証言したベイツでさえ、東京のアメリカ大使館から詳細な情報収集のため一九三八年四月南京にやってきた キャーボット・コーヴィル武官にたいして、南京「虐殺」を持ち出していなかった。「私たちは英米では事実と見解の自由な表明に慣れている」というのが彼の信念であったにもかかわらず、 彼は実名のときは何も述べなかったのである。(P18)




おいおい、読んでいない人を騙してはだめじゃないか。「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」より、「カボット・コヴィルの南京旅行記」を引用します。



金陵大学のM・S・ベイツ博士とスマイス博士、ともに博士号を持つ両者が南京大使館を訪れ、アリソン・エスピーと私とで夕食を共にした。お互いに日本の情勢に関心をもつ我々は、夜を徹して詳しい情報の交換をした。 二人は戦争開始半年後の日本の経済に関する私の報告を読んでおり、私はこの報告にないその後の経過を口頭で補足した。

私は二人の南京での一連の経験を話し合ったが、これらはアリソンの全報告を十分に網羅し、さらに個人の経験が加味されて話をもりあげた。

(中略)

秩序と規律正しい日本軍、私利私欲のない軍制当局という伝説は、中国人民の心を深くえぐりとったアトロシティーズや過ちによって、台無しとなったので、 日本側の支配は中国人にとって何ら意味を成さないことに中国人自身が気づくであろうこと、そして、彼らの悲痛な思いは、日本軍を追い出すまで不断の攻撃となって続くだろうことを、ベイツとスマイス両者は確信している。
(P112)



ベイツらは、「アトロシティーズ」の存在を前提として、「南京での一連の経験」を話しています。この資料から、どうしてベイツが「南京「虐殺」を持ち出していなかった」と断言できるのか、よくわからん。



もう一つ。「徴発」についてです。



他方、南京戦の四ヶ月前の昭和十二年八月、北支に上陸して間もない浜崎上等兵は、兄宛の手紙に、「一汁一菜ことごとく日本軍は代価を払います」と記している。 従って、本章に、南京戦の途中、不注意で徴発した兵隊が、「所属連隊、中隊から官等級、氏名まで書きとめられ、 陸軍刑法によって処罰すると言われ・・・震え上がり、・・・泣き縋ってあやまりました」という話が出てくるのも当然であった。(P231)



これを読むと、「代価」を払わずに「徴発」しようとしたので「処罰する」と言われた、というように錯覚します。へえ、そんな話があるの、と興味を惹かれて読んでみると・・・。



青浦に夕方着いたときです。何かお菜を探しに行こうと思いましたが、思い止まって炊事をしていますと、戦友Kが鶏がいるというのです。それではと行きますと、破壊された廃屋の隣に一軒少しもいたんでいないのがあります。 中に入ってみますと、なるほどいるいる、しかもトヤ(鳥屋)(ゆう注.ここは、「注.鳥屋」と、せめて「注」の字を入れてほしい)の中に入っているのです。これはご丁寧にと、何の考えもなく十五、六羽いたのを一羽だけ残して絞め殺し、 思わぬ獲物に戦友たちの喜ぶ顔を描きつつ、帰ろうとしますと、そこへ少佐の方が入ってこられました。パッタリ(ゆう注.「ばったり」ではなく「ぱったり」だが、原文通り)出逢ってしまったのです。

少佐殿が、私の手にブラ下げた鶏にチラと眼をそそがれたと思うと、われ鐘のような声で、
「この封印がわからんか」

いやもう、一ぺんに足がすくんでしまいました。さっきは気もつきませんでしたが、見るとちゃんと憲兵隊の封印が貼ってある。

「自分が破ったんではありません」
と言い訳しても聞かるればこそ、刀の鐺でいやというほど叩かれて怒られました。つくづく情けなくなってしまいました。(P234)



「憲兵隊」が「封印」したところから「徴発」したから、怒られたんだろうが。


「反日撹乱工作隊」については・・・。



安全地帯に中国軍将校が潜伏していたことを裏づける手記が出てくる。第三章の「南京城内 敵の自動車を取り逃がした失敗」である。中国軍の中国軍の高級将校が最後まで安全地帯に潜伏していたが、 わざわざ安全地帯に残って何をしていたのであろうか。「掠奪、煽動、強姦に携わっていた」という新聞記事が残っている。これはさらに考えてみなければならない。(P155)



これまた、随分と控えめなことで(笑)。

なお、上の文を読むと、これは「占領後しばらくたってからの出来事なのだろう」と錯覚しますが、実は、占領当日、「12月13日」の出来事だったようです。明らかな「印象操作」です。




Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」

2003/08/14 18:45:46

「どろんこの兵」より

ちょっと気がつきましたので、ご報告まで。

東中野氏新刊の紹介記事より。
(元記事が消えているため、ヤフー投稿より引用しました)



だが、『転戦実話』によれば、六師団が突入した中華門付近には「約二百五十の敵死体」が目撃されただけだ。 しかも、六師団は南京陥落から三日後の十二月十六日には南京から揚子江上流の蕪湖に転戦しており、十日間も南京にとどまっていなかった。



「十六日に転戦」というあたり、この本の数少ない「新ネタ」ですが・・・。



「正論」掲載「やっぱりなかった大虐殺 南京攻略戦、真実の証言」(東中野氏)より(P122)

(A伍長日記の引用あり)

どうであろう。A伍長の所属する第十三連隊(熊本)は十六日に南京を離れていたことが分かるであろう。

事実、鹿児島第四十五連隊の浜崎富蔵(元鹿児島市警察署長)の『どろんこの兵』(私家版)に、 歩兵第四十五連隊第十一中隊「百六十名」が十二月十三日未明南京を脱出中の敵兵「二万」と上河鎮で遭遇し多数の戦死者を出したあと、同日「大薗中隊長以下十数柱の火葬」を行ったと記している。

そして十六日の夜明けとともに第十三連隊は南京から蕪湖に向かい、その他の部隊も逐次南京を離れていった。

従って、中華民国は第六師団が十六日から南京を離れ始めていたことを知らなかったのである。そうとも知らずに第六師団は「二十一日迄」南京で虐殺したと書いていた。



さて、問題の『どろんこの兵』です。



従軍履歴(軍隊手帳より抜粋)

 (略)
  十二月十五日より十二月二十一日まで 南京附近の警備
  十二月二十二日 南京出発
  十二月二十三日 大平府着

(「続 どろんこの兵」 P11)



・・・これって、「詐欺」って言いませんか?(呆)

東中野氏は、よく読むと微妙なところで表現をごまかしており、確かにウソはついていないような気もしますが・・・。「十三連隊」の話に突然「四十五連隊」の話を挟んであるので、読む方は間違いなく錯覚します。


*なお「どろんこの兵」本文の日記では、本人は「二十一日夕」に大平府に着き、「二十三日」「夕方」に着く後続部隊を待っていたことになっています。 「歩兵第四十五聯隊史」も一応照合しておきましたが、「聯隊は十二月二十二日南京を出発、大平府に向う。二十三日大平府に着く」(連隊史P238)と、「軍隊手帳」の記述を裏付けます。





追記 

2003/08/16 15:13:13

今日気がついたのですが・・・

この雑誌論文の文章、肝心の「1937南京攻略戦の真実」では、抜け落ちているようです。

さすがの東中野氏も、ミスに気がついた、ということでしょうか。
 



Re: 「どろんこの兵」より

2003/08/18 22:00:48

「どろんこの兵」より、引用します。


(十一月)十四日

午前六時出発。内邱城内に到着すれば、敗残兵を捕えたのか?いきり立った兵隊たちが火のくすぶる穴に突き飛ばしているのを見る。地獄図絵を見る思いがする。恨み骨髄に徹すると本心を失うものらしい。

俺にはかかる残忍行為はできない。正々堂々たる闘いならいざ知らず、戦闘力を失った者を何とむごいことをするものぞ。皇軍のなす行為ではあるまい。興奮と残虐は背中合わせのものか、皆の心理には驚く。

(「どろんこの兵」P49〜P50)


東中野氏が、絶対に引用しそうにない文章です(^^)


Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」

2003/08/15 09:29:50


歩兵第二十三聯隊戦記


まずは東中野氏の、「徹底検証」の文章から。私のページの「上海路の死体」をご参照下さい。



(ゆう注.十三日の)正午頃と言えば、日本軍は未だ現場(安全地帯)に到達していなかった。日本軍が掃蕩のため安全地帯に入るのは、翌十四日のことであったからだ。

(「徹底検証」P201)



実際には、おそらくは日本軍の銃撃により、この「上海路」で南京市民に「いくつか」あるいは「二十体」の死者が出たとの記録が複数残っている(フィッチ、ラーベ、スマイス)ことは、上記私のページで紹介した通りです。


さて、東中野氏の新刊には、上の東中野氏の記述とは裏腹に、「十三日」に「安全地帯」に入ってしまった兵士の話が、ちゃんと掲載されていました。


南京城内 敵の自動車を取り逃がした失敗

歩兵第二十三連隊(都城) 第六中隊上等兵 T・T

昭和十二年十二月十三日、南京はついに陥落いたしましたが、いまだその一角では盛んに戦闘をしています。第六中隊は我々第二小隊を先発にして、西南の破壊口より城内に入り、城内の掃討をやることになりました。

城内には左のほうに何中隊かの一部が出て掃討をしておりましたが、これと連絡を取ることもせず、小隊は単独で小さな道をぐんぐん進んで、やがて大通りに出ました。

後でこの大通りが上海路であることを知りましたが、頑丈に作られた移動障害物等を取り除きながら、北へ向かって奥へ奥へと前進します。やがて難民区のところまで来ました。

東の方では彼我の銃砲声が盛んにします。我々の目の前にも迫撃砲弾が三、四発続いて炸裂しましたが、損害はありませんでした。難民区のところから五十メートル位先に十字路があります。 そこで私は歩哨に立って通過する自動車を鹵獲(戦勝の結果、敵の軍用品を奪い取ること)することになりました。やがて一台のツーリングが右の方から疾走してきます。

「来たな」と、はやる心を押し静めて、姿を隠して待っていますと、段々近づいてまいります。四、五十メートルの近くに来たとき、飛び出して道路上で立射の姿勢をとり、自動車の前に立ち塞がりました。 自動車はグーとスピードを落として停車しようとしますので、案ずるより生むが易しと内心喜びつつ、少し右に寄って停車を待ちました。

ところが今まさに停止しようとした車は、自分が身をよけたその隙を利用して、急にスピードを増し、北にカーブを切ってまっしぐらに走り出してしまいました。見れば確かに支那将校が乗っている。ハッと思ったが間に合いません。

後ろ姿を追うようにして、三、四発打ちっぱなしましたが、自動車は雲を霞と逃げ去りました。口惜しくて口惜しくてたまりません。功名心にかられて一人でかかったのが悪いのです。 初めてのこととは言いながら、何の障害も設けずに警戒したのが失敗でした。うかうかと道を開けたのも、気を許して油断したのも失敗です。

南京城陥落の喜びの陰に、私のこうしたほろ苦い失敗もあります。

(「1937南京攻略戦の真実」P125〜P126)



「上海路の死体」事件は、この部隊が引き起こしたものである可能性もありそうです。

しかし、上の文章の表現では、「侵入」が実際に「十三日」であるのか、微妙です。「十三日」は「南京陥落」にかかっているようにも読めないことはありません。


実はこの文章、東中野氏が気がついていたかどうかわかりませんが、既に「都城歩兵第二十三聯隊戦記」に掲載されていました。


南京城内敵の自動車を取り逃がす

第六中隊 橘忠雄


昭和十二年十二月十三日、南京は遂に陥落し第六中隊は我々第二小隊を先頭にして西南の破壊口より城内に入り、城内の掃討をやることになりました。

城内には左の方に何中隊かの一部が出て掃討しておりましたが、これと連絡を取ることもせず小隊は単独で小さな道をぐんぐん進んでやがて大通りに出ました。 後でこの大通りが上海路であることを知りましたが、頑丈に作られた移動障碍物等を取除きながら北に向かって奥へ奥へと前進します。

やがて難民区の所まで来ました。東の方では彼我の銃砲声が盛んにします。 我々の目の前にも迫撃砲弾が三〜四発続いて炸裂しましたが、損害はありませんでした。

難民区の所から五○メートルくらい先に十字路があります。そこで私は歩哨に立って通過する自動車を鹵獲することになりました。やがて一台のツーリングが右の方から疾走してきます。 「来たな」と、早る心を押し静めて姿を隠して待っていますと、だんだん近づいて参ります。

四〜五○メートルの近くに来た時飛び出して道路上で立射の姿勢をとり、自動車の前に立ち塞がりました。

すると自動車はスピードを落して停車しようとしますので、案ずるより生むが易しと内心喜びつつ、少し右に寄って停車を待ちました。

所が今正に停止しようとした車は、自分が身をよけたその隙を利用して、急にスピードを増し北にカーブを切ってまっしぐらに走り出してしまいました。見れば確かに支那将校が乗っている。ハッと思ったが間に合いません。後姿を追うようにして、三〜四発ぶっぱなしましたが自動車は逃げ去りました。口惜しくてくやしくてたまりません。

功名心にかられて一人でやったのが悪いのです。初めてのこととは言いながら、何の障害も設けずに警戒したのが失敗でした。南京城陥落の喜びの陰に、私の起こしたほろ苦い失敗であります。

(「都城歩兵第二十三聯隊戦記」P257〜P258)



句読点の位置、一部の形容詞の相違、漢字か「かな」かの区別を除けば、全く同一の文章であることがわかると思います。

はっきり違うのが、最初の一文です。東中野氏の紹介する「転戦実話」と、「聯隊戦記」のものを、もう一度並べてみましょう。


(東中野氏)

昭和十二年十二月十三日、南京はついに陥落いたしましたが、いまだその一角では盛んに戦闘をしています。第六中隊は我々第二中隊を先発にして、西南の破壊口より城内に入り、城内の掃討をやることになりました。


(二十三聯隊戦記)

昭和十二年十二月十三日、南京は遂に陥落し第六中隊は我々第二中隊を先頭にして西南の破壊口より城内に入り、城内の掃討をやることになりました。




後者の文章では、明らかに「掃討」は「十三日」の出来事として書かれています。ちなみに前者の文章には、「いまだその一角では盛んに戦闘しています」という、東中野氏にとって都合のいい文章が、付け加わっています。

書かれた順番としては、「転戦実話」が昭和15年、「聯隊戦記」は戦後のものですから、あとの文ではなぜかこの部分だけ削除されたことになります。

・・・まあ、とりあえずは、「相違」を指摘するだけにとどめましょう。



ついでに、最初の投稿で紹介した、東中野氏の「アホなコメント」を再掲します。「印象操作」ぶりを、改めて味わって下さい。


安全地帯に中国軍将校が潜伏していたことを裏づける手記が出てくる。第三章の「南京城内 敵の自動車を取り逃がした失敗」である。中国軍の高級将校が最後まで安全地帯に潜伏していたが、 わざわざ安全地帯に残って何をしていたのであろうか。「掠奪、煽動、強姦に携わっていた」という新聞記事が残っている。これはさらに考えてみなければならない。(P155)


「最後まで」というのは「日本の占領下において最後まで」という意味である、と錯覚しますが、実際には、「南京攻略戦の最後まで」の意味だったようです(笑)。

しかしこの手記から、「掠奪、煽動、強姦に携わっていたという新聞記事」に話をつなげてしまうのは、強引以外の何物でもありません。




新聞記事コレクション

2003/12/27 09:12:08


南京において日本軍の暴行についての「デマ」が「乱れとんで」いる、という記事の紹介が熊猫さんからありました。このテーマに沿った記事を、三点ばかり紹介します。


大阪朝日新聞 1938.2.17付

皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行
不逞支那人一味捕る


【同盟南京二十六日発】

皇軍の南京入城以来わが将兵が種々の暴行を行つてゐるとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わつてゐるので在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところこのほど漸くその根源を突き止めることが出来た。

右は皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を南京の避難地域で働いてゐた憎むべき支那人一味であるが憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。

この不逞極まる支那人はかつて京城において洋服仕立を営業、日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で皇軍入城後日本人を装ひわが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、 南京玉■村五〇号、上海路十四号、幹河路一〇六号の三ヶ所を根城に皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し強盗の被害は総額五万元、暴行にいたつては無数で襲はれた無辜の 支那人らはいづれも一味を日本人と信じきつてゐたため発覚が遅れたものであるが憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである。

一味は主魁呉堯邦のほか・・・の十名でいづれも皇軍の入城まで巡警を務めてゐた。(ゆう注.氏名は一部判読困難、また書き写すのが大変なので省略しました)


南京における「種々の暴行」を、ひとつの強盗団の仕業にしてしまおうという、苦心の発表です。そもそも「通訳の腕章」しかつけていないわけですから、「将兵」の「数々の暴行」を彼らのせいにしてしまうのは、無理があります。

「一味を日本人と信じきつてゐたため発覚が遅れた」という部分が、問わず語りで、なかなか笑えます。つまり、「日本人と信じきつてゐた」ら、中国人たちは日本側に「通報」することはしなかったようです。


「東京朝日新聞」1938.1.29夕刊

米・対日抗議
「南京・抗州の権益侵害」


【ワシントン特電二十七日発】

米国国務省は二十七日米国政府が去る十七日グルー駐日大使を通じ日本政府に南京、抗州その他各地に於ける日本軍の米国権益侵害に対し抗議を提出せる旨発表した、

右はパネー号事件に関し日本より提出された十二月二十四日附文書における誓約に反するといふのであるが、 同日グルー大使より国務庁に達したる公報によれば日本政府は米国政府の抗議に基き高級武官を南京に特派して調査せしめ適当なる処置をとるべく命令を発したる旨が併せて明かにされた、

尚米国の抗議と併行して英国政府も同様の行動をとつたものと解され、また発表が抗議の時から十日間も遅れた理由については何等の説明はなかつたが日本軍の外国人権益侵害に関する公報が年初以来頻々と到着 国務庁では事態を憂慮してゐる



外国からの抗議を、何の批判的コメントもなしに報道した、珍しい記事です。 この記事は、例の、「チャイナプレス」や「アベンド記事」で知られている「1月24日記者会見」の直後であり、 この「記者会見」が日本の報道陣向けには行われていなかったことを伺わせます。


「東京日日新聞」1938.1.7夕刊

南京城内の怪火は敗残兵の仕業
我が軍、一犯人を逮捕


【南京本社特電】(六日光本特派員)

南京城内では皇軍入城警備後も元旦のソ連大使館の怪火をはじめ城内の空家から頻々として怪火を発するので佐々木警備隊で厳重警戒中、五日午後三時ごろ中山路中央飯店北方の一民家に放火せんとした一支那人を発見、直ちに捕へた、

犯人は敗残兵でこれによつて今までの怪火は避難民にまぎれ込んだ支那敗残兵の所為であることが愈々確認され引続き敗残兵に対し捜査を進めてゐる



「否定派」が飛びつきそうな記事です(笑)。

続報は全くなく、「飯沼日記」等当時の軍幹部の記録にも全く登場しないことから、当時の状況から推して、ある程度の「デッチ上げ」がある疑いが濃厚です。この逮捕を材料に過去の「怪火」まですべて「支那敗残兵の所為」にすることも、ちょっと無理でしょう。



(2009.11.29)


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